「又」の検証を終えて、1 ――記事№...26

古田武彦氏の説のウソ、・・№23―― 2−1 景初3年が正しい理由その22

私はA氏と違って論理的な思考と、文章を書くことに不慣れでだらだらと書いてしまい、後で纏めるという、読みづらい記述になっていることを反省しています。反省しているにもかかわらず、今回も又同じ愚を繰り返すのですが・・・。

 

A氏は自らのブログの冒頭でこう述べています。

「私は、古田武彦氏の『古代は輝いていたⅠ』を読んで、こんなに面白い本はないと感じました。ところが、『古代は輝いていたⅢ』を読み終えたとき、この大ウソを暴きたいと考えていました。」

「この大ウソ」とは卑弥呼の初回遣魏使節、景初二年説のことです

 

私がこのブログを始めたのは、古田氏を批判するA氏の論理を批判したかったからです。しかしまだA氏の論理本体まで手が届いていません。やっと「又」についての検証に形が付いた段階です。

 

よろしければこの後もA氏の論理批判にお付き合いいただきたいと思います。

景初二年説批判の出発点

氏は古田氏の嘘を暴くために、まず筑摩書房版『三国志』訳本東夷伝序文を引用すします。直接、古田氏批判をする前に初回遣魏使説を景初三年であると証明してしまおうという手順です。

 

-地の文-

 卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

-引用文-

公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

 景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

(今鷹真・小南壹郎・井波律子訳『三国志2』世界古典文学全集24B:筑摩書房

-地の文(解説)-

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。れゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

           原      文

而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子爲其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。

 

(『三国志』原文はA氏のブログにはありません)

 

「又」=「すると、さらに」=「後」の論理

A氏は序文を引用した後、解説して、「(引用した序文を見れば) 魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。」といいます

留意しておいていただきたいのは、この引用が陳寿著『三国志』原文からではなく、筑摩書房版『三国志』訳本の訳文からされているということです。

 

氏は解説文で「この序文から」両者の前後関係が「分かります。」と主張していますが、それは引用文の中のどこからでしょう。引用訳文を検証してみます。

「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った」、この部分ですね。

さらに絞り込むと「公孫淵を誅殺」と「ひそかに兵を船で運んで海を渡し」とを「すると、さらに」という語句がつないでいるからです。

 

A氏は訳文が「Ⓐ公孫淵を誅殺ⒷするとさらにⒸひそかに兵を船で運んで海を渡し」とあるのだから、「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後で、あることが分かります」としています。

煎じ詰めると「Ⓐ公孫淵を誅殺Ⓑするとさらに」というフレーズは「Ⓐ公孫淵誅殺Ⓑ´後」というフレーズに置き換えられるといっています。

整理するとA氏は「するとさらに」「後」を意味していると主張していることになります。

するとさらに」=「後」という関係ですね。

 

氏の引用文と解説で読み取れるのはここまでですがまだ続きます。氏引用文の「公孫淵を誅殺すると、さらに・・・・の郡を攻め取った。」は、原文のでは「誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,」の部分です。

原文の「」が「するとさらに」に当たります。

そうですよね、「又」を「すると、さらに」と訳せなければ「公孫淵を誅殺すると、さらに・・・楽浪と帯方の郡を攻め取った」、とは訳せませんよね。

 

原文の「又」が「すると、さらに」ですから、A氏は「=すると、さらに=」このように主張していることになります。

A氏の六段階論理

A氏はこの論理を第二項に据えて、前後六段項目の論理を展開しています

①   『魏志(書)公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。(解説文中) 

「八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(魏書公孫度伝公孫淵)』

--八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)、公孫淵の軍兵は潰え、その子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急しくこれを撃ち、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。(訳・修正計画)」

 

②   (「又」=)すると、さらに」=「後」  ()内は私の追加

③   公孫淵を誅殺すると、さらに(その後に)ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(引用文より)」

④   「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」(解説文中)

⑤   「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」(解説文中)

⑥    景初2年が、3年の誤りであることが分ります (引用文直前の地の文)

この⑥項目で、「三国志」に明記されているのは最初の項目①だけです。

④、⑤、⑥は①、③から立論したA氏の論理です。

 

A氏の③の主張は②「するとさらに」=「後」、が成り立つことを前提としています。そして④、⑤、⑥は③の主張が成り立って初めて考慮の余地が出てきます。 

私は③が正しかったとしても、A氏の主張のように直線的に④、⑤、⑥が成り立つわけではないと思っています。これについては後に触れます。

ここまでの検証で分かったこと

やっとA氏の論理(古田批判、景初二年説)をそのものを接批判する段階に到達できました。しかし迂遠なことに私のA氏批判はまだ氏のブログの一頁目の冒頭です。

前回まで「すると、さらに」を検証しました

A氏のブログを一隻の戦闘用ガレー船だとします。氏の論理②~⑥は船全体を支える竜骨です。②、③は、景初二年という原本の記述を突き破る衝角にあたると考えています。衝角は鋭く、大きな破壊力を持っています。

竜骨全体からも目が離せませんが、A氏が先兵、竜骨にしたてた②、③は、A氏への礼儀からも丁寧に対応し、慎重な検証が必要だと思いました。

③が成り立つ前提の「すると、さらに」はレバノン杉の衝角を覆う鉄板というところでしょう。

 

しかしいくら「すると、さらに」=「後」という論理が成り立ち、②~⑥の論理が成り立っても、陳寿著『三国志』原文にある「又」が「すると、さらに」と訳せなくては無意味です。

それで私は前回まで「又」=「すると、さらに」=「後」が成立するかどうかを鋭意検証してきました。

 

まず記事№16で「すると、さらに」は「又」の訳語として不適切であることを述べました。それ以後、記事№25までのすべての回を使って「又」は「後」という意味をもたないことを証明しました。そのうえで、全『三国志』からすると少ないですが、現に東夷伝原文に出てくるすべての「又」が持つ意味を検証してみました。ここには書かなかった検証もしてみました。自慢ではありませんがいくつかの検証結果は、それ単独で ”「又」は「すると、さらに」とか「後」と訳することが出来ない ”と証明できるものだと自負しています。

「すると、さらに」検証の復習

これから、衝角検証の一つを復習してみます

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、

--公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。(筑摩書房版『三国志』)」

 原文の「又」から見ていきます。『諸橋大漢和辞典』で「又」に当てはまる訳語は二つでした。

 

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。

❸ふたたびする。

 

筑摩書房版の訳者は「又」の訳語に『諸橋大漢和辞典』の訳語中にない「すると、さらに」という語を当てはめています。「さらに」という訳語の前に、「すると」という語を付け加えた新造訳語です。

 

日本語の「すると」は「勉強をすると成績が良くなる」、「貯金をするとお金がたまる」のように前の行為が後ろの行為に連続していることを表すために使います。順接の接続詞というのだそうです。

蛇足ですが「・・(したの)だが、・・」等は 逆接の接続詞と呼ぶのだそうです。

 

そして私は中国語で前の行為が完了後、次の行為に結びつくことを示す場合、「了」等が使われていることを示しました。

( 乞参照: 記事№.16 ―新たな二つの疑問―「すると、さらに」を、中国語訳してみました。)

「了」等が日本語の場合の順接の接続詞」的役割を果たすのでしょう。

陳寿著『三国志東夷伝序文の原文景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、」

には「了」等、「順接の接続詞」的役割を果たす語句がないことを確認してください。

 

すると原文自体は両作戦の前後を述べていません。原文は景初年中(237~239年)に、二つの大きな作戦、「大興師旅、誅淵。」と「潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」とが実施されたといっているのです。

「すると、さらに」は意訳です

 原文と意味の違う訳がゆるされるのでしょうか。翻訳する際、原文にない語句を加えて意味の分かる文章に書き換えることを意訳というのはご存知でしょう。

 

例えば翻訳過程で「大興師旅」と「潛軍浮海」の前後は不明では困ることがあったとします。訳者が「大興師旅」が先の出来事であると確信していたり、「大興師旅」が先でないと文意が通らないのに、原文には順接の接続詞がない場合です。翻訳者が翻訳者は訳文に「すると」を加えて、原文に「大興師旅、誅淵(了)又潛軍浮海、」と「了」等が使われていたかのように訳文を整えます。これが意訳です。

本来、意訳として書き換えてよいのは意訳されたフレーズ以外のどこかで意訳の内容が正しいと確認できる場合だけです。

一般的に普及書として翻訳されている場合、特に文学系統の普及書の場合、確認という障壁は低く、意訳は訳者の都合で随意行われるようです。

しかし学術書、研究書として翻訳された場合、意訳した内容について、だれにでも納得できる論証が必要です。その論証の正否はともかくとして、論証自体は読者に明示され、だれにでもその論証過程を再検証できるものでなくてはなりません。

先ほどのたとえでいえば「大興師旅」の後「潛軍浮海」という意訳について、意訳されたフレーズ以外で論証されているか、読者が確認できる構文になっていれば研究書、なっていなければそれなりの内容だ、ということです。

読者対象の想定によって障壁は高低しますが、高水準の読者を対象にしているほど、注釈や引用、解説が増える傾向があると思います。

「すると、さらに」から二つの結論

訳本は景初二年説

ここは竜骨の部分、①から⑥までの話になります。氏は②「又」=「すると、さらに」=「後」、を主張することで「⑥それゆえ倭の遣使は、翌年景初三年六月になります。」という結論をみちびき出しました。

卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。(ブログ1頁冒頭)

 

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。れゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。(ブログ1頁冒頭)

 

景初3年12月、倭の女王卑弥呼親魏倭王に任じたのは、まだ8歳の少帝芳だった、ことになります。(ブログ5頁)

しかしA氏が「又」=「すると、さらに」を引用した筑摩書房版『三国志』訳本の結論は違うのです。

「景初二(237ママ)年六 月、倭の女王は、太夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。帯方郡太守の劉夏は役人と兵士をつけて京都まで案内させた。その年の十二月、倭の女王へのねぎらいの詔書がくだされた。(筑摩書房版『三国志』訳本、307頁 魏書東夷伝倭人条)」

 筑摩書房版『三国志』訳本は遣使について景初二年六月だと言っていますね。

「女王へのねぎらいの詔書」に女王卑弥呼親魏倭王に任じる旨の文言はあります。すると女王卑弥呼親魏倭王となったのも景初二年十二月だと言っています。

訳本の二年説とA氏の三年説

A氏の景初三年説と筑摩書房版『三国志』訳本の景初二年説を対比してみます。

 

①、②、③、は両者が共有する認識です。 

 

③「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。 

④「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」

これは訳本に記述はありませんが、共通認識と言ってよいでしょう。

 

⑤「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」

 この④に対比できる訳文も筑摩書房版『三国志』訳本の中にはありません。

⑦   「それゆえ倭の遣使は、翌年景初三年六月になります。」

最後の⑥でA氏と筑摩書房版『三国志』訳本の訳者とは真反対の結論に至っているのです。となれば、すでに⑤の段階ですでに認識は違っていることになります。

 

Aさん、東夷伝序文について書いているので、倭人条なんか覚えていない、なんて言い訳はおっしゃいませんよね。  

訳本の二年説を補完する

A氏は訳本の主張に何の批判を加えていません。考えてみると訳本も景初二年が正しい根拠を何も書いていません。古典文学の訳本なのですから当然と言えば当然なのですが・・・。A氏に批判のしようがないのかもしれません。

私は、”倭が帯方郡へ景初二年に遣使した”、という訳本の主張には、陳寿著『三国志』原本の記事に複数根拠がある、と考えています。

A氏が批判しやすいよう原本の記事の中にある根拠の一つを、訳本の主張の補完資料として記載します。

 

陳寿著『三国志』原本東夷伝韓条に次のような記事があります。

「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。(東夷伝勘韓条)

筑摩書房版『三国志』訳本はこのよう訳しています 

ーー桓帝から霊帝の末のころ(一四七~一八九)になると韓と濊は盛んとなって、楽浪郡やその配下の県の力ではそれを制することができず、民衆は多くの韓国に流入した。建安年間(196~220)、公孫康は屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を作り、公孫模や張敞らを送ってこれまでとり残されていたその地の中国の移住民たちを結集し、兵をおこして韓と濊をうたせた。その結果韓国に流入していた移住民たちも少しずつ戻ってくるようになった。これ以後、倭と韓とは帯方郡の支配を受けることになった。        

(東夷伝韓条・訳、筑摩書房版『三国志』訳本)」)

修正計画のも訳もほぼ同じです

桓帝霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流入した。建安中(196~220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐ち、旧民は次第に(その地から)出国し、この後は倭・韓は帯方に属すようになった。

                          (東夷伝韓条 訳:修正計画)

陳寿著『三国志』原本東夷伝韓条は、魏の成立以前、後漢末から太守が存在していことを記しています。

 

魏軍が遼東郡に至り公孫淵と戦闘状態に入るのは景初二年六月です

「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳公孫淵条)

二年(238)春、太尉司馬懿を遣って公孫淵を征伐させた。六月、軍は遼東に至った (訳: 修正計画)」

遼東郡治のある襄平は遼東半島の北西、帯方郡遼東半島 長山山脈のはるか南です。すると景初二年六月には、帯方郡はいまだ平穏な状態にあります。

帯方郡に「景初中,大興師旅」の影響が及ぶのは八月末「公孫淵誅殺」「又潛軍浮海」の後です。であれば情報伝達の遅い当時、さらに南方にある倭が、支配者である帯方郡に使者を出したという記事は自然なことです。国際情勢に疎ければ、帯方郡太守に魏の天子への朝見を願ったとしても何の不都合もありません。

 

繰り返しになりますがA氏は「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」、「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」としています。

どこをつついても「ありえない」話にはなりません。A氏の景初三年説は韓条のこの記事を否定、消滅させなければ成立しません。

 

この記事の翻訳作業をした筑摩書房版『三国志』訳本が、原本通り、倭使は帯方郡へ景初二年六月に遣使し、景初二年十二月に洛陽で皇帝に朝見したと主張するのは当然のことです。

 

いや、もう一つ、A氏の説を成立させる論理はあります。

韓条を考え合わせても「あり得ない」ということを納得させる、A氏の説明があればよいのです。

例えば 「倭は国際情勢に敏感で、公孫淵が帯方郡の支配者であることを認識しており、遅くとも「景初中,大興師旅」前後には公孫淵と帯方郡を見切っていた。」といった

論理を展開して「あり得ない」ということを納得させればよいのです。これは正面突破の戦術です。

しかし陳寿著『三国志』原本東夷伝にそのような主張の根拠を求めることは不可能でしょう。

 

(六行削除しました 6月17日)

 

 

ここまでが私の「訳本の二年説」への補完作業です。これでA氏は訳本の景初二年説を批判しやすくなったでしょうか、どうでしょう。

 

次回もよろしくお願いします。

 

例文内の「又」の役割7 最後の「又」5――記事№...25

古田武彦氏の説のウソ、・・№22」――2−1 景初3年が正しい理由―その21

 

 今回は記事№21からの繰り返し説明が多くなります。前三回うまく説明しきれていないという私の思いがあってのことなのですが少し我慢してお付き合いいただければ幸いです。

  目次

 

楽浪郡北遷説」についての繰り返し

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」

この原文を筑摩書房版『三国志』訳本は次のようなに訳しています。

――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」

三国志修正計画」の訳文もほぼ同じ趣旨です。これだけであれば私に立ち入って論じる必要ありません。ところが「三国志修正計画」は、訳文に次のような注釈を付していました。

 

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致された以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正計画)」

 

私はこの注釈を「楽浪郡北遷説」と呼びました。この注釈で前回、前々回、その前と三度にわたっての検討を余儀なくさられました。

 

両翻訳部分だけを考えれば「又」についての私の理解には何の問題も生じません。

西安平を攻めたときは、新安・居郷を寇した時とは違い、戦場が楽浪郡という別の郡に及んでいます。

「復犯遼東、新安居郷、又(攻西安、于道上帶方令、略得樂浪太守妻子)。」

           遼東郡                   楽浪郡

「」のなかは” 復犯遼東 ”で括られた文節で、以下は遼東郡内で侵された地域名が列記されているのが普通す。新安、居郷、西安平は遼東郡でこの括りに当てはまります。帶方令、樂浪太守は楽浪郡の事柄であり、遼東郡というこの括りから外れています。本来、同じ文節に列記することはできません。

しかし陳寿西安平攻めを述べるにあたっては楽浪郡の帶方令・樂浪太守についてのでき事を付記したかった。そこで西安平の前に「又」を挿入することで、混乱を避けることにした。同じ遼東郡ではあるが西安平とその前二つ新安、居郷とは区別される記述である事を明示したうえで、「于道上」以下に楽浪郡の事柄を書き加えた。

というのが私の理解です。

 

ところが「「三国志修正計画」は、注釈で伯固が西安平を攻めたとき「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言っています。

両者とは楽浪郡の治所(平壌)と帯方県の治所です。「少なくとも」、というのは当帯方郡が分立する前、楽浪郡に県が十八あったからです。十八ある県の治所の内、少なくとも帯方県の治所は楽浪郡の治所とともに遼東郡内に徙されていた、と「三国志修正計画」はいうのです。では他の県の治所はどうなったのでしょう。濊 東沃沮等の勢力に押されて放棄されたのです。遼東郡に移された楽浪郡の治所と帯方県の治所はいわば亡命政権の所在地だということになります。伯固が西安平を攻めたとき楽浪郡という漢の行政組織は、すでに崩壊しその領域は放棄されていたことになります。

これが「三国志修正計画」の主張している説です。

 

 漢が楽浪郡を放棄し、楽浪郡の治所、帯方県の治所等を遼東郡に移し、伯固が攻めたのが遼東郡内にある両治所、だったとすれば、私の伯固はこの時楽浪、遼東二郡を攻めたから「又」を使って「攻西安平」を区別している、という私の理解は成り立たなくなります。ここに楽浪郡北遷説の検証を始めた理由があることはすでに申し上げました。

 

三国志修正計画」が、なぜ「楽浪郡を放棄した」と主張するのかを考えてみました。

「帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり」と言い、それを根拠に「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」と主張しています。

過去三回の記述で伯固が下地図のルートA、Bの征路を取ったと想定した場合だけこの主張が成立ことを述べました。

私はルートCが存在していて、このルートの現実性が一番高いことを述べ「三国志修正計画」の主張に反駁しました。伯固が西安平を攻めたときルートCをとっていれば楽浪郡の治所、帯方県の治所は楽浪郡内に存在していることに疑問は出ません。伯固が征路にルートCを取っていれば楽浪郡が放棄されていたという仮説を立てる必要は全くありません。伯固は楽浪、遼東両郡を蹂躙したのです。

f:id:s-tokuji:20180419154417p:plain

         伯固の征路 

三国志修正計画」の主張はルートA、(B)の征路しか存在しないという思い込みから来た主張であると考えます。

三国志修正計画」への反駁の試みは一応成功したと考えています。

 

また、陳寿はそれ以外にも「寇新安、居郷」と「攻西安平」を区別する必要を感じていたはずです。私の解釈に沿って考えてみます。

新安、居郷を寇した、この両事件が伯固の一回の侵犯事件なのか、別々の事件なのか、一切触れられていません。仮に「寇新安」、「寇居郷」、「攻西安平」と三度「犯遼東」が繰り返されたとします。

すると「寇新安」、「寇居郷」は一回の侵犯事件で一郡内の一城市が周辺を略奪される被害を受けました。「又攻西安平」では一回の侵犯で二郡に及ぶ被害を受けています。楽浪郡の県令が殺され、郡太守の妻子が拉致され、遼東郡の西安平に攻めかかられています。この軍行と並行して、二郡の範囲での略奪等については書いてこそありませんが、無数に起こったことは想像に難くないところです。「寇新安」、「寇居郷」と「攻西安平」では、受けた被害に相当な差があったでしょう。

仮に「新安・居郷」は一度の「犯遼東」で、連続的もしくは同時に「寇」されたのであったとしても、両者の被害は比較にならないほど大きかったのではないでしょうか。

「攻西安平」は一連の伯固の侵犯事件の中でも「又」と区別され特記され強調されてしかるべき規模のはずです。

 したがって私の文章上「又」の果たす役割理解は間違っていません。

 

「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」

記事№21で「楽浪郡北遷説」とは別に「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」を取り上げました。「楽浪郡」「虚構」をキーワードに検索してみてください。結構な数の該当記事が上がってきます。

伯固が西安平を攻めたとき朝鮮半島楽浪郡はなかったという点で、両主張は共通しています。

これは検証しておく必要がある、私はそう感じました。

 

 この説は朝鮮半島に、箕子朝鮮・衛氏朝鮮はもちろん、漢の四郡もなかったという説です。半島は古来ずーっと鴨緑江まで朝鮮民族?の地であり、漢の四郡は中国領内の吉林省遼寧省にあったといいます。韓の領域は北にずれ、空いた半島南部を埋めるように倭は半島南部にあったといいます。このことを隠蔽し、半島が古代から中国の支配下にあったことにするため、後世中国の史家が史書の解釈を意図的に捻じ曲げているのだそうです。

この説は『漢書』『後漢書』の記述を否定しているのではありません。曲解された解釈を正しているのだそうです。

 遼東郡、遼西郡の存在も否定していません。そして楽浪郡遼寧省(遼西、遼東地方)のどこかにあって、共存していたのだそうです。

 

西安平は考古学的証拠から遼寧省東南の端、現在の丹東市であることは否定できないでしょう(不存在説も否定はしていません)。

       

 

 

吉林省 (高句麗)

 
 

 

 

丹東市

(西安平)●

 朝鮮半島=)

 

 

 

遼寧省(遼西郡、東郡郡、楽浪郡)

 

また西安平は『漢書』地理志、『後漢書』郡国志で遼東郡に属すると書かれています。原本の文面は解釈で動かすことができるものではありません。

 

漢書』地理志、

遼東郡,秦置。屬幽州。戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平。有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海。行千二百五十里。莽曰長說。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險瀆,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。西安平,莽曰北安平。文,莽曰文亭。番汗,沛,水出塞外,西南入海。沓氏。

 

後漢書』郡国志

 辽东(遼東)郡秦置。雒阳东北三千六百里。十一城,户六万四千一百五十八,口八万一千七百一十四。

 襄平、新昌、无虑、望平、候城、安市、平郭、有铁。西安平、汶、番汗、沓氏

 

伯固は遼東郡の城市を直接寇したり、楽浪郡を抜けて西安平を攻めたりしています。吉林省高句麗遼寧省にある遼東郡の間は直接侵攻できる部分と楽浪郡に隔てられた部分があることになります。

すると四郡と韓の配置を、一例として下図のように模式化することができます。

           
 

高句麗

   
 

遼西郡

遼東郡

楽浪郡

 朝鮮半島=韓

 
 

西安平●

(遼東郡)

   
           

 

この模式を地図上に表すと次のようになります。

 

f:id:s-tokuji:20180419154553p:plain

       不存在説での伯固の征路

 

このばあいは半島内の征路は考えられませんから、二つ赤線が伯固の征路になります。(A)が、「寇新安・居郷」、(B)が、「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」です。

 

 (A)は単独遼東郡への侵攻であり(B)は楽浪郡と遼東郡への侵攻です。

 このように三郡と高句麗、韓を配置してみると「半島不存在説」は、私の「又」の意味理解に関しては何の影響も与えないことがわかります。

 

「半島不存在説」では遼東郡の範囲や楽浪郡の位置を明示していません。ですからその位置関係はこれ以外にもいろいろ考えられます。そして征路も、楽浪郡等の位置に合わせて様々な解釈ができます。

しかし私の「又」に関する理解は、遼東郡、楽浪郡遼寧省という狭い範囲に近接して存在して、高句麗が直接遼東郡を寇したり、楽浪郡経由で遼東郡の西安平を攻めることが出来る配置という設定が可能である限り破綻することはありません。

長く更新をせず申し訳ありませんでした。

理由の第一は田舎で一人住まいする母の件で三ヶ月ほど帰省していたことです。十分に気持ちを更新作業に向けることが出来ませんでした。

四月になって自宅に帰ってきたのですが、母が高齢で今後このようなことが繰り返し起こるのだろうと、うら悲しい覚悟をした今回の帰省でした。

 

第二の原因は「半島不存在説」批判に正面から取り組もうとしたことです。

この説は立論のために使う史書の資料批判が全くなく、使用法も自説に有利ならどんな使い方でもする。古学上の成果についての評価も恣意や杜撰さ満ちているというのが私の感想です。

それをいちいち指摘していかなければなりませんでした。そんなことに振り回され一歩も前に進めなくなってしまいました。

しかし私がこのブログで問題にしている点について「半島不存在説」の存在で影響をうける部分でないことがわかりましたので、泥沼から足を抜かせていただくことにして、何とか今回の更新となりました。

 

「半島不存在説」については下記のブログが所論を述べています。

 

テラさんの万華鏡 虚構の楽浪郡遼東説 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12094682024.html 

 

私はこのブログで「半島不存在説」の史料や、考古学的成果の使用が恣意的でありすぎることをもっと突っ込んで欲しかったと思いますが、今後の論及に期待しています。

 

「テラさんの万華鏡 」の管理人さんガンバッテクダサイ。

 

今回まで事例から「又」の役割について書いてきましたが、一応今回で終わることが出来たと思っています。次回からはまたA氏の主張と正面切って向かい合いたいと思っています。

 

 

                                                  

例文内の「又」の役割6 最後の「又」4――記事№...24

古田武彦氏の説のウソ、・・№21」――2−1 景初3年が正しい理由

―その20

 

 ケースCの場合。

ここまでの纏め。

ちょっと北遷説に話を戻します。

「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」

 

-(修正)-はこのように訳しています。

「復た遼東を犯し、新安・居郷に寇し、又た西安平(丹東市寛甸)を攻める途上で帯方令を殺し、略奪して楽浪太守の妻子を得た。」

-(筑摩)-の訳は「ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。」となっています。両訳文の趣旨は一緒です。

 

但し-(修正)-の訳文には次のように注釈がついています。

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。」

 私はこの注釈に代表される説を北遷説と称しました。

 

「帯方令を殺し」、「楽浪太守の妻子を得(奪い去っ)た」のは「西安平を攻める途上」、もしくは「その道すがら」であると訳しています。するとどちらの訳文でも西安平を攻める前に平壌方面にある楽浪郡治や帯方県を攻めたことになり、伯固の征路は西安平を攻める前に、楽浪郡治や帯方県を経ていることになります。

定説では楽浪郡治や帯方県は西安平より百㎞以上南にあったことになっています。-修正-は百㎞以上南にある楽浪郡治や帯方県を通過して西安平に至る征路を想定することが出来なかったのでしょう。そこで「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」として訳文をより理解しやすく補正したのだと思われます。

 

私は北遷説に基づいて、「遼東郡内に徙され」る三つのケースを想定してみました。最初に西安平県城内に移された場合。この想定は文脈上成り立ちません。この場合、「その道すがら」とも「途上にあり」とも表現できませんから。

残る二つは、遼東半島、千山山脈の北、遼東郡本体の中に取り込まれた場合と、鴨緑江に沿い元々の楽浪郡を窺う配置をとって徙されたばあいです。この想定には問題ないと思います

前回、前々回とこの想定に基づき伯固の征路を検証してみました。地形や私の仮定した諸元を繰り込み高句麗西安平遠征路をシュミレーションしてみました。

 

その上で高句麗条の伯固の遠征記事を読み直しました。

高句麗条は、伯固が後漢朝を悩まし、その上で意気揚々と帰国したことを伝えているとしか、私には理解できません。

しかしシミュレーションでは、楽浪郡治や帯方県が遼東郡に遷されていた場合、伯固の遠征は成功に結びつきませんでした。伯固の遠征部隊が最終的に補足されるか、疲弊して自滅するかの可能性が高いのです。高句麗条に、失敗を臭わせる記述はありません。

 

第三のルート。

この乖離について考えました。

“わたしのシミュレーションが間違っているのか。”

再度試みました。思い込みかもしれませんが結果は同じでした。

“実は不成功だったのだが高句麗条では隠されている。”伯固の遠征が失敗したのなら、陳寿それをかくす理由が見当たりません。むしろ得々として書き残すと思います。

 

高句麗伝から読み取れるように、伯固の遠征が成功裏した、と原文を理解できるそのような解釈を探しました。

そして想定した遠征経路が間違っているのではないか、と思いつきました。伯固は遼東郡を縦断したり、鴨緑江に沿って侵攻する征路を選んでいないのではないか。伯固が成功裏に帰還できる別のルートがあるのではないかないかということです。グーグルマップで調べました。

 

そのルートが北朝鮮側にあったのです

 

f:id:s-tokuji:20180219064805p:plain

                  伯固の征路

線濃い青が清川江、薄い青が大同江とその主要な支流です。

 

北朝鮮内の地名や河川、山名等を細かく記すことは出来ません。グーグルの表記がハングルになっているからですが、とりあえず鴨緑江(国境)を挟んで、集安の対岸、北朝鮮側は満浦(チャガン)市であることは判りました。

 

グーグルマップで北朝鮮を絞り込んでゆくと満浦市を起点とし南下する道が現れます。おおよそのところを下地図に赤い線で複写しました。南下してゆくと安州平野に達します。安州平野にはいって海岸に向かうと道路は二つに分かれます。片方は西に丹東方面へ向かっています。もう片方はさらに南下して平壌平野に抜け平壌方面に向かっています。

 

伯固の遠征路はこれなのではないでしょうか。この道路が天然の地形を利用した物であれば、かつて伯固の騎馬部隊も遠征路として使用できたでしょう。

 

 

 

 

 

 この道路を満浦市の起点からグーグルの航空写真で追ってみました。その限りでは、近代の土木技術で大幅に地形を変えたり、長いトンネルを付けたりした形跡は見て取れません。この道路は自然の地形に沿って作られています。

 

騎馬部隊は移動できるでしょうか。上記地図から、この道路が大きく二つの地形の地域を通過していることが見て取れます。一つは安州平野、平壌平野の平坦部です。ここは大丈夫ですが問題は山岳地帯です。

黒い台形線に囲まれた範囲をグーグル航空写真で調べてみました。山間には盆地や清川江の支流に沿った平坦地が連なっています。盆地を囲む山々の傾斜は緩く、清川江へ繋がる支流も比較的広い河川敷や河原を擁しながら流れています。

 

伯固がこの道を辿ったとすれば、遼東郡本体を強行突破するより、鴨緑江沿いに騎馬部隊で西安平まで下るよりも、明らかに容易で、安全だったと思います。

 

前漢の時代も楽浪郡玄菟郡・臨屯郡を結ぶ幹線道路だった可能性があるでしょう。

 

「両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」という-修正-の注釈を導き出すにあたって、第三のルートの存在は考慮しているのでしょうか。

私は一顧だにされていないと思います。なぜなら伯固が第三のルートを通ったと考えた場合、定説を否定してまで「両者の治所が遼東郡内に徙され」ているという発想には結びつかないのです。

 

第三のルートを辿ってみましょう。満浦から安州平野に抜け、西安平へ向かう征路もケースAと同じく中入りです。安州平野から直接西安平へ向かったとします。伯固軍が西安平へ向かった情報は当然楽浪郡治へ届きます。楽浪郡太守は大急ぎで麾下の十八県の兵を糾合して、伯固軍を追います。各県が守備兵の半分ずつ、二百五十を派遣できたとして楽浪郡太守の率いる部隊は四千五百です。伯固は西安平付近を荒らしまわっている時か、荒らし終わって引上げる途中で追尾する西安平の部隊と、北上してきた楽浪郡の部隊とに対峙しなければならなくなります。この時には帰路を塞がれた形になります。おそらくどのような将であっても、帰路を断たれ、前後から挟撃を受ける事態は避けるでしょう。さきに楽浪郡治と帯方県治をつぶしたと考えられます。

伯固は西安平へ向かう前に平壌にある楽浪郡城や、この方面にある各県城を奇襲し、各個撃破で襲ったのです。こちら方面を潰しておけば、背後から襲われることもなく帰路が塞がれることもありません。

 

「殺帶方令」は伯固を迎え撃って、敗死したと考えられます。

「略得樂浪太守妻子。」この部分についての状況が不明です。

「略」には―省く,省略する,簡略な.省く,なおざりにする―といった一般的な意味があります。この意味を採用すると、例えば樂浪太守の妻子は殺されたということになります。

―はかりごと,策略,策,計画―という意味もあります。この意味を採ると、例えば樂浪太守の妻子は誘き出されて拉致されたということになります。

―奪う―この意味だと、例えば、どこかから楽浪郡城に帰還の途中に襲われて強奪されたことになります。

語句の解釈もありますが、迎え撃つべき太守が無事で、郡城の奥深くにいるべき妻子が遭難したというのが判りません。その状況を想像できないのです。

 

伯固の部隊は安州平野から平壌方面進んでいきます。騎馬部隊に急襲された途中の各県城からの平壌への通報は封殺されるでしょう。西安平がこの事を察知するのにはさらに時間がかかります。察知した時にはすでに取って返してきた伯固の部隊が西安平の城下に達していた、という状況もあり得ます。

 

つまり、伯固の記事の大略は「両者の治所が遼東郡内に徙され」ていず、楽浪郡治が平壌にあっても充分に説明がつくのです。

 

高句麗はこのルートを知っていたか。

 

後漢書によると高句麗は、朱蒙が卒本城(遼寧省本渓市桓仁満族自治県 五女山山城)を都城として建国したといいます。建武九(33)年には第2代の瑠璃明王が隣国夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(国内城、丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊、かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられています(wikipedia)。

 

高句麗の國都,丸都(国内)城は建武九(33)年から、第三ルートの起点、満浦市の対岸にあったのです。

 

建武六 (29) 年、省邊郡、都尉由此罷。其後皆以其縣中渠帥為縣侯、不耐・華麗・沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐、(東沃沮条)

-漢の建武六年に辺郡を省いた時、都尉はこれに由って罷めた。その後は皆なその県中の渠帥(有力族長)が県侯となり、不耐・華麗(高句麗)・沃沮の諸県は皆な侯国となった。夷狄は更めて相い攻伐し、-修正-」

「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。(東沃沮条)

-(東沃沮は) 國が小さく、大國の間にあり迫られて、遂に高句麗に臣屬した。-修正-」

「又句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。(東沃沮条)

高句麗は臣屬する前の東沃沮の大人を使者(高句麗の下級官吏)として任命し、領地の主とし使った。一方、税に関しては〘注〙大加(高句麗王の宗族)に統べさせて貊布・魚・塩・海中の食物を収めさせ、千里を担負して来致させ、又たその美女を送らせて婢妾とし、これを遇すること奴僕のようだった。-修正-を補正-

〘注〙王之宗族、其大加皆稱古雛加。(高句麗条)」

 

建武六年に後漢の侯国となった東夷諸国は相い攻伐しあい、東沃沮は敗れ高句麗の属国となったのです。東沃沮内部の行政はもともとの首長たちに委ねられたが、徴税は高句麗の王族が差配したといっています。東沃沮で徴税を円滑に行うには、東沃沮の地理、地形、人口構成等を把握していなければなりません。

 

「毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千餘級、宮奔北沃沮。(夫余条)

-毌丘倹が高句麗を討った時、高句麗王の宮が沃沮に奔ったので、師を進めてこれを撃った。沃沮の邑落を皆な破り、斬首・獲虜は三千余級。宮は北沃沮に奔った-修正-」

「正始三年,宮寇西安平,其(正始)五年,爲幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。(高句麗条)」

「正始中、儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。(毌丘倹傳)」

 

都城は一旦魏の手に落ちました。高句麗王は東沃沮に逃れ抗戦を続けます。毌丘倹は高句麗王に従って戦う東沃沮の邑落を皆打ち破り、その時、斬首・獲虜された東沃沮人は三千余人を数えたというのです。

東沃沮人の高句麗王への忠誠を見ると、正始五(244)年に東沃沮は高句麗の属国というより、高句麗の一部といってよいのではないでしょうか。高句麗の東沃沮統治はうまくいっていたようです。

 

伯固が遼東に攻め込んだのは「順・桓之間」とあります。

順帝永建年間(126)年-建寧元(146)年、桓帝の没年が永康元(168)年です。

伯固の在位は後漢延熹八(165)年-光和二(179)年です(wikipedia)。

伯固は建寧二(169)年に玄菟太守耿に降伏〘注〙しています。

〘注〙「靈帝建寧二(169)年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。(高句麗条)

霊帝建寧二年、玄菟太守耿臨がこれを討ち、賊虜の数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。―修正-。」

 

伯固は王位についた後の四年間暴れまわったようです。勿論この四年間、当然東沃沮は高句麗に臣属しています。

 

 北朝鮮の満浦市が高句麗の領域か東沃沮の領域かは判りません。しかし高句麗にとってここは熟知しきった地域であったのは間違いありません。そこから南西へ楽浪郡との境界がどこにあったかも不明ですが、しかしそこまでは、満浦市近辺と同じく、高句麗にとって自領であるか、それに等しい地域であったことになります。

 楽浪郡との境界には後詰めや、補給の部隊が待機していたかもしれません。伯固が凱旋した時、待機していた部隊の歓呼で迎えられたかもしれません。

以上、述べてきたことから高句麗は第三ルートの存在をよく知っていたと考えなければならないのです。

 

 このようなルートがあり、そのルートを知っているのにわざわざ困難が予想される遼東郡内を強行突破したり、揚子江沿いに下るルートを辿ったりしたと考えるのはあまりにも不自然です。半島の地理を検討していない未熟な議論だと私は思います。

 

伯固は第三ルートを通って楽浪郡、帯方県等背後の脅威を除いてから西安平を攻めたのです。

「又」へ戻ります。

やっと結論にたどりつきましが、またもや原文に戻ります。

「復犯遼東、寇Ⓐ新安・Ⓑ日居郷、又攻Ⓒ西安平、于道上殺Ⓓ帶方令、Ⓔ太守妻子。」

 

Ⓐ、Ⓑの時は素直に高句麗から遼東郡に攻め入って寇したのです。しかしⒸのときはⒹ、Ⓔも攻めているのです。遼東郡だけではなく楽浪郡も攻めているのです。同じ「復犯遼東」で括られてはいてもⒶ、ⒷとⒸは内容的に違っているのです。

 だからこそ、たんに列記するだけではなく、Ⓐ、ⒷとⒸとの間に「又」をおいて区別しているのです。私には陳寿自身もⒶ、Ⓑは「寇」とし、Ⓒ、Ⓓ、Ⓔは「攻」としてこの違いを際立たせようとしているように思えます。

 

 北遷説には、「遼東郡内に徙されていた」と言い切っていない記事もあります。

楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。―理解する世界史―」

楽浪郡治が移ったのは楽浪郡の北部だったかもしれない、という説です。この説が成り立つかどうかの問題はありますが、成り立ったとしても私の「又」についての主張には影響がないと思います。西安平を攻めた時には、遼東郡のⒶ、Ⓑだけを寇したのと違って、楽浪郡と遼東郡を犯したということには変わりがありません。

 

 

 かなりくどくなってしまいましたが、-(修正)-の北遷説が正しければ私のこの「又」についての主張が間違っていることになってしまいます。この点を理解いただき、長広舌ご容赦いただけると幸いです。

                                                     

 

 

例文内の「又」の役割5 最後の「又」3――記事№...23

 古田武彦氏の説のウソ、・・№20」――2−1 景初3年が正しい理由

―その19

 

ケースBの場

目次

 

―理解する世界史―

楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる

東沃沮や挹婁、濊、韓に圧迫されて西安平県方面へ移動していたと言っているのだと思います

楽浪郡に属していた帶方県も樂浪郡と共に西安平県方面へ移動していたことになります。楽浪郡には『漢書』地理志によると始元五(前82)年に二十五県、後漢建武6 (紀元30)年には嶺東七県廃止によって減少したとは言え十八県が存在していました。

 帶方県以外の縣はどうだったのでしょう。

 

その疑問はともあれ、楽浪郡西安平付近にあったそうです。鴨緑江に沿って並んであったのか、西安平の対岸、北朝鮮側にあったのか、もしくは県城西安平の中にあったのかそれは、不明です。

 

前回の要図に戻ります。ケースBの場合、集安から鴨緑江に沿って下り、西安平に至り、付近にある「殺帶方令、略得樂浪太守妻子」、その後、本格的に西安平を攻めた。この経路は容易に想定出来ます。一見、ケースAの場合より格段と困難は少なそうです。ところがそうでもないのです。

江上を征路に選ぶ

まず、船を使う場合を考えました。攻めるに必要な騎馬部隊を鴨緑江上船で運んだとしましょう。どれくらいの兵を運ぶことになるのでしょう。それを仮定するには西安平、楽浪郡治、帯方県治の兵力を想定しなければなりません。丹東にあった西安平県城の規模と兵力はどの位だったでしょう。探しましたが特定できる記事はありませんでした。

標準的県城

 河北省武安県牛汲古城跡の遺跡によると、南北768メートル、東西889メートルの城壁に囲まれたスペースが漢代から三国時代の県城でした。

 この城壁に囲まれた県城は、さらに里という区画に分かれていました。里の大きさは南北380メートル、東西175メートルの長方形で30~50メートルの間隔を開けて50件程度の住宅が建っていました。

里の中の各家は、15m×20mの大きさだというので、ら大体、一軒で180坪位という事になります。基本、県は、10の里という行政区画に分かれていました。

一つの里には50戸があり、一つの戸の平均人口は5名程度でした。

こうして考えると、一里の人口が250名になりますから10里あると県城の住民は2500名程度となります。

もっとも、大きい県も小さい県もあるので、これは目安にしかならないですが。

(はじめての三国志 https://hajimete-sangokushi.com/2016/01/16/post-8778/)

このような記事が有りました。

西安平は水上陸上の交通と流通の要衝ですからこんな数字ではないと思いますが、一応の規準的数値として規模をこの様に想定します。

丹東(西安)付近の兵力

次に兵員の想定です。

 

牛汲古城跡城壁の全長  

        768+889=1657*2=3314m 100mおきの哨兵として2交代で 約70名

里内の治安要員 50名2交代で 100名

城門二つの衛兵 50名2交代で 100名

県府の衛兵   50名2交代で 100名

周辺の巡回要員 50名2交代で 100名

 

合計で約500名こんなところでしょうか。

 

建安八(203)年、いまだ呉の基礎が定まらない時、會稽郡で六万一千戸を擁する現地民の反乱が起きました。その時、孫策は賀斉に平定を命じ五千の兵を与えました。

「郡發屬縣五千兵、各使本縣長將之、皆受齊節度。(『三国志』魏書 賀斉傳)

-修正-

郡は属県より五千の兵を徴発し、各々本県の長にこれを率いて、皆な賀斉の節度を受けさせた。」

 県の長に率いさせているのですから、かなり本気の徴発であったのでしょうが、当然県の抱えた兵をすべて反乱軍へ差し向けられるわけではありません。それぞれの県の治安維持等がありますから。

動員出来たのは、多くて半分から三分の一つ程度でしょう。

 この当時、會稽郡には二十六の県があったそうです。一県から約各二百の兵を引き抜いたことになります。すると常時県の抱えている兵は四百から六百だったと仮定できます。

 

仮に三者が別々の城だったとして三城の守備兵は最低約1500とします。

高句麗の騎馬数

 次は高句麗の動員した騎兵数を想定します。

近代ドイツ軍の研究に攻城三倍の法則というのがあるそうです。孫子も「同等の兵力なら最善を尽くして戦い、こちらの兵力が少ないなら引き上げ、敵の兵力が大きい場合は戦い自体を避けよ。」と言ったそうです。

城を落とすことが目的でない限り、三倍は必要ないとしても、それなりの兵は必要です。上陸して戦闘中、河岸で船を確保しておく要員等後備の兵も必要です。無根拠ですが遠征に動員した騎数を千と仮定します。

 

これだけの兵を運ぶのにどれだけの船を用意しなければならないでしょうまず一隻当たり乗船できる兵員数を知る必要があります。

公園にあるボートは二人の乗りです。江田島のカッターは13人乗りです。こんな舟では騎兵は運べません。遣唐使船は乗客、乗員共で150人乗れたそうです。ネットで見てください、甲板だけでとてもそんなに乗れたとは見えません。船倉まで使ってのことでしょう。

遣唐使船クラスの船で乗員を20人とします。

西安平遠征軍の場合、軽量種、とは言え馬を人数分随伴しています。移動中、馬が騒いでも大丈夫なように搾具等特殊な装備も必要になります。騎兵一騎で最低五人分の空間は必要だと思います。すると、馬は26頭しか乗れないことになります。千頭運ぶために39隻必要です。

一隻に乗れる人員は130人です。八隻必要です。食料等を積んだ船まで加えると、艦隊は約50隻にまでなります。

勿論二千でも三千でもよいのでしょうが、動員した騎馬数が増えれば用意しなければならない船も倍、三倍と増えます。準備する船数が膨れ上がり、ためにする想定と思われては困るので最小の数としました。

 

高句麗騎馬民族の建てた國です。五十隻であっても、それだけの船とそれを操船できる人員を用意できるとは思えません。

しかしここでは敢えて船が準備できたとして侵攻の検討を続けます。

 

集安と丹東付近の鴨緑江の川幅を調べてみました。

鴨緑江を跨いで吉林省通化市内の集安市と北朝鮮満浦市を結ぶ集安鴨緑江国境鉄道大橋ががあります。 長さ598m、幅5mで20の橋脚で支えられています (wikipedia) 。グーグルマップの航空写真で見ると橋梁の半分強が豊かな流水面上にあります。約300 mを流水面が占めていることになり、残りが河川敷です。橋の上流でも下流でも、流水面はここより広くなっています。集安近辺の水深は3メートルだそうです。  

山岳地帯のただなかです、集安付近での水量は四季を通じて豊かだと思われます。

丹東市にある中朝友誼橋遼寧省丹東市と北朝鮮新義州市を結ぶ橋で、中国側の正式名称は鴨緑江大橋です。全長946.2m、橋脚12の橋です。(wikipedia)この橋は堤防から堤防を結んでいて橋梁はほゞすべて流水面上にあり。橋梁の長さ即鴨緑江の流水面の幅です。ただし、中国側と北朝鮮側とではいちじるしく水深が違い、水量が少なくなると川幅の半分くらい、北朝鮮側が河川敷になると思われます。

 

集安から丹東へグーグルマップで河流を追ってみました。下っていくと白く泡立ちが何㎞も続いている領域が何個所もありました。水深が浅く急流になっているのです。河流が岩の間を縫っている領域も複数あります。

更に下ると河流が唐草模様のようになっているところもあります。そのなかの一本の河流を間違がいなく選んで進んでいかなくてはなりません。

 

読んでいるあなたも、グーグルマップで「集安」をキーワードに検索して鴨緑江を追みてください。鴨緑江は集安の南境を流れています。追うのは容易です。

 

集安や丹東付近は良いとして、途中この河流に船が耐えられるのでしょうか。耐えられたとしてもそれぞれの船を操船する要員はここを乗り切る能力が必要です。

約50隻に操船する要員1000名、すべてにその能力は必要ないとしても、騎馬民族国家の高句麗にそれだけの要員を準備するのは無理だと、私は考えます。このような河流を船団で降ってゆくことは無理です。途中でボロボロになってしまいます。バラバラになった船が時間差を置いて到着するのでは各個撃破される可能性が高まります。

 

いくつもの困難についてこの私の想定が正しいとすれば、とても船を使ったとは考えられません。

それでも高句麗軍が西安平を犯したとしなければなりません。では兵員運搬について他にどのような方法が考えられるでしょう。

船でなく筏

筏の利用があります。船の代わりに大きな筏を組んで鴨緑江を降ったと想定します。筏を組むのは船を準備するよりは容易いし、途中で引っ掛かってもやり直しや、改修はたやすい。

勿論これは船を使った場合に比べてです。日本でも木曽川の筏下りが有名ですが、筏を組むにも乗りこなすにもかなりの技術を要すると思います。筏が分解したときの苦労も生半可ではないでしょう。

帰路の困難

それも置いて、とりあえず高句麗の騎馬部隊が鴨緑江下流域に到着したことにします。帯方県、楽浪郡を攻略し、西安平を脅かしました。

さて帰路はどうするのでしょう。筏で鴨緑江を遡上することはできません。江に沿って陸路を辿るしかありません。

ケースAで保留にした帰路も、以下と条件が同じになります。

 

河岸を二種類に分別しました。人馬が通行できる河岸と、出来ない河岸ですマップでグーグルを最大の倍率にして、江に沿って陸路を遡上してみました。河岸の状態は大略、半分近くが人馬通行不能部分だと思われます。山腹が直接流水に落こんでいるのです

 

私の判断ですがこれでは馬を棄てて、兵のみが集安まで帰り着けるかどうかです。

 

ケースA、Bに応じて想定した西安平への征路はどちらも帰路は部隊が困窮に落ち入ってしまいます。

納得できません

「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」

 

私にはこの記述からは西安平遠征軍の困難は窺えません。後漢高句麗王、伯固の跳梁に苦しむ姿しか浮かんできません。

 

 私はここまで北遷説に従って征路の想定を進めてきました。

 記事では遠征軍が西安平を犯す前に楽浪郡、帯方県を攻略しています。北遷説によれば、この時、楽浪郡治が定説の通り平壌であれば、それは起こりえない事態である、というのです。

 楽浪郡、鮮朝半島不存在説はより詳しく言っています。

高句麗の太祖大王(伯固)も、遼東郡の西安平県を攻めたついでに平壌にも軍を派遣して楽浪郡を攻めて太守の家族を誘拐したばかりでなく、さらに大同江を越えてソウルまで行って帯方令を殺して帰ってくるなど、有り得ません(虚構の楽浪郡平壌説)。」

 

 北遷説に従って想定してきた結果が、原文の持つ雰囲気とは全く違う状況を示していると、私は思います。もしかすると原文にふさわしい状況が現出するような想定が別にあるのではないでしょうか。

 また一週間考えさせていただいて、続きは次回述べさせていただきます。

例文内の「又」の役割4 最後の「又」2――記事№...22

 

古田武彦氏の説のウソ、・・№19」――

2−1 景初3年が正しい理由―その18

目次

 

 高句麗

  余談ですが高句麗についてちょっとだけ書かせてもらいます。高句麗とは東北アジア満州にいたツングース系民族の一部が漢の冊封を受けて建てた国の名です。民族名ではありません。ツングース系民族とはツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族のことです

歴史上に登場する民族・国家のうちツングース系民族と確定または比定されているのは、以下の民族・国家だそうです。

粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨、渤海女真、濊貊(濊、貊)、夫余、高句麗、沃沮、百済、豆莫婁

ツングース系民族は現代でもシベリアから満州にかけての極東、北東アジア地域に住み、主に牛馬の飼養と,狩猟,遊牧、一部は農業で生活しています。

現在民族集団を形成しているツングース系民族は以下のとおりと言います。

満州族、シベ族、オロチョン族、エヴェンキ - ソロンを含む、エヴェン、ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィルタ

これらの民族は満州民族を除いて人口が少なく、漢民族(中国語)やロシア民族(ロシア語)の影響が大きく、固有の言語、文化が危機にさらされている。

(Wikipediaより編集、)

 

前漢が元封四(前107)年に遼東郡の東、楽浪郡の北に東北地方(満州)に玄菟郡を建てました。当時の玄菟郡は幽州に属し、郡治は高句麗県にありました。残りは上殷台、西蓋馬の二県です。

 元鳳六(前75)年になると、漢の東北政策が変り、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になりました。玄菟郡は直接の支配領域を徐々に放棄して西へ縮小移転されました。郡治の高句麗県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村付近へ移され、元の高句驪県の場所には原地人の雄が高句麗侯として冊封されたのです。

                        (Wikipediaより編集、)

 

 一昔前まで我々庶民は高句麗を想像するのに現存するツングース系民族の生活様式を想起するしかありませんでした。

 しかし現代ではインターネットで高句麗人の生活を目の当たりにすることが出来ます。吉林省集安市や北朝鮮平壌周辺には、高句麗時代の遺跡が数多く残されており、石室封土墳に見られる壁画には、当時の生活文化や四神図などが鮮やかに、かつ生き生きと描かれています。

これらの遺跡は世界文化遺産に指定されネットでも公開されていますので「高句」で検索してみてください。

高句麗は周知のように騎馬民族国家です。その戦力は強力な騎兵によって構成されていました。集安周辺に残された遺跡からは高句麗前期の馬具、武具が多く発掘され、墳墓の壁画は当時の騎兵部隊の姿を再現してくれています。

遼東を犯し、新安・居郷を寇し西安平を攻めた伯固の軍も強力な騎兵部隊によって構成されていたはずです。

 

高句麗西安平攻撃

 

 本論に戻ります。高句麗西安平攻撃についてです。

 

要図

f:id:s-tokuji:20180119143256p:plain

  図 ソフト、カシミール付属の地図により作成

 

鴨緑江は長白山周辺を水源に中朝国境に沿って流れ遼東半島の付け根、現在の丹東市(西の文字あたり)で黄海に流れ込みます。丹東市が西安平です。当時の高句麗王城である丸都城(句の文字あたり)は鴨緑江中流域、現在の中国吉林省集安にあります。高句麗の領域は西に玄菟郡、西南に遼東郡都と境を接しています。遼東郡の郡治、襄平(襄の文字あたり)は現在の遼陽あたりにありました

 

二つの経路

 

冒頭の文節に「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」とあります。文節を読んでこの要図を見ると、高句麗西安平攻略経路は二つのケースが想定できます。

帶方県の治所と樂浪郡治がどこに移されていたかによって高句麗の侵攻経路の想定は違がって来るのです。

訂正

 

訂正します。

-修正-

それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。

―理解する世界史&世界を知りたい―

高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

 

前回-修正-が鴨緑江経由で西安平を攻めたとしていると書きましたが間違です。鴨緑江経由と説いた可能性があるのは―理解する世界史―でした。

 

-修正-の主張では遼東郡と帯方県が遼東郡のどこに移されていたかは、不明です。これを仮に二つの場合に分けて考えます。

遼河が遼西郡と遼東郡の間を流れています。この遼河と遼東半島から東北に延びる千山山脈の間、これが遼東郡本体だとします。ここに移されていた場合をケースAとします。

遼東郡の鴨緑江沿いに移されていた場合をケースBとします。―理解する世界史―の主張「当時遼東郡西安平県方面へ移動していた」はこれにあたります。

鴨緑江沿いの西安平攻めの可能性が出て来るのはこのケースなのです。

 

お詫びします。

 

ケースAの場合

往路

 ケースAの場合は地図、黒字の高句麗あたりから遼東郡に入ります。南下し、しばらく行って東に折れ西安平に向かいます。その途中で両者を攻略し、その後千山山脈を越え西安平を攻めたという経路になります。

 

 『漢書』地理志によれば遼東郡の県城は襄平、新昌、無慮、望平、房、候城、遼隊、遼陽、険涜、居就、高顕、安市、武次、平郭、西安平、文、番汗、沓氏の十八城があります。往路この十八城とは接触もなかったようです。高句麗は騎馬部隊の機動性で十八城を迂回しつつ駆け抜けましたということでしょう。状態としてはいわゆる中入りということになります。

たまたま楽浪郡、帯方県両治所に遭遇した時、高句麗軍は両者を迂回せず、蹂躙して去っています。中入りですから一日応戦されただけでも高句麗軍は苦境に陥ったはずです。その一日も保たなかったと思われます。両者は無防備状態に近い状態だったようです。

 

 高句麗の領域を離れて西安平までの距離をおおよその目測ですが500㎞前後としておきましょう。道は直線ではありません。また県城を回避しながらの行軍です。実際の踏破距離はその倍あったとしてもおかしくはありません。

wikipediaは騎兵の一日の行程を40~60㎞としています。並足や襲歩を組み合わせた平均的速度でしょう。日本陸軍の、と断ってあるので陸軍省発行の騎兵操典を参考にしたものと思われます。帝国陸軍日露戦争に備え、サラブレッド等を導入し、騎兵用の馬を改良しています。大型の馬を使うロシヤのコサック兵との交戦を想定したためです。日本馬の在来種は二回りほど小さいのです。高句麗の騎馬も同系統だったと考えられます。ネットを使って同じく同系統と思われるモンゴル馬で検索してみてください。馬格の違いは確実に一日行程の大小に影響します。

しかも、これは平滑地を基準にしています。山岳地や沼沢地ではこうはいかないことははっきりしています。高句麗軍が一日60㎞の行程をこなすのは難しいと思います。

 

高句麗領域から西安平までを700㎞、一日40㎞の行程と想定します。17日という日数が出ます。往復で34日です。戦闘中の日数を5日とします。合計39日です。39日分というと、食料だけでもたいそうな荷物になります。騎兵の長距離行軍には輜重は随伴できません。行軍速度が噛み合わないからです。まして隠密行動を必須とする中入り作戦での輜重は随伴不可能です。

この荷物を騎兵が携行するのでしょうか。接敵した時、動きにセーブがかかります。それは出来ません。

現地で買い上げ現地調達するのでしょうか、敵地を行軍しているのですから買い上げは無理でしょう。その場合もう一つの現地調達、略奪、強奪になります。通報を回避するため、現地人皆殺しの上の現地調達かもしれません。

 

私もそうですが、読んでくださっている方も疑問を持つのではないでしょか。

はたして遼東郡治である襄平や諸県城に背後をさらしたまま、危険な作戦を実施して、西安平を犯す必要があったのでしょう。

「犯遼東、寇新安・居郷」は納得がいくのです。境界近隣をサッと荒らして、サッと引き上げるのは、烏丸や鮮卑もやっていることです。この場合示威もあるでしょうが、攪乱と略奪も目的でしょう。

西安平までの中入りの場合は理解に苦しみます。

復路

復路は、こうやって通り過ぎたところを再度通ることになります。食料を入手することは往路より困難です。また遼東郡治には楽浪郡、帯方県両治所が襲われたことが知れているはずです。西安平が攻められたこともです。当然、遼東郡内には最高水準の警戒線が引かれ高句麗軍補足のため軍が編成されているはずです。西安平は陥落したわけではありません。追撃部隊も出しているかもしれません。袋のネズミ状態と言ってよいでしょう

帰還する高句麗軍に素通りされたと皇帝に聞こえれば遼東郡太守の処f罰は必至です。処刑もあり得ます。太守は必死でしょう。遼西郡や高句麗軍補足に成功しても失敗しても記事にするには絶好の出来事です。

文節には帰路について何も触れられていません。書き残すような何事もなかったとしか考えられません。このような状況の中、高句麗領域まで何事もなく帰還できたのですから奇跡です。

ではどうやって何事もなく帰還出来たのでしょう。可能性としては鴨緑江伝いに帰路をとって帰還したという想定は成り立ちます。次回はこの経路を考えますので合わせて検討してみましょう。

 

 

2−1 景初3年が正しい理由

例文内の「又」の役割3 最後の「又」1――記事№...21

古田武彦氏の説のウソ、・・№18」-2−1 景初3年が正しい理由―その17

 

今回から、やっとこの「又」についての検証に戻ります。

 

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。

――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」

 「又」の復習

 まず「又」についての復習から始めます。

「諸橋大漢和辞典」によると、一般的に適用できる訳語は下記の通りでした。

 

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。

❸ふたたびする。

 

ある事、またある物の記述があって、引き続いて別のある事、またある物を記述するときに使っています。

 

倭人条の例で見てみます。ある事、またある物を連続して、記述する語法を幾つか例示できます。

「×××、答汝所獻貢直。又特賜、○○○」の「又」は、下賜品の内、×は倭國より魏への貢献に対する答礼品、○は女王卑弥呼に対してのプレゼントという性格の違いがあることを表現しています。訳語としては❷㋑の「さらに」が当てはまります。

 

併記されていても相互に性格の違いを意識する必要がない場合、次のように続けて記述されます。

「絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹」

  次の場合は國の連なり具合を意識して書いたのだと思います。

「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、・・・」

Ⓐ「女王國東渡海千餘里」の文節は女王國の東方から南方に存在する未知の國々の告知という括りです。

 「復有國」は、新たに示された國々が「皆」女王國と同じ「倭種」であることを意識して、「又」ではなく「復」を使っています。21、Ⓑ「又」は「侏儒國」という國が「倭種」ではないことを意識して「又」を使っています。

22Ⓒ「又有裸國・黑齒國」は「倭種」でなく、「侏儒國」とも同じ種ではないという、「又」の使い方だと思います。

 Ⓒ「復在其東南、船行一年可至」の「復」は「其東南」の「其」について説明しています。「船行一年可」の起点である「其」は、前にある「女王國東渡海」「去女王四千餘里」と同じで「女王國」だと言っています。

 

⑲、⑳の「又南渡一海千餘里」「又渡一海、千餘里至末盧國、」は、その前にある「度一海、千餘里」と結びつくことで、二回目、三回目の渡海という時間的前後関係を表現しています。

―筑摩―の訳文

 復習を終えて本題に戻ります。

この文節に「後」とか「始」とか、時の前後を示す語句は入っていません。私の主張が正しいとすると、この「又」は「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」との性格の違いを受けていなくてはなりません。

 

 ―筑摩―の訳文を見てみましょう。この文節の括りは、高句麗王、伯固の遼東郡侵犯にあります。「新安・居郷」が現在の何処にあたるかはわかりませんでしたが、両地が遼東郡の何処かである事が前提の文脈です。西安平は鴨緑江の河口、遼東半島の付け根、今の丹東市です。ここも遼東郡です。その範囲では「又」で区別するべき理由が見当たりません。

 しかし「攻西安平」の後に「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」とあります。遼東半島の付け根、今の丹東市を攻めるのに楽浪郡治(平壌) を劫掠して通過したことになります。

 新安・居郷を寇したときは高句麗の領域から直接の侵攻で、西安平の場合は楽浪郡を押し渡って西安平を攻めたことになります。この時は遼東郡だけではなく楽浪郡も犯したことになります。

 この訳文は素直に読みとった逐語訳だと思いますが、「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」に「又」で両者の区別をつけた結果になっています。

楽浪郡北遷説

 ところが原文を―筑摩―の訳文と同じように読めない人も多いようです。

 例えば、今まで再々引用させてもらっている「三国志修正計画」では次のように言っています。

 

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正)」

 

 楽浪郡治は平壌に有ったというのが定説です。―修正―の説によると、伯固が遼東郡を寇した時、楽浪郡治も帯方県の治所も遼東郡内部に北遷していた、というのです。これは―修正―だけが説いている説ではありません。

 

後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものとなり、中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移ったらしい。

 AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

(理解する世界史&世界を知りたい-http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/bc108a2.htm-)」

 ネット上で私が見つけた―又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子―を明記しての楽浪郡、北遷説は、この二つですが北遷説を採っていると思われる記事を他にもいくつも見受けました。

北遷説よりさらに過激な次のような説もあります。

 

帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。 定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である」

 

虚構の楽浪郡平壌

http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html

真実の満韓史を求めて―http://blog.livedoor.jp/goshila/archives/1051741285.html

古代史俯瞰 by tokyoblog-帯方郡 楽浪郡http://tokyox.matrix.jp/wordpress/帯方郡-太守/

各国の位置(古代史の復元)

http://www.geocities.jp/mb1527/N1-03-2kakukoku.html

 

 

北遷説の説の根拠

まず楽浪郡治、帯方県の治所が遼東郡内に北遷していたという説の根拠を把握しようとしました。

残念なことにこの説を主張する論者達が、その根拠や、どのような論理で北遷説を導き出したか、それを説明する記事は見当たりませんでした。

 

この事があって自分の中での回答さえ出せず、最後までこの「又」の検証を先送りにしてきたのです。

 

厳密に調べるためとはいえ先延ばしには限界があります、やむをえずこの北遷説が拠って立つであろう、根拠と論理を自分なりに想定してみることにしました。この説を説明する記事を他に見つけられないのですから、この記事自体から類推するしかありません。

 

―修正―の記事を見つめ直しました。

 まずこの文節から楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあったことを指摘しています。そして「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」を根拠に、「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言及しています。

 

なぜ楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあれば「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」となるのか。

 私は北遷説の出発点をここである、と仮定することにしました。

 

 f:id:s-tokuji:20171006154257p:plain

後漢期の東夷の勢力範囲(Wikipediaより 濊貊は三国志東夷伝の濊です)

 

上の地図は後漢のころの政治地図です。玄菟郡高句麗の西、遼東郡は南西にあります。高句麗の南東は東沃沮の領域が広がっています。東沃沮の南に濊貊(濊)がいます。東沃沮と濊貊の西に楽浪郡帯方郡があります。

高句麗から楽浪郡に入るには東沃沮を通過しなくてはなりません。文節は、遼東郡の西安平を攻める道すがら、「于道上」といっています。東沃沮については何も触れていません。

触れていない理由として次の三つが考えられます。東沃沮は高句麗軍の通過を容認した、多少の揉め事は有ったが書かれていない、高句麗の軍が東沃沮を通過しなかった。

北遷論者はまず、第一の可能性を否定します。他國の軍が自領域に侵入し通過するのを黙って見ている國はない、そう考えるのが普通でしょう。

第二と第三の可能性が残りますが北遷論者は三つ目の可能性を受け入れたのだと思います。

 

さて、遼東半島の付け根にある西安平の南側直近には鴨緑江が流れています。この大河は高句麗の領域、長白山(白頭山)のある長白山脈あたりに水源を発しています。地図上では赤い「高句麗」という三文字の、「麗」があるあたりでしょうか。

 

論者はこれに着目し「高句麗鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ。」と考えたのだと思います。しかし「高句麗鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ」のだとすると、平壌周辺に在った楽浪郡治も帯方県の治所もその侵攻経路からは大きくはずれています。「于道上(西安平を攻める途上で)殺帶方令、略得樂浪太守妻子」をどう理解するかという問題が残ります。論者は、楽浪郡治と帯方県楽浪郡治を遼東郡に北遷させることでこの問題を解決したのです。

 

これが私の想定した北遷説成立の大まかなシナリオです。勿論、論者によって小異はあるでしょう。しかし私にとってこれが推察でき、かつ違和感のないギリギリの範囲です。

( 論拠のない他人の説の論拠を探すのは結構大変なのですよ。)

楽浪・帯方両郡、半島不存在説

楽浪、帯方両郡を元々遼東郡にあったとする説は、どれも「後漢書」等の記事を論拠にしています。北遷説と違って、根拠は充分に提示されています。

 

しかし、私には論拠の解釈かかなり恣意的なに思えるし、前提となる史料批判も経ていません。

またこの説は現時点で相反する考古学的証明に触れていないか、考古学的検証そのものを問答無用で否定しています。

 

「中国史書が示す帯方郡の場所も(楽浪郡も)やはり遼東である」ということであれば、この文節中「復犯遼東」の「遼東」は遼東郡ではなく、遼東地方を指していることになります。この説と本稿との直接的関係はここにあります。

私の「又」理解は間違がっているか ?

北遷説は伯固の侵攻時に楽浪郡治と帯方県の治所は遼東郡内にあったといいます。

不存在説はもとから遼東地方に楽浪郡治と帯方郡があったと言います。

 

 どらちの説が正しくても、私の「又」についての解釈を当てはめると、この文節の記述は「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」でなくてはなりません。「犯遼東」という括りの中では、寇新安・居郷と攻西安平以下との間に区別すべき要素はありません。その場合「又」を使わないというのが私の主張だからです。

 

つまり、私の「又」についての解釈が間違っているのか、両説の主張が間違っているどちらかなのです。両立できない説なのです。

 

ということで北遷説は次回に検証してみることにします。不存在説の検証もそれが終わった後の回で触れたいと思います。

 

 

*1

 

*1:寒中お見舞い申し上げます。

 昨年の年末から正月にかけて、母が足をトラブって帰省していました。快癒の見通しがつき帰ってみると、妻と、同居している息子がインフルエンザで倒れていて、私に充分な看病ができるわけではないのですが、投稿に時間を割ける状態にありませんでした。

 

毎週の投稿を宣言していながら年末から寒中見舞いまで飛んでしまったことをお詫び申し上げます。

 

 

 

( 毎週の投稿って結構大変なんですね、月一回に変更しようかなあ・・。毎日投降の人って・・・すごい。) 

例文内の「又」の役割2 倭人条――記事№...20

古田武彦氏の説のウソ、・・№17」――2−1 景初3年が正しい理由―その16

 

倭人条」の「又」を検証しました。「又」が五個、三所所に出てきます。なかなか難しく一回休ませていただきましたが、やっと結論らしい形が付きました。ちょっと長くなりますが一気に片づけます。

目次

 

「又度壹海」

原文と訳文

⑲、⑳

「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。❶又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大一支國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。❷又渡一海、千餘里至末盧國、」

―筑摩-

帯方郡から倭にいくには、海岸にそって船で進み、韓國を経、南に進んだり東に進んだりして、倭の北の対岸である狗邪韓國にいたる。そこまでが七千餘里、そこではじめて(海岸を離れて)壹つの海を渡る。その距離は壹千餘里、対馬國につく。そこの長官は卑狗とよばれ、副官は卑奴母離と呼ばれる。四面を海にかこまれた島に住み、その広さは四百里ばかりである。土地は山が険しく、深い森林が多く、道はけものや鹿の通り道のようである。千余戸の家があり、、農地はやせていて、海産物を食べて生活し、船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れてくる。。さらに南に向かって瀚海と呼ばれ壹つの海を海千餘里船行すると、壹大(壹支)國につく。そこでも長官は卑狗、副官は卑奴母離と呼ばれている。ひろさは四方三百里ばかり、竹や木のやぶが多い。三千ばかりの家がある。田畑もなくはないが、農耕によっては食糧の自給ができず、そこの人々も南や北に海を渡って穀物を買い入れている。さらに壹つの海を渡り、壹千余里で末盧國に至る

―修正-

郡より倭に至るには、海岸を循って水行し、韓国を歴(へ)て、南しつ東しつ、その北岸の狗邪韓国に到り、七千余里にして始めて壹海を渡る。

 「到其北岸狗邪韓國」を、韓国が「東西以海為限」としながら「南與倭接」している事と併せ考えると、狗邪韓国が位置する“その北岸”は倭の北界となり、当時の倭が半島にも進出していた壹つの傍証になります。弁辰狗邪国=狗邪韓国とし、その後身を金官国、現在の金海市に比定する見解がありますが、そもそも『三國志』では狗邪韓国は倭の国邑だと認識しているので、弁辰狗邪国とは別物だと思われます。

千余里にして對馬国(対馬)に至る。その大官は卑狗、副は卑奴母離。居るのは絶島で、四方は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は禽鹿の径(こみち)の様である。千余戸があり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴(交易)する。

又た壹海を南渡すること千余里、名は瀚海といい、壹支国(壹岐)に至る。官は亦た卑狗、副は卑奴母離。四方は三百里ほどで竹木・叢林が多く、三千ばかりの家があり、やや田地があり、耕田しても猶お食には足りず、亦た南北に市糴する。 又た壹海を渡り、千余里にして末盧国(松浦)に至る。

 

 

コメント               

 

私は「又」単独では時間的前後の意味は持たないと主張しています。しここの文脈では「又」が時間的前後関係を示していると考えざるを得ませんでした。私の主張は覆ってしまいます。混乱しましたが原文をじっくり見直しました。そしてやっと一番最初に「始度一海」とあることに気が付きました。

 

記事№16で書いた例と同じケースなのです

景初中,〔㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」〕」

Ⓒの作戦がⒶ、Ⓑの作戦の後であることを表しているのは「又」ではなく「其後高句麗背叛」の「其後」でした。「其後」の「其」がⒶ、Ⓑ作戦を指しています。

 

壹番最初の「度一海」に「始」が付くことで、二つ目の「度一海」は「❶又南渡壹海――南へ向かって、再び海を渡る-」、三つめの「度一海」は「❷又渡一海―三度目に海を渡る-」と訳すのが正しいことになます。

 この段落に時間的前後関係を持たせたのは、二つ「又」ではなく「始」なのです。この理解に至るまでかなり苦戦しました。

 

 ここの「又」も、単独で時観的前後関係を示す表現にはなりません。

 

「又有」

原文と訳文

21、22 (ゴメンナサイ、○付の数字が出なくなりました)

 

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

-筑摩-

女王國から東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。さらに侏儒國がその南にあり、そこの者は身の丈が三、四尺、女王国から四千余里の距離にある。裸國・黑齒國がさらにその東南にあり、船で一年の航海をしてそこに行きつくことができる。いろいろな結果を総合してみると、倭の地は、大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。

-修正-

 女王国の東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。 又た侏儒国がその南にあり、人の身長は三・四尺、女王国を去ること四千余里である。又た裸国・黒歯国が復たその東南に在り、船行すること一年ほどで至る。倭地の問(情報)を参照するに、絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。

 

コメント

この段落も、訳文の解釈と私の解釈の食い違いにかなり悩みました。まずはここからです。

 

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」

-筑摩-

女王國から東に壹千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。

-修正-

女王国の東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。

と訳しています。

両者は女王國から東千余里のⒶに渡り、次にⒷがあり、Ⓑから遠く離れてⒸがある、と読んでいるようです。順読法とでも呼びましょうか。

 

両訳文を意訳だと主張されればそれはそれで有りか・・・とも思いました。

しかしこの文節をよく見ると、先頭「女王國」の前に「自(より・から)」がありません。女王國を起点に、何か行動を起こした場合、「自女王國」でなければなりません。逐語的に読み直すと「女王國から」という訳は間違っています。

私は「女王國の東は千餘里を渡る海である」もしく「女王國の東に千餘里を渡る海がある」となるのが訳として正しいと思います。そこに「復有國、皆倭種―別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。」のです。

 

私なら「女王國の東に千餘里の海がある。そこに復た國がある。その國々は皆倭種である。」と訳します。

 私の訳では、「この文節の主人公は東にある千餘里の海だ!!」ということになります。

 

 

「皆倭種の國々」と侏儒国

 「又有侏儒國在其南」

ここからはさらに困惑しました。

―筑摩-の訳文は「さらに侏儒國がその南にあり」そして「女王国から四千余里の距離にある」としています。―修正-は「侏儒国がその南にあり」で「女王国を去ること四千余里である」としています。

 

私は「儒國在其南」はいく通りかの解釈が出来ると思います。

 順読法で読んでいくと、読者はすでに「千餘里の海」を渡っているのですから「其」は、「皆倭種の國々」を指すことになります

 女王國から倭種の國々まで「千余里」です。残る倭種の國々から侏儒国まで約三千里です。下の地図ではマッチ針の壹区切りが千里-80㎞となっています。倭種の國々から縦、四本目のマッチ針より少し南の位置では南日向灘にあったことになります。

-筑摩-修正-の両訳者は侏儒国を南日向灘に放り込んだまま次の訳に移ります。

古田氏も侏儒国を宿毛市近辺に比定しています。訳者と同様順読法で解釈したと思われます。しかし古田氏には侏儒国を南日向灘から救い出す配慮があります。

 

三者の訳は成り立ちません。

 

       邪馬台(壹)国関連 地図1

f:id:s-tokuji:20171214175035p:plain

(ソフト「カシミール」付属の地図により作成しました。)

  黄色い線は長里での示した千里です。倭種の國々は邪馬台(壹)國から東へ、四国を横切り、紀伊海峡を越え、熊野あたりということになります。侏儒国の所在は南方、四千餘里です。この地図には収らないくらい遠方です 私には、少なくとも「倭人条」長里で理解できる人の頭の中が想像できません。

 

倭人条」の「周旋可五千餘里」を上の地図で壹辺千二百五十里(短里)の赤い正方形で示したつもりです。博多湾が中心です。「倭人条」の記事には「方千二百五十里」ではなくでは「周旋可五千餘里」ですから陸上面積はもっと広くなるでしょう。

 

 

この「四千餘里」を「裸國・黑齒國」までの距離として「去女王四千餘里。又有裸國・黑齒國Ⓓ復在其東南、船行壹年可至」、こういう区切り方もあり得ますが、いくら陳寿大陸国家の人と言え、四千餘里(320㎞)行くのに「船行一年」もかかるとは考えないでしょう。

 

次に陳寿が順読法に従って書いていないと解釈してみました。

「去女王四千餘里」。陳寿が方向の起点を「倭種の國々」に置いたまま、侏儒国への距離を測る起点を変えたと想定します。ダイレクトに女王國から侏儒国までの距離を示したことになります。

「皆倭種の國々」の南の方向に「去女王四千餘里」を測ってみますと侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になります。

 

もう一つの解釈は方向も距離も「女王國」が基点です。

この場合、侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になりました。

 

これでも成り立たないようです。どう考えればよいのか

そこでネットで侏儒国についていろいろ調べますと「れんだいこ」というホームぺージにヒントを見つけました。

 

れんだいこ

真実の歴史学「なかった」6号を読んでいて、二人の方が侏儒国について書かれていることに気付きました。

壹人は在四国の古田史学の会の事務局をされている合田洋壹さんの「侏儒国の痕跡を沖ノ島宿毛)に見た」という論考です。これは、古田武彦さんが「邪馬台国」はなかった、のなかで、侏儒国は豊後水道東側にあった、とされていることについての現地情報報告的なものです。

寅七(「れんだい」運営者の自称)が注目したのは、清水淹さんの「隋書、新・旧唐書東夷伝も短里」という論考です。そのなかで清水さんは、三国志で邪馬壹国の南4000里にあるとされる侏儒国を、種子島が距離的に合う、とされています。

清水さんは距離だけの合致以外の理由を述べておられません。南種子島弥生時代の広田遺跡は短身長集団の遺跡として有名ですが、古田先生の侏儒国=四国説に清水さんが遠慮されているのでなければ幸いですが。(寅七は随分前古田先生に、侏儒国=種子島説は成り立たないか、とお尋ねし、成り立ちません、と壹蹴されたことがありましたが。)

 

 さっそく「広田遺跡」を検索してみました。

 

種子島町ホームページ

広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地です。 弥生時代後期から古墳時代併行期の種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓などはつくらず、海岸の砂丘に墓地をつくったのです。 この遺跡の調査は、昭和32年から34年にかけて国分直壹・盛園尚孝氏らによって行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から157体の人骨が出土しました。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました。また、上顎の側切歯を1本だけ抜歯したり、後頭部を扁平(いわゆる絶壁頭)にしたりする特異な習俗をもつことがわかりました。 これらの人骨は、奄美沖縄諸島でとれる貝を素材とした貝輪や玉、幾何学文が彫刻された貝符や、竜佩形貝垂飾など総数44,242点にも及ぶ豊富で多彩な貝製の装身具を身につけていました。このような習俗・貝の装飾文化は、日本列島でこれまで他に例がありません。

 

 

 この遺跡を残した人々の活動していた時代は「弥生時代後期から古墳時代」ということで卑弥呼の時代を包含しています。種子島は上の地図で分かるように「倭人条」の示す距離とも壹致しています。「侏儒國」は種子島にあったと考えるべきでしょう。

 

すると、「種子島からおよそ五百里」という東西のずれが問題になります。さんざん悩みましたが、何とか一つの解法を思いつきました。

 

「計其道里、當在會稽・東冶之東。」

この一節は「倭人条」の「女王國東渡海千餘里」より少し前にある有名な一節です。會稽や東冶(治)がどこかについても論争の渦中ですが、會稽と東冶(治)を結ぶ線の東にあたると言っています。あたるのが倭地か、女王國か、邪馬台(壹)国かはさて置き、その位置を大雑把に示しています。ある地点と別の地点を示して、その間隔を移動させて別の地のおおよその位置を示しているのです。

 

 

この表現方法が侏儒國の位置にも使われているのだと思います。

「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。Ⓑ又有侏儒國在其南」

 「女王國」と「皆倭種の国々」それを結ぶ「千餘里」の海上の線、その南に「侏儒國」が有る、この様になります。

「其南」の「其」は「女王國」や「皆倭種」の國々を指しているのではなく、女王國から「皆倭種」の國々の間、「東渡海千餘里」のことをさしているのではないか、ということです。種子島はドンぴしゃり、その線の南方にあたります。

 

 會稽も東冶も中国の地名で、「倭人条」を読んでいる教養人に、それがどこかの説明は不要です。しかし倭の地理についてはそうはいきません。最小限の説明を加えています。それが日本人の我々にとっては理解の邪魔になったようです。

 

「侏儒國」は種子島の地に有った、これが私の出した結論です。

黒歯國・裸國

又有裸國・黑齒國復在其東南、船行壹年可至。」

 

 順読法に従った訳では、「黒歯國・裸國は侏儒國の次に有り、侏儒國から南東へ一年ほど航行して行きつく」と書かれていることになります。だがが私はこの理解は間違っていると思います。

Ⓓは「又」ではなく「復」です。単純に「侏儒國の南東」を指す場合には「又有侏儒國在其南」のように方位に「又」も「復」も不必要です。「復」にはそれなりの意味があるのです。

 

「復」の意味は次の通りです。

 

デジタル大辞泉の解説

ふく【復】[漢字項目]

 

[音]フク(漢) [訓]かえる かえす また

[学習漢字]5年

1 同じ道を引き返す。かえる。「復路/往復」

2 もとの状態にもどる。もどす。「復活・復帰・復旧・復元/回復・克復・修復・整復・本復・来復」

3 同じことを繰り返す。「復習・復唱/反復」

4 返事をする。「復啓・復命/拝復」

5 仕返しする。「復仇(ふっきゅう)・復讐(ふくしゅう)/報復」

[名のり]あきら・あつし・さかえ・しげる・なお・もち

[難読]復習(さら)う

 

 

「Ⓓ復在其東南」に2、の意味を訳語として採用します。もとに戻すものはなんでしょうか、「其」です。「其」は侏儒國を指しています。「侏儒國」をもとに戻すとはどういう意味でしょう。東南という方角の基点を「侏儒國」から「女王國」に戻すということだとおもいます。すると「船一年可至」の起点も「女王國」に戻ることになります。

 私の解釈で「東南、船行一年可至。」の基点も、起点も「女王國」に戻っています。

 

なぜ基、起点を女王國に戻したのでしょうか。指し示す「裸國・黑齒國」の位置が大凡しか掴めていなかったからだと思います。

 

別の例で考えてみましょう。

東京の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、サンフランシスコを指すことになります。

日本の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、アメリカ合衆国西海岸のほぼ全域を指すことになります。

「侏儒國」の東南、「船行一年」で示す「裸國・黑齒國」の位置は、「東京の東、船行九日」と同様かなり狭い範囲になります。そこまで的確に位置を示す情報はなかったのです。

 

 次に述べますが「倭地」は全域が把握されておらず、基、起点してと使えません。「女王國」を基、起点とすれば、「侏儒國」を基、起点とするよりかなり広い領域に「裸國・黑齒國」を想定することが出来ます。

「侏儒國」の位置も、「女王國の東にある千餘里の海」という大領域で指定している点では同じ手法だと思われます。

 

陳寿は「女王國」から「裸國・黑齒國」までの行程を説明しているのではありません。「女王國」の東、東南、南には、「まだまだ前書(史記漢書等)に記録されていなかった國々がありますよ」として、その代表的な國々と位置を列記しているのです。

この文節の二つの「又」も、” 話は変わって “ のように使われており時間的的前後関係はありません

 

「周旋可五千餘里」

 

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

-筑摩-

倭の地は、大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。

-修正-

倭地の問(情報)を参照するに、Ⓓ絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。

 

両者はこのように訳しています。

 

-筑摩-の訳は「周旋可五千餘里」を倭地の全周-ぐるっと巡ると五千餘里と理解しています。

地図1、で私が赤い正方形で示したような考え方です。

-修正-は「周旋」をそのまま使っています。こちらは「周旋」の意味を調べなければ、この文節の意味も分かりません。

ではまず「漢和辞典」で意味を調べてみましょう。

 

周旋」の検証

 

周旋- 大辞林

① 売買や雇用などの交渉で、仲に立って世話をすること。なかだち。斡旋あつせん。 「周旋業」 「適当な人物を周旋しますよ/破戒 藤村」

国際紛争の平和的処理方法の一。紛争当事国以外の第三者が当事国間の交渉を進めるために、通信の便宜を図ったり、場所を提供したりするなどの援助を行うこと。

③ 事をなすため立ちまわること。世話をすること。 「甲斐〱しく酒杯の間に周旋し/鬼啾々 夢柳」

④ あちこちめぐり歩くこと。周遊。 「ひろく所々を周旋して/洒落本・雑文穿袋」

⑤ ぐるぐるまわること。めぐりめぐること。 「みな本証の仏花を-する故に/正法眼蔵

 

次に中国語、「周旋」を日本語に訳す時の訳語も調べてみました。今手許に『諸橋大漢和辞典』がなく、ネットの翻訳サービスを使いました。エキサイト翻訳、so-net翻訳、Weblio翻訳、infoseekマルチ翻訳これだけに当たってみました。

「周旋」=「対応(する)」

調べた限りのサイトは共通してこのように訳していました。

 

検証してみましょう。「周旋屋」なにかに「対応」するために奔走する職業、「国際紛争」を平和的に解決するための対応、酒客の要望に対応する、前三つは意味と訳語が対応しています。「周旋」のもともとの意味は、「対応(する)」にあったのでしょう。

 -筑摩-の訳とは意味も訳語も違います。

 

④観光で「あちこちめぐり歩く」場合、見たい場所に「対応して」訪ね歩くことを「周遊」と言います。

 ⑤私は「ぐるぐるまわること」や「めぐりめぐること」と表現した場合、その動きはランダムで規則性は存在しないと思います

 

-筑摩—の「(倭地を) ぐるっとめぐる」という訳は大辞林で言えばあとの二つの意味と近いようにも思えますが、私は全く違うと思います。漢和辞典と-筑摩—の訳は一致していません。

 

-修正-は「周旋」をそのまま使っていますので、私のの検証結果に従って理解すればよいことになります。

 

もう一つの検証

 

―筑摩―の言う「(倭地を) ぐるっとめぐる」という理解が成り立たない理由を別の面から見てみましょう。

 

 Ⓐ、Ⓑ、Ⓒの記述から作表してみました。判りづらいと思いますが勘弁してください。

 

      北方の國々

     (山陰、北陸方面)    

            (東海千餘里) 東方倭種の國々(瀬戸内海方面)

使    女王國           

    狗奴國  投馬國(水行二十日)    

    

    侏儒國 (南へ四千余里)        -海-  

                                             ((南東船行壹年)黒歯國・裸國

    

    

 赤を女王國だと設定します。邪馬台(壹)國は女王國の北端近く、博多湾岸になります。この段落の範囲でこの設定を説明します。

 

前提として「里」について規定しておきます。短里の一里は約80m、長里で500mとしておきましょう。一千里は80㎞、一千余里を100~120㎞、四千里は320㎞。四千余里を350~400㎞と仮定します。私の話は基本的に短里の説にもとづいて進めます。

 

 この文節から女王国の位置を、近畿説で比定することは不可能です。女王国の東には少なくとも一千余里にわたる海が存在していなければなりません。山系に囲まれた盆地、ヤマト(奈良県)から「東渡海千餘里-東に千余里を渡る海がある」と表現すること自体があり得ることではありません。

 古田武彦氏が比定する博多湾岸であれば女王國を船出して「東渡海-東に海を渡る」、関門海峡を抜け周防灘から防予諸島の間を縫って愛媛県の松山あたりにぶつかります。

私が知る限りでは東に千余里の海がある女王國比定地は、博多湾岸しか思い当たりません。

 

表の説明に

戻りたいと思います。紫は倭種の國々です。千余里というのですから「皆倭種」の国々は山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町の大島という範囲になります。

「皆倭種」とありますが「属女王国」とは書いていませんから、この国々は女王國勢力圏外の倭人圏なのでしょう。

博多湾の東方、山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町あたりから、女王國に属さない国々があったことになります。ここは瀬戸内海へ向かっての喉首にあたります。四国、中国へと広がる瀬戸内海沿岸は女王國に属していなかったことになります。

「皆倭種」の國々を女王國に対比するのに「又」を使わず「復」と言っています。女王國と同じく小國家の連合王国なのでしょう。

 

この女王國に復さない倭種の國々の範囲は示されていません。女王國の人々にも判らないのでしょう。

 

同じ倭地でも「自女王國以北」は状態が違います。女王國より北の國々は次のように書かれています。

  「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳―女王國より北の倭人諸國はその戸数や距離について書くことを省略させてもらう。倭種以外で北にある諸國は遠く離れていて情報がない。」

これら女王國より北にある諸國とは、瀬戸内海側を含まず、中国地方北陸地方日本海側にあった國々ということになります。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之――伊都國に大きな軍事基地(もしくは政庁)があって諸國を檢察しているので女王國より北の國々は(壹大率を)非常に恐れている」とあります。「自女王國以北」の倭種の國々は女王國に服属していたことになります。

ちょっと矛盾している気もしますが、とりあえず倭地の北端については不明、ということになります。

 女王國の都、邪馬台(壹) 国について述べた後、南に下って女王國を構成する倭諸國の紹介として、二十一か國を列記します。その後次のように述べます。

 

「・・・次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」

この「奴國」が伊都國の東南百里、不彌國の西百里にあった「奴國」と同名異國なのか、同じ國なのかは問題になるところですが、ここでは放置します。

奴國までが女王の勢力圏で、その南にある狗奴國は女王に属さず対峙しています。

 

狗奴國の南端について、何も書かれてはいません。ということは倭地についても南端が不明ということになります。

 

このように倭地は東端、北端、南端、三方が不明の状態で紹介されています。したがって「(倭地を) ぐるっとめぐると五千余里」という理解が成り立たたないのです。

 

「裸國・黒歯国」の起、基点に設定できないと先に言ったのは、この事に理由があります。

 

「參問倭地」

 

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

ではこの文節をどう理解すればよいのでしょうか。

 

       邪馬台(壹)国関連 地図2

 

f:id:s-tokuji:20171208183323p:plain

頭から解きほぐしていきましょう。まず「參問倭地」です。

 

「参」の意味を大辞林は次のように説明しています。

Ⓐ【参する】

仲間に加わる。かかわる。 「君は…機密に-・しておると想像して/社会百面相 魯庵

Ⓑ【参する】

〔動詞「まゐらす(参)」の転。中世後期に連用形「まゐし」が用いられるようになり、

① 人に物を与えるの意の謙譲語。差し上げる。 「君に-・せう京絵書いたる扇を/田植草紙」 「その代にめめを五十石-・する程に/狂言・比丘貞」

② (補助動詞) 動詞・助動詞の連用形に付いて、動作の及ぶ対象への敬意を表す。…し申し上げる。 「魏其こそよからうずらうなんどと、大后に云わせ-・したぞ/史記抄 14」

 

史記抄』とは室町中期の、「史記」の注釈書。当時の口語で注釈したもの、だそうです

 

ここではⒷ、は日本語の【参する】についての解説です。訳語して使えません。Ⓐの意味に取ると “ 倭地が問いに加わる(かかわる) “となります。では何の問いなのでしょうか。

 

この段落はすでに三つのことに答えています。

女王國~「皆倭種」の國  去女王四千餘里

女王國~侏儒國      去女王四千餘里

女王國~裸國・黑齒國   船行壹年

三つとも女王國からの距離です。

 

であればこの問いも女王國からの距離についての問い、です。どこかの地点から女王國までの距離が、もう一つの問いとして加わることになります。

 

原文を次のように区切り直すことが出来まると思います。

「參問、倭地 ( 絶在海中洲島之上、或絶或連 )」

“ 倭地における「絶在海中洲島之上、或絶或連」、この間の距離はどの位なのでしょう。” 私はこのように言っていると思います。「この間」の一方の端は当然「女王國」です。

 

「倭地・・・・周旋可五千餘里-倭地の・・・・・は五千餘里ほどあります」答えは五千餘里でした。

もうわかっている人もいると思いますが、この五千餘里という数字は別のところに出てきています。

「自(帯方)郡至女王國萬二千餘里。」とあります。「到其(倭地)北岸狗邪韓國、(帯方郡より)七千餘里」ともあります。すると狗邪韓國から女王國までの残る距離は五千餘里なのです。

 

「狗邪韓國」については「倭人条」で「其北岸」と紹介しています。「其」が指している可能性があるのは韓諸国と倭です。韓の一部であるなら、この國は南岸です。南方、北九州に狗邪韓國の本体、倭があるから「其北岸」と言えるのです。「狗邪韓國」は明らかに倭地です。

「韓条」にも「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、-韓は帶方郡の南にあり、東と西は海で限られ、南は倭と接している」とあります。倭との間に海があるという認識はありません。倭は半島の南部にいるとしています。

 

私流に全訳してみます。

“「絶在海中洲島之上」に「或絶或連」っている女王國までの経路の距離を「參問―問いに加える」ならば、「周旋―経路に沿って」五千餘里ばかりある。“

もうひとひねり判りやすくします。

“ 倭地に入った後、狗邪韓國から対馬壱岐を通って女王國までの距離は五千餘里ばかりである。“

 

「周旋」は「女王國への経路に対応して」、つまり経路に沿って、五千餘里と訳すべくなのです。

 

この文節は「又」と無関係でしたが、ついつい気分が乗ってしまって、申し訳ありません。

 

「又特賜汝」

原文と訳文

23、「今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米・牛利還到録受。」

―筑摩―

 「いま汝を親魏倭王となし、、金印紫綬を仮授するが、その金印は封印して帶方郡太守に託し、代わって汝に仮授させる。汝の種族の者を鎮め安んじ孝順に努めるように。汝の送ってよこした難升米と牛利とは、遠く旅をし途中苦労を重ねた。いま難升米を率善中郎將となして、牛利を率善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ下賜品を与えたあと、帰途につかせる。いま絳地交龍の錦五匹、絳地縐粟の罽(けおりもの)十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹をもって汝の件への成仏の献上物への代償とする。加えてとくに汝に紺地句文の錦三匹、細班華の罽五張、白絹五十匹、金八兩・五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠と鉛丹おのおの五十斤ずつを下賜し、皆箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、帰った後目録と共に汝に授ける。

―修正―

今、汝を親魏倭王とし、金印・紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して汝に仮し授ける。種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使の難升米・牛利は遠きを渉り、道路(道中)を勤労した。今、難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を仮し、引見して慰労・下賜して遣還する。今、絳地交龍錦五匹[12]・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝の貢献した値として答礼する。又た特に汝に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠と鉛丹各々五十斤を賜い、皆な装封して難升米・牛利に付し、還到のうえ目録を受(さず)ける。

 

コメント

「又」は「又特賜汝」と出ています。

この段落は明帝が卑弥呼宛に出した詔書の抜粋です。下賜品についての説明が大部分で、献上物への返礼と、それとは別に「特に」卑弥呼個人へ下賜品を賜うことが書かれています。

 両者が「又」で書き分けられていますが、同じ詔書に書き、一括して難升米と牛利に託した下賜品について、どちらを先に授けたという、時間的前後関係を問題にした表現をすることはあり得ません。

 下賜品の持つ違った性格を、「又」と区別しているのです。

引用は長いのですが結論は簡単でした。

 

 

倭人条」の「又」

 

以上見て来ましたが「倭人条」の「又」にも時間の前後を示す意味はありませんでした

ある話から別の性格を持つ話へ切り替わることを示すための「又」でした。

 

今回は「倭人条」の「又」についてでした。「倭人条」はいろいろご存じの方も多いと思い、重装備にしました。煩かったかもしれませんが、ご容赦ください。

 

次回は高句麗が遼東を侵犯した話に戻りたいと思います。