「遣使景初二年」の証明 1――景初三年説の出発点 ――記事№...28

古田氏の説のウソ、・・№25」――2−1 景初3年が正しい理由その24

 さて、前回申しました通り、今回からは前向きに「遣使景初二年」の証明に取り組むことにします。

    目次

 

 「知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。」という謂いがありますね。「知彼知己、百戰不殆。」と言いますが私には知識の蓄積がありません。ですから「知彼而不知己、」にまでこきつければ「一勝一負」くらいには持ち込めるのではないでしょうか。

 なぜ「景初二年六月」でないという主張が成立するのかを見ていけば、逆に「遣使景初二年」が正しいとい証明する何かが見つかるのではないか、と思うのです。

しかし、「景初三年説」は凡百存在するでしょう。私が見ることが出来るのはその一部です。そこで割り切って代表的な説と、A氏の説を絡めて見ていくことにしまた。

内藤湖南と『日本書紀』神功紀・『梁書

近現代における景初三年説の始祖は内藤湖南だと思います。湖南は論文「卑弥呼考」で次のように述べています。

 

「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

 

 私にこの湖南の所説全体を対象にして一気に文章を纏める能力はありません。したがって枝葉に当たる「神功紀」と『梁書』について個別に検証しておきたいと思います。

神功紀

 「神功紀」とは『日本紀』のなかの神功皇后について述べた部分のことです。ご存じでしょうが念のため申し添えます。「神功紀」の遣使記事に対いて、新井白石は『古史通或問』で次のように評しています。

「『日本紀』」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。」

皇后摂政三十九年は景初三年です。その六月にはすでに帯方郡太守は存在しますし、帯方郡治への通行も可能です。なぜ「其實を得しにはあらじ。」と断定するのでしょうか。※。この疑問は先出です。気になる方は「白石は景初四年説」を先に読んでください。

 

日本書紀』神功紀の該当部分を引用します

(神功摂政)卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。(『日本書紀』神功紀)

 ごらんの通り「神功紀」の遣使記事の前には「魏志(『三国志』魏書)云(いう)」と但し書きがあります。『日本書紀』の編者は「この記事は魏志(書)から引用しました。」と断わっているのです。

くどいですが、「神功紀」が引用したといって記しているのは

「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡」です。ところが、倭人条にある原文は

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等、詣郡、」です。

 「神功紀」の引用文には、原文に「明帝」が挿入され、「景初〇年」が原文と食い違っているのです。

 

 これは明らかに原文引用の原則に背いています。引用文は、一字一句、正確に原文を複写していなければなりません。引用文に自らの説明・異見を添えたいときは、誤りなく原文を複写した前後に別途「時の皇帝は明帝で、景初二年とあるが、景初三年が正しい」という形で書き添えなければなりません。

日本書紀』の編者が奈良時代の人々とは言え、筆を執るものとしてこのあたりの認識がないわけがないと思います。

 

 引用文として断わり、その文中に原文にない字句が混入していればそれは誤写か、改竄・捏造です。

 ある新聞が、ある裁判の証人の証言として裁判所の記録を引用掲載したとします。もし引用された証言記事のなかに裁判所の記録にない文言が混入していたらどういうことになるでしょうか。読者は事実関係の把握を誤り、改竄・捏造として掲載記事に対する信用は勿論、新聞社自体の存立にもかかわることになりかねません。大問題です。

 ある学者が自分の研究論文の中で論拠として、湯川秀樹の論文の一部を抜粋引用したとします。もし引用された湯川秀樹の論文の中に、原文にない文言が混入していたらどういうことになるでしょうか。

 その研究論文の信用性かなくなるのはともかく、その学者の学者生命は断たれてしまうかもしれません。

 私が、A氏のブログからの引用文に別の文言を混入しても、私の記述を信じてくれますか。

 

 新井白石は、この誤引用を踏まえて神功紀の記述を「其實を得しにはあらじ。」としたのです。そのうえで「遣使の時期」を別の根拠から引き出しています。「神功紀」の年度記事は、白石にとって信用度ゼロなのです。私も白石の断定は正しいと思います。

 

 内藤湖南は『日本書紀』の編者がこの原則を無視し、誤りを犯していること、神功紀に誤写・改竄・捏造の疑惑があることを軽く見逃しています。編者が引用文中に自分たちの意見を混入させただけだと簡単に考えています。だから倭人条の「景初二年」と神功紀の「景初三年」を対等に比べ、神功紀が正しいなどと述べられるのです。

 

 とはいえ私は神功紀の編者に遣使記事について、意図的な書き換え、改竄・捏造があったとは考えません。

編者がどうしても「景初三年」という自分たちの意見を表明したいのであれば出典を変えればよかったのです。湖南も「梁書にも三年に作れり」として名を挙げている『梁書』を引用元にすればよかったのです。「魏志云」ではなく「梁書云」とすればよかったのです。それにも拘わらず、編者は原文に「景初二年」とある『魏志』を選び、『梁書』に「景初三年」とあってもそれを出典として選んではいません。

「日本史を編纂していた書紀の編者たる者が、『梁書』倭伝(条)」を見ていない、とは考えられません(とA氏も解説を加えて述べています。)」。

 自分たちの意見を表明するもっと簡単な方法があります。「魏志云」の三文字を外すのです。『日本書紀』は当時最高の学者が編纂しているのです。正面から自分たちの意見として押し出しても、そのことに、だれが苦情を言い立てることが出来るでしょう。編纂責任者の舎人親王あたりが何か言うとしても、もっと高次元の問題でしょう。それにも関わらず編者は「魏志云」と断わっています。

 どちらにしても「景初三年」と主張するために改竄・捏造する必要は全くないのです。編者自身は「魏志」を引用することにこだわりを持っており、自信をもって「魏志」からの引用であると宣言しているように思えます。

 

 私は、「明帝」につては知りすぎた学者の筆の滑りすぎ、「二」と「三」の違いについては単純な誤写、それらと、校正ミスの複合と断じています。

(乞参照、記事№10)

梁書

 続いて『梁書』の該当部分を引用します。

 

至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以爲親魏王,假金印紫綬。(梁書 東夷諸戎傳 倭条)」

 

  この『梁書』東夷諸戎傳 倭条記事は「神功紀」のように「魏志云」はありません。一応、姚思廉が独自に調査の上著述したと想定します。

 

 次にこの記事についてのA氏の評価を引用します。

 魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。

また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。

魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉(ようしれん)のようです。「梁書倭伝(条)」には、『魏志(書)』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて、「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」と記しています。

 A氏は『梁書』の編者 姚思廉を景初三年説の大先達だと言っています。そして『梁書』の「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」という記事(の訳文)を引用して、遣使が景初三年である論拠としています。この訳文の出典は不明です。

 A氏は公孫淵が誅せられたのは景初二年八月二十三日だとしています。すると引用訳文中の、「景初3年」という時期、期間の指定は「公孫淵が誅せられた」にはかからず、「卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」にのみかかっていなることになります。本当にそうなのでしょうか。これを検証してみます。

倭条の公孫淵誅殺は景初三年

まずネットにある諸先輩のご意見を見てみました。

「公孫淵」で検索しWikipediaを見ました。注釈の一つに次の記事がありました。

「姚思廉は『梁書』では「至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺使朝貢」、『北史』 倭国伝では「魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣使朝貢」と公孫淵が殺された後の景初3年とした。」

「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,」の訳文を拾ってみました。

「魏景初三年に至り、公孫淵の誅の後、卑弥呼は使者を遣わし朝貢することを始めた。」

「魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し」

  なるほどどちらともとれる訳文が多いようですね。Wikipediaにいたってははっきりと「公孫淵が殺された後」の景初三年としています。

 

 しかしこの理解はおかしいのです。『梁書』東夷諸戎傳倭条内にある同じような構文を見てみましょう。

 

「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。

漢靈帝の光和年中に倭國は亂れ,互いに攻伐しあうこと歷年,やがて一女子を共立し卑彌呼を王と爲した。」

 「光和中」は直近の「倭國亂」にかかっています。

 

「晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。

晉安帝の時,倭王贊有り。贊死す,弟の彌を王に立てた。;彌が死んだ。その子の濟を王に立てた;濟が死んだ,その子の興を王に立てた;興が死んだ,その弟の武を王に立てた。」

 「晉安帝時」がどこまでかかっているかは不明ですが、少なくとも直近の「有倭王贊」にはかかっています。

 

「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。かえて男王を立てた。國中が服さず,またもや誅殺しあった。そこで卑彌呼の宗女臺與を立てて王となした。」

 「正始中」は直近の「更立男王」から「國中不服,更相誅殺,」までにかかっています。

 

「齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍

齊建元年中に武の持節を除き、督倭・新羅任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に任じた。」

 「齊建元中」は以後のすべてにかかっています。

 

であれば

「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢

魏は景初三年に至って公孫淵を誅し、その後,卑彌呼の遣使朝貢が始まった。」

 となります。年度指示直近の「孫淵誅」には当然、景初三年がかかっているのです

 

 間違いなく『梁書』東夷諸戎傳倭条では公孫淵誅殺を景初三年だと言っています。

高句驪(高句麗)条では景初二年

 倭条では公孫淵誅殺を景初三年だといっていることを踏まえて、ちょっと(?)びっくりする記事を紹介します。

魏景初二年,遣太傅司馬宣王率衆討公孫淵,位宮遣主簿、大加將兵千人助軍。(東夷諸戎傳高句驪条)

魏の景初二年 太傅の司馬宣王が衆を率いて公孫淵を討った。高句驪王位宮遣は主簿、大加の將兵千人の軍を派遣してこれを助けた。

  ここでは迷う余地もなく「討公孫淵」を景初二年と言っています。「討公孫淵」が二度あるわけも無いのに二つの発生日付があるのです。本来これで「討公孫淵」に関連する『梁書』の記事は全く信頼できないことになります。白石は遣使時期についての自説の根拠として『梁書』を一切使っていません。

 

 それはさておき、A氏と内藤湖南は、倭条と高句驪条、どちらの記事を基準にしているのでしょう。

 湖南は「梁書にも三年に作れり」と書いています。「作れり」とは”わざわざ明記してある”といったくらいの意味でしょうか。三年と明記しているのは倭条です、高句驪条にはありません。

 A氏も「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって」と書いています。当然、倭条です。

 で、今後の記述は、A氏が公孫淵誅殺を景初三年と倭条を自分と同意見だと見なしているとして進めます。

遣使は景初四年でなくてはならない

 公孫淵誅殺を「景初2年8月23日」としているA氏と、「景初三年」としている『梁書』倭条が同意見ということが成り立つか?、疑問を持たれたとしも、言っている私が無理をして繋いでいるのですから、疑問を持つほうが当たり前です。

 とりあえず、A氏は公孫淵誅殺が「景初三年」であっても「遣使」が「景初三年」であれば同意見とみなしていると考えましょう。もう少し検証を続けてみて「遣使」が「景初三年」という結論がでなければA氏の主張は完全に破綻したことになります。

 

 さて公孫淵誅殺を景初三年と言っているとなる『梁書』は倭の遣使をいつだといっているのでしょうか。

 「公孫淵誅殺」をみて恐慌をきたし朝貢使を出したと考えると、事情が許す限り「公孫淵誅殺」の直近だと考えるべきでしょう。ただ『梁書』に個々の出来事に日付はありません。もし「公孫淵誅殺」が十二月であれば景初三年内は無理です。この場合「景初三年」は「公孫淵誅殺」だけにかかっていることになります。

しかし「景初三年」が最後の「金印紫綬」までかかるっていると考えれば、公孫淵誅殺は倭が景初三年内に遣使出来る時期だったと理解することになります。

 普通に解釈すれば、曖昧ではありますが、これが妥当な理解だと思います。

 

 では引用された『梁書』の記事はA氏の主張の論拠になるのでしょうか。残念なことにA氏には普通の解釈は適用できないのです。

 

 氏の論理をなぞってみます。

 “「公孫淵誅殺は景初2年8月23日」→「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後」→「景初2年6月」には帯方郡太守は未就任→倭の帯方郡到着は「景初3年6月」”と言います。

そのうえで「この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉のようです。」として『梁書』を遣使景初三年説に結び付けています。

 A氏の論理に沿って遣使が景初三年にならなければなりません。

 

 公孫淵誅殺を景初三年に入れ替えてみます。

“「公孫淵誅殺は景初3年8月23日」→「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初3年8月以後」→「景初3年6月」には帯方郡太守は未就任→倭の帯方郡到着は「景初4年6月」”。

倭の遣使、帯方郡到着は景初四年六月となりました。

 

 内藤湖南の論理もたどってみます。

「全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。」

  湖南は自分の論理の裏付けとして『梁書』倭条を引き合いに出しています。倭条の記事で遣使が景初三年である、と言っていることはほぼ間違いないでしょう。しかし同じ倭条に「淵の滅びしは景初三年」との記述があることに気づいていないのでしょうか、それとも無視しているのでしょうか、どちらでしょう。

 「淵の滅びしは景初三年」をもとに湖南の論理で考えると「淵の滅びしは景初三年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。」

となり、倭の遣使、帯方郡到着は景初四年六月になります。

同じ倭条の遣使記事とは相いれないものです。

 

 したがって「神功紀」の記事と同じく『梁書倭人条は「遣使景初三年説」の裏付けにはなりません。

 

(乞参照、記事№8)

 

白石は正始四年説

 

 新井白石も「古史通或問」で「景初二年六月」には「我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」と主張しています。

 

魏志に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしは心得られず。遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

  古田氏は『邪馬台国はなかった』で白石の「其道未だ開けざらむ」を「遼東郡から朝鮮半島にかけて司馬懿軍と公孫淵軍の戦闘中」という主張として理解しています。

 

A氏は新井白石も遣使「景初三年」説を主張したように言いますが、間違いです。

『晋書』には公孫氏平ぎて倭女王の使い帯方に至りしとみえたり。これ其実を得たりしとぞみえたる。さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて、その年月のごときは詳らかならす。「日本紀」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」   (『古史通或問』)                      

 白石は景初二年の遣使を否定していますが、同時に「皇后摂政三十九年(景初三年)に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ」として、先にも見たとおり景初三年も否定しています。そして正始四(243)年を「魏に通じたまいし事の始め」の年としています。

「行かない」、「行けない」    

  さてここで「神功紀」、『梁書』を取り除いたA氏と内藤湖南の論理を抜粋します。白石は景初三年説とは違うのですが、列記します。

 

内藤湖南: 倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。

A氏: 公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

白石: 遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。(景初2年6月に)其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

 三人の主張を要約すると内藤湖南は「帯方郡に行ける状態ではなかった」、A氏は「太守不在の帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」新井白石は「其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」で良いと思います。

 さらに三人纏めて要約すると「行かない」、「行けない」となるのでしょうか。要約しすぎかな。

ある方の駁論

 であれば、「景初二年六月」に帯方郡治行が可能であることを証明すればよいわけです。もともとの倭人条の記述は「景初二年遣使」なのですから

 

 二年論者から、「景初二年」否定に対しての有効な反駁はあったのか。申し訳ないが筆者は寡聞にして存じ上げない。まじめな話、 ご存知の説があればご一報いただきたい。

 ただ、「もう一息で有効なのに、惜しい」と思わせる説はありました。それを紹介します。筆者を仮にB氏とします。

「行く」、「行けた」ことの典拠

この説の典拠は二つあります。一つ目は『三国志』東夷傳韓条です。

「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。(『三国志』東夷傳韓条)

筑摩書房版『三国志』訳本は次のよう訳しています

桓帝から霊帝の末のころ(一四七~一八九)になると韓と濊は盛んとなって、楽浪郡やその配下の県の力ではそれを制することができず、民衆は多くの韓国に流入した。建安年間(196~220)、公孫康は屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を作り、公孫模や張敞らを送ってこれまでとり残されていたその地の中国の移住民たちを結集し、兵をおこして韓と濊をうたせた。その結果韓国に流入していた移住民たちも少しずつ戻ってくるようになった。これ以後、倭と韓とは帯方郡の支配を受けることになった。               

(東夷傳韓条・訳、筑摩書房版『三国志』訳本)」)

修正計画のも翻訳もほぼ同じです。

桓帝霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流入した。建安中(196~220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐ち、旧民は次第に(その地から)出国し、この後は倭・韓は帯方に属すようになった。

  (東夷傳韓条 訳:修正計画)

陳寿著『三国志』原本東夷傳韓条は、魏の任命した太守が存在していなくとも、帯方郡は建安年間(196~220)から存在し、倭は帯方郡支配下にあったと記しています。

 

典拠の二つ目は『三国志公孫度傳公孫淵条です。

「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳)

二年(238)春、太尉司馬懿を遣って公孫淵を征伐させた。六月、軍は遼東に至った。(訳:修正計画)」

 

 太尉司馬懿は六月になって遼東郡に到着しています。それから遼隧での迎撃を打ち破り、公孫淵の立てこもる襄平包囲戦へと移っていきます。帯方郡治は襄平から直線距離で約四百㎞東南にあったといわれています。これは下関市から明石市に相当します。両者の間は長山山脈や鴨緑江等で隔てられています。A氏によれは魏軍が楽浪・帯方両郡に攻め込むのは公孫淵誅殺後の八月末以降です。遠く離れた帯方郡はそれまで平穏だったのです。

ちょっと惜しいB氏の主張

 B氏は両記事を根拠に六月には倭使は公孫淵に謁を求めて帯方郡治を訪れていた、と主張しています。使者が遼東郡での戦闘に決着がつくのまで、と待機しているうちに、進駐してきた魏軍に引き渡され、新たに魏が任命した帯方郡太守の手よって、洛陽へ身柄を送られた。その過程で、公孫淵に謁を求めていた倭使が、いつのまにか魏の天子へ朝見を求めた倭使へとすり替わってしまった。

といったストーリー構成でしたが、ネット上のアドレスを記録し忘れてしまいました。

 

 景初三年説は帯方郡治へは、太守がいないから「行くはずがない」、もしく、は戦の最中に「行けるはずがない」という主張から出発しています。

 B氏は帯方郡の建郡は建安年間(196~220)に公孫度によってなされていた。公孫家の影響を受けながらも太守は存続しており、その帯方郡に属していた倭が貢献のため郡治に参上するのは当たり前である。景初二年六月、魏軍ははるかかなたの遼河のほとりに到着したばかり、倭使が郡治へ到着するのに何の障害もない、と反駁しています。ここまでは、根拠もしっかりしていますし卓見です。遣使景初二年の証明として、方向は間違っていないと思います。

 もう一息というのは、公孫淵への朝貢使が、明帝への遣使にすり替えられたというストーリーが、原典(公孫度傳・東夷傳韓条)の記述につながらない点です。

 

では私も、この方の業績を踏まえつつ、東夷傳の記述からはみ出しすぎないように気を付け「景初二年か、三年か」について検証を始めたいと思います。

「すると、さらに」からの卒業、 ――記事№...27

 

古田氏の説のウソ、・・№24――2−1 景初3年が正しい理由その23

 「すると、さらに」=「後」の検証

前回、つぎは「すると、さらに」=「後」の検証にとりかかる、と書きました。

 

ただしお断りしておきますが、私は「すると、さらに」=「後」を全否定しているわけではありせん。成り立つ場合はあると思います。

ただA氏の主張する《「すると、さらに」とあれば、すべての場合、無条件で「後」だ》という考え方に疑問を呈しているのです。

  訳者たちの訳語

「又」を「すると、さらに」と訳したのは、A氏ではなく筑摩書房版『三国志』の訳者先生たちです。とりあえず先生たちも「すると、さらに」を「後」と考えて訳したのかどうか見てみましょう。

    「筑摩版訳本」と「修正計画」

東夷伝には二十五か所で「又」が使われています。訳語として使われているのは下記のとおりです。

加えて 1、 別に 1、ふたたび 2、さらに 6、また 13、

省略してあるのが1、そして「すると、さらに」が一か所です。

 

先生方は「又」という接続詞の訳語を、省略まで含めると七種類も使っています。「すると、さらに」以外に《○○した「後」に》と解釈できる訳をしていません。基本的に《複数ある事物や出来事を結びつける接続詞》といった感じで使っているようです。

同じ漢字「又」を二十五か所で使って、一つだけ違う意味に解釈するというのは何か引っかかります。

 

私の意見は記事№18と20で書きました。

《「又」は、並記された事物や出来事同志を結びつけるために使う、もしくはある条件(例えば時とか)で括られ併記された事物や出来事の内、他と異なる条件を備えた例を他と区別するために使っている。》と

 

「修正計画」は訳語を、二十五か所、すべてそのままの「又」で済ませています。 勿論、日本語の又です。

「修正計画」は東夷伝に出てくる中国語の「又」の意味を、すべて日本語の「又(また)」であると考えているのです。二十五か所全部を「又」と訳すのは作業的にはすごくシンプルです。しかし、読者は、同じ語が頻繁に出て来て煩わしく感じるのではないでしょうか。

 

 筑摩書房版『三国志』訳本は正式名称を『世界古典文学全集 第24.25.26巻 三国志』といいます。文学作品の翻訳書としての扱いなのです。文学作品では、読みにくくなることを避けるため、できるだけ同じ単語や文字を重複させないという作法がありますね

筑摩書房版『三国志』訳本を翻訳する先生方も二十五か所全部を同じ意味にとらえていた。しかし文芸書として読む読者に煩雑感を感じさせたくない、そのため訳語に変化を与えた。

「すると、さらに」はその訳語、七つの内の一つだと考えることもできませんか。

「後」を意味する語句とは認識しないで「すると、さらに」と訳したのかもしれません。

 

A氏は「すると、さらに」を「後」だと再翻訳してくれますが、最初に翻訳するにあたって、先生方が直接「後」という訳語をつかうのに何の障害もありません。そして「後」の方がシンプルで分かりやすい。先生方にはわざわざ「すると、さらに」と婉曲に表現しなければならない理由はないのです。

    筑摩書房版訳本の景初二年説

この憶測には根拠があります。

「景初二(237ママ)年六月、倭の女王は、太夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。帯方郡太守の劉夏は役人と兵士をつけて京都まで案内させた。その年の十二月、倭の女王へのねぎらいの詔書がくだされた。(筑摩書房版『三国志』訳本、307頁 魏書東夷伝倭人条)」 

 筑摩書房版訳本は遣使景初二年説を取っているのです。

 

このままではなぜ「すると、さらに」=「後」と考えなかった根拠となるか分かりづらいと思いますので注釈を入れます。

 

A氏の「景初三年説」に至る論理は次のような過程です。

 

  

①   公孫淵誅殺は景初2年8月23日

 

②    「又」=「すると、さらに」=「後」

 

③   「公孫淵を誅殺」の後「楽浪と帯方の郡を攻め取った」

 

④   「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」

 

⑤   「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」

 

⑥     景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

この論理の⑥を入れ替えて逆にたどってみます。

⑥遣使は景初二年六月。

⑤景初二年六月に倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出た。

④魏が帯方郡に太守を置くのは、景初二年六月以前。

③「公孫淵を誅殺」以前に「楽浪と帯方の郡を攻め取った」。

②「又」=「すると、さらに」=「前」。

①   公孫淵誅殺は景初2年8月23日

 

いかがですか。①以外は全部ひっくり返ってしまいます。筑摩書房版訳本の訳者たちが=「後」と考えていたら、「景初二年六月」とは訳せません。

つまり訳者たちは「すると、さらに」を《「公孫淵を誅殺」した後「楽浪と帯方の郡を攻め取った》と理解させる順接の接続詞と意識して使っているのではないのです。であれば訳者は「すると、さらに」は、ほかの六種類の訳語と同じく、前後を対等に結びつける接続詞として使っていることになります。

 

=「前」と考えたとまでは言いません。おそらく「すると、さらに」と訳すことで=「後」という理解が出てくるとは想像もしていなかったのでしょう。 

 

正解は先生方しかわかりません。しかしはるか昔の事、このように微妙なことは先生方も記憶していないでしょう。しかし、根拠はありました。憶測を推測ぐらいには格上げしてもらえるでしょうか。皮肉なことに使い始めた当事者でさえ「すると、さらに」を「後」とは理解していないかもしれないのです。

  信長と鉄砲

A氏は「Ⓐ公孫淵を誅殺すると、さらにひそかにⒷ兵を船で運んで海を渡し」を引用して「この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。」といいます。

 

《「Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ」とあれば、必ず、「Ⓐ「先」→「後」Ⓑ」》

この関係が普遍的で固定していて、初めてⒷ「が分かります。」と言えます。

 

「Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ」から「Ⓑ「先」→「後」Ⓐ」という反対の結論が出る事例があると、A氏の主張成り立ちません。もしくはⒶとⒷが同時という結論でも同じです。

 

中日新聞のホームページに水野誠志朗氏の書かれたコラムが載っています。

http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=630&comment_sub_id=0&category_id=233

 織田信長斎藤道三の対面を取り扱った《「であるか」、19歳の信長、斎藤道三を唸らせる》という表題の記事です。その一部分を引用させてもらいます。

場所は尾張と美濃の国境にあったとされる富田という集落の正徳寺。信長は鉄砲や槍を携えた親衛隊800人ほどを引き連れ、いつもの「たわけ」の格好で聖徳寺へ向かいました。その行進を富田の町外れで隠れてこっそり見ていたのが道三です。 ひょうたんをぶら下げた信長は見るからにうつけものでしたが、兵が持つ500もの鉄砲、500もの6メートルを超える長槍を見て驚きます(槍は長いほど有利ですが、扱うためには厳しい訓練が必要です)。

これは『信長公記』が出典でかなり有名な場面です。ネットで「信長、徳寺、鉄砲、」を検索してみてください、ほかにも同様な記事を見ることが出来ます。

 

信長の父信秀は天文二十一(1552)年三月三日に死去しました。 正徳寺の対面はその翌年、天文二十二(1553)年、です。

信秀が長槍部隊や鉄砲隊を擁していたという記事を見たことはありません。配下の国人部将ごとに戦闘に参加する典型的な戦国武将の戦闘形態をとっていたと思われます。すると長槍や鉄砲による部隊編成は信秀の死後始まったと思われます。

 

引用した記事を次のように書き換えてみます。

織田信長はⒶ鉄砲隊を編成すると、さらにⒷ長槍部隊も編成した」

 

記事の趣旨は違ってきますが、「すると、さらに」を使って書き換えた文章としては、問題ありませんよね。

このセンテンスは《Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ》という構造ですからA氏の主張に従えば、「鉄砲隊を編成した後、長槍部隊編成した」といっていることになります。

 

しかし物事はそう単純ではありません。

槍は自領の刀鍛冶に命じて作らせればよく、それほど入手に困難はなかったでしょう。長槍部隊は槍を購入すれば後は手入れに配慮すればよく、短い期間でも部隊編成はできるでしょう。

しかし鉄砲の入手は堺の商人と接触がなければ難しかったようです。購入後も槍と違って、火薬や弾丸を切らさないルートの確保が必要です。部隊編成は、それやこれやの要素を調整しながら進めなければなりません。鉄砲だけ手に入れても訓練さえできないのです

このような諸条件を考えあわせると、文面だけからA氏の主張通り「鉄砲隊編成」が先であったと理解することには疑問符が付くことになります。

 

私は『信長公記』にある「対面記事の内容」そのものに種々の疑いを持っているのですが、それは別の話なので触れません。

  合格発表の例文

A氏の主張に疑問符が付いたところでより詳しく検証するために幾種類かの例文を作りシミューレションをしてみました。

中でも簡単な例文を書きだします。

 

ある予備校の大学合格実績報告を模した例文です。私立大学の合格発表は国立大学の発表より早く行われます。私立大学は学生確保のため国立大学の合格発表より合格発表と学費納付期限を早く設定するのです。

 

まず受験生が一人の場合です。受験生は二校受けたことにします。受験生が一人の場合、二つの合格には必ず前後関係があります。

「○○予備校の××君は、Ⓐ慶応大学に合格すると、さらにⒷ東京大学にも合格した」

書かれている通り、まず慶応大学に合格し、その「後」、東京大学に合格したのです。このケースの場合は「すると、さらに」=「後」でA氏の論理が成り立っています。

しかし予備校は、大学の格を考えて受験生募集を有利にするため次ように発表する場合もあるでしょう。

「○○予備校の××君は、Ⓑ東京大学に合格すると、さらにⒶ慶応大学にも合格した」

事実経過と、記載されている合格認知の順序は逆になっています。「すると、さらに」は時間の前後関係を示す”順接の接続詞 ”ではなく、××君が合格した大学を”併記するための接続詞 ”になっています。この場合はA氏の「すると、さらに」=「後」という論理は通用しません。

 

受験者が二人の場合を考えてみます。

「○○予備校のⒶ××君は慶応大学に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、東京大格に合格した。」

この場合、まず××君が慶応大学に合格し、その後△△さんが東京大学に合格したのです。このケースの場合は「すると、さらに」=「後」でA氏の論理が成り立ちます。

「○○予備校の出身Ⓐ××君は東京大学に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、慶応大学に合格した。」

大学の格を考えると、予備校の発表はこうなる場合もあるでしょう。Ⓑ慶応大学合格が先でⒶ東京大学合格が後です。A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は成り立ちません。

「○○予備校の出身Ⓐ××君は東京大学理学部に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、法学部に合格した。」

東大の合格発表は推薦入試:2018年2月7日(水)一般入試:2018年3月10日(土)だそうです。どちらが後か先かは問題にもなりません、同時です。A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は成り立ちません。

 

五つの例文で見るように、「すると、さらに」=「後」は何時でも成り立つわけではありません。

ⒶとⒷの行為が同一人による行為で両行為には無条件で前後関係が生じます。時系列を追って書いてある文章では、ふつうにA氏の論理が成り立ちます。しかし書き手の都合で現実とは倒置される場合があります。その場合は成り立ちません。

ⒶとⒷの行為者が別人である場合、ⒶとⒷには前後関係がある場合と同時期の行為である場合とが生じました。前後関係があるといっても記述上Ⓑが先の場合もあります。

A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は苦戦ですね。

  甲州征伐の例文

ちょっと複雑な別の文例でA氏の主張を検証して見てみましょう。織田信長が武田氏を滅亡させた史実についての記述です。今度はA氏が引用した東夷伝の文にすり合わせていきます。

例文1

天正十年二月、Ⓐ伊那、飛騨方面から侵攻し、勝頼を誅殺すると、さらにⒷ三河方面から進軍し、駿河を攻め取った。」

文章構造は筑摩書房版『三国志』訳本東夷伝の引用文と同じに作ってあります。

A氏の主張が正しければ、家康は勝頼が誅殺された後、三河方面から進軍したことになります。

    行為者名を省略しました

この例文では行為者の名前が省略してあります。それはA氏が筑摩書房版『三国志』訳本から引用した例文に、行為者の名前がないからです。

筑摩書房版『三国志』訳本に行為者の名前がないのは、陳寿著『三国志東夷伝原文に行為者の名前がないからです。「甲州征伐」の例文を筑摩書房版『三国志』訳本の例文と同じ構文にするためには将の名前を省略せざるを得なかったのです。ズルをやったわけではありません。

    省略された行為者を挿入します

 行為者が省略されていて、例文があいまいになっています。この例文を書き直し、軍行の主人公の名前を入れてみましょう。

 合格発表の例文で、検証を行為者が単独の場合と複数の場合に分けました。今回も同じ作業をします。

 

まず一人の場合です

例文2

天正十年二月、信長はⒶ伊那、飛騨方面から侵攻し、勝頼を誅殺すると、さらにⒷ三河方面から進軍し、駿河を攻め取った。」

信長軍と徳川軍は同盟軍であったとはいえ信長がトップです。この書き直しに問題はありませんね。

この場合もA氏の主張に当てはめると「【勝頼を誅殺】 後 【三河方面から進軍】」と書き換えることが出来ます。

しかし、日本史研究者は誰もそうは考えていません。A氏の主張とは逆に【三河方面から進軍】後【勝頼を誅殺】」です。これを疑う人はいません。何故でしょう。

    信長は実際の行為者ではない

 もう少し、詳しく「甲州征伐」の推移を見てみます。

山梨県発行の『山梨県史』は様々な原資料から信長軍甲州侵攻の経過を伝えています。私はそれを次のように纏めました。

 

信長軍は三手に分かれて侵攻します。信忠率いる織田軍本隊が伊那、金森長近の部隊は飛騨、そして徳川軍が駿河方面から侵攻しています。

2月3日、  森長可隊が岐阜城を出発

2月12日、 織田信忠の本隊が岐阜城と長島城を出発

2月18日、 徳川家康浜松城を出発。

3月5日、  織田信長安土城を出発

3月11日、滝川一益が天目山の田野で勝頼一行を発見。勝頼と北条夫人は自害、嫡男 信勝と家臣ら全員が戦死します。

勝頼の首を取った滝川一益は信忠の部将です。

 

時間経過を追って例文に反映させてみます。

例文3

天正十年、二月三日、織田軍のⒶ森長可隊が飛騨方面からが侵攻し、二月十二日、本隊を率いる織田信忠は、二月十二日に伊那方面から侵攻した。すると、さらにⒷ徳川軍は、二月十八日に浜松城を進発し駿河を攻め取った。総大将の信長は三月五日に土城を出、三月十一日、滝川一益が逃亡する勝頼を発見し、これを誅殺した。」

 行為者が複数いる例文です。

 

明らかにA氏の主張を当てはめた場合とは逆です。【三河方面から進軍】の「後」【勝頼を誅殺】」です。

 

この例文の場合、行為者は三名です。森長可織田信忠徳川家康です。信長は3月 5日に安土城を出発したとあります。大局が決まってからです。直接の行為者ではありません。その信長が[例文2]で唯一人出てくるのは同盟軍の総指揮官・代表として記されているのです。なにかの過ちではありません

 

行為者が複数でA氏の「すると、さらに」=「後」という論理にとは逆の結論になりました。

  結語

逆の結論が出たのを見てA氏は、《「すると、さらに」が「すべての場合、無条件」で「後」である》などとは言っていない》と反論されるでしょう。

しかし、本気でそのように主張するのであれば「どのような場合」「どのような条件」があれば、「すると、さらに」=「後」であることになると述べてから、その要件に一致しているから「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります」と書くべきなのではないでしょうか。

氏は、段階を飛び越えた論理の展開が、結果として「すべての場合、無条件」に、と言っているのと同じだ、ということに気づいてくれるでしょうか。

次回から「すると、さらに」を離れます

    今回のまとめ

甲州征伐の [例文1]、[例文2]の段階では【勝頼を誅殺】」と【三河方面から進軍】の前後について史実は見えていません。

確定できるのは、[例文3]の段階です。勝頼の討たれた日付と、家康の進発日付を比較できるようになったからです。比較できることで、「すると、さらに」の後に書かれた【三河方面から進軍】が【勝頼を誅殺】」するより先だったことが浮かび上がりました。他の行為者の記事は確定された史実の補充的状況証拠として役に立っていますす。

 

「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」というという東夷伝序文訳文からの引用文は、私の作った[例文1]に匹敵します。

 [例文1]の段階にある序文訳文からの引用文では、情報量が圧倒的に不足していて氏の主張とは逆の場合もあるのです。

無条件で「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かり」ますというA氏の主張が成り立っていないことが証明できたと思います。

    次回について

前回、下記がA氏の論理だと書きました。

 

①『魏志(書)公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。 

②「又」=「すると、さらに」=「後」  

③「公孫淵を誅殺すると、さらに(その後に)ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(引用文より)」

④「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」

⑤「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」

⑥景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

 

 ここまでA氏の②「すると、さらに」=「後」にこだわり、振り回されてきました。

 

  「公孫淵を誅殺」と「魏が帯方郡を攻め取った」の前後は「すると、さらに」の存在によって決まるのではありません。具体的内容を持つ記述によって確定しなければなりません。それがなければ前後は不明として処理するのが正しい、と私は考えます。

 

 言いたいことはこれなのですが、A氏の論理は突っ込みどころが多くてどこまで言えば終わりになるかめどがつきません

 

 言いたいことはまだまだあるのですが、ここまでで一応、②の論理が成り立たなくなったと思います。で、今回で「又」=「すると、さらに」=「終」の呪縛から解き放されたいと思います。

 

 呪縛から解き放されると言っても、「又」=「すると、さらに」の検証で分かるように私が証明したのは、《A氏の主張は「無条件」では 成り立たないということ》だけです。今はA氏が⑥の論理にたどり着けないということを証明できただけのことです。「合格発表の例文」で見たように「するとさらに」=「後」が成り立つ場合もあるわけです。「すると、さらに」の論理抜きでも⑥の結論が出るかもしれません。その検証は、まだこれからです。

 

 私がこのブログを始めたのはA氏の主張する「卑弥呼の魏遣使は景初三年」を否定して、古田氏の「景初二年」が正しいことを示すためです。

 私はまだ「卑弥呼の魏遣使が景初二年」であることについては取り掛かってさえいません。

 なんとしても「景初三年が、二年の誤りであることが分ります。」と書けるところまでいかなくてはなりません。

 

 で、次回以降は「すると、さらに」を離れた《「遣使景初二年」の証明》と題して書き出したいと思っています。(もし継続して読んで下さっている奇特な方がおいででしたら)次回以降もよろしくお願いします。

「又」の検証を終えて、 ――記事№...26

古田武彦氏の説のウソ、・・№23―― 2−1 景初3年が正しい理由その22

 

 お詫び

 この№26は全面的に書き換えました。前回の論調では後に続かないことに気づいたからです。

不勉強のため、読んでくたさっている方(もしいらっしゃったら)には戸惑いを与えることにお詫び申し上げます。

 

ここまでの検証で分かったこと

     古田氏批判の出発点

A氏は自らのブログの冒頭でこう述べています。

 

「私は、古田武彦氏の『古代は輝いていたⅠ』を読んで、こんなに面白い本はないと感じました。ところが、『古代は輝いていたⅢ』を読み終えたとき、この大ウソを暴きたいと考えていました。」

 「この大ウソ」とは卑弥呼の初回遣魏使節、景初二年説のことです

 

氏は古田氏の嘘を暴くために、まず筑摩書房版『三国志』訳本東夷伝序文を引用すします。直接、古田氏批判をする前に、東夷伝序文の記事で初回遣魏使説を景初三年であると証明してしまう手順です。 

-地の文-

卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

-引用文-

公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

 景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

(今鷹真・小南壹郎・井波律子訳『三国志2』世界古典文学全集24B:筑摩書房

-地の文(解説)-

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。れゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

                   原      文

而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子爲其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。

(『三国志』原文はA氏のブログにはありません)

     A氏、六段階論理を展開

A氏はこの論理を二項目に据えて、前後六段の論理を展開しています。

 

①   『魏志(書)公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。(解説文中) 

 

「八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(魏書公孫度伝公孫淵)』

--八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)、公孫淵の軍兵は潰え、その子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急しくこれを撃ち、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。(訳・修正計画)」

 

②   (「又」=)「すると、さらに」=「後」  ()内は私の追加

③   「公孫淵を誅殺すると、さらに(その後に)ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(引用文より)」

④   「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」(解説文中)

⑤   「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」(解説文中)

⑥    景初2年が、3年の誤りであることが分ります。(引用文直前の地の文)

 

 この⑥項目で、「三国志」に明記されているのは最初の項目①だけです。②はA氏の推論であり③、④、⑤、⑥は①、②、から立論したA氏の論理です。

A氏の論理は②「すると、さらに」=「後」、が成り立つことを前提としています。

前回までの検証

「又」=「すると、さらに」=「後」の論理

A氏は序文を引用した後、解説して「(引用した序文を見れば)魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵

誅殺後であることが分かります。」といいます。

 

氏は解説文で「この序文から」両者の前後関係が「分かります。」と主張していますが、それは引用文の中のどこからでしょう。引用訳文を辿りました。

「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った」、この部分ですね。

さらに絞り込むと「公孫淵を誅殺」と「ひそかに兵を船で運んで海を渡し」とを「すると、さらに」という語句がつないでいるからです。

 

A氏は訳文が「Ⓐ公孫淵を誅殺Ⓑすると、さらにⒸひそかに兵を船で運んで海を渡し」とあるのだから、「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後で、あることが分かります」としています。煎じ詰めると「Ⓐ公孫淵を誅殺Ⓑすると、さらに」というフレーズは「Ⓐ公孫淵誅殺Ⓑ´後」というフレーズに置き換えられるといっています。

整理するとA氏は「すると、さらに」は「後」を意味していると主張していることになります。

「すると、さらに」=「後」という関係ですね。

 

氏の引用文と解説で読み取れるのはここまでですがまだ続きます。氏引用文の「公孫淵を誅殺すると、・・・・の郡を攻め取った。」は、原文の「誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,」の部分です。

原文の「又」は「すると、さらに」に当たります。

そうですよね、「又」を「すると、さらに」と訳せなければ「公孫淵を誅殺すると、さらに・・・楽浪と帯方の郡を攻め取った」、とは訳せませんよね。

 

原文の「又」が「すると、さらに」ですから、A氏は「又」=「すると、さらに」=「後」このように主張していることになります。

「又」=「後」

それで私は前回まで「又」=「後」が成立するかどうかを鋭意検証してきました。

 

記事№16以降、記事№25までのすべての回を使って「又」は「後」という意味をもたないことを証明しました。そのうえで、全『三国志』からすると少ないですが、現に東夷伝原文に出てくるすべての「又」が持つ意味を検証してみました。ここには書かなかった検証もしてみました。自慢ではありませんがいくつかの検証結果は、それ単独で 「又」≠「後」が証明できているものだと自負しています。

「又」≠「後」については皆さん食傷気味だと思います。

「又」=「すると、さらに」検証の復習

「又」≠「すると、さらに」の検証は少なかったと思います。「又」≠「後」の検証の中に埋もれてしまっているかもしれません。そこで簡単に復習をしてみます。

 

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、

--公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。(筑摩書房版『三国志』)」

 

「又」の訳語から見ていきます。『諸橋大漢和辞典』で当てはまる訳語は二つでした。

 

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。

❸ふたたびする。

 

筑摩書房版の訳者は「又」の訳語に『諸橋大漢和辞典』の訳語中にない「すると、さらに」という語を当てはめています。「さらに」という訳語の前に、「すると」という語を付け加えた新造訳語です。

 

日本語の「すると」は「勉強をすると成績が良くなる」、「貯金をするとお金がたまる」のように前の行為が後ろの行為に連続していることを表すために使います。順接の接続詞というのだそうです。

蛇足ですが「・・(したの)だが、・・」等は 逆接の接続詞と呼ぶのだそうです。

 

私は記事№.16で「中国語で前の行為が完了後、次の行為に結びつくこと」を示す場合、「了」等が使われていることを示しました。( 乞参照: 記事№.16 ―新たな二つの疑問―「すると、さらに」を、中国語訳してみました。)

「了」等が日本語の場合の「順接の接続詞」的役割を果たすのです。

陳寿著『三国志東夷伝序文の原文「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、」には「了」等、「順接の接続詞」的役割を果たす語句がないことを確認してください。

 

原文自体は両作戦の前後を述べていないのです。原文は景初年中(237~239年)に、二つの大きな作戦、「大興師旅、誅淵。」と「潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」とが実施されたといっているのです。 

「又」≠「すると、さらに」であると納得いただけたでしょうか。これが今までやってきた検証です。

 纏め

 お気づきでしょうが、A氏が主張しているの「すると、さらに」=「後」です。これまでの検証はあくまで、「又」=「すると、さらに」、「又」=「後」です。私は、まだこの主張についての検証を行っていません。

次回からはこれに触れたいと思います。

例文内の「又」の役割7 最後の「又」5――記事№...25

古田武彦氏の説のウソ、・・№22」――2−1 景初3年が正しい理由―その21

 

 今回は記事№21からの繰り返し説明が多くなります。前三回うまく説明しきれていないという私の思いがあってのことなのですが少し我慢してお付き合いいただければ幸いです。

  目次

 

楽浪郡北遷説」についての繰り返し

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」

この原文を筑摩書房版『三国志』訳本は次のようなに訳しています。

――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」

三国志修正計画」の訳文もほぼ同じ趣旨です。これだけであれば私に立ち入って論じる必要ありません。ところが「三国志修正計画」は、訳文に次のような注釈を付していました。

 

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致された以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正計画)」

 

私はこの注釈を「楽浪郡北遷説」と呼びました。この注釈で前回、前々回、その前と三度にわたっての検討を余儀なくさられました。

 

両翻訳部分だけを考えれば「又」についての私の理解には何の問題も生じません。

西安平を攻めたときは、新安・居郷を寇した時とは違い、戦場が楽浪郡という別の郡に及んでいます。

「復犯遼東、新安居郷、又(攻西安、于道上帶方令、略得樂浪太守妻子)。」

           遼東郡                   楽浪郡

「」のなかは” 復犯遼東 ”で括られた文節で、以下は遼東郡内で侵された地域名が列記されているのが普通す。新安、居郷、西安平は遼東郡でこの括りに当てはまります。帶方令、樂浪太守は楽浪郡の事柄であり、遼東郡というこの括りから外れています。本来、同じ文節に列記することはできません。

しかし陳寿西安平攻めを述べるにあたっては楽浪郡の帶方令・樂浪太守についてのでき事を付記したかった。そこで西安平の前に「又」を挿入することで、混乱を避けることにした。同じ遼東郡ではあるが西安平とその前二つ新安、居郷とは区別される記述である事を明示したうえで、「于道上」以下に楽浪郡の事柄を書き加えた。

というのが私の理解です。

 

ところが「「三国志修正計画」は、注釈で伯固が西安平を攻めたとき「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言っています。

両者とは楽浪郡の治所(平壌)と帯方県の治所です。「少なくとも」、というのは当帯方郡が分立する前、楽浪郡に県が十八あったからです。十八ある県の治所の内、少なくとも帯方県の治所は楽浪郡の治所とともに遼東郡内に徙されていた、と「三国志修正計画」はいうのです。では他の県の治所はどうなったのでしょう。濊 東沃沮等の勢力に押されて放棄されたのです。遼東郡に移された楽浪郡の治所と帯方県の治所はいわば亡命政権の所在地だということになります。伯固が西安平を攻めたとき楽浪郡という漢の行政組織は、すでに崩壊しその領域は放棄されていたことになります。

これが「三国志修正計画」の主張している説です。

 

 漢が楽浪郡を放棄し、楽浪郡の治所、帯方県の治所等を遼東郡に移し、伯固が攻めたのが遼東郡内にある両治所、だったとすれば、私の伯固はこの時楽浪、遼東二郡を攻めたから「又」を使って「攻西安平」を区別している、という私の理解は成り立たなくなります。ここに楽浪郡北遷説の検証を始めた理由があることはすでに申し上げました。

 

三国志修正計画」が、なぜ「楽浪郡を放棄した」と主張するのかを考えてみました。

「帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり」と言い、それを根拠に「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」と主張しています。

過去三回の記述で伯固が下地図のルートA、Bの征路を取ったと想定した場合だけこの主張が成立ことを述べました。

私はルートCが存在していて、このルートの現実性が一番高いことを述べ「三国志修正計画」の主張に反駁しました。伯固が西安平を攻めたときルートCをとっていれば楽浪郡の治所、帯方県の治所は楽浪郡内に存在していることに疑問は出ません。伯固が征路にルートCを取っていれば楽浪郡が放棄されていたという仮説を立てる必要は全くありません。伯固は楽浪、遼東両郡を蹂躙したのです。

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         伯固の征路 

三国志修正計画」の主張はルートA、(B)の征路しか存在しないという思い込みから来た主張であると考えます。

三国志修正計画」への反駁の試みは一応成功したと考えています。

 

また、陳寿はそれ以外にも「寇新安、居郷」と「攻西安平」を区別する必要を感じていたはずです。私の解釈に沿って考えてみます。

新安、居郷を寇した、この両事件が伯固の一回の侵犯事件なのか、別々の事件なのか、一切触れられていません。仮に「寇新安」、「寇居郷」、「攻西安平」と三度「犯遼東」が繰り返されたとします。

すると「寇新安」、「寇居郷」は一回の侵犯事件で一郡内の一城市が周辺を略奪される被害を受けました。「又攻西安平」では一回の侵犯で二郡に及ぶ被害を受けています。楽浪郡の県令が殺され、郡太守の妻子が拉致され、遼東郡の西安平に攻めかかられています。この軍行と並行して、二郡の範囲での略奪等については書いてこそありませんが、無数に起こったことは想像に難くないところです。「寇新安」、「寇居郷」と「攻西安平」では、受けた被害に相当な差があったでしょう。

仮に「新安・居郷」は一度の「犯遼東」で、連続的もしくは同時に「寇」されたのであったとしても、両者の被害は比較にならないほど大きかったのではないでしょうか。

「攻西安平」は一連の伯固の侵犯事件の中でも「又」と区別され特記され強調されてしかるべき規模のはずです。

 したがって私の文章上「又」の果たす役割理解は間違っていません。

 

「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」

記事№21で「楽浪郡北遷説」とは別に「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」を取り上げました。「楽浪郡」「虚構」をキーワードに検索してみてください。結構な数の該当記事が上がってきます。

伯固が西安平を攻めたとき朝鮮半島楽浪郡はなかったという点で、両主張は共通しています。

これは検証しておく必要がある、私はそう感じました。

 

 この説は朝鮮半島に、箕子朝鮮・衛氏朝鮮はもちろん、漢の四郡もなかったという説です。半島は古来ずーっと鴨緑江まで朝鮮民族?の地であり、漢の四郡は中国領内の吉林省遼寧省にあったといいます。韓の領域は北にずれ、空いた半島南部を埋めるように倭は半島南部にあったといいます。このことを隠蔽し、半島が古代から中国の支配下にあったことにするため、後世中国の史家が史書の解釈を意図的に捻じ曲げているのだそうです。

この説は『漢書』『後漢書』の記述を否定しているのではありません。曲解された解釈を正しているのだそうです。

 遼東郡、遼西郡の存在も否定していません。そして楽浪郡遼寧省(遼西、遼東地方)のどこかにあって、共存していたのだそうです。

 

西安平は考古学的証拠から遼寧省東南の端、現在の丹東市であることは否定できないでしょう(不存在説も否定はしていません)。

       

 

 

吉林省 (高句麗)

 
 

 

 

丹東市

(西安平)●

 朝鮮半島=)

 

 

 

遼寧省(遼西郡、東郡郡、楽浪郡)

 

また西安平は『漢書』地理志、『後漢書』郡国志で遼東郡に属すると書かれています。原本の文面は解釈で動かすことができるものではありません。

 

漢書』地理志、

遼東郡,秦置。屬幽州。戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平。有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海。行千二百五十里。莽曰長說。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險瀆,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。西安平,莽曰北安平。文,莽曰文亭。番汗,沛,水出塞外,西南入海。沓氏。

 

後漢書』郡国志

 辽东(遼東)郡秦置。雒阳东北三千六百里。十一城,户六万四千一百五十八,口八万一千七百一十四。

 襄平、新昌、无虑、望平、候城、安市、平郭、有铁。西安平、汶、番汗、沓氏

 

伯固は遼東郡の城市を直接寇したり、楽浪郡を抜けて西安平を攻めたりしています。吉林省高句麗遼寧省にある遼東郡の間は直接侵攻できる部分と楽浪郡に隔てられた部分があることになります。

すると四郡と韓の配置を、一例として下図のように模式化することができます。

           
 

高句麗

   
 

遼西郡

遼東郡

楽浪郡

 朝鮮半島=韓

 
 

西安平●

(遼東郡)

   
           

 

この模式を地図上に表すと次のようになります。

 

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       不存在説での伯固の征路

 

このばあいは半島内の征路は考えられませんから、二つ赤線が伯固の征路になります。(A)が、「寇新安・居郷」、(B)が、「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」です。

 

 (A)は単独遼東郡への侵攻であり(B)は楽浪郡と遼東郡への侵攻です。

 このように三郡と高句麗、韓を配置してみると「半島不存在説」は、私の「又」の意味理解に関しては何の影響も与えないことがわかります。

 

「半島不存在説」では遼東郡の範囲や楽浪郡の位置を明示していません。ですからその位置関係はこれ以外にもいろいろ考えられます。そして征路も、楽浪郡等の位置に合わせて様々な解釈ができます。

しかし私の「又」に関する理解は、遼東郡、楽浪郡遼寧省という狭い範囲に近接して存在して、高句麗が直接遼東郡を寇したり、楽浪郡経由で遼東郡の西安平を攻めることが出来る配置という設定が可能である限り破綻することはありません。

長く更新をせず申し訳ありませんでした。

理由の第一は田舎で一人住まいする母の件で三ヶ月ほど帰省していたことです。十分に気持ちを更新作業に向けることが出来ませんでした。

四月になって自宅に帰ってきたのですが、母が高齢で今後このようなことが繰り返し起こるのだろうと、うら悲しい覚悟をした今回の帰省でした。

 

第二の原因は「半島不存在説」批判に正面から取り組もうとしたことです。

この説は立論のために使う史書の資料批判が全くなく、使用法も自説に有利ならどんな使い方でもする。古学上の成果についての評価も恣意や杜撰さ満ちているというのが私の感想です。

それをいちいち指摘していかなければなりませんでした。そんなことに振り回され一歩も前に進めなくなってしまいました。

しかし私がこのブログで問題にしている点について「半島不存在説」の存在で影響をうける部分でないことがわかりましたので、泥沼から足を抜かせていただくことにして、何とか今回の更新となりました。

 

「半島不存在説」については下記のブログが所論を述べています。

 

テラさんの万華鏡 虚構の楽浪郡遼東説 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12094682024.html 

 

私はこのブログで「半島不存在説」の史料や、考古学的成果の使用が恣意的でありすぎることをもっと突っ込んで欲しかったと思いますが、今後の論及に期待しています。

 

「テラさんの万華鏡 」の管理人さんガンバッテクダサイ。

 

今回まで事例から「又」の役割について書いてきましたが、一応今回で終わることが出来たと思っています。次回からはまたA氏の主張と正面切って向かい合いたいと思っています。

 

 

                                                  

例文内の「又」の役割6 最後の「又」4――記事№...24

古田武彦氏の説のウソ、・・№21」――2−1 景初3年が正しい理由

―その20

 

 ケースCの場合。

ここまでの纏め。

ちょっと北遷説に話を戻します。

「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」

 

-(修正)-はこのように訳しています。

「復た遼東を犯し、新安・居郷に寇し、又た西安平(丹東市寛甸)を攻める途上で帯方令を殺し、略奪して楽浪太守の妻子を得た。」

-(筑摩)-の訳は「ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。」となっています。両訳文の趣旨は一緒です。

 

但し-(修正)-の訳文には次のように注釈がついています。

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。」

 私はこの注釈に代表される説を北遷説と称しました。

 

「帯方令を殺し」、「楽浪太守の妻子を得(奪い去っ)た」のは「西安平を攻める途上」、もしくは「その道すがら」であると訳しています。するとどちらの訳文でも西安平を攻める前に平壌方面にある楽浪郡治や帯方県を攻めたことになり、伯固の征路は西安平を攻める前に、楽浪郡治や帯方県を経ていることになります。

定説では楽浪郡治や帯方県は西安平より百㎞以上南にあったことになっています。-修正-は百㎞以上南にある楽浪郡治や帯方県を通過して西安平に至る征路を想定することが出来なかったのでしょう。そこで「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」として訳文をより理解しやすく補正したのだと思われます。

 

私は北遷説に基づいて、「遼東郡内に徙され」る三つのケースを想定してみました。最初に西安平県城内に移された場合。この想定は文脈上成り立ちません。この場合、「その道すがら」とも「途上にあり」とも表現できませんから。

残る二つは、遼東半島、千山山脈の北、遼東郡本体の中に取り込まれた場合と、鴨緑江に沿い元々の楽浪郡を窺う配置をとって徙されたばあいです。この想定には問題ないと思います

前回、前々回とこの想定に基づき伯固の征路を検証してみました。地形や私の仮定した諸元を繰り込み高句麗西安平遠征路をシュミレーションしてみました。

 

その上で高句麗条の伯固の遠征記事を読み直しました。

高句麗条は、伯固が後漢朝を悩まし、その上で意気揚々と帰国したことを伝えているとしか、私には理解できません。

しかしシミュレーションでは、楽浪郡治や帯方県が遼東郡に遷されていた場合、伯固の遠征は成功に結びつきませんでした。伯固の遠征部隊が最終的に補足されるか、疲弊して自滅するかの可能性が高いのです。高句麗条に、失敗を臭わせる記述はありません。

 

第三のルート。

この乖離について考えました。

“わたしのシミュレーションが間違っているのか。”

再度試みました。思い込みかもしれませんが結果は同じでした。

“実は不成功だったのだが高句麗条では隠されている。”伯固の遠征が失敗したのなら、陳寿それをかくす理由が見当たりません。むしろ得々として書き残すと思います。

 

高句麗伝から読み取れるように、伯固の遠征が成功裏した、と原文を理解できるそのような解釈を探しました。

そして想定した遠征経路が間違っているのではないか、と思いつきました。伯固は遼東郡を縦断したり、鴨緑江に沿って侵攻する征路を選んでいないのではないか。伯固が成功裏に帰還できる別のルートがあるのではないかないかということです。グーグルマップで調べました。

 

そのルートが北朝鮮側にあったのです

 

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                  伯固の征路

線濃い青が清川江、薄い青が大同江とその主要な支流です。

 

北朝鮮内の地名や河川、山名等を細かく記すことは出来ません。グーグルの表記がハングルになっているからですが、とりあえず鴨緑江(国境)を挟んで、集安の対岸、北朝鮮側は満浦(チャガン)市であることは判りました。

 

グーグルマップで北朝鮮を絞り込んでゆくと満浦市を起点とし南下する道が現れます。おおよそのところを下地図に赤い線で複写しました。南下してゆくと安州平野に達します。安州平野にはいって海岸に向かうと道路は二つに分かれます。片方は西に丹東方面へ向かっています。もう片方はさらに南下して平壌平野に抜け平壌方面に向かっています。

 

伯固の遠征路はこれなのではないでしょうか。この道路が天然の地形を利用した物であれば、かつて伯固の騎馬部隊も遠征路として使用できたでしょう。

 

 

 

 

 

 この道路を満浦市の起点からグーグルの航空写真で追ってみました。その限りでは、近代の土木技術で大幅に地形を変えたり、長いトンネルを付けたりした形跡は見て取れません。この道路は自然の地形に沿って作られています。

 

騎馬部隊は移動できるでしょうか。上記地図から、この道路が大きく二つの地形の地域を通過していることが見て取れます。一つは安州平野、平壌平野の平坦部です。ここは大丈夫ですが問題は山岳地帯です。

黒い台形線に囲まれた範囲をグーグル航空写真で調べてみました。山間には盆地や清川江の支流に沿った平坦地が連なっています。盆地を囲む山々の傾斜は緩く、清川江へ繋がる支流も比較的広い河川敷や河原を擁しながら流れています。

 

伯固がこの道を辿ったとすれば、遼東郡本体を強行突破するより、鴨緑江沿いに騎馬部隊で西安平まで下るよりも、明らかに容易で、安全だったと思います。

 

前漢の時代も楽浪郡玄菟郡・臨屯郡を結ぶ幹線道路だった可能性があるでしょう。

 

「両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」という-修正-の注釈を導き出すにあたって、第三のルートの存在は考慮しているのでしょうか。

私は一顧だにされていないと思います。なぜなら伯固が第三のルートを通ったと考えた場合、定説を否定してまで「両者の治所が遼東郡内に徙され」ているという発想には結びつかないのです。

 

第三のルートを辿ってみましょう。満浦から安州平野に抜け、西安平へ向かう征路もケースAと同じく中入りです。安州平野から直接西安平へ向かったとします。伯固軍が西安平へ向かった情報は当然楽浪郡治へ届きます。楽浪郡太守は大急ぎで麾下の十八県の兵を糾合して、伯固軍を追います。各県が守備兵の半分ずつ、二百五十を派遣できたとして楽浪郡太守の率いる部隊は四千五百です。伯固は西安平付近を荒らしまわっている時か、荒らし終わって引上げる途中で追尾する西安平の部隊と、北上してきた楽浪郡の部隊とに対峙しなければならなくなります。この時には帰路を塞がれた形になります。おそらくどのような将であっても、帰路を断たれ、前後から挟撃を受ける事態は避けるでしょう。さきに楽浪郡治と帯方県治をつぶしたと考えられます。

伯固は西安平へ向かう前に平壌にある楽浪郡城や、この方面にある各県城を奇襲し、各個撃破で襲ったのです。こちら方面を潰しておけば、背後から襲われることもなく帰路が塞がれることもありません。

 

「殺帶方令」は伯固を迎え撃って、敗死したと考えられます。

「略得樂浪太守妻子。」この部分についての状況が不明です。

「略」には―省く,省略する,簡略な.省く,なおざりにする―といった一般的な意味があります。この意味を採用すると、例えば樂浪太守の妻子は殺されたということになります。

―はかりごと,策略,策,計画―という意味もあります。この意味を採ると、例えば樂浪太守の妻子は誘き出されて拉致されたということになります。

―奪う―この意味だと、例えば、どこかから楽浪郡城に帰還の途中に襲われて強奪されたことになります。

語句の解釈もありますが、迎え撃つべき太守が無事で、郡城の奥深くにいるべき妻子が遭難したというのが判りません。その状況を想像できないのです。

 

伯固の部隊は安州平野から平壌方面進んでいきます。騎馬部隊に急襲された途中の各県城からの平壌への通報は封殺されるでしょう。西安平がこの事を察知するのにはさらに時間がかかります。察知した時にはすでに取って返してきた伯固の部隊が西安平の城下に達していた、という状況もあり得ます。

 

つまり、伯固の記事の大略は「両者の治所が遼東郡内に徙され」ていず、楽浪郡治が平壌にあっても充分に説明がつくのです。

 

高句麗はこのルートを知っていたか。

 

後漢書によると高句麗は、朱蒙が卒本城(遼寧省本渓市桓仁満族自治県 五女山山城)を都城として建国したといいます。建武九(33)年には第2代の瑠璃明王が隣国夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(国内城、丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊、かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられています(wikipedia)。

 

高句麗の國都,丸都(国内)城は建武九(33)年から、第三ルートの起点、満浦市の対岸にあったのです。

 

建武六 (29) 年、省邊郡、都尉由此罷。其後皆以其縣中渠帥為縣侯、不耐・華麗・沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐、(東沃沮条)

-漢の建武六年に辺郡を省いた時、都尉はこれに由って罷めた。その後は皆なその県中の渠帥(有力族長)が県侯となり、不耐・華麗(高句麗)・沃沮の諸県は皆な侯国となった。夷狄は更めて相い攻伐し、-修正-」

「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。(東沃沮条)

-(東沃沮は) 國が小さく、大國の間にあり迫られて、遂に高句麗に臣屬した。-修正-」

「又句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。(東沃沮条)

高句麗は臣屬する前の東沃沮の大人を使者(高句麗の下級官吏)として任命し、領地の主とし使った。一方、税に関しては〘注〙大加(高句麗王の宗族)に統べさせて貊布・魚・塩・海中の食物を収めさせ、千里を担負して来致させ、又たその美女を送らせて婢妾とし、これを遇すること奴僕のようだった。-修正-を補正-

〘注〙王之宗族、其大加皆稱古雛加。(高句麗条)」

 

建武六年に後漢の侯国となった東夷諸国は相い攻伐しあい、東沃沮は敗れ高句麗の属国となったのです。東沃沮内部の行政はもともとの首長たちに委ねられたが、徴税は高句麗の王族が差配したといっています。東沃沮で徴税を円滑に行うには、東沃沮の地理、地形、人口構成等を把握していなければなりません。

 

「毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千餘級、宮奔北沃沮。(夫余条)

-毌丘倹が高句麗を討った時、高句麗王の宮が沃沮に奔ったので、師を進めてこれを撃った。沃沮の邑落を皆な破り、斬首・獲虜は三千余級。宮は北沃沮に奔った-修正-」

「正始三年,宮寇西安平,其(正始)五年,爲幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。(高句麗条)」

「正始中、儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。(毌丘倹傳)」

 

都城は一旦魏の手に落ちました。高句麗王は東沃沮に逃れ抗戦を続けます。毌丘倹は高句麗王に従って戦う東沃沮の邑落を皆打ち破り、その時、斬首・獲虜された東沃沮人は三千余人を数えたというのです。

東沃沮人の高句麗王への忠誠を見ると、正始五(244)年に東沃沮は高句麗の属国というより、高句麗の一部といってよいのではないでしょうか。高句麗の東沃沮統治はうまくいっていたようです。

 

伯固が遼東に攻め込んだのは「順・桓之間」とあります。

順帝永建年間(126)年-建寧元(146)年、桓帝の没年が永康元(168)年です。

伯固の在位は後漢延熹八(165)年-光和二(179)年です(wikipedia)。

伯固は建寧二(169)年に玄菟太守耿に降伏〘注〙しています。

〘注〙「靈帝建寧二(169)年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。(高句麗条)

霊帝建寧二年、玄菟太守耿臨がこれを討ち、賊虜の数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。―修正-。」

 

伯固は王位についた後の四年間暴れまわったようです。勿論この四年間、当然東沃沮は高句麗に臣属しています。

 

 北朝鮮の満浦市が高句麗の領域か東沃沮の領域かは判りません。しかし高句麗にとってここは熟知しきった地域であったのは間違いありません。そこから南西へ楽浪郡との境界がどこにあったかも不明ですが、しかしそこまでは、満浦市近辺と同じく、高句麗にとって自領であるか、それに等しい地域であったことになります。

 楽浪郡との境界には後詰めや、補給の部隊が待機していたかもしれません。伯固が凱旋した時、待機していた部隊の歓呼で迎えられたかもしれません。

以上、述べてきたことから高句麗は第三ルートの存在をよく知っていたと考えなければならないのです。

 

 このようなルートがあり、そのルートを知っているのにわざわざ困難が予想される遼東郡内を強行突破したり、揚子江沿いに下るルートを辿ったりしたと考えるのはあまりにも不自然です。半島の地理を検討していない未熟な議論だと私は思います。

 

伯固は第三ルートを通って楽浪郡、帯方県等背後の脅威を除いてから西安平を攻めたのです。

「又」へ戻ります。

やっと結論にたどりつきましが、またもや原文に戻ります。

「復犯遼東、寇Ⓐ新安・Ⓑ日居郷、又攻Ⓒ西安平、于道上殺Ⓓ帶方令、Ⓔ太守妻子。」

 

Ⓐ、Ⓑの時は素直に高句麗から遼東郡に攻め入って寇したのです。しかしⒸのときはⒹ、Ⓔも攻めているのです。遼東郡だけではなく楽浪郡も攻めているのです。同じ「復犯遼東」で括られてはいてもⒶ、ⒷとⒸは内容的に違っているのです。

 だからこそ、たんに列記するだけではなく、Ⓐ、ⒷとⒸとの間に「又」をおいて区別しているのです。私には陳寿自身もⒶ、Ⓑは「寇」とし、Ⓒ、Ⓓ、Ⓔは「攻」としてこの違いを際立たせようとしているように思えます。

 

 北遷説には、「遼東郡内に徙されていた」と言い切っていない記事もあります。

楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。―理解する世界史―」

楽浪郡治が移ったのは楽浪郡の北部だったかもしれない、という説です。この説が成り立つかどうかの問題はありますが、成り立ったとしても私の「又」についての主張には影響がないと思います。西安平を攻めた時には、遼東郡のⒶ、Ⓑだけを寇したのと違って、楽浪郡と遼東郡を犯したということには変わりがありません。

 

 

 かなりくどくなってしまいましたが、-(修正)-の北遷説が正しければ私のこの「又」についての主張が間違っていることになってしまいます。この点を理解いただき、長広舌ご容赦いただけると幸いです。

                                                     

 

 

例文内の「又」の役割5 最後の「又」3――記事№...23

 古田武彦氏の説のウソ、・・№20」――2−1 景初3年が正しい理由

―その19

 

ケースBの場

目次

 

―理解する世界史―

楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる

東沃沮や挹婁、濊、韓に圧迫されて西安平県方面へ移動していたと言っているのだと思います

楽浪郡に属していた帶方県も樂浪郡と共に西安平県方面へ移動していたことになります。楽浪郡には『漢書』地理志によると始元五(前82)年に二十五県、後漢建武6 (紀元30)年には嶺東七県廃止によって減少したとは言え十八県が存在していました。

 帶方県以外の縣はどうだったのでしょう。

 

その疑問はともあれ、楽浪郡西安平付近にあったそうです。鴨緑江に沿って並んであったのか、西安平の対岸、北朝鮮側にあったのか、もしくは県城西安平の中にあったのかそれは、不明です。

 

前回の要図に戻ります。ケースBの場合、集安から鴨緑江に沿って下り、西安平に至り、付近にある「殺帶方令、略得樂浪太守妻子」、その後、本格的に西安平を攻めた。この経路は容易に想定出来ます。一見、ケースAの場合より格段と困難は少なそうです。ところがそうでもないのです。

江上を征路に選ぶ

まず、船を使う場合を考えました。攻めるに必要な騎馬部隊を鴨緑江上船で運んだとしましょう。どれくらいの兵を運ぶことになるのでしょう。それを仮定するには西安平、楽浪郡治、帯方県治の兵力を想定しなければなりません。丹東にあった西安平県城の規模と兵力はどの位だったでしょう。探しましたが特定できる記事はありませんでした。

標準的県城

 河北省武安県牛汲古城跡の遺跡によると、南北768メートル、東西889メートルの城壁に囲まれたスペースが漢代から三国時代の県城でした。

 この城壁に囲まれた県城は、さらに里という区画に分かれていました。里の大きさは南北380メートル、東西175メートルの長方形で30~50メートルの間隔を開けて50件程度の住宅が建っていました。

里の中の各家は、15m×20mの大きさだというので、ら大体、一軒で180坪位という事になります。基本、県は、10の里という行政区画に分かれていました。

一つの里には50戸があり、一つの戸の平均人口は5名程度でした。

こうして考えると、一里の人口が250名になりますから10里あると県城の住民は2500名程度となります。

もっとも、大きい県も小さい県もあるので、これは目安にしかならないですが。

(はじめての三国志 https://hajimete-sangokushi.com/2016/01/16/post-8778/)

このような記事が有りました。

西安平は水上陸上の交通と流通の要衝ですからこんな数字ではないと思いますが、一応の規準的数値として規模をこの様に想定します。

丹東(西安)付近の兵力

次に兵員の想定です。

 

牛汲古城跡城壁の全長  

        768+889=1657*2=3314m 100mおきの哨兵として2交代で 約70名

里内の治安要員 50名2交代で 100名

城門二つの衛兵 50名2交代で 100名

県府の衛兵   50名2交代で 100名

周辺の巡回要員 50名2交代で 100名

 

合計で約500名こんなところでしょうか。

 

建安八(203)年、いまだ呉の基礎が定まらない時、會稽郡で六万一千戸を擁する現地民の反乱が起きました。その時、孫策は賀斉に平定を命じ五千の兵を与えました。

「郡發屬縣五千兵、各使本縣長將之、皆受齊節度。(『三国志』魏書 賀斉傳)

-修正-

郡は属県より五千の兵を徴発し、各々本県の長にこれを率いて、皆な賀斉の節度を受けさせた。」

 県の長に率いさせているのですから、かなり本気の徴発であったのでしょうが、当然県の抱えた兵をすべて反乱軍へ差し向けられるわけではありません。それぞれの県の治安維持等がありますから。

動員出来たのは、多くて半分から三分の一つ程度でしょう。

 この当時、會稽郡には二十六の県があったそうです。一県から約各二百の兵を引き抜いたことになります。すると常時県の抱えている兵は四百から六百だったと仮定できます。

 

仮に三者が別々の城だったとして三城の守備兵は最低約1500とします。

高句麗の騎馬数

 次は高句麗の動員した騎兵数を想定します。

近代ドイツ軍の研究に攻城三倍の法則というのがあるそうです。孫子も「同等の兵力なら最善を尽くして戦い、こちらの兵力が少ないなら引き上げ、敵の兵力が大きい場合は戦い自体を避けよ。」と言ったそうです。

城を落とすことが目的でない限り、三倍は必要ないとしても、それなりの兵は必要です。上陸して戦闘中、河岸で船を確保しておく要員等後備の兵も必要です。無根拠ですが遠征に動員した騎数を千と仮定します。

 

これだけの兵を運ぶのにどれだけの船を用意しなければならないでしょうまず一隻当たり乗船できる兵員数を知る必要があります。

公園にあるボートは二人の乗りです。江田島のカッターは13人乗りです。こんな舟では騎兵は運べません。遣唐使船は乗客、乗員共で150人乗れたそうです。ネットで見てください、甲板だけでとてもそんなに乗れたとは見えません。船倉まで使ってのことでしょう。

遣唐使船クラスの船で乗員を20人とします。

西安平遠征軍の場合、軽量種、とは言え馬を人数分随伴しています。移動中、馬が騒いでも大丈夫なように搾具等特殊な装備も必要になります。騎兵一騎で最低五人分の空間は必要だと思います。すると、馬は26頭しか乗れないことになります。千頭運ぶために39隻必要です。

一隻に乗れる人員は130人です。八隻必要です。食料等を積んだ船まで加えると、艦隊は約50隻にまでなります。

勿論二千でも三千でもよいのでしょうが、動員した騎馬数が増えれば用意しなければならない船も倍、三倍と増えます。準備する船数が膨れ上がり、ためにする想定と思われては困るので最小の数としました。

 

高句麗騎馬民族の建てた國です。五十隻であっても、それだけの船とそれを操船できる人員を用意できるとは思えません。

しかしここでは敢えて船が準備できたとして侵攻の検討を続けます。

 

集安と丹東付近の鴨緑江の川幅を調べてみました。

鴨緑江を跨いで吉林省通化市内の集安市と北朝鮮満浦市を結ぶ集安鴨緑江国境鉄道大橋ががあります。 長さ598m、幅5mで20の橋脚で支えられています (wikipedia) 。グーグルマップの航空写真で見ると橋梁の半分強が豊かな流水面上にあります。約300 mを流水面が占めていることになり、残りが河川敷です。橋の上流でも下流でも、流水面はここより広くなっています。集安近辺の水深は3メートルだそうです。  

山岳地帯のただなかです、集安付近での水量は四季を通じて豊かだと思われます。

丹東市にある中朝友誼橋遼寧省丹東市と北朝鮮新義州市を結ぶ橋で、中国側の正式名称は鴨緑江大橋です。全長946.2m、橋脚12の橋です。(wikipedia)この橋は堤防から堤防を結んでいて橋梁はほゞすべて流水面上にあり。橋梁の長さ即鴨緑江の流水面の幅です。ただし、中国側と北朝鮮側とではいちじるしく水深が違い、水量が少なくなると川幅の半分くらい、北朝鮮側が河川敷になると思われます。

 

集安から丹東へグーグルマップで河流を追ってみました。下っていくと白く泡立ちが何㎞も続いている領域が何個所もありました。水深が浅く急流になっているのです。河流が岩の間を縫っている領域も複数あります。

更に下ると河流が唐草模様のようになっているところもあります。そのなかの一本の河流を間違がいなく選んで進んでいかなくてはなりません。

 

読んでいるあなたも、グーグルマップで「集安」をキーワードに検索して鴨緑江を追みてください。鴨緑江は集安の南境を流れています。追うのは容易です。

 

集安や丹東付近は良いとして、途中この河流に船が耐えられるのでしょうか。耐えられたとしてもそれぞれの船を操船する要員はここを乗り切る能力が必要です。

約50隻に操船する要員1000名、すべてにその能力は必要ないとしても、騎馬民族国家の高句麗にそれだけの要員を準備するのは無理だと、私は考えます。このような河流を船団で降ってゆくことは無理です。途中でボロボロになってしまいます。バラバラになった船が時間差を置いて到着するのでは各個撃破される可能性が高まります。

 

いくつもの困難についてこの私の想定が正しいとすれば、とても船を使ったとは考えられません。

それでも高句麗軍が西安平を犯したとしなければなりません。では兵員運搬について他にどのような方法が考えられるでしょう。

船でなく筏

筏の利用があります。船の代わりに大きな筏を組んで鴨緑江を降ったと想定します。筏を組むのは船を準備するよりは容易いし、途中で引っ掛かってもやり直しや、改修はたやすい。

勿論これは船を使った場合に比べてです。日本でも木曽川の筏下りが有名ですが、筏を組むにも乗りこなすにもかなりの技術を要すると思います。筏が分解したときの苦労も生半可ではないでしょう。

帰路の困難

それも置いて、とりあえず高句麗の騎馬部隊が鴨緑江下流域に到着したことにします。帯方県、楽浪郡を攻略し、西安平を脅かしました。

さて帰路はどうするのでしょう。筏で鴨緑江を遡上することはできません。江に沿って陸路を辿るしかありません。

ケースAで保留にした帰路も、以下と条件が同じになります。

 

河岸を二種類に分別しました。人馬が通行できる河岸と、出来ない河岸ですマップでグーグルを最大の倍率にして、江に沿って陸路を遡上してみました。河岸の状態は大略、半分近くが人馬通行不能部分だと思われます。山腹が直接流水に落こんでいるのです

 

私の判断ですがこれでは馬を棄てて、兵のみが集安まで帰り着けるかどうかです。

 

ケースA、Bに応じて想定した西安平への征路はどちらも帰路は部隊が困窮に落ち入ってしまいます。

納得できません

「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」

 

私にはこの記述からは西安平遠征軍の困難は窺えません。後漢高句麗王、伯固の跳梁に苦しむ姿しか浮かんできません。

 

 私はここまで北遷説に従って征路の想定を進めてきました。

 記事では遠征軍が西安平を犯す前に楽浪郡、帯方県を攻略しています。北遷説によれば、この時、楽浪郡治が定説の通り平壌であれば、それは起こりえない事態である、というのです。

 楽浪郡、鮮朝半島不存在説はより詳しく言っています。

高句麗の太祖大王(伯固)も、遼東郡の西安平県を攻めたついでに平壌にも軍を派遣して楽浪郡を攻めて太守の家族を誘拐したばかりでなく、さらに大同江を越えてソウルまで行って帯方令を殺して帰ってくるなど、有り得ません(虚構の楽浪郡平壌説)。」

 

 北遷説に従って想定してきた結果が、原文の持つ雰囲気とは全く違う状況を示していると、私は思います。もしかすると原文にふさわしい状況が現出するような想定が別にあるのではないでしょうか。

 また一週間考えさせていただいて、続きは次回述べさせていただきます。

例文内の「又」の役割4 最後の「又」2――記事№...22

 

古田武彦氏の説のウソ、・・№19」――

2−1 景初3年が正しい理由―その18

目次

 

 高句麗

  余談ですが高句麗についてちょっとだけ書かせてもらいます。高句麗とは東北アジア満州にいたツングース系民族の一部が漢の冊封を受けて建てた国の名です。民族名ではありません。ツングース系民族とはツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族のことです

歴史上に登場する民族・国家のうちツングース系民族と確定または比定されているのは、以下の民族・国家だそうです。

粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨、渤海女真、濊貊(濊、貊)、夫余、高句麗、沃沮、百済、豆莫婁

ツングース系民族は現代でもシベリアから満州にかけての極東、北東アジア地域に住み、主に牛馬の飼養と,狩猟,遊牧、一部は農業で生活しています。

現在民族集団を形成しているツングース系民族は以下のとおりと言います。

満州族、シベ族、オロチョン族、エヴェンキ - ソロンを含む、エヴェン、ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィルタ

これらの民族は満州民族を除いて人口が少なく、漢民族(中国語)やロシア民族(ロシア語)の影響が大きく、固有の言語、文化が危機にさらされている。

(Wikipediaより編集、)

 

前漢が元封四(前107)年に遼東郡の東、楽浪郡の北に東北地方(満州)に玄菟郡を建てました。当時の玄菟郡は幽州に属し、郡治は高句麗県にありました。残りは上殷台、西蓋馬の二県です。

 元鳳六(前75)年になると、漢の東北政策が変り、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になりました。玄菟郡は直接の支配領域を徐々に放棄して西へ縮小移転されました。郡治の高句麗県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村付近へ移され、元の高句驪県の場所には原地人の雄が高句麗侯として冊封されたのです。

                        (Wikipediaより編集、)

 

 一昔前まで我々庶民は高句麗を想像するのに現存するツングース系民族の生活様式を想起するしかありませんでした。

 しかし現代ではインターネットで高句麗人の生活を目の当たりにすることが出来ます。吉林省集安市や北朝鮮平壌周辺には、高句麗時代の遺跡が数多く残されており、石室封土墳に見られる壁画には、当時の生活文化や四神図などが鮮やかに、かつ生き生きと描かれています。

これらの遺跡は世界文化遺産に指定されネットでも公開されていますので「高句」で検索してみてください。

高句麗は周知のように騎馬民族国家です。その戦力は強力な騎兵によって構成されていました。集安周辺に残された遺跡からは高句麗前期の馬具、武具が多く発掘され、墳墓の壁画は当時の騎兵部隊の姿を再現してくれています。

遼東を犯し、新安・居郷を寇し西安平を攻めた伯固の軍も強力な騎兵部隊によって構成されていたはずです。

 

高句麗西安平攻撃

 

 本論に戻ります。高句麗西安平攻撃についてです。

 

要図

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  図 ソフト、カシミール付属の地図により作成

 

鴨緑江は長白山周辺を水源に中朝国境に沿って流れ遼東半島の付け根、現在の丹東市(西の文字あたり)で黄海に流れ込みます。丹東市が西安平です。当時の高句麗王城である丸都城(句の文字あたり)は鴨緑江中流域、現在の中国吉林省集安にあります。高句麗の領域は西に玄菟郡、西南に遼東郡都と境を接しています。遼東郡の郡治、襄平(襄の文字あたり)は現在の遼陽あたりにありました

 

二つの経路

 

冒頭の文節に「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」とあります。文節を読んでこの要図を見ると、高句麗西安平攻略経路は二つのケースが想定できます。

帶方県の治所と樂浪郡治がどこに移されていたかによって高句麗の侵攻経路の想定は違がって来るのです。

訂正

 

訂正します。

-修正-

それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。

―理解する世界史&世界を知りたい―

高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

 

前回-修正-が鴨緑江経由で西安平を攻めたとしていると書きましたが間違です。鴨緑江経由と説いた可能性があるのは―理解する世界史―でした。

 

-修正-の主張では遼東郡と帯方県が遼東郡のどこに移されていたかは、不明です。これを仮に二つの場合に分けて考えます。

遼河が遼西郡と遼東郡の間を流れています。この遼河と遼東半島から東北に延びる千山山脈の間、これが遼東郡本体だとします。ここに移されていた場合をケースAとします。

遼東郡の鴨緑江沿いに移されていた場合をケースBとします。―理解する世界史―の主張「当時遼東郡西安平県方面へ移動していた」はこれにあたります。

鴨緑江沿いの西安平攻めの可能性が出て来るのはこのケースなのです。

 

お詫びします。

 

ケースAの場合

往路

 ケースAの場合は地図、黒字の高句麗あたりから遼東郡に入ります。南下し、しばらく行って東に折れ西安平に向かいます。その途中で両者を攻略し、その後千山山脈を越え西安平を攻めたという経路になります。

 

 『漢書』地理志によれば遼東郡の県城は襄平、新昌、無慮、望平、房、候城、遼隊、遼陽、険涜、居就、高顕、安市、武次、平郭、西安平、文、番汗、沓氏の十八城があります。往路この十八城とは接触もなかったようです。高句麗は騎馬部隊の機動性で十八城を迂回しつつ駆け抜けましたということでしょう。状態としてはいわゆる中入りということになります。

たまたま楽浪郡、帯方県両治所に遭遇した時、高句麗軍は両者を迂回せず、蹂躙して去っています。中入りですから一日応戦されただけでも高句麗軍は苦境に陥ったはずです。その一日も保たなかったと思われます。両者は無防備状態に近い状態だったようです。

 

 高句麗の領域を離れて西安平までの距離をおおよその目測ですが500㎞前後としておきましょう。道は直線ではありません。また県城を回避しながらの行軍です。実際の踏破距離はその倍あったとしてもおかしくはありません。

wikipediaは騎兵の一日の行程を40~60㎞としています。並足や襲歩を組み合わせた平均的速度でしょう。日本陸軍の、と断ってあるので陸軍省発行の騎兵操典を参考にしたものと思われます。帝国陸軍日露戦争に備え、サラブレッド等を導入し、騎兵用の馬を改良しています。大型の馬を使うロシヤのコサック兵との交戦を想定したためです。日本馬の在来種は二回りほど小さいのです。高句麗の騎馬も同系統だったと考えられます。ネットを使って同じく同系統と思われるモンゴル馬で検索してみてください。馬格の違いは確実に一日行程の大小に影響します。

しかも、これは平滑地を基準にしています。山岳地や沼沢地ではこうはいかないことははっきりしています。高句麗軍が一日60㎞の行程をこなすのは難しいと思います。

 

高句麗領域から西安平までを700㎞、一日40㎞の行程と想定します。17日という日数が出ます。往復で34日です。戦闘中の日数を5日とします。合計39日です。39日分というと、食料だけでもたいそうな荷物になります。騎兵の長距離行軍には輜重は随伴できません。行軍速度が噛み合わないからです。まして隠密行動を必須とする中入り作戦での輜重は随伴不可能です。

この荷物を騎兵が携行するのでしょうか。接敵した時、動きにセーブがかかります。それは出来ません。

現地で買い上げ現地調達するのでしょうか、敵地を行軍しているのですから買い上げは無理でしょう。その場合もう一つの現地調達、略奪、強奪になります。通報を回避するため、現地人皆殺しの上の現地調達かもしれません。

 

私もそうですが、読んでくださっている方も疑問を持つのではないでしょか。

はたして遼東郡治である襄平や諸県城に背後をさらしたまま、危険な作戦を実施して、西安平を犯す必要があったのでしょう。

「犯遼東、寇新安・居郷」は納得がいくのです。境界近隣をサッと荒らして、サッと引き上げるのは、烏丸や鮮卑もやっていることです。この場合示威もあるでしょうが、攪乱と略奪も目的でしょう。

西安平までの中入りの場合は理解に苦しみます。

復路

復路は、こうやって通り過ぎたところを再度通ることになります。食料を入手することは往路より困難です。また遼東郡治には楽浪郡、帯方県両治所が襲われたことが知れているはずです。西安平が攻められたこともです。当然、遼東郡内には最高水準の警戒線が引かれ高句麗軍補足のため軍が編成されているはずです。西安平は陥落したわけではありません。追撃部隊も出しているかもしれません。袋のネズミ状態と言ってよいでしょう

帰還する高句麗軍に素通りされたと皇帝に聞こえれば遼東郡太守の処f罰は必至です。処刑もあり得ます。太守は必死でしょう。遼西郡や高句麗軍補足に成功しても失敗しても記事にするには絶好の出来事です。

文節には帰路について何も触れられていません。書き残すような何事もなかったとしか考えられません。このような状況の中、高句麗領域まで何事もなく帰還できたのですから奇跡です。

ではどうやって何事もなく帰還出来たのでしょう。可能性としては鴨緑江伝いに帰路をとって帰還したという想定は成り立ちます。次回はこの経路を考えますので合わせて検討してみましょう。

 

 

2−1 景初3年が正しい理由