「遣使景初二年」の証明 4 --- 帯方郡はなかった1    ―記事№...31

古田氏の説のウソ、・・№28――2−1 景初3年が正しい理由―その27

湖南の景初三年説—帯方郡はなかった

出だしは前回と一緒です。すみません、

 

三国志倭人条に次のようにあります。

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。(倭人条)

「景初二年六月、倭女王が大夫の難升米等を帯方郡に遣わし、天子に詣でて朝献させてほしいと言って来た。帯方郡太守の劉夏は倭使を洛陽に送り届けた。」ですね。

 

この記事について湖南は『卑弥呼考』で自説を展開しています。

倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより・・・(卑弥呼考)」

難升米が、倭の使いとして初めて景初三年に魏におもむいたと言っています。

景初二年という『三国志』の記事は「誤なり」、と断言しています。その理由は、「説下に見ゆ」=後で説明する、でしょうか。

卑弥呼考』の最後近くに、「後で(の)説明」らしき文章を見つけました。

「湖南:「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」『卑弥呼考』

湖南は、「韓諸国が魏と交流できるようになったのは、司馬懿が遼東郡の公孫淵を滅ぼし、半島北部に魏の地方行政府である帯方郡が置かれ、太守が赴任し、それ以後のこと。」と言います。

公孫淵が誅殺されたのは景初二年八月末です。六月には「太守を置くに至らざりし」と湖南は言います。

 

   この一文で湖南が何を言いたかったのか、二通りの解釈が出来る、と私は思っています。

一つ目は前回述べさせてもらいました、「帯方郡後漢の建安年中に淵の父公孫康が建てた。景初二年の六月には魏の任命した太守は未だ赴任していなかった。」です。取り急ぎB氏の説を紹介したかったし、この解釈が定説になっている、と思っていますので先に紹介させてもらいました。

 湖南: 帶方の郡名は漢時になきを以て。(卑弥呼考)

 もう一つの解釈は「後漢時代には帯方郡は存在しなかった。魏が派遣した太守の赴任をもって帯方郡は始まった。」です。

なぜ湖南がそう考えたと言えるか。湖南は『卑弥呼考』で上記引用文に先立って、次のように書いています。『後漢書』の有名なくだりへの解説です。

「倭在二韓東南大海中一。依二山島一爲レ居。凡百餘國。自三武帝滅二朝鮮一。使譯通二於漢一者。三十許國。」(東夷列伝 倭条)

三國志』が取れる魏略の文(注11)は、前漢書地理志の(注2)「樂浪海中有二倭人一。分爲二百餘國一。以二歳時一來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と舊字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへる今は魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる處なれども、左の條の如きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。

 

注  湖南が引用しているのは『後漢書』東夷列伝 倭条の記事です。

注1       湖南は陳寿の『三国志』の原本は魚豢(ぎょかん)の『魏略』だと主張しています。具体的には『三国志倭人条の下記の文です。

倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國(『三国志倭人条)」

注2「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見雲。(『漢書』地理志)」

 魏略の「倭人在・・・」は『漢書』にある「樂浪海中・・・」の本歌取りだと言っています。 『魏略』の「舊百餘國」は『漢書』の「分爲百餘國」のことだと言います。魏略で「今使譯所通三十國」というのは「魏の時代に行き来しているのは三十國」という意味です。湖南に言わせると、「であるのに范曄が『後漢書』で、”漢に通ずる者三十餘國”とで書いているのは、遺漏だ」

と言っています。ただし、魏略(『三国志』)に「倭人在帶方東南大海之中・・・」とあるのを《帶方の郡名は漢時になきを以て》「倭在二韓東南大海中・・・」と直しているのは注意が行き届いている、と称賛しています。

三国志』の「倭人在帶方東南大海之中・・・」も魏略が原典だと言っています。

 

また、次のようにも言っています

「樂浪郡徼去二其國一萬二千里。」

 魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも(注11、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡の徼より起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く

注 『後漢書』東夷列伝」からの引用

注1「倭人在帶方東南大海之中・・・・・・自(帯方)郡至女王國萬二千餘里。(『三国志倭人条)

魏略(『三国志』)では女王國から帯方郡への道程を萬二千餘里としています。范曄は『後漢書』で漢朝時代に存在しない郡を対象に起算するわけにはいかず、漢時代にも存在した楽浪郡の群境までを起算の対象としていると湖南は説明しています。

 

両引用文とも、後漢時代に帯方郡がないことを前提にしています。

後漢書』國郡志に帯方郡がないー

しかし湖南の記述には帯方郡が「漢時未だ有らざる郡」であるという論拠がない、そう思って『後漢書』郡國志をチェックしました。

 

帯方郡がありませんでした。

 

 帯方は郡國志中、楽浪郡十八城(県)の一つとして八番目に記されています。

十八城,戶六萬一千四百九十二,口二十五萬七千五十。

朝鮮,烫邯,浿水,含資,占蟬,遂城,增地、帶方、駟望、海冥、列口、長岑、屯有、昭明、鏤方、提奚、渾彌、樂都

 間違いなく『後漢書』郡國志に帯方郡の記載は、ありません。

後漢書』郡國志にないのですから、帯方郡は建安二十五(220)年まではなかったということになります。

 

 蛇足ですが帯方県は『漢書』地理志にも出ています。こちらも八つ目にあります。

樂浪郡,武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州。戶六萬二千八百一十二,口四十萬六千七百四十八。有雲鄣。縣二十五:

朝鮮,□邯,浿水(水西至增地入海。莽曰樂鮮亭。)含資(帶水西至帶方入海。)黏蟬,遂成,增地(莽曰增土。)帶方,駟望,海冥(莽曰海桓,)列口,長岑,屯有,昭明(高部都尉治。)鏤方,提奚,渾彌,吞列,分黎山(列水所出。西至黏蟬入海,行八百二十里)東暆,不而(東部都尉治。)蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。

注:(  )内は後の時代につけられた注釈だそうです。

楽浪郡前漢武帝元封三(前108)年に開かれたとあります。帯方県もそのころからあったとすれば、ずいぶんと由緒正しい県なのですね。

 

韓条に次のようにあります。

「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子為其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。」

----公孫淵は仍(な)お父祖三世で遼東を領有し、天子は絶域として委ねるに海外の事を以てし、かくて東夷とは隔断し、(彼らは)諸夏に通交できなくなった。

 

魏が太守を送れるようになった景初二年九月以降に帯方郡が建郡されたと考えざるを得なくなりますね。

またもや蛇足

湖南: 「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵司馬懿に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」

湖南やA氏の「倭国の使者が(存在しない)帯方郡へ(天子への)朝貢を願い出ることはあり得ない」という主張も絶対的な正当性を持ってくるように見えます。

では湖南の「景初三年説」は正しいのでしょうか。

景初三年に特定できる根拠は何 ?

仮に湖南の主張通り「二年とあるは誤」だとします

私たちは、景初二年遣使を否定した白石が初遣使年度を「正始四年ではないか」と言っているのを見ています。湖南以前に遣使年度について異説の大学者がいたのです。これは景初二年という箍を外しただけでは、遣使は景初三年以降のどの年度にでも設定できることを意味します。「遣使は景初三年」、と特定するには、景初二年遣使を否定したのとは別の根拠が必要になります。湖南は何の根拠も書いていません。

いくら何でも、大学識者、湖南が白石の主張を知らないはずはないと思うのですが。

帯方郡が存在しなくても遣使は「景初二年」

仮に、後漢末に帯方郡が存在しなくても「景初二年」卑弥呼の遣使はあり得るのです。

湖南の抜粋文の主旨

 湖南のこの一文は『三国志』と『後漢書』不付き合いを補正するために書いたものです。

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。」

 

「其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利・・・・- -」

 二つの文が合わさって景初二年六月、倭の使いが帯方郡に詣でたことを伝えています。ところが景初二年六月には帯方郡が存在しません。そこで湖南は「二年とあるは誤なり」として、に翌年、帯方郡の存在する景初三年六月に遣使をずらしたのです。「二年」を「三年」に、原文に訂正を加えたわけです。

帯方郡後漢では楽浪郡所属の県

 ところで「淵が司馬懿に滅ぼされ」帯方郡が建てられました。魏になって帯方郡はどこから出てきたのでしょう。後漢時代、楽浪郡にあった幾つかの県を分割して『帯方郡』を建てたのです。

後漢書』郡國志

楽浪郡18県    朝鮮烫邯浿水含資占蟬遂城,增地、帶方駟望海冥列口長岑屯有、昭明、鏤方提奚渾彌、樂都

 『後漢書』郡國志からの楽浪郡の構成を引用しました。『三国志』は屯有県より南が帯方郡になったといっています

『晋書』 地理志

楽浪郡 6 県  朝鮮  遂城    駟望     屯有   鏤方     渾彌

帯方郡 7 県       含資     帶方    海冥     列口  長岑   提奚  南新

三国志』には地理志に相当する部分がありません。次代の王朝を語る『晋書』の地理志から楽浪郡帯方郡を引用しました

魏の帯方郡後漢では楽浪郡所属の六県+一県だったわけです。

楽浪郡帯方郡と書き間違えたのです

 確かに後漢末、帯方郡が存在せず、湖南のように補正すれば倭人条の遣使記事は嘘になります。では『三国志』と『後漢書』の食い違いを補正するのに、湖南がやっているように、二年を三年に原文訂正することしかないのでしょうか。

 

違います、原文を訂正して良いのなら別の手法もあります。

先ず、倭使が帯方郡治に詣でたとあるのは、実は楽浪郡治の誤記だった、というパターンがあります。帯方県にやってきた倭使を楽浪郡太守が洛陽に送致したのを陳寿が取り違えたとかのケースもあり得ます。

 

湖南は公孫淵の生存、帯方郡の不存在を論拠に「二年とあるは誤なり」とする結論づけています。私はその設定を一切変えず、結論だけを「帯方郡治に詣でたとあるのは、実は楽浪郡治の誤記だった」と置き換えたのです。

どうですか、「其年十二月」に続く、「帶方太守劉夏」を「楽浪太守劉夏」と書き換えれば、景初二年に遣使があったことに何の問題もありません。

これは私が今、思いついただけの着想で、深くは考えはていません。よく考えれば景初二年で何の問題も起こらない補正の手法はもっとあるのではないでしょうか。

 

湖南は「景初”二”年」が「誤なり」、「景初”三”年」が正しいとし。一文字訂正が必要だ、と言っています。

私は「帯方」郡が「誤なり」、「楽浪」郡が正しいとし、二文字訂正が必要と言います

 

原文訂正をする箇所と文字数こそ違いますが、湖南も私も原文に手を加えていることは一緒です。そして根拠を示していないところも共通しています。

それでも人は湖南の訂正は是で、私の訂正は非であるとするでしょう。わたしはこれを「権威による魔術」だと思います。これだけでは「アカハラ」にならないのかな—-。

 

論文「卑弥呼考」は明治四十三(1911)年の執筆だそうですから、論拠を欠いた学説の魔力が百年以上も権威を維持できるというのは、流石は湖南、大学者です。

違うか、湖南の非を攻めあぐねる方がふがいないのか、どちらでしょうね。

後漢書郡國志に困ったこと

本論に戻ります。「帯方郡の不存在」です。

 

三国志』には、次のようにあります。

「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、

----、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした。」

 『晋書』にありもます。

「帶方郡公孫度置。統縣七,戶四千九百

----帯方郡公孫度が置いたとあります。」

公孫淵の祖父、度は建安九年に没したそうです。

両正史にある記事を消し去ろうというのです。いくら偉い学者さんの指摘でも、にわかには信じられません。

 

それに地名探しでは『後漢書』でかなり苦労した経験があるのです。

「新都郡」のこと

三国志』の新都郡を『晋書』『宋書』で調べたこと

三国志』で呉の将軍、賀済の事績を追ったことがあります。

(建安)十三年春,權復征黃祖・・・・・・・・・是歲,使賀齊討黟縣、歙。分歙為始新、新定、犁陽、休陽縣以六縣為新都郡。(『三国志孫権伝)

---- 建安十三年春孫権は再び黃祖に兵を出した・・・・この年、孫権は賀齊を使って歙県と黟県を討った。歙県は始新、新定、犁陽、休陽を割けて五県とした。この五県と黟県の六県で新たに新都郡を建郡した。」

 その時、私は「新都郡」の位置がわからなかったのです。先ず『晋書』地理志を参照しました。

 

地理志には新都郡が二つでてきました。

 郡県一覧に次のようにあります

 

梁州 

「新都郡泰始二(266)年置。 統縣四 雒 什方 綿竹 新都

太康六(285)年九月,罷新都郡並廣漢郡。(『晋書』地理志)」

これは建郡年度が違いますし、梁州は孫権の勢力圏ではありません。また四つの統県の中に先の六県がありません。

 

 揚州

「獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,分丹楊立新都郡。(『晋書』地理志)」

----後漢献帝の興平中,孫策は豫章郡を分けて廬陵郡を立てた。孫權も又、豫章郡を分けて鄱陽郡を立て,丹楊郡を分けて新都郡を立てた。

 興平年中に孫策によって廬陵郡が建郡されました。興平は献帝になって二番目、建安の直前の元号で194年 - 195年のことです。

「(建安)十五年、分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡、以魯肅為太守、屯陸口。(『三国志孫権傳)」鄱陽郡は建安十五年です。

新都郡は建安十三年の建郡でしたね。

 そして揚州概説に

「改新都曰新安郡---新都郡を改めて新安郡と曰う」

とありました。

 

 郡県一覧にも次のようにあります

新安郡吳置。 統縣六,始新 遂安 黝 歙 海甯 黎陽(『晋書』地理志)

こちらは始新、縣、歙の三県名が一致しています。

 『晋書』が新都郡改め新安郡は漢の丹楊郡に属していたといっています。

 

別の書で調べたのですから、裏を取る気持ちで『宋書』も調べました。

 

  [宋書]州郡志  

揚州 

新安太守,漢獻帝建安十三年,孫權分丹陽立曰新都

始新令,孫權分歙立。

  遂安令,孫權分歙為新定縣,晉武帝太康元年更名。

  歙令,漢舊縣。

  海甯令,孫權分歙為休陽縣,晉武帝太康元年更名。分歙置諸縣之始,又分置黎陽,大明八年,省並海寧。

  黟令,漢舊縣。

 

 

『晋書』と同じ内容になっています。新都郡改め新安郡は漢の丹楊郡に属していたといっています。

 三正史の記述が一致したこと

このあたりで私もやっと気づきました。賀齊の事績を追っているのだから、『三国志』に賀齊傳があれば何か載っているはず、ということに。

呉書に「賀齊傳」がありました。当然か・・・。

三国志』賀齊傳

「建安十三年、遷威武中郎將、討丹陽黟・歙。時武彊・葉郷・東陽・豐浦四郷先降、齊表言以葉郷為始新縣。

----建安十三年、賀齊は遷威武中郎將となり、丹陽郡の黟・歙を討った。そのとき武彊・葉郷・東陽・豐浦の四郷は先に降った。賀齊は表を提出して「葉郷を始新縣と為す」と言った。」

 

 初めからこれに気づけばよかった、ですよね。

 結論として新都郡改め新安郡の母体は丹陽郡であることに決定です。新安郡は現在の安徽省黄山市一帯になります。

廬陵郡」と「鄱陽郡

 勿論『後漢書』郡國志もしらべました。しかし項目としての新都郡は見つかりませんでした。” 変だな ”と疑問に思った私はほかの地名(郡名)も調べてみることにしました。

 

 先ほど見た『晋書』揚州に孫策が立てた廬陵郡と、孫權が立てた鄱陽郡がありました。ひとまずこの二つにあたるにしました。

「獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,」です。

  

先ず「廬陵郡」です。

 

三国志』では孫策傳にあります。

「分豫章為廬陵郡、以賁弟輔為廬陵太守、」

 孫策袁術の後援を受けて揚州刺史、劉繇を破りました。早速、揚州を孫家の根拠地とする人事配置をした。孫賁の弟、孫輔を廬陵太守に据えたのはその一環です。この年が興平元(194)年です。

 修正計画の管理人は建安元(196)年としていますが、どちらも後漢朝の時代です。

宋書』では州郡志にあります。

「廬陵太守,廬陵本縣名,屬豫章,漢獻帝興平元年,孫策分豫章立。」

 

次に「鄱陽郡」です。

三国志孫権傳にあります

「(建安)十五年,分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡。以魯肅為太守」

宋書』では州郡志に出ています。

「鄱陽太守,漢獻帝建安十五年,孫權分豫章立,治鄱陽縣」

三国志』、『晋書』、『宋書』三史とも「鄱陽郡」、「廬陵郡」は後漢末期に建郡されたと記しています。

しかし『後漢書』郡國志には両郡の名前はありませんでした。

しかし今回はそうはいきません。

他にも有りそうだったのですが、その時はそこまででそれ以上立ち入りませんでした。賀済の事績のある新都郡(歙、黝)がどこであるか分かれば充分だったからです。

 

 しかし今回はそうはいきません。帯方郡と新都郡は同時期、建安年間の建郡です。『三国志』『晋書』や『宋書』で共通している記事内容が『後漢書』にないということを看過すれば、湖南の主張「漢の時には帯方郡がなかった」を力づけてしまいます。景初二年説が瓦解してしまいます。そこで古田氏の箴言「原文をみだりに改訂しない」を忠実に守りながら、『後漢書』郡國志について私のできる範囲で、解析をしてみます。

 

 

ここまでで六千字を大幅に越えています。年寄りには体力と気力が続きません。今回はいったん区切りをつけて、続きは次回ということでお願いします。

 

 

「遣使景初二年」の証明 3 --- B氏の湖南批判と「景初二年論」―記事№...30

古田氏の説のウソ、・・№27」――2−1 景初3年が正しい理由―その26

 

湖南の景初三年説

三国志倭人条に次のようにあります。

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。(倭人条)

「景初二年六月、倭女王が大夫の難升米等を帯方郡に遣わし、天子に詣でて朝献させてほしいと言って来た。帯方郡太守の劉夏は倭使を洛陽に送り届けた。」ですね。

 

この記事について湖南は『卑弥呼考』で自説を展開しています。

倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより・・・(卑弥呼考)」

難升米が、倭の使いとして初めて景初三年に魏におもむいたと言っています。景初二年という『三国志』の記事は「誤なり」、と断言しています。その理由は、「説下に見ゆ」=後で説明する、でしょうか。

卑弥呼考』の最後近くに、「後で(の)説明」らしき文章を見つけました。

「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」『卑弥呼考』

湖南は、「韓諸国が魏と交流できるようになったのは、司馬懿が遼東郡の公孫淵を滅ぼした、それ以後のことだ」と言います。

「而後海表謐然、東夷屈服。(東夷伝序文)」これが根拠でしょう。

 

見てきた通り湖南も白石と同じで、朝鮮半島で戦乱が続いていることを理由に景初三年説を唱えているのではありません。

 

公孫淵が誅殺されたのは景初二年八月壬午(二十三日)です。景初二年六月は淵の誅殺以前だから、魏が帯方郡に太守を置ける段階ではない。「魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」と言っています。であるのに倭人条は、倭が帯方郡に使いを派遣し”存在しない”太守に天子への朝献を願った、また、願い出た使者を ”存在しない” 帯方郡太守が洛陽に送致したという。それでは話の筋が通らない。そこで湖南はこの記事を誤りであるか、偽りであると断定したのです。

東夷伝中の記述に齟齬がある。筋が通るように理解するには景初三年の遣使と考えるしかない。」と言っているのです

 

古田武彦氏が、ある種の学者さんを「自分に理解できないことにぶつかると、原文が間違っていると言い始める困った人たち」と皮肉っていましたが、湖南もその一人なのでしょう。

 

A氏も「あり得ないこと」と同調しています。

「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」

 

「二年説」対「三年説」の構図

これから湖南の三年説解析に入りますがその前に二年説・対・三年説の構図について私の理解を一言。

*1

普通認識されている二・三年論叢の構図です。この関係は、論争もしくは裁判ですと二年説に立証責任があるとされます。立証できなければ「三年説」が正しいとみなされます。

しか二・三年論争の事実関係は違います。

倭人条の記述「景初二年」(土地の権利書等) ⇐ 異議(権利書無効)の申し立て=「三年説」                                         

                            ↑↑↑

                  倭人条(権利書)の記述の擁護 「二年説」

 

倭人条にある「景初二年」とある記事を「ありえない」と否定しているのが「三年説」なのです。

この構図を土地権利関の係裁判に例えてみます。「景初二年」倭人条の記述が土地の権利書もしく土地登記簿になります。「三年」論者は過去に登記された権利関係の無効を主張して提訴しているのです。

 

その異議申し立てについて、あれこれ批判しているのが、「景初二年論」になります。

「二年」論者の登記関係擁護の主張が成り立っていなかったとします。では自動的に「三年」論者の権利書無効の申し立てが受け入れられるでしょうか。それはあり得ません。

異議申し立ては徹底的に審理されます。その結果、異議申し立ても証拠不足で却下されたとします。すると土地の所有権に変動は起きません。登記上の権利関係が正しいとされるのです。以後権利についての法律関係はすべて登記にもとづいて処理されます。

 

仮に景初二年説が誤っていても、景初三年説も誤っていたとすれば、遣使は「景初二年」なのです。というか景初二年説なぞなくとも、景初三年説が成り立っていなければ自動的に「倭人条の記述にもとづいて卑弥呼の初回遣使は景初二年」なのです。

一般に流布されているのは「景初二年」説には十分な証拠がない。だから「景初三年」が正しい、です。ですがこれは論理が逆転しています。

本来、「三年説」に倭の遣使が「景初二年」ではありえないという完璧な挙証責任があるのです。瑕疵は許されません。

 

では六月、帯方郡太守はいなかった。だから、卑弥呼の初回遣使は景初二年ではなく翌年の三年であるという湖南の、「景初三年説」論理は完璧なのでしょうか。これを見ていきましょう。

「建安中(196 - 220年)、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡」

本論に入ります。韓条に帯方郡の沿革を述べた記事があります。

建安中公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。(『三国志東夷伝韓条)

※建安中 建安元(196)~建安二十五 (220)年

—  建安年中(196~220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐ち、旧民は次第に(その地から)出国し、この後は倭・韓は帯方に属すようになった。(訳: 修正計画)」

 

献帝曹丕皇位禅譲したのは建安二十五年(220年)十月、後漢はこの時滅亡。

この記事によると、帯方郡は景初元年を基準にすると、建郡されて最長で四十一年、最短で十七年過ぎているのですね。

『晋書』にも同様な記事があります。

 

「帶方郡公孫度置。統縣七,戶四千九百(『晋書』地理志)」

公孫康の父、公孫淵の祖父

 

倭使が訪れた時、帯方郡太守は公孫淵の閥

韓条は帯方郡後漢の建安年中に淵の父、公孫康によって、置かれたとしています。郡が置かれれば同時に太守も任命されます。魏が公孫淵の討伐を行った景初二(238)年には帯方郡もあり帯方郡太守もいたことになります。しかし後漢末の混乱の中での建郡ですし、公孫氏が手作りした郡ですから、天下が魏朝に移っても、郡の人事は公孫氏の意向が強く働いていたでしょう。

「倭韓遂屬帶方」

引用文末尾に「倭と韓は帯方に属す」とありますね。

「属す」とは支配を受けている、と考えればよいでしょう。帯方郡に支配されている韓や倭には、帯方郡治に詣でる義務があります。倭と帯方郡の間には定期的、かつ断続的な行き来があって当然です。帯方郡治に滞在することもあったでしょう。

湖南は「難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより」していますが、遅くとも十七年前から支配されている倭が、その間一度も支配者である帯方郡太守に使者を出していない、それこそ「あり得ないこと」であると私は思います。

 

A氏は倭や韓が帯方郡に「属す」ことになった際、使者の行き来や国書のやり取りが全くなかったということを信じているのでしょうか。また帯方郡は、後漢もしくは魏の地方行政機関として帯方郡を名乗っているのです。その膝下にある属国が、後漢もしくは魏の天子に直接挨拶したいと申し出たことが、「あり得ないこと」とであるとは、どうしても考えられません。

B氏の主張

B氏はこれらの点を指摘して湖南の主張に反論しています。そしてさらに斬新な視点で「景初二年説」展開しました。

公孫淵への朝献を求めた倭の使者、一転して洛陽へ

公孫淵討伐の司馬懿軍が遼東郡に姿を現した景初二年六月、公孫淵サイドの人物が帯方郡の太守であれば、倭人条の記事の示す雰囲気のように「天子への朝献を申し込まれました」、「(ハイ)受付けました」、「(ホイ)洛陽へ送致しました」と手際よく事態が進行することはないでしょう。普通に考えれば、帯方郡太守に朝献の仲介なぞまったく不可能だったと想定する方は筋が通っています。 

 

氏は景初二年六月、帯方郡に詣でた倭使は、遼東、楽浪、帯方郡の実権者・公孫淵が燕王に即位した祝いを述べるため、襄平で公孫淵に朝献したいと願い出たのだと主張します。

同じ六月に、司馬懿が遼東郡へ到着し襄平攻略に取り掛かります。倭使は、帯方郡で情報の入手に困窮してしまいますが。公孫淵は、前年も毌丘倹の攻撃を撃退しています。事態を楽観した倭使は司馬懿の撤退まで、帯方郡で待機することにします。

 そうこうしているうち襄平が落城し、九月になって魏軍が、帯方郡に攻めこみます。その時、倭使の一行は司馬懿軍に身柄を拘束されました。

 倭使の身柄を拘束した魏将と新しく補任された帯方郡太守劉夏は考え込みました。

公孫淵に朝献を求めている東夷を捕らえた、として報告するのと、東夷が公孫淵討伐戦勝利を祝いにやってきたと報告するのと、どちらが魏朝中央の覚えが良いか。

 魏将と太守は倭使を勝利祝賀の使者として洛陽に届けることにした、というのです。

「景初二年」遣使の絶対条件

そもそも「景初二年」遣使の絶対条件は何でしょうか。それは景初二年の年内に倭使が天子に朝献したかどうかです。

 

倭人条にある卑弥呼の初回遣使記事は二つの部分で成り立っています。

①   「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。・・・・。

——景初二年(239)六月、倭の女王が大夫の難升米らを遣って(帯方)郡に詣らせ、天子に詣って朝献せんことを求めた。(訳: 修正計画)」

②   「其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人・班布二匹二丈、以到。・・・・・・。

——その年の十二月、詔書で倭の女王に報答するには 「制詔。親魏倭王卑彌呼よ。帯方太守劉夏が使者を遣って汝の大夫難升米・次使の都市牛利を送らせ、汝の献じた男の生口四人と女の生口六人、班布二匹の二丈なるものを奉じたものが到った。・・・・・。(訳: 修正計画)」

 

「其年」は①の「景初二年」のことで、景初二年十二月と言っています。倭使は洛陽で十二月、天子に朝献したと記してあって、「景初二年六月」に朝献したと記しているのではないのですから、①の六月についてどうのこうのと問題を言い立てても、②景初二年十二月の朝献が可能であると証明されれば、まったく無意味な議論になります。

B氏は今までだれも思いつかなかったこのことを、B氏は指摘しているのです。

倭使は十二月に戦勝祝賀に列席できる

帯方郡から洛陽までの旅程を見てみます。

魏軍が倭使の身柄を確保した時期を九月早々とします。倭使が天子に朝献したのを十二月半ばとします。この間、約百日と少々あります。

 

司馬懿は明帝の問いに、洛陽から遼東郡襄平まで軍行百日、と答えています。

 軍行は一日一舎、三十里、(『春秋』からの引用です。)、十五キロとします(1里を500mとした長里です)。洛陽から襄平までおよそ一千五百キロになります。

軍行と違い、当時の健常人の歩行は一時間四キロ、古代の人は健脚で普通一日八時間歩くと計算します。しかし今回大急ぎですので九時間時間としましょう

一日の歩行距離は三十六キロになります。

すると洛陽~遼東郡襄平間は四十二日間で踏破できます。

残るのは遼東~帯方郡治です。遼東半島の付け根にある丹東市から京城までが、直線でおよそ三百五十キロ、道の蛇行を計算に入れて五百キロとします。するとこの間は十四日かかることになります

 洛陽~帯方郡治の合計旅程は五十六日です。

B氏は、六月に帯方郡を訪れ、九月に魏軍に身柄を拘束された倭使でも十二月に洛陽で天子に朝献することが可能だというのです。

確かにこのように考えれば景初二年六月に帯方郡太守が公孫淵サイドの人であっても、倭使は十二月に洛陽で天子に朝献することが可能なのです。

 

湖南の「景初三年説。(景初二年とあるは誤なり)」は景初二年六月に、帯方郡に魏の任命した太守がいなかったことを唯一の論拠にして成り立っています。魏の任命した太守がいないのだから、魏の天子に朝献することはできないはずだという推論によっています。

湖南の主張には倭使が十二月に洛陽で天子に朝献することが出来ないという証明はありません。

しかしB氏は「景初二年六月」の帯方郡太守が魏サイドの人物であっても、倭使は十二月に朝献できると論述しています。

湖南の主張はB氏の反論で、「景初二年とあるは誤なり」と直接的には主張できなくなりました。

 

 ちょっとだけ土地所有権登録の話に戻ります。登録された権利に異議申し立てした事項に大きな瑕疵があったことになります。法的正義は現に登録された権利者(倭人条の記事)にあり。

私の補足

B氏の湖南への反論は大方このような構成でした。B氏の主張が正しければ景初二年遣使は十分に成り立ちます。しかし・・・。

閑話休題

B氏の主張と、遣使記事二項を比べていって、私が最初に違和感を持つのは、①の記事、六月、天子に朝献したいと言って来た倭使を、太守の劉夏が躊躇なく洛陽へ護送しているところです。この記事は、倭使が足掛け四ケ月も帯方郡でもたもたしていた後のこととはとても思えない筆致です。

それに九月以降、 進駐赴任してきた帯方郡太守が、魏朝中央を欺くつもりで「東夷が公孫淵討伐戦勝利を祝いにやってき」と報告するのであれば、自分の赴任以前、しかも公孫淵がいまだ健在な六月にやってきたと報告をするはずがありません。

 

これらを整理するために一番簡単で話が通り易い仮説をたてました。

 

倭人条にある使者は、もともと公孫淵討伐戦勝利の祝賀使だったのです。倭の祝賀使は派遣を魏軍が公孫淵を誅殺して、 帯方郡に侵攻するのに合わせて派遣しされました。倭使が帯方郡に派遣された景初二年《六月》という記事は《九月》」の誤記だったのです。」

 

こう考えれば、公孫淵の誅殺は終わって、魏の任命した帯方郡太守も着任していますし、太守が倭使の要請を迅速に処理することで、十二月、洛陽での朝献にも間に合うでしょう。倭使が拘束されたという強引な話も不必要になります。

 

え、なに・・・《六月》が《九月》」の誤りというのもかなり強引だ、と突込んでくれますか。

 

景初三年論者すべて、「景初二年」、は「景初三年」の誤記、といってこの手法を使っています。B氏も、倭使が魏軍に拘束されたと、倭人条にないドラマを加筆しています。私が同様な手法を使っても非難されるいわれはありません。

 

・・・・もちろん、これは私の悪い冗談です。しかし私がここで指摘した問題点はB氏の説の中に存在しています。わたしも同じ景初二年説ですから、今までA氏の説について述べてきたことの中からB氏の説に若干の補正と補足をさせていただきたいと思います。

司馬懿軍が、楽浪、帯方を収めたのではない。

「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。(東夷伝序文)」

 

私は、しばらく前、この一文をめぐってA氏の「又」=「すると、さらに」=「後」という論理に振り回されました(記事№16~記事№27)。

 

この一文についてA氏の理解は次のようでした。

 

「大興師旅、誅淵、又(その後)、潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡

——魏軍(司馬懿軍)は公孫淵を誅殺し、ひきつづいて黄海から迂回して楽浪、帯方郡を攻め取った。——

 

 

検証の結果、「又」=「後」ではありませんでした。「収」にも攻め取るという意味はありませんでした。(乞参照 記事№.15)

 

そして私は次のように理解するのが正しいこと論証できました。

 

公孫淵討伐総軍  Ⓐ軍団(司馬懿軍) 大興師旅 →誅淵                 

         Ⓑ軍団      潛軍浮海 →收樂浪・帶方之郡

 

 魏はⒶ、Ⓑ二つの軍団を出征させたました。Ⓐ軍団は襄平を落城させ、公孫淵を誅殺し、Ⓑ軍団は黄海から楽浪、帯方郡に進駐し、両郡を収容しました。

 「而後海表謐然、東夷屈服―――東シナ海黄海は静謐となり、公孫淵に属していた東夷(韓・倭)は魏に屈服した。」という成果はⒶ、Ⓑ両軍団、それぞれの善戦と連携によるものなのです。

 

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を思い出してください。ソ連軍はナチスから東欧を開放しベルリンを陥落させヒトラーを自殺に追い込みました。米、英、仏連合軍はノルマンデーに上陸し、西欧を開放しました。両軍はエルベ川で合流しました。

ヒトラーを自殺に追い込んだ後、ソ連軍がノルウェー海に軍を浮かべ、フランスのノルマンデーから再上陸し、ヨーロッパを開放したと主張する人はいません。また米、英、仏だけでヨーロッパを開放したと主張する人はいません。

連合軍がヨーロッパを開放したというのが正しいのです。

「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、」という湖南の評は間違っています。

「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、後海表謐然、東夷屈服。(東夷伝氏序文)」

東夷伝序文にある「而」はⒶ軍団の「誅淵」だけを受けているのではなく、Ⓑ軍団の「收樂浪・帶方之郡」も受けています。

司令官名の分からないⒷという軍団が存在するのですから「諸韓国(や倭)が魏に通ぜしは《公孫淵討伐総軍》が淵を誅し、樂浪・帶方之郡を收めた結果にして」と書くのが正しい評価なのです。

 

  諸先輩が考えてこられたように『三国志』に司馬懿軍が淵を誅殺した後、楽浪、帯方郡に進駐したと書いてあれば、八月末公孫淵を誅し、九月両郡へ侵攻という見方(これも書いてありません)で正鵠を得ていたでしょう。しかしきちんと読めばそのような記述はどこにもありません。また白石や湖南も「九月、司馬懿が両郡へ侵攻した」という主張はしていません。

これはA氏のような景初三年説の方々だけではなく、二年説の多くの方々も陥っている陥穽です。B氏も陥っています。だから無理やり「倭使の拘束」という無理筋を設定せざるを得なくなったのです。私は古田氏ですら司馬懿軍両郡侵攻説から完全に自由ではなかったと思っています。

A氏に感謝

「景初三年説」の論拠として、古田氏の説明「景初二年六月、白石や湖南は、《半島が戦火に包まれいた》と考えていた。」では、私にとってあまりにも漠然としていて、説の核心が掴めませんでした。

しかしA氏の「又」=「すると、さらに」=「後」という論理によって「景初三年説」との論点ははっきりしてきました。

A氏及び、「景初三年」論者の主張は、公孫淵を誅した司馬懿が楽浪帯・方郡に侵攻した。これがあって二郡が戦火に包まれていた。というのです。古田氏の説明では前半が読み取れませんでした。司馬懿が乗り込んでくれば大事になっているでしょう。だから倭使は帯方郡には行けない、行かない、となっているわけです。

A氏の説の欠点は『三国志』に「司馬懿が楽浪帯・方郡に侵攻した」という具体的な記事がないことです。「又」=「すると、さらに」=「後」の論理だけで「司馬懿が楽浪帯・方郡に侵攻した」という史実を構築していることです。これはあまりにも脆い論拠です。A氏の論理展開を追ううちに、逆に「司馬懿が両郡へ侵攻したのではない。」ということに気が付きました。

 

この事に気が付いたのは氏の「又」=「すると、さらに」=「後」の論理のおかげです。

 

 ウエブ上で「《淵の誅殺》」と《二郡侵攻》が同一の軍によってなされたのではないのではないか」という指摘はいくつか見ました。しかしそれは疑問の提起という水準でした。もっと腰を据えて突っ込んで欲しかった。

私がここまで「司馬懿が両郡へ侵攻したのではない。」と言い切れるのは、一重にA氏のおかけです。良い師とは自分の気に沿うことを言ってくれる人だけではありませんね。

 

ただし、白石も湖南もA氏の証明とは別のことを主張していたるようですが。

Ⓑ軍団が楽浪、帯方郡に進駐したのは何時。

Ⓐ軍団の進発時期は「景初二年春正月」です。明帝紀をはじめあちこちに記されています。公孫都度傳公孫淵条では遼東郡での活躍が記録されています。また断片的には諸所に記録されています。

ではⒷ軍団の軍行はどうだったのでしょう。

Ⓑ軍団はⒶ軍団を隠れ蓑に” 潜 “に展開した

Ⓑ軍団について東夷伝序文に「潛軍浮海(ひそかに軍を海に浮かべ)」とあります。

 「ひそかに」には「密」と「潜」とがあります。その違いを大雑把に言うと「密」は単に「こっそりと」という意味、「潜」は「何かにかくれて」、といった意味が加わります。たとえば潜水は「水の下にも潜ること」ですね。

 

 私は「大興師旅」・・・「潛軍浮海」を「華々しく喧伝ながら行軍するⒶ軍団の軍行の陰に隠れて、Ⓑ軍団は潜(ひそか)に海上に展開した。」このように訳しました。「海に浮んだ軍」の目的は、朝鮮半島北部に上陸して「樂浪・帶方之郡を收める(宣撫する)」ことにあります。

 何故Ⓑ軍団はひそかに展開しなければならなかったのでしょう。当然Ⓑ軍団が上陸戦のため海上に展開していることを察知されては困るからです。上陸戦を展開する場合、兵が船から陸へ移るタイミングを待ち受けられて攻撃を受けるのが最も危険です。兵士の体勢や、部隊の態勢が万全ではないのです。これは古今東西変わらない現実です。一番犠牲が生じるのはこの時です。

北九州を襲った元軍は上陸戦の態勢が不十分であったことは確かでしょう。それに加え、鎌倉武士たちが徹底した上陸阻止行動を行いました。元軍は橋頭保を確保できない戦いの中で、台風に襲われました。そして大被害をこうむり撤退せざるを得なくなったのでしょう。

映画「史上最大の作戦」もそのことを如実に再現し、教えてくれます。

 

 魏は、海上に展開したⒷ軍団の軍行を公孫淵軍に察知されないよう、Ⓐ軍団の軍行を隠れ蓑に使ったといっているのです。

Ⓑ軍団に隠れ蓑が不要になった時期

Ⓑ軍団が隠れ蓑を必要とする時期はいつまででしょう、公孫淵軍がⒷ軍団の動きを察知しても対応できなくなった時、Ⓐ軍団の接近でⒷ軍団迎撃の兵が割けなくなった時です。

魏軍がその時期を見分けるのはむつかしいでしょうが、Ⓑ軍団を海上に展開し始めた時、公孫淵軍に逆撃能力があると判断していたから「潛」となったことは間違いありません。

 公孫淵は六月以後、遼東郡に到着した司馬懿のもとに和平を乞うて(実質命乞い)重臣を、派遣しています。司馬懿重臣を切られてもなお和平を乞う公孫淵を見れば「潜」に行動する必要がないことはだれの目にも明らかです。

 これらを考えあわせるとⒷ軍団が「潜」に行動する必要があったのは六月以前となります。

Ⓑ軍団、展開開始の時――公孫淵が自立した

Ⓑ軍団が「潜」に行動する必要があった期間の下限は五月から六月と判明しました。では上限はどこになるのでしょう。つまりⒷ軍団がひそかに展開を始めた可能性のある時期はいつからかということですね。

「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、」

何度目かにの引用ですが文の先頭を見てください。「景初中」とあります。Ⓐ軍団とⒷ軍団による公孫淵討伐戦が景初三年間の内複数年度に渡った可能性をしめしています。景初二年内に完結した作戦であればこのようなぼかし方はせず「景初二年」とはっきり書くでしょう。戦闘は景初二年内で終っていますから景初元年にも戦争状態があったことになります。

Ⓐ軍団の軍行期間を見てみます。「景初二年春の正月」に洛陽を発って、同年十二月、洛陽の北東直近にある河内郡まで帰還しています。

 

ではⒷ軍団の軍行が景初元年にもあったのでしょうか。直接の記事がなくて実に読み取りにくい、しかし明帝紀、景初元年秋七月の項に参考になる記事があります。景初元年七月に下記Ⓐという理由でⒷという詔書を発しています。

「Ⓐ淵自儉還、遂自立為燕王、置百官、稱紹漢元年。詔Ⓑ青・兗・幽・冀四州大作海船。」

「(景初元年、幽州刺史の毋丘倹は公孫淵を討とうとしたが、長雨に阻まれて果たせず帰還した。)公孫淵はこの勝利で、踏ん切りをつけ自立した。燕王を自称し、百官を置き、紹漢元年と称した。

 明帝は詔書を発して青・兗・幽・冀の四州に大いに海船を作らせた(拙訳)」

 

 公孫淵孫権と魏の間をふらついていましたが遂に公然と自立を宣言してしまいました。それまでのことでも腹に据えかねていたでしょうが、自立は絶対に許せない。明帝はこの報を受けた時、淵を、必ず誅殺するべき相手として認識するに至ったでしょう。

発せられた詔書によって、海船団は四州で作られました。

Ⓐ軍団を隠れ蓑に展開したとあるのですからⒷ軍団は景初二年正月前には実戦体制に入っていったのではないでしょうか。

帯方郡太守の赴任。

二郡の太守は『蜜』に赴任し、『蜜』に任務に励んだ。

「明帝密帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。(韓条)」

韓条中の記事です。

「景Ⓐ景初中(237~39)、明帝はⒷ密かに帯方太守劉昕・楽浪太守鮮于嗣を①海を越えて遣わし、帶方・樂浪の②二郡を定めさせた。諸韓の国の臣智に③邑君の印綬を加賜し、その次席には④邑長(の印綬)を与えた。(訳: 修正計画)」

 

 冒頭の「景初中」は①~④の行為にかかります。つまり四つの行為はすべて景初年間に行われたことになります。「密かに」も四行為すべてにかかります。①は二人の太守が海に浮んだ軍に同行した場合「潜」の方が適当なのでしょうが、軍が二郡を収め終えてから、海を越えたのであれば「密」でよいのでしょう。どちらなのかは不明です。残りの②、③、④は隠してくれるものがなく、ひたすら 蜜(ひそか)

に任務を遂行したのです。それで四行為の大勢を「密」の文字でひょうげんしたのではないでしょうか。

何故「蜜」なのか

 ではなぜ「密」だったのでしょうか。

「潛軍浮海」は上陸作戦に備えて情報管理でした。では二郡の定め、や、韓諸國の懐柔という作戦は何故「密」である必要があったのでしょう。

 

この時二郡の北方でいまだに公孫淵が健在だったからです。この作戦は自立を宣言した公孫淵の逃亡をけして許さないため、南方からの包囲網なのです。

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玄菟、遼西郡は魏の一郡です。高句麗は魏に従属しています。孫権からの同盟を求める使者の首を切って洛陽に届けていますし、高句麗王、宮は襄平包囲戦にも魏を助けて出兵しています。

「景初二年、太尉司馬王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加將數千人助軍。(高句麗条)

―景初二年(238)、太尉司馬懿が軍兵を率いて公孫淵を討った時、宮は主簿の大加を遣って数千人を率いて(魏)軍を助けさせた。(訳; 修正計画)」

東沃沮と濊は高句麗の属国になっています。

遼東郡を完全に包囲するにはその南方楽浪郡帯方郡、韓諸国方面を塞がなくてはならなかったのです。

そして、公孫淵が魏の重囲に包み込まれていくことを気づかないよう、気づかれて包囲網が完成する前に逃亡されないよう、「密」でなければならなかったのです。

 

 司馬懿は出陣の前、明帝に戦役のめどを尋ねられ「行くのに百日、戦闘に百日、帰りに百日、休憩に五十日」と答えています。

 遼東郡での戦闘は六月に始まって八月末に終わっています、百日以内です。後始末や戦後の休憩を考えて九月下旬に帰途に就いたとして、十二月末には洛陽直近の河内郡に到着しています。ほぼ百日です。

往路だけの予想が大きく外れています。一月に出発して六月に遼東に到着です。最大百八十日、最小百五十日かかっています。

この遅れは、二郡の定め、や、韓諸國の懐柔が「密」の内に進められるよう、公孫淵の注意を司馬懿軍に集める計画的な遅滞行動だったのではないかと思います。

Ⓑ軍団と二人の太守が二郡と韓諸国という公孫淵包囲の最後の環を閉じ終えた時、Ⓐ軍団は遼西郡との境界を越え、傲然と遼水沿いに襄平を伺ったのだと思います。

一連の経過は後にリデルハートが唱えた「間接アプローチ」理論を彷彿とさせる戦略です。

 

劉放・孫資傳に次のような記事があります。

「景初二年、遼東平定、以參謀之功、各進爵、封本縣、放方城侯、資中都侯。」

——景初二年(238)、遼東が平定されると参謀の功を以て各々進爵され、本籍の県に封じられ、劉放は方城侯、孫資は中都侯となった。(訳; 修正計画)」

Ⓐ軍団、Ⓑ軍団の行動の戦略的方針策定は二人の参謀によるものでしょう。しかし二人に方向性を与えたのは明帝です。

 

 明帝が逝去し、景正始五(244)年、高句麗が魏に叛します。討伐に向かった毌丘儉は高句麗王・宮の確保に失敗し、北方へ逃亡を許してしまいます。この宮は生き残り、高句麗を再興、高句麗は中国東北地方と朝鮮半島北部の雄として668年の滅亡まで歴代中国王朝を苦しめもます。隋王朝は対高句麗戦の負担もその滅亡の原因として数えられています。

明帝の在世中に高句麗の叛が起きていればこの失態はなかったと思います。それより以前に高句麗の叛自体が、それともう一つ、韓諸国の乱も起きなかったのではないかとも思います。

 

ここまでで一万字を越えました。できれば一回6000文字程度にしたいのですが・・なかなか・・・・、続きは次回といたします。

*1:定説「三年説」 ⇐ 異議申し立て = 「二年説」

「遣使景初二年」の証明 2 --- B氏の白石・湖南批判と「景初二年論」 ―記事№...29

古田氏の説のウソ、・・№26」――2−1 景初3年が正しい理由―その25

 

 前回のまとめとして、今後自分の検証した「景初二年か、三年か」について書くと宣言しました。しかし現状、大苦戦中です。他人の説をつついて何か書くのとは比較のしようがないほど大変です。

しかしあまり長く投稿停止状態を続けると、私の内側でアルツハイマー症状が優勢になりそうなので、もう一続きだけ他人の説をつつく中継ぎ文章の投稿でお茶を濁したいと思います。

 

 

中継ぎ文章のテーマとして、前回、触れました、B氏の説を突っつきたいと思います。氏は「白石・湖南」の誤りを鋭く批判し、独自の「景初二年説」を展開しています。ただし、氏のブログ所在のアドレスを記録し忘れましたので記憶と断片的メモによる紹介になります。

白石と湖南の倭人条<景初二年>批判

またまた白石と湖南の一文を抜粋します。

白石:「魏志(書)に景初二年六月倭女王其大夫をしてa1帯方郡に詣りa2天子に詣りて朝献せん事を求むa3其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしはⒶ心得られずb1遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。b2其道未だ開けざらむⒷ我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」 『古史通或問』

新井白石が『古史通或問』で倭の遣使について述べた一節です。

文書構成から言うと、白石は「倭国と魏がⒷ・b2という状態である。」であるのに「倭人条に、a1・a2・a3という記述がある。これはⒶ(納得できない)と主張しています。

次は内藤湖南の一文で、『卑弥呼考』からです。

湖南:「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」『卑弥呼考』

この湖南の主張を私が短評しようすると、逆に長くなりますので、A氏の読解を援用して話を進めます。

A氏: 「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」

白石の主張から見ていきます。

白石・・・・・B氏と古田氏の誤り

白石のⒶという主張の基盤はⒷという認識ですから、先ずこれについて触れます。 白石のこの記述は幾通りかの解釈が可能だと思います。 

B氏と古田氏の解釈

B氏は、「白石が《倭から帯方郡への道が公孫淵討伐戦争で通行不能になった》と認識している、」という解釈です。そして、その解釈にもとづいて、氏は白石の認識Ⓑを一蹴しています。

「魏軍は淵を誅殺したあと、八月末以降に楽浪郡帯方郡に侵攻した。であれば少なくとも、魏軍は八月いっぱい楽浪郡には至っていない。戦闘とそれに付随する混乱が発生するのは九月以降である。六月に倭使が諸韓国を経て帯方郡まで通行するのに何の問題も生じない。」。

 

古田武彦氏も『邪馬台国はなかった』で読む限り、白石の記述を、B氏と同じ理解の仕方をしています。

つまり『三国志』によると、景初二年の一月から八月の間は魏の明帝が遼東の公孫淵を討伐すべく、大掛かりな戦闘がくりひろげられていた最中だった。朝鮮半島は公孫氏の勢力下にあったから、ここも同じく戦火に包まれていたのである。その最中にあたる六月に、卑弥呼の使いが帯方郡の郡治(今のソウル付近)に至って、洛陽の天子に朝献せんことを求めた、などということはあり得ない。これが白石の論理だ。(『邪馬台国はなかった』 93頁 戦中の使者)

白石が倭人条の記述をこのように理解していたと主張するには、当然ですがその論拠を必要とします。そう二人は白石の一文の中にある、その論拠を示さなければなりません。B氏と古田氏は白石の文中、どこを見てこのような理解に達したのでしょう。残念ですが、私にはB氏の記述中にそれを見つけきれませんでした。そして古田氏の論述にも、論拠と思しきものはいまだに見つけることが出来ません。

 

かつての話ですが、私は(僭越ですが)同じ「景初二年論者」として、古田氏と認識を共有したいと思いました。『古史通或問』を探しましたが、国書刊行会刊本の所蔵場所を探しきれませんでした。

そこで、直接『三国志』中に、白石が「倭と帯方郡治間が(戦闘とそれに伴う混乱によって)通行不能になった」ことの論拠と考えうる記述を探しました。

 

東夷伝公孫度条の公孫淵に関する項目に司馬懿軍の戦闘詳報があります。そこには六月遼東郡到着、八月末公孫淵誅殺、おそらくは九月初頭、勝利の後始末まで記されています。明帝紀でも若干触れています。非常に悲惨な戦いだったようです。しかし記されているのはすべて遼東郡内。遼水沿いと襄平攻防の記事です。

 

楽浪郡帯方郡については、このような戦闘記事はありません。つまり楽浪郡帯方郡公孫淵討伐戦が通行の障害になったことを示す記述はまったく存在しないのです。

(乞参照: 記事№...6 遼東郡で大戦が進行中でも倭の使者は通行可能という立場で司馬懿の迂回作戦 を書きました )

 

二郡より南方、諸韓国内の情報が韓条に若干載っています。

「諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長——諸韓國の臣智には魏の邑君の位を与え印綬を授けた。そして其の次、邑借には魏の邑長の位と印綬を与えた。」

私の訳ですが、同じ韓条に

「各有長帥、大者自名為臣智、其次為邑借(韓条) ——韓の各部族(國)には族長がいて大きい部族の長は臣智と名乗りその次は邑借と名乗った」とありますので、この訳は間違っていないと思います。

明帝に遣わされた二太守は郡内を定めたあと諸韓國を懐柔にかかり、成功しているようです。この記事の時点では帯方郡と諸韓国の間が、また倭と諸韓国の間が「道が開けていなかった」という状態であったとは思えませんね。しかし残念なことにこの記事には、「景初中」としか、時点を特定する事柄は書かれていません。

 

以上見てきましたが、私は、東夷伝中に倭~帯方郡が交通不能であったということの論拠となる記述はない、と断ぜざるを得ませんでした。

(現在は、『古史通或問』が中央公論社刊で『日本の名著』シリーズに収録されており、都道府県立図書館クラスが所蔵していることを知っています。)

 

東夷伝内に倭と帯方郡の間が <「(戦闘で)其道未だ開けざらむ」> という論拠がないということは、B氏の「戦闘とそれに付随する混乱が発生するのは(景初二年)九月以降である。」という主張が正しいのでしょうか。

すでに、私が言いたいことをお分かりの方もいらっしゃるでしょうが、これはそれだけでは終わらないはなしなのです。東夷伝に正始八(247)年以降になって楽浪・帯方郡と諸韓国とのあいだに乱が起き、帯方郡太守弓遵が戦死するという事態が発生します。それまでの間、半島での戦いは記録されていなすのです。

両氏の解釈は間違っています

それはさておき私は先に、A氏の「又」を「すると、さらに」と解する文理を分析しました。そしてA氏とは全く逆に、東夷伝序文は、襄平攻略軍が楽浪・帯方郡侵攻へ転進したとは語っていないことを解明しました。その作業の途中、A氏の次の文字の解釈にも疑問を抱きました。

 

「又潛軍浮海、”收”樂浪・帶方之郡(東夷伝序文)」の「收」についてです。A氏は「收」を「攻め取った」いう意味に理解しています。しかし『諸橋大漢和辞典』等いくら調べても氏の理解に当てはまる例は出てきませんでした。

「收」という文字は、魏が帯方郡を「接収」、「収容」したか、もしくは楽浪、帯方郡の帰服「受け入れた」という意味合いを表しています。

 (乞参照: 「收」=「攻め取った」は間違い――記事№...15)

 

するともう一つ気になる文字が出てきました。

「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海”定 ”二郡(韓条)」の「定」です。これは魏軍に同行した二人の太守が、二郡に威令を行き届かせた、という意味ですね。

どう読んでも、この記述は魏軍が楽浪、帯方郡に攻め込んで戦闘の後占領したとは言っていません。

 

合わせ読むと、襄平を攻略した軍とは別に派遣された魏軍が、二郡の太守を擁し、平穏理に行政権掌に成功した、という意味になります。韓条に太守派遣の時期は書かれていませんが、六月であろうが九月であろうが魏軍が二郡に侵攻した時、それに伴う「戦闘と混乱」は発生していないことになります。

つまり東夷伝の記述には、半島が公孫淵討伐の戦闘で「其道未だ開けざらむ」という状態になっていた、と考えなければならない要素は、まったくないのです。

二人の誤解の修正

白石を評するにあたって

これから、白石の認識Ⓑについてのまとめなのですが、その前に一言。

 

私も白石の一文を、古田氏の記述に従って理解していました。A氏の件で疑問を持ち始め、そのあといろいろあって、現在は白石のこの文に関する限り、古田氏の理解は誤っていたと考えています。

しかしそれは枝葉の話です。大切なのは本筋の部分、白石が「景初二年」という倭人条の記述を誤りと否定したという事実です。そして古田氏が《白石が「半島は戦乱下」と理解した。だから・・・》と書き進まざるを得なかったのは、当時のいわゆる学説情勢との関係があったのだろうと私は理解しています。この点についていずれ触れる時もあれば、とは思っています。

 

しかし私は古田氏やB氏の説を誤解による主張だと断じてしまいました。

“ 古田さん、ごめんなさい 🙇 。”

 

 さて白石の「我国の使人帯方に至るべきにもあらず」という文言は邪馬台(壱)国ファンならだれでも知っています。そのうち大部分の人々が、B氏や古田氏と同じくするだろうと思います。《戦乱によって行ける状態ではなかった》です。

私が知る限りでは、白石はこの一文で楽浪郡帯方郡での戦乱に触れていない、と主張をするのは私が初めてです。この主張は少しでも多くの人に知って欲しい。先人はいないのですから、誰かの意見を引用することもできません。

となるとここからは自分で白石の一文を評しなければなりません。

 

故浅、学非才を承知しつつも、自分で白石の一文を評するという非礼を行わざるを得ません。

白石について論ずる範囲が” この一文についてだけ “という大幅な制限付きであることを勘案して読み続けていただければ幸いです。

 

本論に戻ります。

白石の一文を理解するための補助線

では白石は、なんのために、なにを根拠に、「其道未だ開けざらむ」と主張したのでしょう。もし、まったく無根拠にこんな主張をしたのであれば、白石の学者としての資質を疑われる事になるでしょうが、私はそのようなことはあり得ないと思います。

国交の開始——白石は正始四年

一文中から読み取れる白石の視線を見てみましょう。

「我が国の使魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて其年月のごときは詳ならす㋑日本記にも魏志によりて皇后摂政三十九年に魏に通ぜられしとみへしは魏志とともに其實を得しにはあらじ『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」 (『古史通或問』)

下線部分㋑は景初三年のことで、㋑は景初三年のことです。㋺は倭人条にある遣使「景初二年」のことです。白石は両記事ともに誤りとしています。 白石は『古史通或問』の当時は「正始四年」説なのです。(この辺ややこしいので乞参照〔 記事№10 『卑弥呼考』をみつけました〕

等です。)

 白石は「 『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」と言っています。『景初三年を、 (神功)皇后摂政三十九年と表しています。白石にとって卑弥呼の遣使は『日本書紀』神功紀(皇后の摂政時代)の話なのです。また正始四年が正しいのは『古事記』に裏付けがあるから、といっています。

東夷(韓・倭)の屈服

東夷伝序文中の一節を再度掲載します。

「景初中、Ⓐ大興師旅、誅淵、又Ⓑ潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後Ⓒ海表謐然、Ⓓ東夷屈服。」

 

この文章はⒶからⒹへと時系列を追って書かれています。

「景初年中に、魏は大掛かりに軍を催し公孫淵を誅殺した。またひそかに軍を海に浮かべ、楽浪、帯方郡を收めた。その後、東方の海上は騒乱がなくなり、(海の向こうの) 東夷も屈服した。(訳; 修正計画)」

 

公孫淵を滅ぼし、二郡を收め、その後に東夷(韓や倭)が屈服したと、書いてあります。

 

倭人条、正始四年の記事を抜粋します。

「 其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木(弣?=弓柄)・短弓矢。」

 倭使が等を上獻してきたと言っています。「上獻」を辞典で引きましたが、見つかりませんでしたので代わりに「献上」の語意を援用します。

1 主君や貴人に物を差し上げること。 奉ること。「特産の品を献上する」2 点数をとられること。

この上献は明らかに「東夷屈服」に対応した、従属関係を示する用語です。                   

白石の視線は「屈服」ではない。 「魏に通じたまいし事 」

白石は三十七歳の時、将軍就任前の甲府藩主・綱豊(家宣)の侍講として仕えました。後に六代将軍・徳川家宣の側近となり幕府の要人でした。白石は将軍家宣にいろいろな幕府の政策を立案し建言しました。

『古史通』は甲府藩主時代の綱豊に講義した日本の古代史の内容を、『古史通或問』は講義の際の質疑応答を後にまとめたものとされています。両書は、いわば帝王学の教科書なのです。

白石はオランダを始め諸外国事情、国際関係も研究していました。それも書物にだけ頼るのでの学者ではありませんでした。イタリアの宣教使シドチが屋久島へ潜入して捕縛されたとき、四回にわたって直接取調をしました。それ以後、長崎の外国通辞とも親交を持ち色々な情報を得たようです。これらの情報とオランダ商館長から得た情報を増補・整理して、『西洋紀聞』 、『采覧異言』を記しています。

 

白石の国際関係論のご進講には日清関係も含まれます。では卑弥呼の時代の列島社会と魏の関係についてはどうでしょう。当然ありました。ご存知でしょうが、『古史通或問』で「魏志は実録に候」と述べ、「魏志」に登場する「倭人諸國」の位置を名宛でたどる手法をはじめてつかったのが白石です。

しかし古墳時代さしかかった卑弥呼のころの列島社会は、多くの村落共同体と、その連合で構成されていたといいます。倭人条にも「今使譯所通三十國」とあります。江戸時代には列島がこのような社会であったことを白石に理解させるだけの学問的インフラは存在しないのです。

白石の魏と倭の関係理解は、『記紀』の世界観を墨守した、なおかつを当時の清と徳川幕府の関係に擬していたと思います。「倭人諸國」は諸藩といった理解だったでしょう。

 

白石は景初三年を「皇后摂政三十九年」と言っています。皇后摂政とは『日本書紀神功皇后摂政紀にもとづく和暦です。白石の主張する卑弥呼の遣使は正始四年ですから和暦に直すと「皇后摂政四十三年」です。

白石は「『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始め」と言っています。『魏志』の記事の裏付けを『古事記』に求めています。白石にとって卑弥呼の遣使は『記紀』の世界の出来事なのです。

日本書紀』神功紀や、『古事記仲哀天皇(神功の夫)には三韓征伐のかっこいい話があります。『古史通』等の記事を見ると、白石はこれを史実として採用しています。

記紀』によれば本朝が中国に敗れるのは、ずっと下って天智二(663)年に唐と白村江で戦った時以外にはありません。魏に「東夷(倭)」が「屈服」した話なんか『日本書紀』や『古事記』には、載っていません。「是後倭韓遂屬帶方」という記事も、影さえ見えません。白石は『三国志』を読んでいるのです。それにもかかわらずそんな記事、ガン無視です。

白石の言う「魏に通じたまいし事の始め」とは『三国志』の記事では「東夷屈服」です。白石は魏に服属したことを意味する表現を置き換えています。

魏志は実録に候」と言いながらも、この部分は「唐人の寝言」にしか思えなかったのではないでしょうか。 現代に生きる私も中国の過剰な中華思想の発露には辟易することがあります。

あくまで対等な二国の関係とする白石にとって、倭人条にある、倭使が帯方郡を詣でたという話がどう見えていたかを考えてみました。

白石の思索をなぞってみます

白石は正始四年までは倭と魏の国交が開かれていなかったと考えています。であれば白石は倭人条の遣使記事について《景初二年六月に、我国の使人が、外交関係がない魏の帯方に至った」》とかんがえていた、というのがわたしのこの一句についての理解です。

 私の理解に基づいて白石の思考過程をなぞってみます。

 まず、Ⓑからです。

「b1遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。b2 其道未だ開けざらむにⒷ我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」

一句をb1、b2、Ⓑの部分に分けました。まずb2です

 

遣使記事を江戸時代末期の政情と重ねてみます。白石が次のような事態を起こりうることとして、想定、または、肯定し得るでしょうか。

嘉永六(1853)年六月、まだ国交がないロシヤの使節が、松前藩を訪れ、将軍への謁見を取り計らってくれと泣きついた。松前藩は、ロシヤの使節を、藩の役人をつけて江戸へ送った。その十二月、ロシヤの使節は、国交のないまま、江戸で大歓迎を受け、将軍に謁見、最恵国待遇を約束され、大量のお土産をもらって帰国した」

その後、日露間で国交が図開始されたのは安政三(1857)年のことであった。(白石は正始四年に国交開始主張しています。景初二年から四年後です。)

松前藩帯方郡にたとえました。もちろん現実には松前藩はロシヤ使節の上陸を許すことさえないでしょう。このような事態は、現代のライトノベルの世界以外では誰も想定しえない話です。幕末、列強の艦船が列島近海を遊弋し国交を求めてきますが、接触した藩が交渉窓口になるのではありません。交渉するのも拒絶するのも幕府です。

 

倭人条に「帯方郡に詣りてa2天子に詣りて朝献せん事を求む。」とあります。

この倭人条の記事は、一国(倭)の国使が、いきなり国交のない他国の一地方行政府に出向き、「国交を開こう、政府に口利きを頼む」と交渉した、白石にはそんな記事に見たのではないでしょうか。であれば「それはおかしい」と白石が感じたのは当然です。

もし現実にこのようなことが実に進行していたとすれば、原則主義者の白石は幕府高官として断固その事案を叩き潰したでしょう。

 

次にⒶを

其道未だ開けざらむに、が前提ですから、魏朝が任命した帯方郡太守が未着任である、として読んでください。着任は、公孫淵誅殺後の景初二年九月以降です。

「a1帯方郡に詣りてa2天子に詣りて朝献せん事を求む。a3其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしはⒶ心得られず」

先の例えに当てはめると、ロシヤの使者は藩主や奉行不在が長期不在中の松前藩か、の函館奉行所に泣きついたことになりますね。帯方郡自体が魏の新設だという考え方もあります。だとすれば、ロシヤの使者は小樽とか白老のコタンにいって将軍への謁見を取り計らってくれと泣きついたことになります。 にもかかわらず幕府はロシヤ使節最恵国待遇の朱印状を与えたというのです。

このように考えれば、白石の「心得られず」は実感を以て受け止められる言葉です。『三国志』は間違っているという白石の感想は理解できます。

「景初中大興師旅誅淵又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡而後海表謐然東夷屈服。」

 

この東夷伝序文をなぞりながら、白石の言いたかったのはこうではないでしょうか。

「魏が公孫淵を景初二年八月末に誅殺し、その後楽浪、帯方郡を回復した。だから我が国 (倭)は魏と国交を持った。景初二年六月の時点で、魏ははまだ公孫淵を誅殺していないし、二郡も回復していない。したがって国交もない。国交さえないのだから我国の使人が、魏の一地方行政府の帯方郡に”詣でる”はずがないではないか。ましてや帯方郡はいまだ太守の居ない郡である。なおさら”至るべきにもあらず。”」

 

白石はこれだけ不審点があるのだから、「景初二年」の遣使は成り立たない、唐陳寿の誤記、もしくは後世の誤写だ、としたのです。

 

今回はここで終わらせていただきます。なんだか書き始めた時想定した数倍の字数に膨らんでいます。

「遣使景初二年」の証明 1――景初三年説の出発点 ――記事№...28

古田氏の説のウソ、・・№25」――2−1 景初3年が正しい理由その24

 さて、前回申しました通り、今回からは前向きに「遣使景初二年」の証明に取り組むことにします。

    目次

 

 「知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。」という謂いがありますね。「知彼知己、百戰不殆。」と言いますが私には知識の蓄積がありません。ですから「知彼而不知己、」にまでこきつければ「一勝一負」くらいには持ち込めるのではないでしょうか。

 なぜ「景初二年六月」でないという主張が成立するのかを見ていけば、逆に「遣使景初二年」が正しいとい証明する何かが見つかるのではないか、と思うのです。

しかし、「景初三年説」は凡百存在するでしょう。私が見ることが出来るのはその一部です。そこで割り切って代表的な説と、A氏の説を絡めて見ていくことにしまた。

内藤湖南と『日本書紀』神功紀・『梁書

近現代における景初三年説の始祖は内藤湖南だと思います。湖南は論文「卑弥呼考」で次のように述べています。

 

「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

 

 私にこの湖南の所説全体を対象にして一気に文章を纏める能力はありません。したがって枝葉に当たる「神功紀」と『梁書』について個別に検証しておきたいと思います。

神功紀

 「神功紀」とは『日本紀』のなかの神功皇后について述べた部分のことです。ご存じでしょうが念のため申し添えます。「神功紀」の遣使記事に対いて、新井白石は『古史通或問』で次のように評しています。

「『日本紀』」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。」

皇后摂政三十九年は景初三年です。その六月にはすでに帯方郡太守は存在しますし、帯方郡治への通行も可能です。なぜ「其實を得しにはあらじ。」と断定するのでしょうか。※。この疑問は先出です。気になる方は「白石は景初四年説」を先に読んでください。

 

日本書紀』神功紀の該当部分を引用します

(神功摂政)卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。(『日本書紀』神功紀)

 ごらんの通り「神功紀」の遣使記事の前には「魏志(『三国志』魏書)云(いう)」と但し書きがあります。『日本書紀』の編者は「この記事は魏志(書)から引用しました。」と断わっているのです。

くどいですが、「神功紀」が引用したといって記しているのは

「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡」です。ところが、倭人条にある原文は

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等、詣郡、」です。

 「神功紀」の引用文には、原文に「明帝」が挿入され、「景初〇年」が原文と食い違っているのです。

 

 これは明らかに原文引用の原則に背いています。引用文は、一字一句、正確に原文を複写していなければなりません。引用文に自らの説明・異見を添えたいときは、誤りなく原文を複写した前後に別途「時の皇帝は明帝で、景初二年とあるが、景初三年が正しい」という形で書き添えなければなりません。

日本書紀』の編者が奈良時代の人々とは言え、筆を執るものとしてこのあたりの認識がないわけがないと思います。

 

 引用文として断わり、その文中に原文にない字句が混入していればそれは誤写か、改竄・捏造です。

 ある新聞が、ある裁判の証人の証言として裁判所の記録を引用掲載したとします。もし引用された証言記事のなかに裁判所の記録にない文言が混入していたらどういうことになるでしょうか。読者は事実関係の把握を誤り、改竄・捏造として掲載記事に対する信用は勿論、新聞社自体の存立にもかかわることになりかねません。大問題です。

 ある学者が自分の研究論文の中で論拠として、湯川秀樹の論文の一部を抜粋引用したとします。もし引用された湯川秀樹の論文の中に、原文にない文言が混入していたらどういうことになるでしょうか。

 その研究論文の信用性かなくなるのはともかく、その学者の学者生命は断たれてしまうかもしれません。

 私が、A氏のブログからの引用文に別の文言を混入しても、私の記述を信じてくれますか。

 

 新井白石は、この誤引用を踏まえて神功紀の記述を「其實を得しにはあらじ。」としたのです。そのうえで「遣使の時期」を別の根拠から引き出しています。「神功紀」の年度記事は、白石にとって信用度ゼロなのです。私も白石の断定は正しいと思います。

 

 内藤湖南は『日本書紀』の編者がこの原則を無視し、誤りを犯していること、神功紀に誤写・改竄・捏造の疑惑があることを軽く見逃しています。編者が引用文中に自分たちの意見を混入させただけだと簡単に考えています。だから倭人条の「景初二年」と神功紀の「景初三年」を対等に比べ、神功紀が正しいなどと述べられるのです。

 

 とはいえ私は神功紀の編者に遣使記事について、意図的な書き換え、改竄・捏造があったとは考えません。

編者がどうしても「景初三年」という自分たちの意見を表明したいのであれば出典を変えればよかったのです。湖南も「梁書にも三年に作れり」として名を挙げている『梁書』を引用元にすればよかったのです。「魏志云」ではなく「梁書云」とすればよかったのです。それにも拘わらず、編者は原文に「景初二年」とある『魏志』を選び、『梁書』に「景初三年」とあってもそれを出典として選んではいません。

「日本史を編纂していた書紀の編者たる者が、『梁書』倭伝(条)」を見ていない、とは考えられません(とA氏も解説を加えて述べています。)」。

 自分たちの意見を表明するもっと簡単な方法があります。「魏志云」の三文字を外すのです。『日本書紀』は当時最高の学者が編纂しているのです。正面から自分たちの意見として押し出しても、そのことに、だれが苦情を言い立てることが出来るでしょう。編纂責任者の舎人親王あたりが何か言うとしても、もっと高次元の問題でしょう。それにも関わらず編者は「魏志云」と断わっています。

 どちらにしても「景初三年」と主張するために改竄・捏造する必要は全くないのです。編者自身は「魏志」を引用することにこだわりを持っており、自信をもって「魏志」からの引用であると宣言しているように思えます。

 

 私は、「明帝」につては知りすぎた学者の筆の滑りすぎ、「二」と「三」の違いについては単純な誤写、それらと、校正ミスの複合と断じています。

(乞参照、記事№10)

梁書

 続いて『梁書』の該当部分を引用します。

 

至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以爲親魏王,假金印紫綬。(梁書 東夷諸戎傳 倭条)」

 

  この『梁書』東夷諸戎傳 倭条記事は「神功紀」のように「魏志云」はありません。一応、姚思廉が独自に調査の上著述したと想定します。

 

 次にこの記事についてのA氏の評価を引用します。

 魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。

また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。

魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉(ようしれん)のようです。「梁書倭伝(条)」には、『魏志(書)』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて、「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」と記しています。

 A氏は『梁書』の編者 姚思廉を景初三年説の大先達だと言っています。そして『梁書』の「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」という記事(の訳文)を引用して、遣使が景初三年である論拠としています。この訳文の出典は不明です。

 A氏は公孫淵が誅せられたのは景初二年八月二十三日だとしています。すると引用訳文中の、「景初3年」という時期、期間の指定は「公孫淵が誅せられた」にはかからず、「卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」にのみかかっていなることになります。本当にそうなのでしょうか。これを検証してみます。

倭条の公孫淵誅殺は景初三年

まずネットにある諸先輩のご意見を見てみました。

「公孫淵」で検索しWikipediaを見ました。注釈の一つに次の記事がありました。

「姚思廉は『梁書』では「至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺使朝貢」、『北史』 倭国伝では「魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣使朝貢」と公孫淵が殺された後の景初3年とした。」

「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,」の訳文を拾ってみました。

「魏景初三年に至り、公孫淵の誅の後、卑弥呼は使者を遣わし朝貢することを始めた。」

「魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し」

  なるほどどちらともとれる訳文が多いようですね。Wikipediaにいたってははっきりと「公孫淵が殺された後」の景初三年としています。

 

 しかしこの理解はおかしいのです。『梁書』東夷諸戎傳倭条内にある同じような構文を見てみましょう。

 

「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。

漢靈帝の光和年中に倭國は亂れ,互いに攻伐しあうこと歷年,やがて一女子を共立し卑彌呼を王と爲した。」

 「光和中」は直近の「倭國亂」にかかっています。

 

「晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。

晉安帝の時,倭王贊有り。贊死す,弟の彌を王に立てた。;彌が死んだ。その子の濟を王に立てた;濟が死んだ,その子の興を王に立てた;興が死んだ,その弟の武を王に立てた。」

 「晉安帝時」がどこまでかかっているかは不明ですが、少なくとも直近の「有倭王贊」にはかかっています。

 

「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。かえて男王を立てた。國中が服さず,またもや誅殺しあった。そこで卑彌呼の宗女臺與を立てて王となした。」

 「正始中」は直近の「更立男王」から「國中不服,更相誅殺,」までにかかっています。

 

「齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍

齊建元年中に武の持節を除き、督倭・新羅任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に任じた。」

 「齊建元中」は以後のすべてにかかっています。

 

であれば

「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢

魏は景初三年に至って公孫淵を誅し、その後,卑彌呼の遣使朝貢が始まった。」

 となります。年度指示直近の「孫淵誅」には当然、景初三年がかかっているのです

 

 間違いなく『梁書』東夷諸戎傳倭条では公孫淵誅殺を景初三年だと言っています。

高句驪(高句麗)条では景初二年

 倭条では公孫淵誅殺を景初三年だといっていることを踏まえて、ちょっと(?)びっくりする記事を紹介します。

魏景初二年,遣太傅司馬宣王率衆討公孫淵,位宮遣主簿、大加將兵千人助軍。(東夷諸戎傳高句驪条)

魏の景初二年 太傅の司馬宣王が衆を率いて公孫淵を討った。高句驪王位宮遣は主簿、大加の將兵千人の軍を派遣してこれを助けた。

  ここでは迷う余地もなく「討公孫淵」を景初二年と言っています。「討公孫淵」が二度あるわけも無いのに二つの発生日付があるのです。本来これで「討公孫淵」に関連する『梁書』の記事は全く信頼できないことになります。白石は遣使時期についての自説の根拠として『梁書』を一切使っていません。

 

 それはさておき、A氏と内藤湖南は、倭条と高句驪条、どちらの記事を基準にしているのでしょう。

 湖南は「梁書にも三年に作れり」と書いています。「作れり」とは”わざわざ明記してある”といったくらいの意味でしょうか。三年と明記しているのは倭条です、高句驪条にはありません。

 A氏も「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって」と書いています。当然、倭条です。

 で、今後の記述は、A氏が公孫淵誅殺を景初三年と倭条を自分と同意見だと見なしているとして進めます。

遣使は景初四年でなくてはならない

(訂正: 景初四年は存在しません。軽率にも筆の走りに負けました。正始元年と置き換えて読んでください。訂正が遅れて申し訳ありません。平成30年8月19日)

 

 公孫淵誅殺を「景初2年8月23日」としているA氏と、「景初三年」としている『梁書』倭条が同意見ということが成り立つか?、疑問を持たれたとしも、言っている私が無理をして繋いでいるのですから、疑問を持つほうが当たり前です。

 とりあえず、A氏は公孫淵誅殺が「景初三年」であっても「遣使」が「景初三年」であれば同意見とみなしていると考えましょう。もう少し検証を続けてみて「遣使」が「景初三年」という結論がでなければA氏の主張は完全に破綻したことになります。

 

 さて公孫淵誅殺を景初三年と言っているとなる『梁書』は倭の遣使をいつだといっているのでしょうか。

 「公孫淵誅殺」をみて恐慌をきたし朝貢使を出したと考えると、事情が許す限り「公孫淵誅殺」の直近だと考えるべきでしょう。ただ『梁書』に個々の出来事に日付はありません。もし「公孫淵誅殺」が十二月であれば景初三年内は無理です。この場合「景初三年」は「公孫淵誅殺」だけにかかっていることになります。

しかし「景初三年」が最後の「金印紫綬」までかかるっていると考えれば、公孫淵誅殺は倭が景初三年内に遣使出来る時期だったと理解することになります。

 普通に解釈すれば、曖昧ではありますが、これが妥当な理解だと思います。

 

 では引用された『梁書』の記事はA氏の主張の論拠になるのでしょうか。残念なことにA氏には普通の解釈は適用できないのです。

 

 氏の論理をなぞってみます。

 “「公孫淵誅殺は景初2年8月23日」→「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後」→「景初2年6月」には帯方郡太守は未就任→倭の帯方郡到着は「景初3年6月」”と言います。

そのうえで「この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉のようです。」として『梁書』を遣使景初三年説に結び付けています。

 A氏の論理に沿って遣使が景初三年にならなければなりません。

 

 公孫淵誅殺を景初三年に入れ替えてみます。

“「公孫淵誅殺は景初3年8月23日」→「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初3年8月以後」→「景初3年6月」には帯方郡太守は未就任→倭の帯方郡到着は「景初4年6月」”。

倭の遣使、帯方郡到着は景初四年六月となりました。

 

 内藤湖南の論理もたどってみます。

「全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。」

  湖南は自分の論理の裏付けとして『梁書』倭条を引き合いに出しています。倭条の記事で遣使が景初三年である、と言っていることはほぼ間違いないでしょう。しかし同じ倭条に「淵の滅びしは景初三年」との記述があることに気づいていないのでしょうか、それとも無視しているのでしょうか、どちらでしょう。

 「淵の滅びしは景初三年」をもとに湖南の論理で考えると「淵の滅びしは景初三年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。」

となり、倭の遣使、帯方郡到着は景初四年六月になります。

同じ倭条の遣使記事とは相いれないものです。

 

 したがって「神功紀」の記事と同じく『梁書倭人条は「遣使景初三年説」の裏付けにはなりません。

 

(乞参照、記事№8)

 

白石は正始四年説

 

 新井白石も「古史通或問」で「景初二年六月」には「我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」と主張しています。

 

魏志に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしは心得られず。遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

  古田氏は『邪馬台国はなかった』で白石の「其道未だ開けざらむ」を「遼東郡から朝鮮半島にかけて司馬懿軍と公孫淵軍の戦闘中」という主張として理解しています。

 

A氏は新井白石も遣使「景初三年」説を主張したように言いますが、間違いです。

『晋書』には公孫氏平ぎて倭女王の使い帯方に至りしとみえたり。これ其実を得たりしとぞみえたる。さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて、その年月のごときは詳らかならす。「日本紀」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」   (『古史通或問』)                      

 白石は景初二年の遣使を否定していますが、同時に「皇后摂政三十九年(景初三年)に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ」として、先にも見たとおり景初三年も否定しています。そして正始四(243)年を「魏に通じたまいし事の始め」の年としています。

「行かない」、「行けない」    

  さてここで「神功紀」、『梁書』を取り除いたA氏と内藤湖南の論理を抜粋します。白石は景初三年説とは違うのですが、列記します。

 

内藤湖南: 倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。

A氏: 公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

白石: 遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。(景初2年6月に)其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

 三人の主張を要約すると内藤湖南は「帯方郡に行ける状態ではなかった」、A氏は「太守不在の帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」新井白石は「其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」で良いと思います。

 さらに三人纏めて要約すると「行かない」、「行けない」となるのでしょうか。要約しすぎかな。

ある方の駁論

 であれば、「景初二年六月」に帯方郡治行が可能であることを証明すればよいわけです。もともとの倭人条の記述は「景初二年遣使」なのですから

 

 二年論者から、「景初二年」否定に対しての有効な反駁はあったのか。申し訳ないが筆者は寡聞にして存じ上げない。まじめな話、 ご存知の説があればご一報いただきたい。

 ただ、「もう一息で有効なのに、惜しい」と思わせる説はありました。それを紹介します。筆者を仮にB氏とします。

「行く」、「行けた」ことの典拠

この説の典拠は二つあります。一つ目は『三国志』東夷傳韓条です。

「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。(『三国志』東夷傳韓条)

筑摩書房版『三国志』訳本は次のよう訳しています

桓帝から霊帝の末のころ(一四七~一八九)になると韓と濊は盛んとなって、楽浪郡やその配下の県の力ではそれを制することができず、民衆は多くの韓国に流入した。建安年間(196~220)、公孫康は屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を作り、公孫模や張敞らを送ってこれまでとり残されていたその地の中国の移住民たちを結集し、兵をおこして韓と濊をうたせた。その結果韓国に流入していた移住民たちも少しずつ戻ってくるようになった。これ以後、倭と韓とは帯方郡の支配を受けることになった。               

(東夷傳韓条・訳、筑摩書房版『三国志』訳本)」)

修正計画のも翻訳もほぼ同じです。

桓帝霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流入した。建安中(196~220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐ち、旧民は次第に(その地から)出国し、この後は倭・韓は帯方に属すようになった。

  (東夷傳韓条 訳:修正計画)

陳寿著『三国志』原本東夷傳韓条は、魏の任命した太守が存在していなくとも、帯方郡は建安年間(196~220)から存在し、倭は帯方郡支配下にあったと記しています。

 

典拠の二つ目は『三国志公孫度傳公孫淵条です。

「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳)

二年(238)春、太尉司馬懿を遣って公孫淵を征伐させた。六月、軍は遼東に至った。(訳:修正計画)」

 

 太尉司馬懿は六月になって遼東郡に到着しています。それから遼隧での迎撃を打ち破り、公孫淵の立てこもる襄平包囲戦へと移っていきます。帯方郡治は襄平から直線距離で約四百㎞東南にあったといわれています。これは下関市から明石市に相当します。両者の間は長山山脈や鴨緑江等で隔てられています。A氏によれは魏軍が楽浪・帯方両郡に攻め込むのは公孫淵誅殺後の八月末以降です。遠く離れた帯方郡はそれまで平穏だったのです。

ちょっと惜しいB氏の主張

 B氏は両記事を根拠に六月には倭使は公孫淵に謁を求めて帯方郡治を訪れていた、と主張しています。使者が遼東郡での戦闘に決着がつくのまで、と待機しているうちに、進駐してきた魏軍に引き渡され、新たに魏が任命した帯方郡太守の手よって、洛陽へ身柄を送られた。その過程で、公孫淵に謁を求めていた倭使が、いつのまにか魏の天子へ朝見を求めた倭使へとすり替わってしまった。

といったストーリー構成でしたが、ネット上のアドレスを記録し忘れてしまいました。

 

 景初三年説は帯方郡治へは、太守がいないから「行くはずがない」、もしく、は戦の最中に「行けるはずがない」という主張から出発しています。

 B氏は帯方郡の建郡は建安年間(196~220)に公孫度によってなされていた。公孫家の影響を受けながらも太守は存続しており、その帯方郡に属していた倭が貢献のため郡治に詣(参上)するのは当たり前である。景初二年六月、魏軍ははるかかなたの遼河のほとりに到着したばかり、倭使が郡治へ到着するのに何の障害もない、と反駁しています。ここまでは、根拠もしっかりしていますし卓見です。遣使景初二年の証明として、方向は間違っていないと思います。

 もう一息というのは、公孫淵への朝貢使が、明帝への遣使にすり替えられたというストーリーが、原典(公孫度傳・東夷傳韓条)の記述につながらない点です。

 

では私も、この方の業績を踏まえつつ、東夷傳の記述からはみ出しすぎないように気を付け「景初二年か、三年か」について検証を始めたいと思います。

「すると、さらに」からの卒業、 ――記事№...27

 

古田氏の説のウソ、・・№24――2−1 景初3年が正しい理由その23

 「すると、さらに」=「後」の検証

前回、つぎは「すると、さらに」=「後」の検証にとりかかる、と書きました。

 

ただしお断りしておきますが、私は「すると、さらに」=「後」を全否定しているわけではありせん。成り立つ場合はあると思います。

ただA氏の主張する《「すると、さらに」とあれば、すべての場合、無条件で「後」だ》という考え方に疑問を呈しているのです。

  訳者たちの訳語

「又」を「すると、さらに」と訳したのは、A氏ではなく筑摩書房版『三国志』の訳者先生たちです。とりあえず先生たちも「すると、さらに」を「後」と考えて訳したのかどうか見てみましょう。

    「筑摩版訳本」と「修正計画」

東夷伝には二十五か所で「又」が使われています。訳語として使われているのは下記のとおりです。

加えて 1、 別に 1、ふたたび 2、さらに 6、また 13、

省略してあるのが1、そして「すると、さらに」が一か所です。

 

先生方は「又」という接続詞の訳語を、省略まで含めると七種類も使っています。「すると、さらに」以外に《○○した「後」に》と解釈できる訳をしていません。基本的に《複数ある事物や出来事を結びつける接続詞》といった感じで使っているようです。

同じ漢字「又」を二十五か所で使って、一つだけ違う意味に解釈するというのは何か引っかかります。

 

私の意見は記事№18と20で書きました。

《「又」は、並記された事物や出来事同志を結びつけるために使う、もしくはある条件(例えば時とか)で括られ併記された事物や出来事の内、他と異なる条件を備えた例を他と区別するために使っている。》と

 

「修正計画」は訳語を、二十五か所、すべてそのままの「又」で済ませています。 勿論、日本語の又です。

「修正計画」は東夷伝に出てくる中国語の「又」の意味を、すべて日本語の「又(また)」であると考えているのです。二十五か所全部を「又」と訳すのは作業的にはすごくシンプルです。しかし、読者は、同じ語が頻繁に出て来て煩わしく感じるのではないでしょうか。

 

 筑摩書房版『三国志』訳本は正式名称を『世界古典文学全集 第24.25.26巻 三国志』といいます。文学作品の翻訳書としての扱いなのです。文学作品では、読みにくくなることを避けるため、できるだけ同じ単語や文字を重複させないという作法がありますね

筑摩書房版『三国志』訳本を翻訳する先生方も二十五か所全部を同じ意味にとらえていた。しかし文芸書として読む読者に煩雑感を感じさせたくない、そのため訳語に変化を与えた。

「すると、さらに」はその訳語、七つの内の一つだと考えることもできませんか。

「後」を意味する語句とは認識しないで「すると、さらに」と訳したのかもしれません。

 

A氏は「すると、さらに」を「後」だと再翻訳してくれますが、最初に翻訳するにあたって、先生方が直接「後」という訳語をつかうのに何の障害もありません。そして「後」の方がシンプルで分かりやすい。先生方にはわざわざ「すると、さらに」と婉曲に表現しなければならない理由はないのです。

    筑摩書房版訳本の景初二年説

この憶測には根拠があります。

「景初二(237ママ)年六月、倭の女王は、太夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。帯方郡太守の劉夏は役人と兵士をつけて京都まで案内させた。その年の十二月、倭の女王へのねぎらいの詔書がくだされた。(筑摩書房版『三国志』訳本、307頁 魏書東夷伝倭人条)」 

 筑摩書房版訳本は遣使景初二年説を取っているのです。

 

このままではなぜ「すると、さらに」=「後」と考えなかった根拠となるか分かりづらいと思いますので注釈を入れます。

 

A氏の「景初三年説」に至る論理は次のような過程です。

 

  

①   公孫淵誅殺は景初2年8月23日

 

②    「又」=「すると、さらに」=「後」

 

③   「公孫淵を誅殺」の後「楽浪と帯方の郡を攻め取った」

 

④   「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」

 

⑤   「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」

 

⑥     景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

この論理の⑥を入れ替えて逆にたどってみます。

⑥遣使は景初二年六月。

⑤景初二年六月に倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出た。

④魏が帯方郡に太守を置くのは、景初二年六月以前。

③「公孫淵を誅殺」以前に「楽浪と帯方の郡を攻め取った」。

②「又」=「すると、さらに」=「前」。

①   公孫淵誅殺は景初2年8月23日

 

いかがですか。①以外は全部ひっくり返ってしまいます。筑摩書房版訳本の訳者たちが=「後」と考えていたら、「景初二年六月」とは訳せません。

つまり訳者たちは「すると、さらに」を《「公孫淵を誅殺」した後「楽浪と帯方の郡を攻め取った》と理解させる順接の接続詞と意識して使っているのではないのです。であれば訳者は「すると、さらに」は、ほかの六種類の訳語と同じく、前後を対等に結びつける接続詞として使っていることになります。

 

=「前」と考えたとまでは言いません。おそらく「すると、さらに」と訳すことで=「後」という理解が出てくるとは想像もしていなかったのでしょう。 

 

正解は先生方しかわかりません。しかしはるか昔の事、このように微妙なことは先生方も記憶していないでしょう。しかし、根拠はありました。憶測を推測ぐらいには格上げしてもらえるでしょうか。皮肉なことに使い始めた当事者でさえ「すると、さらに」を「後」とは理解していないかもしれないのです。

  信長と鉄砲

A氏は「Ⓐ公孫淵を誅殺すると、さらにひそかにⒷ兵を船で運んで海を渡し」を引用して「この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。」といいます。

 

《「Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ」とあれば、必ず、「Ⓐ「先」→「後」Ⓑ」》

この関係が普遍的で固定していて、初めてⒷ「が分かります。」と言えます。

 

「Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ」から「Ⓑ「先」→「後」Ⓐ」という反対の結論が出る事例があると、A氏の主張成り立ちません。もしくはⒶとⒷが同時という結論でも同じです。

 

中日新聞のホームページに水野誠志朗氏の書かれたコラムが載っています。

http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=630&comment_sub_id=0&category_id=233

 織田信長斎藤道三の対面を取り扱った《「であるか」、19歳の信長、斎藤道三を唸らせる》という表題の記事です。その一部分を引用させてもらいます。

場所は尾張と美濃の国境にあったとされる富田という集落の正徳寺。信長は鉄砲や槍を携えた親衛隊800人ほどを引き連れ、いつもの「たわけ」の格好で聖徳寺へ向かいました。その行進を富田の町外れで隠れてこっそり見ていたのが道三です。 ひょうたんをぶら下げた信長は見るからにうつけものでしたが、兵が持つ500もの鉄砲、500もの6メートルを超える長槍を見て驚きます(槍は長いほど有利ですが、扱うためには厳しい訓練が必要です)。

これは『信長公記』が出典でかなり有名な場面です。ネットで「信長、徳寺、鉄砲、」を検索してみてください、ほかにも同様な記事を見ることが出来ます。

 

信長の父信秀は天文二十一(1552)年三月三日に死去しました。 正徳寺の対面はその翌年、天文二十二(1553)年、です。

信秀が長槍部隊や鉄砲隊を擁していたという記事を見たことはありません。配下の国人部将ごとに戦闘に参加する典型的な戦国武将の戦闘形態をとっていたと思われます。すると長槍や鉄砲による部隊編成は信秀の死後始まったと思われます。

 

引用した記事を次のように書き換えてみます。

織田信長はⒶ鉄砲隊を編成すると、さらにⒷ長槍部隊も編成した」

 

記事の趣旨は違ってきますが、「すると、さらに」を使って書き換えた文章としては、問題ありませんよね。

このセンテンスは《Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ》という構造ですからA氏の主張に従えば、「鉄砲隊を編成した後、長槍部隊編成した」といっていることになります。

 

しかし物事はそう単純ではありません。

槍は自領の刀鍛冶に命じて作らせればよく、それほど入手に困難はなかったでしょう。長槍部隊は槍を購入すれば後は手入れに配慮すればよく、短い期間でも部隊編成はできるでしょう。

しかし鉄砲の入手は堺の商人と接触がなければ難しかったようです。購入後も槍と違って、火薬や弾丸を切らさないルートの確保が必要です。部隊編成は、それやこれやの要素を調整しながら進めなければなりません。鉄砲だけ手に入れても訓練さえできないのです

このような諸条件を考えあわせると、文面だけからA氏の主張通り「鉄砲隊編成」が先であったと理解することには疑問符が付くことになります。

 

私は『信長公記』にある「対面記事の内容」そのものに種々の疑いを持っているのですが、それは別の話なので触れません。

  合格発表の例文

A氏の主張に疑問符が付いたところでより詳しく検証するために幾種類かの例文を作りシミューレションをしてみました。

中でも簡単な例文を書きだします。

 

ある予備校の大学合格実績報告を模した例文です。私立大学の合格発表は国立大学の発表より早く行われます。私立大学は学生確保のため国立大学の合格発表より合格発表と学費納付期限を早く設定するのです。

 

まず受験生が一人の場合です。受験生は二校受けたことにします。受験生が一人の場合、二つの合格には必ず前後関係があります。

「○○予備校の××君は、Ⓐ慶応大学に合格すると、さらにⒷ東京大学にも合格した」

書かれている通り、まず慶応大学に合格し、その「後」、東京大学に合格したのです。このケースの場合は「すると、さらに」=「後」でA氏の論理が成り立っています。

しかし予備校は、大学の格を考えて受験生募集を有利にするため次ように発表する場合もあるでしょう。

「○○予備校の××君は、Ⓑ東京大学に合格すると、さらにⒶ慶応大学にも合格した」

事実経過と、記載されている合格認知の順序は逆になっています。「すると、さらに」は時間の前後関係を示す”順接の接続詞 ”ではなく、××君が合格した大学を”併記するための接続詞 ”になっています。この場合はA氏の「すると、さらに」=「後」という論理は通用しません。

 

受験者が二人の場合を考えてみます。

「○○予備校のⒶ××君は慶応大学に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、東京大格に合格した。」

この場合、まず××君が慶応大学に合格し、その後△△さんが東京大学に合格したのです。このケースの場合は「すると、さらに」=「後」でA氏の論理が成り立ちます。

「○○予備校の出身Ⓐ××君は東京大学に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、慶応大学に合格した。」

大学の格を考えると、予備校の発表はこうなる場合もあるでしょう。Ⓑ慶応大学合格が先でⒶ東京大学合格が後です。A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は成り立ちません。

「○○予備校の出身Ⓐ××君は東京大学理学部に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、法学部に合格した。」

東大の合格発表は推薦入試:2018年2月7日(水)一般入試:2018年3月10日(土)だそうです。どちらが後か先かは問題にもなりません、同時です。A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は成り立ちません。

 

五つの例文で見るように、「すると、さらに」=「後」は何時でも成り立つわけではありません。

ⒶとⒷの行為が同一人による行為で両行為には無条件で前後関係が生じます。時系列を追って書いてある文章では、ふつうにA氏の論理が成り立ちます。しかし書き手の都合で現実とは倒置される場合があります。その場合は成り立ちません。

ⒶとⒷの行為者が別人である場合、ⒶとⒷには前後関係がある場合と同時期の行為である場合とが生じました。前後関係があるといっても記述上Ⓑが先の場合もあります。

A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は苦戦ですね。

  甲州征伐の例文

ちょっと複雑な別の文例でA氏の主張を検証して見てみましょう。織田信長が武田氏を滅亡させた史実についての記述です。今度はA氏が引用した東夷伝の文にすり合わせていきます。

例文1

天正十年二月、Ⓐ伊那、飛騨方面から侵攻し、勝頼を誅殺すると、さらにⒷ三河方面から進軍し、駿河を攻め取った。」

文章構造は筑摩書房版『三国志』訳本東夷伝の引用文と同じに作ってあります。

A氏の主張が正しければ、家康は勝頼が誅殺された後、三河方面から進軍したことになります。

    行為者名を省略しました

この例文では行為者の名前が省略してあります。それはA氏が筑摩書房版『三国志』訳本から引用した例文に、行為者の名前がないからです。

筑摩書房版『三国志』訳本に行為者の名前がないのは、陳寿著『三国志東夷伝原文に行為者の名前がないからです。「甲州征伐」の例文を筑摩書房版『三国志』訳本の例文と同じ構文にするためには将の名前を省略せざるを得なかったのです。ズルをやったわけではありません。

    省略された行為者を挿入します

 行為者が省略されていて、例文があいまいになっています。この例文を書き直し、軍行の主人公の名前を入れてみましょう。

 合格発表の例文で、検証を行為者が単独の場合と複数の場合に分けました。今回も同じ作業をします。

 

まず一人の場合です

例文2

天正十年二月、信長はⒶ伊那、飛騨方面から侵攻し、勝頼を誅殺すると、さらにⒷ三河方面から進軍し、駿河を攻め取った。」

信長軍と徳川軍は同盟軍であったとはいえ信長がトップです。この書き直しに問題はありませんね。

この場合もA氏の主張に当てはめると「【勝頼を誅殺】 後 【三河方面から進軍】」と書き換えることが出来ます。

しかし、日本史研究者は誰もそうは考えていません。A氏の主張とは逆に【三河方面から進軍】後【勝頼を誅殺】」です。これを疑う人はいません。何故でしょう。

    信長は実際の行為者ではない

 もう少し、詳しく「甲州征伐」の推移を見てみます。

山梨県発行の『山梨県史』は様々な原資料から信長軍甲州侵攻の経過を伝えています。私はそれを次のように纏めました。

 

信長軍は三手に分かれて侵攻します。信忠率いる織田軍本隊が伊那、金森長近の部隊は飛騨、そして徳川軍が駿河方面から侵攻しています。

2月3日、  森長可隊が岐阜城を出発

2月12日、 織田信忠の本隊が岐阜城と長島城を出発

2月18日、 徳川家康浜松城を出発。

3月5日、  織田信長安土城を出発

3月11日、滝川一益が天目山の田野で勝頼一行を発見。勝頼と北条夫人は自害、嫡男 信勝と家臣ら全員が戦死します。

勝頼の首を取った滝川一益は信忠の部将です。

 

時間経過を追って例文に反映させてみます。

例文3

天正十年、二月三日、織田軍のⒶ森長可隊が飛騨方面からが侵攻し、二月十二日、本隊を率いる織田信忠は、二月十二日に伊那方面から侵攻した。すると、さらにⒷ徳川軍は、二月十八日に浜松城を進発し駿河を攻め取った。総大将の信長は三月五日に土城を出、三月十一日、滝川一益が逃亡する勝頼を発見し、これを誅殺した。」

 行為者が複数いる例文です。

 

明らかにA氏の主張を当てはめた場合とは逆です。【三河方面から進軍】の「後」【勝頼を誅殺】」です。

 

この例文の場合、行為者は三名です。森長可織田信忠徳川家康です。信長は3月 5日に安土城を出発したとあります。大局が決まってからです。直接の行為者ではありません。その信長が[例文2]で唯一人出てくるのは同盟軍の総指揮官・代表として記されているのです。なにかの過ちではありません

 

行為者が複数でA氏の「すると、さらに」=「後」という論理にとは逆の結論になりました。

  結語

逆の結論が出たのを見てA氏は、《「すると、さらに」が「すべての場合、無条件」で「後」である》などとは言っていない》と反論されるでしょう。

しかし、本気でそのように主張するのであれば「どのような場合」「どのような条件」があれば、「すると、さらに」=「後」であることになると述べてから、その要件に一致しているから「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります」と書くべきなのではないでしょうか。

氏は、段階を飛び越えた論理の展開が、結果として「すべての場合、無条件」に、と言っているのと同じだ、ということに気づいてくれるでしょうか。

次回から「すると、さらに」を離れます

    今回のまとめ

甲州征伐の [例文1]、[例文2]の段階では【勝頼を誅殺】」と【三河方面から進軍】の前後について史実は見えていません。

確定できるのは、[例文3]の段階です。勝頼の討たれた日付と、家康の進発日付を比較できるようになったからです。比較できることで、「すると、さらに」の後に書かれた【三河方面から進軍】が【勝頼を誅殺】」するより先だったことが浮かび上がりました。他の行為者の記事は確定された史実の補充的状況証拠として役に立っていますす。

 

「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」というという東夷伝序文訳文からの引用文は、私の作った[例文1]に匹敵します。

 [例文1]の段階にある序文訳文からの引用文では、情報量が圧倒的に不足していて氏の主張とは逆の場合もあるのです。

無条件で「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かり」ますというA氏の主張が成り立っていないことが証明できたと思います。

    次回について

前回、下記がA氏の論理だと書きました。

 

①『魏志(書)公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。 

②「又」=「すると、さらに」=「後」  

③「公孫淵を誅殺すると、さらに(その後に)ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(引用文より)」

④「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」

⑤「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」

⑥景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

 

 ここまでA氏の②「すると、さらに」=「後」にこだわり、振り回されてきました。

 

  「公孫淵を誅殺」と「魏が帯方郡を攻め取った」の前後は「すると、さらに」の存在によって決まるのではありません。具体的内容を持つ記述によって確定しなければなりません。それがなければ前後は不明として処理するのが正しい、と私は考えます。

 

 言いたいことはこれなのですが、A氏の論理は突っ込みどころが多くてどこまで言えば終わりになるかめどがつきません

 

 言いたいことはまだまだあるのですが、ここまでで一応、②の論理が成り立たなくなったと思います。で、今回で「又」=「すると、さらに」=「終」の呪縛から解き放されたいと思います。

 

 呪縛から解き放されると言っても、「又」=「すると、さらに」の検証で分かるように私が証明したのは、《A氏の主張は「無条件」では 成り立たないということ》だけです。今はA氏が⑥の論理にたどり着けないということを証明できただけのことです。「合格発表の例文」で見たように「するとさらに」=「後」が成り立つ場合もあるわけです。「すると、さらに」の論理抜きでも⑥の結論が出るかもしれません。その検証は、まだこれからです。

 

 私がこのブログを始めたのはA氏の主張する「卑弥呼の魏遣使は景初三年」を否定して、古田氏の「景初二年」が正しいことを示すためです。

 私はまだ「卑弥呼の魏遣使が景初二年」であることについては取り掛かってさえいません。

 なんとしても「景初三年が、二年の誤りであることが分ります。」と書けるところまでいかなくてはなりません。

 

 で、次回以降は「すると、さらに」を離れた《「遣使景初二年」の証明》と題して書き出したいと思っています。(もし継続して読んで下さっている奇特な方がおいででしたら)次回以降もよろしくお願いします。

「又」の検証を終えて、 ――記事№...26

古田武彦氏の説のウソ、・・№23―― 2−1 景初3年が正しい理由その22

 

 お詫び

 この№26は全面的に書き換えました。前回の論調では後に続かないことに気づいたからです。

不勉強のため、読んでくたさっている方(もしいらっしゃったら)には戸惑いを与えることにお詫び申し上げます。

 

ここまでの検証で分かったこと

     古田氏批判の出発点

A氏は自らのブログの冒頭でこう述べています。

 

「私は、古田武彦氏の『古代は輝いていたⅠ』を読んで、こんなに面白い本はないと感じました。ところが、『古代は輝いていたⅢ』を読み終えたとき、この大ウソを暴きたいと考えていました。」

 「この大ウソ」とは卑弥呼の初回遣魏使節、景初二年説のことです

 

氏は古田氏の嘘を暴くために、まず筑摩書房版『三国志』訳本東夷伝序文を引用すします。直接、古田氏批判をする前に、東夷伝序文の記事で初回遣魏使説を景初三年であると証明してしまう手順です。 

-地の文-

卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

-引用文-

公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

 景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

(今鷹真・小南壹郎・井波律子訳『三国志2』世界古典文学全集24B:筑摩書房

-地の文(解説)-

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。れゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

                   原      文

而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子爲其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。

(『三国志』原文はA氏のブログにはありません)

     A氏、六段階論理を展開

A氏はこの論理を二項目に据えて、前後六段の論理を展開しています。

 

①   『魏志(書)公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。(解説文中) 

 

「八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(魏書公孫度伝公孫淵)』

--八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)、公孫淵の軍兵は潰え、その子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急しくこれを撃ち、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。(訳・修正計画)」

 

②   (「又」=)「すると、さらに」=「後」  ()内は私の追加

③   「公孫淵を誅殺すると、さらに(その後に)ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(引用文より)」

④   「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」(解説文中)

⑤   「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」(解説文中)

⑥    景初2年が、3年の誤りであることが分ります。(引用文直前の地の文)

 

 この⑥項目で、「三国志」に明記されているのは最初の項目①だけです。②はA氏の推論であり③、④、⑤、⑥は①、②、から立論したA氏の論理です。

A氏の論理は②「すると、さらに」=「後」、が成り立つことを前提としています。

前回までの検証

「又」=「すると、さらに」=「後」の論理

A氏は序文を引用した後、解説して「(引用した序文を見れば)魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵

誅殺後であることが分かります。」といいます。

 

氏は解説文で「この序文から」両者の前後関係が「分かります。」と主張していますが、それは引用文の中のどこからでしょう。引用訳文を辿りました。

「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った」、この部分ですね。

さらに絞り込むと「公孫淵を誅殺」と「ひそかに兵を船で運んで海を渡し」とを「すると、さらに」という語句がつないでいるからです。

 

A氏は訳文が「Ⓐ公孫淵を誅殺Ⓑすると、さらにⒸひそかに兵を船で運んで海を渡し」とあるのだから、「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後で、あることが分かります」としています。煎じ詰めると「Ⓐ公孫淵を誅殺Ⓑすると、さらに」というフレーズは「Ⓐ公孫淵誅殺Ⓑ´後」というフレーズに置き換えられるといっています。

整理するとA氏は「すると、さらに」は「後」を意味していると主張していることになります。

「すると、さらに」=「後」という関係ですね。

 

氏の引用文と解説で読み取れるのはここまでですがまだ続きます。氏引用文の「公孫淵を誅殺すると、・・・・の郡を攻め取った。」は、原文の「誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,」の部分です。

原文の「又」は「すると、さらに」に当たります。

そうですよね、「又」を「すると、さらに」と訳せなければ「公孫淵を誅殺すると、さらに・・・楽浪と帯方の郡を攻め取った」、とは訳せませんよね。

 

原文の「又」が「すると、さらに」ですから、A氏は「又」=「すると、さらに」=「後」このように主張していることになります。

「又」=「後」

それで私は前回まで「又」=「後」が成立するかどうかを鋭意検証してきました。

 

記事№16以降、記事№25までのすべての回を使って「又」は「後」という意味をもたないことを証明しました。そのうえで、全『三国志』からすると少ないですが、現に東夷伝原文に出てくるすべての「又」が持つ意味を検証してみました。ここには書かなかった検証もしてみました。自慢ではありませんがいくつかの検証結果は、それ単独で 「又」≠「後」が証明できているものだと自負しています。

「又」≠「後」については皆さん食傷気味だと思います。

「又」=「すると、さらに」検証の復習

「又」≠「すると、さらに」の検証は少なかったと思います。「又」≠「後」の検証の中に埋もれてしまっているかもしれません。そこで簡単に復習をしてみます。

 

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、

--公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。(筑摩書房版『三国志』)」

 

「又」の訳語から見ていきます。『諸橋大漢和辞典』で当てはまる訳語は二つでした。

 

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。

❸ふたたびする。

 

筑摩書房版の訳者は「又」の訳語に『諸橋大漢和辞典』の訳語中にない「すると、さらに」という語を当てはめています。「さらに」という訳語の前に、「すると」という語を付け加えた新造訳語です。

 

日本語の「すると」は「勉強をすると成績が良くなる」、「貯金をするとお金がたまる」のように前の行為が後ろの行為に連続していることを表すために使います。順接の接続詞というのだそうです。

蛇足ですが「・・(したの)だが、・・」等は 逆接の接続詞と呼ぶのだそうです。

 

私は記事№.16で「中国語で前の行為が完了後、次の行為に結びつくこと」を示す場合、「了」等が使われていることを示しました。( 乞参照: 記事№.16 ―新たな二つの疑問―「すると、さらに」を、中国語訳してみました。)

「了」等が日本語の場合の「順接の接続詞」的役割を果たすのです。

陳寿著『三国志東夷伝序文の原文「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、」には「了」等、「順接の接続詞」的役割を果たす語句がないことを確認してください。

 

原文自体は両作戦の前後を述べていないのです。原文は景初年中(237~239年)に、二つの大きな作戦、「大興師旅、誅淵。」と「潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」とが実施されたといっているのです。 

「又」≠「すると、さらに」であると納得いただけたでしょうか。これが今までやってきた検証です。

 纏め

 お気づきでしょうが、A氏が主張しているの「すると、さらに」=「後」です。これまでの検証はあくまで、「又」=「すると、さらに」、「又」=「後」です。私は、まだこの主張についての検証を行っていません。

次回からはこれに触れたいと思います。

例文内の「又」の役割7 最後の「又」5――記事№...25

古田武彦氏の説のウソ、・・№22」――2−1 景初3年が正しい理由―その21

 

 今回は記事№21からの繰り返し説明が多くなります。前三回うまく説明しきれていないという私の思いがあってのことなのですが少し我慢してお付き合いいただければ幸いです。

  目次

 

楽浪郡北遷説」についての繰り返し

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」

この原文を筑摩書房版『三国志』訳本は次のようなに訳しています。

――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」

三国志修正計画」の訳文もほぼ同じ趣旨です。これだけであれば私に立ち入って論じる必要ありません。ところが「三国志修正計画」は、訳文に次のような注釈を付していました。

 

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致された以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正計画)」

 

私はこの注釈を「楽浪郡北遷説」と呼びました。この注釈で前回、前々回、その前と三度にわたっての検討を余儀なくさられました。

 

両翻訳部分だけを考えれば「又」についての私の理解には何の問題も生じません。

西安平を攻めたときは、新安・居郷を寇した時とは違い、戦場が楽浪郡という別の郡に及んでいます。

「復犯遼東、新安居郷、又(攻西安、于道上帶方令、略得樂浪太守妻子)。」

           遼東郡                   楽浪郡

「」のなかは” 復犯遼東 ”で括られた文節で、以下は遼東郡内で侵された地域名が列記されているのが普通す。新安、居郷、西安平は遼東郡でこの括りに当てはまります。帶方令、樂浪太守は楽浪郡の事柄であり、遼東郡というこの括りから外れています。本来、同じ文節に列記することはできません。

しかし陳寿西安平攻めを述べるにあたっては楽浪郡の帶方令・樂浪太守についてのでき事を付記したかった。そこで西安平の前に「又」を挿入することで、混乱を避けることにした。同じ遼東郡ではあるが西安平とその前二つ新安、居郷とは区別される記述である事を明示したうえで、「于道上」以下に楽浪郡の事柄を書き加えた。

というのが私の理解です。

 

ところが「「三国志修正計画」は、注釈で伯固が西安平を攻めたとき「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言っています。

両者とは楽浪郡の治所(平壌)と帯方県の治所です。「少なくとも」、というのは当帯方郡が分立する前、楽浪郡に県が十八あったからです。十八ある県の治所の内、少なくとも帯方県の治所は楽浪郡の治所とともに遼東郡内に徙されていた、と「三国志修正計画」はいうのです。では他の県の治所はどうなったのでしょう。濊 東沃沮等の勢力に押されて放棄されたのです。遼東郡に移された楽浪郡の治所と帯方県の治所はいわば亡命政権の所在地だということになります。伯固が西安平を攻めたとき楽浪郡という漢の行政組織は、すでに崩壊しその領域は放棄されていたことになります。

これが「三国志修正計画」の主張している説です。

 

 漢が楽浪郡を放棄し、楽浪郡の治所、帯方県の治所等を遼東郡に移し、伯固が攻めたのが遼東郡内にある両治所、だったとすれば、私の伯固はこの時楽浪、遼東二郡を攻めたから「又」を使って「攻西安平」を区別している、という私の理解は成り立たなくなります。ここに楽浪郡北遷説の検証を始めた理由があることはすでに申し上げました。

 

三国志修正計画」が、なぜ「楽浪郡を放棄した」と主張するのかを考えてみました。

「帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり」と言い、それを根拠に「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」と主張しています。

過去三回の記述で伯固が下地図のルートA、Bの征路を取ったと想定した場合だけこの主張が成立ことを述べました。

私はルートCが存在していて、このルートの現実性が一番高いことを述べ「三国志修正計画」の主張に反駁しました。伯固が西安平を攻めたときルートCをとっていれば楽浪郡の治所、帯方県の治所は楽浪郡内に存在していることに疑問は出ません。伯固が征路にルートCを取っていれば楽浪郡が放棄されていたという仮説を立てる必要は全くありません。伯固は楽浪、遼東両郡を蹂躙したのです。

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         伯固の征路 

三国志修正計画」の主張はルートA、(B)の征路しか存在しないという思い込みから来た主張であると考えます。

三国志修正計画」への反駁の試みは一応成功したと考えています。

 

また、陳寿はそれ以外にも「寇新安、居郷」と「攻西安平」を区別する必要を感じていたはずです。私の解釈に沿って考えてみます。

新安、居郷を寇した、この両事件が伯固の一回の侵犯事件なのか、別々の事件なのか、一切触れられていません。仮に「寇新安」、「寇居郷」、「攻西安平」と三度「犯遼東」が繰り返されたとします。

すると「寇新安」、「寇居郷」は一回の侵犯事件で一郡内の一城市が周辺を略奪される被害を受けました。「又攻西安平」では一回の侵犯で二郡に及ぶ被害を受けています。楽浪郡の県令が殺され、郡太守の妻子が拉致され、遼東郡の西安平に攻めかかられています。この軍行と並行して、二郡の範囲での略奪等については書いてこそありませんが、無数に起こったことは想像に難くないところです。「寇新安」、「寇居郷」と「攻西安平」では、受けた被害に相当な差があったでしょう。

仮に「新安・居郷」は一度の「犯遼東」で、連続的もしくは同時に「寇」されたのであったとしても、両者の被害は比較にならないほど大きかったのではないでしょうか。

「攻西安平」は一連の伯固の侵犯事件の中でも「又」と区別され特記され強調されてしかるべき規模のはずです。

 したがって私の文章上「又」の果たす役割理解は間違っていません。

 

「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」

記事№21で「楽浪郡北遷説」とは別に「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」を取り上げました。「楽浪郡」「虚構」をキーワードに検索してみてください。結構な数の該当記事が上がってきます。

伯固が西安平を攻めたとき朝鮮半島楽浪郡はなかったという点で、両主張は共通しています。

これは検証しておく必要がある、私はそう感じました。

 

 この説は朝鮮半島に、箕子朝鮮・衛氏朝鮮はもちろん、漢の四郡もなかったという説です。半島は古来ずーっと鴨緑江まで朝鮮民族?の地であり、漢の四郡は中国領内の吉林省遼寧省にあったといいます。韓の領域は北にずれ、空いた半島南部を埋めるように倭は半島南部にあったといいます。このことを隠蔽し、半島が古代から中国の支配下にあったことにするため、後世中国の史家が史書の解釈を意図的に捻じ曲げているのだそうです。

この説は『漢書』『後漢書』の記述を否定しているのではありません。曲解された解釈を正しているのだそうです。

 遼東郡、遼西郡の存在も否定していません。そして楽浪郡遼寧省(遼西、遼東地方)のどこかにあって、共存していたのだそうです。

 

西安平は考古学的証拠から遼寧省東南の端、現在の丹東市であることは否定できないでしょう(不存在説も否定はしていません)。

       

 

 

吉林省 (高句麗)

 
 

 

 

丹東市

(西安平)●

 朝鮮半島=)

 

 

 

遼寧省(遼西郡、東郡郡、楽浪郡)

 

また西安平は『漢書』地理志、『後漢書』郡国志で遼東郡に属すると書かれています。原本の文面は解釈で動かすことができるものではありません。

 

漢書』地理志、

遼東郡,秦置。屬幽州。戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平。有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海。行千二百五十里。莽曰長說。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險瀆,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。西安平,莽曰北安平。文,莽曰文亭。番汗,沛,水出塞外,西南入海。沓氏。

 

後漢書』郡国志

 辽东(遼東)郡秦置。雒阳东北三千六百里。十一城,户六万四千一百五十八,口八万一千七百一十四。

 襄平、新昌、无虑、望平、候城、安市、平郭、有铁。西安平、汶、番汗、沓氏

 

伯固は遼東郡の城市を直接寇したり、楽浪郡を抜けて西安平を攻めたりしています。吉林省高句麗遼寧省にある遼東郡の間は直接侵攻できる部分と楽浪郡に隔てられた部分があることになります。

すると四郡と韓の配置を、一例として下図のように模式化することができます。

           
 

高句麗

   
 

遼西郡

遼東郡

楽浪郡

 朝鮮半島=韓

 
 

西安平●

(遼東郡)

   
           

 

この模式を地図上に表すと次のようになります。

 

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       不存在説での伯固の征路

 

このばあいは半島内の征路は考えられませんから、二つ赤線が伯固の征路になります。(A)が、「寇新安・居郷」、(B)が、「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」です。

 

 (A)は単独遼東郡への侵攻であり(B)は楽浪郡と遼東郡への侵攻です。

 このように三郡と高句麗、韓を配置してみると「半島不存在説」は、私の「又」の意味理解に関しては何の影響も与えないことがわかります。

 

「半島不存在説」では遼東郡の範囲や楽浪郡の位置を明示していません。ですからその位置関係はこれ以外にもいろいろ考えられます。そして征路も、楽浪郡等の位置に合わせて様々な解釈ができます。

しかし私の「又」に関する理解は、遼東郡、楽浪郡遼寧省という狭い範囲に近接して存在して、高句麗が直接遼東郡を寇したり、楽浪郡経由で遼東郡の西安平を攻めることが出来る配置という設定が可能である限り破綻することはありません。

長く更新をせず申し訳ありませんでした。

理由の第一は田舎で一人住まいする母の件で三ヶ月ほど帰省していたことです。十分に気持ちを更新作業に向けることが出来ませんでした。

四月になって自宅に帰ってきたのですが、母が高齢で今後このようなことが繰り返し起こるのだろうと、うら悲しい覚悟をした今回の帰省でした。

 

第二の原因は「半島不存在説」批判に正面から取り組もうとしたことです。

この説は立論のために使う史書の資料批判が全くなく、使用法も自説に有利ならどんな使い方でもする。古学上の成果についての評価も恣意や杜撰さ満ちているというのが私の感想です。

それをいちいち指摘していかなければなりませんでした。そんなことに振り回され一歩も前に進めなくなってしまいました。

しかし私がこのブログで問題にしている点について「半島不存在説」の存在で影響をうける部分でないことがわかりましたので、泥沼から足を抜かせていただくことにして、何とか今回の更新となりました。

 

「半島不存在説」については下記のブログが所論を述べています。

 

テラさんの万華鏡 虚構の楽浪郡遼東説 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12094682024.html 

 

私はこのブログで「半島不存在説」の史料や、考古学的成果の使用が恣意的でありすぎることをもっと突っ込んで欲しかったと思いますが、今後の論及に期待しています。

 

「テラさんの万華鏡 」の管理人さんガンバッテクダサイ。

 

今回まで事例から「又」の役割について書いてきましたが、一応今回で終わることが出来たと思っています。次回からはまたA氏の主張と正面切って向かい合いたいと思っています。