「又」の例文――記事№...17

古田武彦氏の説のウソ、・・№14」―― 景初3年が正しい理由―その13

 目次

 

 

 「又」の用

今回はⒷ作戦の実施時期を述べるつもりでしたが、今までの記述で終わらせると「又」について筆先の理屈で言いくるめているような気がしてきました。『三国志』の他の用例でどのように使われているかで見てもらうことにしました。

  しかし「又」は『三国志』全文ですと千六百余カ所もあるようです。これに個々の解釈を加えることは私もしんどいし、読んでいる方も大変でしょう。「東夷傳」だけでも五十カ所以上あります。裴松之注を外し、陳寿の本文に絞ると三十カ所前後になります。

 陳寿の原文に、―筑摩―と―修正―の訳文を付けさせてもらい、私のコメントを添えることで勘弁してもらうことにしたいと思います。

 

例文につける私のコメントでは、文章上二個以上の事柄が「又」で結ばれていて、前後関係がなく、単に併記してある場合、「又」の前後の事柄を同格と表現します。私が同格というのに他の要素は含みません。、

 

以下の記述に不審のある方は、「『三国志』修正計画」さんのホームページで原文参照の上、コメントお願いします。

 

 

夫餘

 「又」の文字はありません。

 

高句麗

 「又」の文字は四つあります。

 

① 「其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭鬼神、祀靈星・社稷。其人性凶急、善寇鈔。」

―筑摩―

その風俗として、食物を倹約して宮殿や住居を盛んに立てる。住居地の左と右に大きな建物を建て、そこで貴人にお供え物をし、また星祭りや社稷(土地神と穀神)の祭礼を行う。人々の性格はあらあらしく気短で、好んで侵入略奪をはたらく。

―修正―

その習俗は食物を節約し、宮室の修治に好く、住居の左右に大屋を立てて鬼神を祭り、又た霊星・社稷を祀る。人の性は凶急で、寇鈔に善い。

 

 

宮殿や住居で、鬼神や靈星・社稷を祭っている、ということを述べています。「祭鬼神」と靈星、社祭の祀りを性格の異なる祭祀としてあつかって、「又」で区分しているとものと思います。

時間的には同格です。

 

②「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。有小水貊。句麗作國、依大水而居、西安平縣北有小水、南流入海、句麗別種依小水作國、因名之為小水貊、出好弓、所謂貊弓是也。」

-筑摩-

一般の民衆は皆意気盛んで、戦闘になれている。沃沮や東濊は皆その支配下にある。別に小水貊とよばれる人々がいる。句麗は国を建てるとき大河のそばにその都を定めたが西安平県の北にあまり大きくない河があって、南に流れて海に入っており句麗の別種がこの小さな川のそばに国を建てた。そうした そうした所から小水貊と呼ばれる。よい弓を産出する。貊弓と呼ばれるのがこれである。

-修正-

国人は気力があり、戦闘に習熟し、沃沮・東濊は皆な属している。又た小水貊がいる。高句麗は国を作る時に大水(大河)に依って居住したが、西安平県の北には小水があって南流して海に入り、高句麗の別種が小水に依って国を作り、因んでこれに名付けて小水貊とした。よい弓を産出し、所謂る貊弓とはこれである

 ここまで、高句麗のことについて書いてきたが、ここでちょっと離れて高句麗と同種の小国が西安平のそばにあることに触れています。もちろん「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。」との時間的前後はない。高句麗の記事全体と同格です。

 

③ ちょっとややこしいので最後に次回に廻します。

 

④ 「自伯固時、數寇遼東、受亡胡五百餘家。」

―筑摩―

伯固の時代以来、しばしば遼東郡で略奪をはたらき、また逃亡してきた胡族の五百余家を受け入れた。

―修正―

伯固の時より、しばしば遼東に寇し、又た亡命の胡人五百余家を受容していた。

 

 伯固の時代という時間的くくりの中で、一見性格の相反する「遼東郡で略奪」と「胡族の五百余家を受け入れ」とがあったと言います。両者の違いを「又」で表現しています。

時間的には同格です。

 

東沃沮

 

 「又」の文字は六つあります。

⑤、⑥は一つの文節になりますが、次回に廻します。

 

⑦ 「新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者為數。有瓦金䥶、置米其中、編縣之於槨戸邊。」

-筑摩-

死者が出ると、みな一度仮の埋葬を行い、屍体がやっと隠れる程度に土をかけて、皮や肉が腐ってしまってから、骨を拾い集めて、槨の中に収める。一つの家族の骨は皆同じ槨に収められ、木を削って生前の姿に模し、使者の数だけその像を並べる。また土製の䥶のなかに米を入れ、ひもで縛って、槨の入り口のあたりにぶら下げる。

-修正-

新たな死者は皆な仮に埋め、才(わず)かに形を覆わせ、皮肉が尽きると骨を取って槨中に置く。家を挙げて皆なで一槨を共にし、木を刻んで生けるが如くの形とし、死者(数)に随って数を為す。又た瓦䥶(土器鬲)があってその中に米を置き、槨戸の辺に編んで懸けておく。

 

 

 どのような葬儀をするか、という話です。

全体を一つの葬礼としてみて、記述しています。副葬行為は時間的には同格です。

⑧、⑨、⑩

「王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。言有一國亦在海中、純女無男。説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」

-筑摩-

王頎は毌丘儉の命令を受けて本隊から離れて宮を追いかけ、北沃沮の東方の境界まで行きついた。その地の老人に尋ねた、「この海の東にも人間は住んでいるだろうか。」老人は言った。「この国の者が昔舟に乗って魚を獲っていて暴風にあい、数十日も吹き流され、東方のある島に漂着したことがあります。その島に人はいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では、毎年七月に童女を選んで海に沈めます」

また次のようにも言った。「海のかなたに、女ばかりで男のいない国もあります。」次のようにも述べた。「一枚の布製の着物が海から漂いついたことがあります。その着物の身ごろは普通の人の着物と変わりませんが、両袖は三丈もの長さが有りました。また難破船が波に流され海岸に漂いついたことがあり、その船には項の所にもう一つの顔がある人間がいて、生けどりにされました。しかし話しかけても言葉が通ぜず、食事をとらぬまま死にました。」こうした者たちのいる場所は、みな沃沮の東方の大海の中にあるのである

-修正-

(玄菟太守)王頎は別遣されて宮を追討し、その東界を尽した。その耆老に 「海東にも復た人がいるか?」 と問うた処、耆老が言うには 「国人が嘗て船に乗って魚を捕った時、風に遭って吹かれること数十日、東に一島を得て上陸したところ人がいたが、言語は曉らかではなく、その習俗として常に七月に童女を取って海に沈める」 と。又た言うには 「亦た海中に一国があり、女だけで男はいない」 と。又た説くには 「一枚の布衣を得たが、海中より浮かび出て、その身丈は中人の衣のようでしたが、その両袖の長さは三丈でした。又た一艘の破船を得た処、波に随って海岸辺に出たもので、項の中に復た面のある人がおり、生け捕りにしましたが、言語が通じず、食べずに死にました」 と。その地域は皆な沃沮の東の大海中にある。

 

  くくりは老人の話の中、の出来事です。また話された順番ではなく、話の現実性によって記されていると思われます。話された出来事の前後はつけようがありません。出来事は時間的に同格です。

 

挹婁

「又」の文字はありません。

 

 「又」の文字は二つあります。

 

⑪、⑫

「常用十月節祭天、晝夜飲酒歌舞、名之為舞天、❶祭虎以為神。其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬、名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、❷出果下馬、漢桓時獻之。

―筑摩―

十月を天の祭りの月とし、昼夜にわたって酒を飲み歌をうたい舞をまう、この行事を「舞天」と呼んでいる。また虎を神としてまつる。邑落のあいだで侵犯があったときは、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。この制度を「責禍」と呼ぶ。人を殺したものは死をもって罪を償わされる。略奪や泥棒は少ない。長さ三丈の矛を作り、時に数人がかりでこれを持ち、巧みに徒歩で戦う。楽浪の檀弓(またまゆみの木の弓)と呼ばれる弓はこの地に産する。海では班魚の皮を産し、陸には文豹が多く、また果下馬をを産出し漢の桓の帝ときこれが献上された。

―修正―

常に十月を天を祭る節とし、昼夜に飲酒・歌舞し、これを名付けて舞天とし、又た虎を祭って神とする。その邑落を相い侵犯したばあい、罰として生口や牛馬を責(もと)め、名付けて責禍としている。殺人は死で償う。寇盜は少ない。矛の長さ三丈を作り、数人で共にこれを持つ事もあり、歩戦に能い。楽浪の檀弓はその地に産出する。海では班魚(イサキ)の皮を産出し、土地には紋豹が饒(おお)く、又た果下馬を産出し、漢桓帝の時にこれを献上した。

 

 

 ❶の「舞天」と「祭虎以為神」は「十月節祭天」の間の出来事として同格で、❷の「海出班魚皮」、「土地饒文豹」と「果下馬」も地域名産品の列記として、時間的には同格です。

 

「又」の文字は四つあります。

 

⑬ 「其國中有所為及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以為痛、既以勸作、且以為健。

―筑摩―

その国都で大事業があったり官の命令で城郭を築いたりするときには、若者の中でも勇敢で意気盛んな者たちは、それぞれ背中の皮に穴をあけ、太い綱でその穴を貫いて、さらに一丈ばかりの木にその綱をかけわたし、一日じゅうかけ声をかけながら仕事をする。痛みは感じず、工事がはかどる上に、おおしいとされる。

―修正―

その国中で何事かあったり官家で城郭を築かせる場合、諸々の年少で勇健な者は皆な背の皮を鑿ち、大縄でこれを貫き、又た丈余の木で鍤(鋤の様に曳き)、日を通して呼しつつ作力(労働)するが、痛いとはせず、作業が進むうえに勇健だとされる。

「鑿脊皮」、「大繩貫之」、で身体的状態を表現し、その状態で「丈許木鍤之」、「通日嚾呼作力」という行為をしたと言っています。現代で言えばヘルメットをかぶり、腰に重い工具を付け一日中現場で働いて弱音を吐かない、ファッションに置き換えて言えば、鼻ピーをし、そこにチェーンを付け、一日中踊りまくるといったところでしょうか。身体的状態と行為は合わさって一つの事象であり、時間的に同格です。

 

⑭ 「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。

―筑摩―

鬼神を信じ、国々の邑(みやこ)ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りをつかどらせ、その者を天君と呼ぶ。またそれぞれの国にはおのおのもう一つの邑(みやこ)があって、蘇塗(そと)という名でよばれる。そこには大きな木が立てられそれには鈴(れい)と太鼓をぶら下げ、鬼神の再思を行う。

―修正―

鬼神を信じ、国邑では各々が一人を立てて天神の主祭とし、名付けて天君という。又た諸国は各々が別邑を有している。名付けてこれを蘇塗という。大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事える。

 國邑と別邑は同時並行して存在しています。天君と蘇塗も同じで同格です。

 

⑮、⑯ 

「禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。❶出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。❷有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬

―筑摩―

禽獣や草木もほぼ中国と同じである。大きな栗の実を産し、梨ほどの大きさがある。また細尾雞(尾長鶏)を産し、その尾の長さはみな五尺以上もある。男たちには時に入れ墨をするものがある。また州胡と呼ばれる民が、馬韓の西方の海中の大きな島に住む。その人は身の丈がやや小さく、言葉は韓と異なる。みな頭髪を剃っているのが鮮卑に似ているが、ただ(鮮卑と違って) 韋(かや)の衣服を着、牛や豚を盛んに飼う。

―修正―

禽獣や草木はほぼ中国と同じである。大栗を産出し、大きさは梨の様である。又た細尾?を産出するが、その尾は皆な長さ五尺余である。男子は時々に文身(刺青)する。

 又た州胡が馬韓の西の海中の大島の上におり、その住民はやや短小で、言語は韓とは同じではなく、皆な?頭すること鮮卑の様で、但だ韋(革)を衣とし、牛および豬を養うのに好い。

 

❶は大栗、大如梨と細尾雞は名産物の列記として同格です。「又」は異なる種類の名産物を区切る役割もしています。❷は記述する土地を韓から済州島(おそらく)に移すことを付けています。韓についての記述と済州島についての記述は、時間的に同格です。

 

弁韓

「又」の文字は三つあります。

 

⑰、⑱ 

「弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。

―筑摩―

弁辰も十二国からなり、さらにいくつかの地方的な小さな中心地がありそれぞれに渠帥(指導者)がいる。勢力の大きいものは臣智と呼ばれ、それより一等下がって險側、それより下がって樊濊、それより下がって殺奚、さらにその下に邑借と呼ばれる者がいる。

―修正―

弁韓も亦た十二国で、又た諸小の邑に別れ、各々に渠帥がおり、大なる者は臣智を名乗り、その次として剣側がおり、次が樊濊、次が殺奚、次が邑借である。

 

 

弁韓十二国と、それぞれの国内にある(行政?)区画と、その大小による首長の呼称について述べています。

普通の記述では上位の格から述べていますが、時間を基準とした場合、同格です。

 

⑲、 「國出鐵、韓・濊・倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、以供給二郡。―筑摩―

この国は鉄を産し、韓・濊・倭はそれぞれここから鉄を手に入れる。者の交易にはすべて鉄を用い、ちょうど中国で銭を用いるようであり、また鉄を楽浪と帯方の二郡に供給している。

―修正―

国は鉄を産出し、韓・濊・倭は皆なこれより取っている。諸々の市買には皆な鉄を用い、中国で銭を用いる様なもので、又た(楽浪・帯方)にも供給している。

 

 

 弁韓が鉄を二郡に供給する状況は、韓・濊・倭が交易通貨として砂鉄(おそらく)を用いる状況と併存して、時間的には同格です。

 

 以上十七の文例を見てきました。長くなりましたので、後回しにした二つと「倭人条」については次回述べたいと思います。

 

「又=すると、さらに」は間違い――記事№...16

古田武彦氏の説のウソ、・・№13」――2−1 景初3年が正しい理由

 

目次

 

さて次の疑問点です

短い同一段落に二つの「又」。

 引用文

景初中,㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」

この「又」の訳は「すると、さらに」です。

追加引用文

㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」

この「又」の訳は「再び」です。

このように別々に並んでいるとそれほど違和感がありません。段落やページが離れていれば文章の環境は違います。まして、A氏は㊀だけを抜粋して提示しています。比較することもないのですから、訳文に疑問を抱く余地は全くないといってよいと思います。

景初中,〔㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」〕

しかし原文通りに戻すとちょっと違います。ほんとに短い同じ段落の中に「又」という文字が二つ出てきています。そして違った訳文になっています。

同じく違った訳だとしても、①が「再び」で②が「すると、さらに」であれば、そのまま見逃したかもしれません。すぐ後の㊁で「再び」を繰り返して読まされる邪魔くささを避けたと理解できます。また最終到着点「東臨大海」に近づくことを強調しているとも取れますから。

しかし訳文はそうではありません。なぜ、重複回避や強調が前の方の「又」で使われるのか。

私はここに、引っかかってしまい、検証してみることにしました。

『諸橋大百科事典』

検証のために、まず語彙確認のための作業は『諸橋大百科事典』を引きました。

 

「又」を引きましたが『諸橋大漢和辞典』には「叉」として載っています。そして「叉」の正形は「又」のとあります。ここでは、同義語として使わせてもらいます。

❶て。めて。右に同じ

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。㋩有に通ず。(十有余年)

❸ふたたびする。

❹ゆるす。宥につうず。

❺姓。

❻符号の一つ。

 

 とあります。❶~❻まで出典の引用があります。その後「又」を含む二文字以上の用例が載っています。 

-筑摩—の訳語に①の「すると、さらに」はこの訳語にはありません。「さらに」だけが❷にあります。㊁の訳語「再び」は❸にあります。

 であれば「すると」は翻訳上、文意を明確にするための訳者による、挿入語ということになります。元の単語は原文中に存在しないのです。

「さらに」と「再び」の役割、そして「すると」を挿入した意味。

次に訳文の中の「さらに」と「再び」の持つ役割を確認しました。

「さらに」は派遣された師旅がⒶ作戦終了を終了して、再びⒷ作戦に取り組んだことを表現しています。

「再び」は、魏がⒶ、Ⓑ作戦の後、再度高句麗へ偏師を派遣したことを表現しています。

 ここまで訳者は①と②の「又」を同じ意味で理解しています。

 

訳者は①「又」の訳語に「すると」を挿入しました。その事で訳文に加わったのは、Ⓐ、Ⓑ間の喫緊性です。Ⓐ作戦を終了「すると」、間を置かず踵を接するようにⒷ作戦に取り掛かったと訳者は理解しています。「すると」を挿入したのはそれを表現するためです。ここで二つの「又」の違いが出てきたのです。

 

私の抱いた疑問に「なぜかそう訳したのか?」という面からは一応の答えが出ました。

新たな二つの疑問。

しかし、「すると」を挿入した段階でこの訳は逐語訳ではなく意訳になっています。訳者は本当に原文の趣旨を理解しているのか。最も基本的な部分が確認できなければ不安は残ります。といってもこの問いかけは余りにも漠然としています。そこで具体的な設問を設定したいと思います。

 検証項目の設定。

Ⓐ作戦終了を終了して、再びⒷ作戦に取り組んだ。この理解で良いのか。これを疑問①とします。

ⒶとⒷとの間に喫緊性はあったのか。これを疑問②とします。

この二つの設問に合格すれば私の不安は払しょくされたと考えることにします。

 

記述上の都合ですが、疑問②から検証することにします

疑問②。 

「又」①の訳語「すると、さらに」には喫緊の雰囲気があります。

それは「又」②の訳語「再び」と比べてみればわかります。「再び」では喫緊の語感はありません。高句麗条には高句麗王宮が魏に「背叛」したのは正始五(244)年とあります。Ⓐ、Ⓑ両作戦が実施された景初二(238)年との間隔は六年間になります。この訳も良いのでしょう。

 

〔「誅淵」でⒶ作戦の終了が八月二十三日である。そして八月以降には帯方郡太守が赴任できた。〕

A氏も「すると、さらに」をこのように理解しています。A氏の理解では八月二十三日に襄平で公孫淵を誅した魏軍、黄海沿岸まで移動し、そこから船に乗って、楽浪、帯方郡に攻め入ったことになります。両郡は北朝鮮の西半分の広さがあります。そこを八月いっぱいに平定したことになります。八月末までには七日しかありません。どう考えても日程的に無理でしょう。両郡に攻め込むのを相当急いで、要衝だけを占領してそこに太守を送り込んだと考えてもかなり難しい。

私の計算で無理であっても、この訳文はA氏にこう考えさせるだけの喫緊性を持っているのです。

 

さて二つの「又」が持つ、この喫緊性の有り、無しの違いを読み取るのに、訳文を読む我々には戸惑いは起きません。それは訳者が「叉」を「すると、さらに」と「再び」に訳し分けているからです。

 

しかし原文は①、②とも「又」とあるだけです。中国語には「すると、さらに」とか「再び」とか、日本語のように記述内容をコントロールする語法はないのでしょうか。中国の読者は同じ「又」を説明なしで読み分けているのでしょうか。

「すると、さらに」を、中国語訳してみました

この事を見るためにⒶ+Ⓑに類似する日本文を、翻訳ソフトで中国語訳してみました。

 

例文①「食事するとさらにデザートを食べた。

――吃飯而且甜点。

(吃=「喫」と通用、受け入れる。了=終わる。而且=さらに。甜点=デザート)」

意味を正確にするため、日本文を変えます。

例文②「食事すると、すぐデザートを食べた。

――吃飯立刻吃了甜点。

(立刻=直ちに,即座に,すぐに)」

 

この二つが喫緊性がある場合の中国語の表現です。喫緊性がない場合はどうでしょう。

 

例文③「食事をしてデザートを食べた。

――吃飯,吃了甜点。」

となりました。この場合だと時間の縛りがありません。食事とデザートの間に皿洗いがあっても、談笑時間があっても構いませんよね。

 

例文④「食事をした。デザートを食べた。

――吃饭了。吃了甜点。

もっと時間的自由度が高くます。

 

以上です。

中国語にも(当然ですが)日本語と同じように喫緊性をコントロールする表現はありました。

而且=さらに。

立刻=直ちに,即座に,すぐに)

です。

 

食事を終る表現もありました。これは四例文すべてについています。

了=終わる

終わって次のデザートに移るのですから、「食事を終わると、」という表現でしょう。訳文の「すると」に対応します。

 

おそらく、これらは中国語表現のいちぶで、もっと豊富な表現をしているのではないでしょうか。

「すると」の挿入は無根拠、不必要。

原文である「Ⓐ大興師旅,誅淵,又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」には、今出てきた種類の語句は一切ついていません。したがって原文ではⒶとⒷの間に喫緊性は全くないのです。

したがって訳者が挿入した「すると」という訳語は無根拠で、不必要だということになります。

疑問①。

一つ目の「又」①を見てみましょう。「すると、さらに」と訳されています。「すると」は喫緊性を表現する以外にⒶ作戦の終了も表します。ここで疑問が起きました。

疑問②でみたように前の行動が終わって次の行動に繋がることを表現する場合「了」が間に入っていなければならないはずです。

しかし原文にはそれがありません。

 

「すると」を削除して「さらに」となりました。「さらに」は終了したⒶ作戦とⒷ作戦は一連のものであり、司馬懿の率いるの同じ部隊の行動であることを表現しています。

まずⒶとⒷは一連、一体の軍事行動であるにもかかわらず、軍行の成果は別々に記載されていることです。

「景初年中大興師旅,又潛軍浮海,誅淵、收樂浪、帶方之郡」

このようになるのではないでしようか。

ビールとツマミ、どちらを先に買ったか。

 「夕方酒屋に行ってビールを買い、さらに(又)ツマミを買った」

この短文からビールとツマミ、どちらを先に買ったか確言できますか。ビールが先に書いてあるのだから、買ったのもビールが先という答えは、短慮です。「ブー」が鳴ります。

 実はツマミを先に買ったのだが、ビールが買い物の主目的だったから、さきに書いてあるのかもしれません。

「景初年中Ⓐ大興師旅,誅淵、又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」

 この文も同じではないでしょうか。公孫淵を誅することが主目的だったからⒶ作戦が先に書いてあるといえないことはないのです。

 

前後のはっきりする文例は原文の㊁です。

「㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」」

「又」の前に「其後高句麗背叛」とあります。「其」とは㊀の文全体、もしくは「東夷屈服」です。その後に高句麗が魏に叛いたのです。その高句麗を追討するために偏師を遣したのです。前後関係は明らかでⒶ、Ⓑ作戦が先で、Ⓒ作戦は後です。

 もし「其後」が「其前」となっていれば、高句麗の背叛と追討は公孫淵追討より前です。

 もし「其後」が無ければ、高句麗背叛と追討は時期不定で公孫淵追討と同時だったかもしれないのです。

 Ⓒ作戦はⒶ、Ⓑ作戦より後、という前後関係は「又」で決まるのではなく、「其後」が決めているのです。

 

㊀「景初中Ⓐ大興師旅,誅淵,①又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」も同じです

この文には「其後」にあたる語句は付いていません。

「東夷傳序文」内でのⒶ、Ⓑ作戦の時間的括りは、ともに「景初中」だけです。Ⓐ作戦は他の傳で時期が確定できます。であってもⒷ作戦はそれも出来ません。「其後」にあたる、Ⓑ作戦の時期を定める語句がどこにも付いていないからです。

 つまり、Ⓐ作戦とⒷ作戦の前後関係は㊁で「其後」が無かった場合と同じく不定なのです。原文にはⒶ作戦が終わって、Ⓑ作戦という関係はないのです。だからⒶ作戦とⒷ作戦の間に「了」という文字が入っていないのです。

前後関係が不定なもの結ぶ「又」に「すると」はもちろん、引き続いてという意味を含んだ「さらに」も訳語としては当てはめることは出来ません。

纏めそして、お願い。

 以上で言えることは㊀の訳文は、「景初中にⒶ作戦で公孫淵を誅殺し、Ⓑ作戦で楽浪、帯二郡を接収した。」となるということです。これで軍行の成果が別々

に記載されていることが納得できました。

 

私は-筑摩-の翻訳者は、原文をかなり読み違えていると思います。もちろん、ここで言えるのは「すると、さらに」に関連する範囲のことです。

 

――――お願い――――

 

今朝パソコンを立ち上げると、今回UPする予定だったファイルが消失してしまっていて、慌ててしまいました。大急ぎで書き直して何とか間に合いました。そういう事情で要旨には間違いないと思うのですが、、抜けたり、間違っていること、誤字、脱字もいつももより多いと思います。今後訂正することも多々あると思います。平にご容赦お願いする次第です。

 

 

 次回は、今回実不明として取り扱ったⒷ作戦の実施時期が指定してあることを述べたいと思います。それはなんと㊀の文の中です。もちろん「又」が指定しているのではありません。

 

  「収=攻め取った」は誤り――記事№...15

古田武彦氏の説のウソ、・・№12」――2−1 景初3年が正しい理由―その11 

 

今回からA氏の主張する遣使景初三年説の根拠について検証して行きたいと思います。論拠となっているのは筑摩書房版『三国志』訳本の訳文です。

まず前回述べましたように「收樂浪帶方之郡――楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。」の「収――攻め取った」についての検証です。

目次 

 

戦闘の終結

 訳文では両郡を「攻め取」ることで司馬懿の遠征が終わったことになります。「攻め取る」で、私がすぐ思い浮かぶのは大阪城落城であり、戊辰戦争若松城、函館戦争の五稜郭等ですね。

 楽浪、帯方郡は併せて北朝鮮の西半分くらいの面積があります。北海道か九州ほどの広さです。イメージ゛としては小田原城落城による関東平定でしょうか。秀吉軍の関東侵攻によって小田原城以外の諸城も包囲され攻撃を受け、落城しました。

「攻め取」られたのであれば、この時、両郡の郡治とその他の拠点で激しい攻防戦が繰り広げられたと想像するのは当然です。しかし、原文の「烏丸鮮卑東夷傳」にその事を伝える記事は一切なく、「收樂浪帶方之郡」と伝えるだけです。つまり陳寿の見た二郡平定の実相は「収」という一文字に凝縮していることになります。

 「収容-攻め取った」という訳について一旦はなんらかの確認をしておく必要があると思うのは私だけでしょうか。

A氏は何の検証も加えていませんが、少なくとも私は「収」についての日本語的語感が「攻め取る」という訳に違和感を覚えました

『諸橋大漢和辞典』。

「收」について『諸橋大漢和辞典』を調べてみました。

 

三国志』原本では収が收とあるようです。『諸橋大漢和辞典』に「収は收の俗字」とあります。同義語と考えて話を進めます。

 親字単独の訳語を抜粋します。品詞としてこの「收」は動詞として使われていますので動詞だけを抜き出します

 

❶をさめる

 ㋑とらえる。引き留める。㋺あつめる。㋩とりいれる。㊁とりもどす。㋭しまう。たくはへる。㋬ういれる。㋣もつ。にぎる。とる。㋠かすめとる。うばう。㋷めしあげる。㋦ととのへる。㋸かへす。

 ❷をさまる㋑ちぢむ。しぼむ。㋺かえる。㋩やむ。をはる。㊁かくれる。㋭きえる。

 ❸みのる。

 ❹とりいれ。とりいれたもの。

 ❼をさむ。

 ❽ただす。

 ❾あげる。あばく。

 ❿くむ(汲む)。

 

 それぞれの訳語の後には複数中国古典中の例文が示されています。ここに「攻め取った」という訳語はありません。

 

次に「収」を含む二文字( 収容、押収等 )で構成される用例が列記されています。二百例以上が列記してあります。多すぎるので引用できません。この中にも「攻め取った」という訳の例文はありません。疑問に感じる方は近くの図書館で実見してください。

 

『諸橋大漢和辞典』にある「收」の訳語を当てはめる限り「收樂浪帶方之郡」には戦火の炎は上がっていません。それはこの後に記したの―筑摩—修正-の「收」訳例文でも同じです。

❷、❻、❼、が戦闘との関連があります。❷、は勢力圏を広げたことを意味し、❻は遺民を集めたことです。❼は賠償を受けとったのですが、攻めることで奪取したものではありません。「收」を「攻め取る」とは訳せません。

もう一つの戦闘終結のかたち。

戦闘終結の形態には、もう一つあります。「降伏-帰順」です。「攻め取」ったと「降伏-帰順」の比較を判りやすくすれば第二次大戦終了時の日本とドイツの違いです。

ドイツはソ連軍に首都ベルリンまで攻め込まれ、ヒトラーの自決があり首都ベルリンが陥落した後に降伏しましたが、その後もSS等、散発的な抵抗が続いたようです。この場合は「攻め取った」です。公孫淵親子が誅殺された襄平も「攻め取」られた戦争終結です。

 

日本は列島本土に攻め込まれる前に、無条件降伏を受け入れ国土を「接 ”収”」されたのです。島内に連合軍が進駐して来ても戦闘はありませんでした。したがってこの場合攻め取られたとは表現しません。敢えて言うなら南千島沖縄諸島は攻め取られたのであり、本土四島は占領軍に収容されたのです。

 

原文は「楽浪・帯方」は収められたと言っています。「諸橋大漢和辞典」の訳語を当てはめても、二郡は武力衝突がない状態で、魏の進駐軍に「収」められたと考えるしかありません。

 

―筑摩—修正-が「烏丸鮮卑東夷傳」中の他の「收、収」をどのように訳しているかを、調べて、末尾に対訳引用しておきました。参考のため「三国志修正計画」さんの訳文も併記させて貰ってあります。

❹「東夷傳序文」―筑摩―だけが「攻め取った」という訳になっています。繰り返しになりますが「諸橋大漢和辞典」に、その訳語がありません。「烏丸鮮卑東夷傳」中に「攻め取った」を裏付ける記述はありません。「收――攻め取った」は明らかに誤訳です。

訳文の例示。

烏丸

❶「會袁紹、兼河北乃撫有三郡烏丸。寵其名王而其精騎。其後尚熙、又逃于蹋頓。

 ―筑摩―

ちょうどそのころ袁紹は河北の地を兼併すると、三郡(右北平・漁陽・雁門の三つの郡か)の烏丸を手なづけ、彼らのうち名ある首領を手あつく待遇して、その精鋭の騎兵を自分の軍隊に加えた。そののち袁尚と袁熙も[烏丸の] 蹋頓単于のもとに逃げ込んだ。

―修正―

折しも袁紹が河北を兼領し、かくして三郡烏丸を按撫し、その名王を寵してその精騎を収めた。その後、袁尚・袁熙が又た蹋頓に逃れた。」

 

ここでは「又逃于蹋頓」に関して「又」=「後」の関係をちょっと触れておく必要がありそうです。

 

袁紹が死ぬと三人兄弟の長兄袁譚と末弟袁尚が後継争いを始めます。袁譚曹操と結んで袁尚と対峙します。

 

袁尚曹操および兄袁譚に敗れると、これまで曹操と敵対していなかったにも関わらず、袁煕はあえて弟を管轄地の故安に迎え入れて助けた。この行動は幽州の豪族に反感を抱かれ、結果的に焦触・張南ら多くの離反を招いてしまう。袁煕は弟とともに遼西の烏桓の大人(単于)楼班を頼って逃れた。建安12年(207年)、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕袁尚烏桓王蹋頓(楼班の族兄)らと柳城で迎撃した(白狼山の戦い)。しかし再び敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ち延びた。(wikipedia)

 

頼った楼班単于が敗れ「後 (又)」、烏桓王蹋頓のもとへ逃れた、と理解することも出来ますが、そのようにと理解すると「其後尚熙、後(又)逃于蹋頓――そのあと袁尚と袁熙が、あと蹋頓のもとに逃げた」という文章なってしまいます。文章が意味を成しません。

 

「其後」の「其」は袁紹烏桓の首領を手あつく待遇した時点を指します。この記事の主人公は袁紹に引き立てられた烏桓王蹋頓です。袁尚も袁熙も蹋頓のもとには「又」逃げたのではありませんから、「袁煕も又袁尚も」、と理解し「袁煕袁尚が揃って(又)蹋頓のもとに逃れた」という訳が適切です。

鮮卑

❷「後鮮卑大人軻比能、復制御羣狄、盡匈奴故地。自雲中五原以東抵遼水、皆爲鮮卑庭。 

―筑摩―

鮮卑大人(酋長)の軻比能がまたもや北方の異族達を支配下に収め、匈奴の故地をすべて占有して、雲中・五原から東は遼水に至るまでの土地が、すべて鮮卑の支配するところとなった。

―修正―

後に鮮卑大人の軻比能が復た群狄を制御し、悉く匈奴の故地を収め、雲中・五原より以東の遼水に抵たるまでを皆な鮮卑庭とした。」

 

❸「投鹿侯固不信。妻乃語家,令收養焉,號檀石槐,長大勇健,智略絕衆。

―筑摩―

鹿侯はもとより投そんな事を信じはしなかった。妻はそこで実家の方に話をつけ、そこで養育してもらうことにした。その子は檀石槐と名のり、成長するとともに勇敢で人なみ優れた智謀を持つ人物となった。

―修正―

投鹿侯は頑として信じなかった。妻はかくして実家に語って引き取り養育させ、子の名を檀石槐と号した。長じて勇健となり、智略は衆に絶した。」

鮮卑の投鹿侯は匈奴の軍に従うこと三年、不在にして帰ってくると子が生まれていた。妻が子について弁明するが・・・という話です。

東夷傳序文

❹「大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、

―筑摩―

大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った

―修正―

大いに師旅を興して公孫淵を誅し、又た潜かに軍を海に浮かべて楽浪・帯方の郡を接収

夫餘

❺「王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。

―筑摩―

王は、これは、天帝の子ではないかと疑い、その母に手元において養育するようにと命じた。その子は東明と名付けられ、いつも牧馬の仕事に従っていた。

―修正―

王は天の子かと疑い、かくしてその母に命じてこれを収め畜(やしな)わせ、名付けて東明といい、常に牧馬させた。」

❻「遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、

―筑摩―

公孫模や張敞らを送って、これまで取り残されていたその地の中国の移住民たちを結集し、兵をおこして韓と濊を伐たせた。

―修正―

公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、韓・濊を伐ち」

 

❼「辰韓曰:《五百人已死,我當出贖直耳。》乃出辰韓萬五千人,弁韓布萬五千匹,鑡收取直還。

―筑摩―

《五百人はもう死んでしまったので、かわりにその賠償させてほしい。》そこで辰韓からは一万五千の人間を出させ、弁韓からは一万五千匹の布を出させ、廉斯鑡はそれらの賠償を受け取って帰還した。」

―修正―

辰韓曰く 《五百人は已に死んでいる。我らは贖値を出そう》 。かくして辰韓は一万五千人を、弁韓は布一万五千匹を出し、廉斯鑡は贖値を受け取って還った。

❽「宗族尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國。」

―筑摩―

宗族関係やその尊卑については、それぞれ秩序があって、上の者のいいつけはよく守られる。租税や賦役の徴収が行われ、その租税を納める倉庫が置かれている。

―修正―

その尊卑については、それぞれ序列があって、上の者のいいつけはよく守られる。租税や賦役の徴収が行われ、その租税を納める大きな倉庫が置かれている。(唐代以前には倉庫を邸または店と呼んだ。閣は高い建物のこと 

❾「其俗不知正歲四節,但計春耕秋收爲年紀。

―筑摩―

彼らの間では正月を年の初めとすることや四つの季節の区別は知られておらず、ただ春の耕作と秋の収穫をめやすにして年を数えている。

―修正―

その世俗では正歳(正月)・四節を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を計って年紀としているだけである。」

(「『三国志』修正計画」の訳を一部修正)

 

 

 

 

 

 

 

A氏の論理の検証  ” いざ !!  “と張り切っています、が・・・苦戦しています。――記事№...14

古田武彦氏の説のウソ、・・№11」――2−1 景初3年が正しい理由―その10 

先賢の「遣使」年度についての所説は切り離されました。ここからの私のA氏の主張検証は次の三項に重点を置きたいと思っています。

  目次

 

 

検証の方針。

第一 -筑摩-の翻訳は正しいか。

第二 -A氏の訳文の引用、論理展開は正しいか。

第三 原文との矛盾はないか。

 

進行の順は基本的に、この要件を踏まえながら進めていくつもりですが、必要によっては前後することもあると思います。

 

A氏が遣使景初三年説を主張する論拠は「東夷傳序文」と「公孫度(淵ママ)」にあります。まず、簡単だと思われる「公孫度(淵ママ)傳」を検証することにします

公孫度 (淵ママ)傳」――八月壬午(二十三日)「斬淵父子」―

「八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子(公孫度傳公孫淵条)。

――八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)司馬懿は公孫淵の軍兵を壊滅させた。淵はその子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急襲し、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。―(修正)―」

この訳は筑摩書房三国志』訳本の訳文からではありません。執筆時の今、たまたま同書が手元に無く、やむを得ずネット上『三国志』修正計画さんから借用し、若干補正しました。修正計画さんのホームぺージでは『三国志』の全対訳進行中です。今後も処々で借用させていただくと思います。そのときは—修正—とマークさせていただきます。

 

三国志修正計画」http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/00.html#gi

 

こここで翻訳の要点は丙寅と壬午です。wikipediaに丙寅は3、壬午も19とあります。正直言って干支の正誤は私にはわかりません。

ですが、公孫淵父子の斬られたのが八月中であると理解すれば済む範囲の誤差、と考えておくことで良いのではないでしょうか。

 A氏は「公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。」と引用しています。同じ八月の出来事ということで、問題はないことにしましょう。

 「東夷傳序文」――疑問点―

三つの文節。

 私は「東夷傳序文」は三つの文節からなっていると考えています。「書稱《東漸于海、西被于流沙》」」に始まって「遂隔斷東夷、不得通於諸夏」までで第一文節。前漢の最盛期から後漢末の戦乱で東夷との交流が絶えるまでです。

 

第二文節がお馴染みの引用部分です。「景初中」に始まって「東臨大海」までです。ただ第二文節の引用が前半だけにとどまっています。併せて引用しておかなければこの文節の真意が伝わらないと思い追加しました。先に欠けた部分を追加引用しましたが再掲します。

引用文

「景初中,Ⓐ大興師旅,誅淵,①Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡, 而後海表謐然,東夷屈服。

追加引用文

「②其後高句麗背叛,又Ⓒ遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海

――景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

――後に高句麗がそむくと、再び軍の一部を分けて討伐におもむかせた。その軍は極遠の地をきわめ烏丸、骨都をこえ、沃沮を通り粛慎の居住地に足を踏み入れて、東海の海を臨む地にまで到達した。

 第三文節が「遂周觀諸國、采其法俗」から最後まで。東夷伝の編集主旨まとめです。

三つの疑問点。

 「東夷傳序文」をつらつら眺めているうち、第二文節中にいくつか疑問点が出てきました。

 

三国志倭人条」』に、倭が天子への朝見を求めて帯方郡への使を派遣したのは「景初二年六月」とあります。

まずA氏はこの引用文と公孫度傳の引用文とを合わせて、「斬淵父子」が景初二年八月二十三日で「6月にはまだ魏は帯方郡に太守を置いてない。」と言います。-存在しない帯方郡太守のもとへ使節を派遣するはずがない-これがA氏の主張の根本だと私は解釈しています。

検証するべき部分が違うのではないでしょうか。A氏が引用した訳文中にも、原文にも帯方郡太守は何も触れられていません。

一方、先に指摘した「韓条」に

「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」

 という記事があります。この時帯方郡太守は赴任したことが明記されています。(記事№12「白石の『卑弥呼考』」おそまつな・・・。)

ここの検証がなくては、太守の赴任の時期は論じられないはずです。

 

次に「又」です。

A氏の引用した部分だけを見ていると判りませんが、短い第二節の中に「又」が二つ出てきているのです。そして二つの「又」が異なった訳になっているのです。①又は「すると、さらに」、②又は「再び」です。この訳で良いのでしょうか。普通、この文勢で読めば同じ訳語にならなければならない気がします。

 

三つ目が「収」です。「攻め取った」と訳されています。なんとなくですが語感が違うのです。

 

 

 

今、纏めるのに苦戦しています。次回までに何とか記述の流れを整えたいと思っています。次回は(一見)簡単そうなので、「収」の検証にかかります。

 

 

〔「東夷傳序文」の風景〕の続きと、前回「ここまでの纏め」の書き直しです。――記事№...13

古田武彦氏の説のウソ、・・№10」――2−1 景初3年が正しい理由―その9

〔「東夷傳序文」の風景〕の続きと「ここまでの纏め」の書き直しです。前回の「ここまでの纏め」に補足を加え、(削除すべきなのでしょうが)今回の後半で書き直しました。

目次

 

〔「東夷傳序文」の風景〕に戻ります。

緊急で『卑弥呼考』を入れましたので「東夷傳序文」についての説明が未完になっていましたまず前々回引用した「東夷傳序文」前半を(私なりに)要約します。

 

前段の要約。

「(魏は漢に禅譲を受けました。魏は「三国志」のテーマが語るように、南方で呉、蜀と対峙していました。北方は前傳(烏丸、鮮卑)にあったように、烏丸、鮮卑の跳梁に悩まされています。)

西方は凡そ漢の版図を維持しています。

東方は、漢末から始まった公孫家の遼東郡占拠は魏になっても改善どころか、悪化していました。公孫家の勢力のあまりの強さに魏の天子はこのあたりを絶域と見なすようになり、東夷から中国の地へ使者がやって来ることも不可能となっていました。

( 南方の国難諸葛孔明の死で小康を得ました。そこで明帝は朝廷内の異論を抑えつつ、まず東方の状況を打破する戦略を実施することを決意します。)」そして景初中・・・、とお馴染みの引用文に続いています。(  )は私の補足部分です

「景初中,Ⓐ大興師旅,誅淵,①Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,②又Ⓒ遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。

後段について述べます。

原文の引用を続けます。

 

「践粛慎之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、

――粛慎の居住地に足を踏み入れて、東方の大海を望む地にまで到達した。〔そこに住む〕老人の言葉によれば、不思議な顔つきの人種が〔さらに東方の〕太陽の昇るところの近くにいる、とのことであった。 —筑摩-

――粛慎の庭を踐み、東のかた大海に臨んだ。長老が説くには、異面の人が日の出る所の近くにいると -修正-」

扁師は現ロシア領沿海州ウラジオストックの海岸まで至ったとされています。「異面之人」を倭とみるか、上古のエミシやエゾとみるか、それ以外の異族がいたのか、どうなのでしょう。

 

次の文節は「序文」の結語にあたります。これまで述べてきたことの結論をまとめています。

遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。雖夷狄之邦、而俎豆之象(古中国の祭祀儀礼)存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

――そのあたりの国々をくまなく観察してまわり、その掟や風俗を採訪して、彼らの間の大小の区別や、それぞれの国の名が詳細に記されることになった。これらは夷荻の国国(ママ)であるが祭祀の儀礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、四方の異民族の間にその礼を求めるということも、実際にあり得るのである。それゆえこれらの国々順々に記述しを撰次(編纂)し、それぞれの異なった点を列挙し、これまでの史書 (『史記』、『漢書』) に欠けているところを補おうとする。-筑摩-

――かくて諸国を周く観察してその法・俗を採訪し、小大の区別や、各々の名号を詳紀(詳記)する事ができた。夷狄の邦とはいえ、俎豆之象(古中国の祭祀儀礼)は存在している。中国が礼を失うと、この四夷に求めたのも信用できる。ゆえにその国を撰次(編纂)し、その同異を列る事で、前史の未だ備わっていない事に接(つな)げる。-修正-」

私だったら下線部分を、次のような訳にします。

「ついに、中華の周辺にある国々を実見することが出来た(これは周や漢さえも、なしえなかった偉業である)。-筆者-」

 

陳寿は「東夷傳」を、「蕃夷の地を魏が実際に践んで記録した報告を撰次(編纂)したものだ」、と述べています。「周や漢は到達できず、『史記』、『漢書』にもそのような記事はない。」と誇らしげに

烏丸鮮卑傳の編纂目的。

当然ですが「烏丸、鮮卑傳」「東夷傳」はそれぞれの「序文」でそれぞれの傳を編した目的を述べています。

まず「烏丸、鮮卑傳」です。

「其習俗・前事、撰漢記者已録而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變云。

――彼らの習俗や来歴は、漢代の記録者が既に書物に載せている。それゆえここでは漢末、魏初以降のできごとだけをとりあげて、四方の異民族のおこした事変に欠けた部分がないようにするのである。—筑摩—

――その習俗や前の事は、『漢記』を撰した者が已に記録して載せている。その為ただ漢末魏初以来の事を挙げ、四夷の変遷に備えるものとする。-修正-」

 

 筑摩は「四方の異民族のおこした事変に欠けた部分がないようにするのである」と、修正は「四夷の変遷に備えるものとする」と訳していますが、これでは意味がぼやけていると思います。

 

「烏丸、鮮卑傳序文」は次のような書出しです。

「書載《蠻夷猾夏》、詩稱《玁狁孔熾》、久矣其為中國患也。秦・漢以來、匈奴久為邊害。

――『書経』(舜典篇)には「夷番たちが中華の地を乱す。という記事があり、『詩経』(小雅・六月)は「玁狁(異民族)の勢いがはなはだ盛んだ」と述べている。彼ら夷番の者たちが中国の地に災いをもたらすのは、この様に古い昔しからのことなのだ。秦漢以来、匈奴が久しく辺境の地に損害をあたえてきた。-筑摩-

――『書経』は 「蛮夷が華夏を猾(みだ)す」 と載せ、『詩』は 「玁狁は孔熾(甚盛)」と称し、久しく中国の患いとなっていた。秦・漢以来、匈奴は久しく辺境の害を為した—修正-。

 

 この記事を受けて文節末ですから「今後、起こる「四夷之變(四夷との抗争)」に備えて、『史記』や『漢書』に記載されていない漢末魏初以來の、烏丸や鮮卑と抗争を記録することを但(もっぱら・そのことだけをするさまgoo辞典) とした筆者―。

(領収書の「但し 宿泊費」というのは、頂いた金額の内容は、頂いた金額は宿泊費だけです、という意味だそうです。)

 このように理解し、漢末魏初以來の烏丸鮮卑との抗争史を記録したと理解することも出来ると思うのですがどうでしょう。これが「烏丸鮮卑傳」の編纂目的です。

「『三國志』修正計画」さんの提供してくれている「烏丸鮮卑」原文を読んで吟味して見てください

東夷伝の編纂目的。

次は「東夷傳」です。全く違っています。

「魏は前代未踏の地域に到達した。これらは夷荻の国々国であるが(中華古代の)祭祀の儀礼が伝わっている。今(後漢末から三国時代にかけて)、中華は戦乱に明け暮れ、正しい礼が失われる可能性がある。将来失われた礼を、これら夷蕃の諸国に伝わり残ったものを集めて再建するという事態もあり得るのだ。それゆえこれらの国々の国情をつぶさに記録する。」

 

このように要約して良いのではないでしょうか

「東夷傳」のクライマックスは「東臨大海」。

「東夷傳序文」のクライマックスは公孫淵誅殺にあるのではなく、魏が前王朝未踏の「東臨大海」に至った、偏師(支隊)の威力偵察にあるのです。

おとぎ話の桃太郎で言うと、「東臨大海」が鬼ヶ島にあたります。遼東討伐は犬に、楽浪、帯方郡を収めるのはサル、高句麗討伐は雉に黍団子を与える場面にあたると思います。

 

「序文」のクライマックスは「傳」全体のクライマックスであるはずです。東方前王朝未踏の地の果て、と言えば倭もそうです。なぜ「東臨大海」に至った時が「東夷傳」のクライマックスだといえるのでしょう。

 

倭が魏に朝見を請い、「親魏倭王」としてその封を受けたのは景初二(238)年か景初三(239 )年です。「東臨大海」は正始五(244)年です。この時、到達可能な東夷はすべて魏に屈服したのです。それゆえ「東臨大海」の後、結語の文節の文頭で「《遂周觀諸國――ついに、中華の周辺にある国々を実見することが出来た》」と述べているのです。

「遂周觀諸國」の成果を後世の為に記録すると言っているのです

お詫び。

 本来「『卑弥呼考』をみつけました」はこのあとに述べるべきでした。見つけたのが嬉しくて、・・。申し訳ありません

ここまでの纏め。

 こんがらかってきました。

書きこむ順番を間違えて進めるうちに、書いている本人の脳中が、こんがらかってきました。そこで一旦進行を止めて、ここまで書いてきたことを整理しておきたいと思います。

 

A氏が古田氏の著書『邪馬台国はなかった』を批判しています。古田氏の著書は邪馬台国が九州福岡の博多湾岸にあった事を論証しています。A氏の批判の焦点は、-第二章いわゆる「共同改訂」批判Ⅱ戦中の使者-に絞られています。A氏がここを批判することで邪馬台国、近畿説を支持しているのかどうかは、論及が確認できませんので不明です。

 

-第二章-中国の古史書には邪馬台国に触れた部分があります。日本の先賢たちは、そこをさまざまに解釈しているのですが、古田氏は、なかに解釈を通り越し、「(史書)本文の改定(改竄)」の域に至っているものがあると、指摘します。先賢たちに共通していると考えられる「本文の改定」例を挙げています

-Ⅱ戦中の使者-では『三国志』で紹介された邪馬台国記事に加えられた「改定」の一つ、魏への遣使年度の改訂です。「三国志」には景初二(238)年とありますが、先賢達は景初三(238)年が正しいとします。

 

 古田氏は、『三国志』記事の文脈から景初三(239)年が「本文の改定」であり、景初二年は間違っていないことを論証するのですが、A氏は、その論証に”嘘”が多いと批判しています。それが氏の論考「古田武彦氏の説のウソ」という表題の意味です。A氏は古田氏の個々の” 嘘 ”を指摘する前に「1 景初3年が正しい理由」で、遣使、景初二年説を否定してみせます。

A氏が遣使、景初三年を正しいとする論拠は筑摩書房版『三国志』訳本「東夷傳序文」と「公孫度傳」にあります。(記事№3)

「景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。」

「「魏志公孫淵伝(ママ)」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。」

 

—筑摩-の「倭人条」には「景初二(238)年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。――景初二年六月に卑弥呼帯方郡治に使いを派遣した。使者の趣は天子に朝獻したいという申し出だったので帯方郡太守劉夏は洛陽まで使者を送り届けた」とあります。

 

 A氏は「東夷傳序文」と「公孫度傳」を根拠に倭人条の記事を誤りとします、六月にはまだ公孫淵が誅されておらず、帯方郡は魏の支配下ではない、と言います。すると帯方郡治には魏の太守が存在していない。したがって「倭人条」の記事は誤りだ、として景初二年遣使を否定するのです。

そして、A氏は姚思廉、新井白石内藤湖南が「異口同音に」自分とおなじ説を述べていると述べました

本稿の現状。

ここまで私の記述が増えたのは、この三先賢への対応が重かったからです。私はA氏の姚思廉、新井白石内藤湖南が「異口同音に」A氏と同じく倭の遣使、景初三年説であるという主張を検証しました。姚思廉の「梁書」の景初三年を誤記だとして退けました。新井白石が正始四年を提唱していることを指摘しました。ここでA氏の主張する「異口同音」はなくなりました。内藤湖南の「卑弥呼考」での、景初三年についての記述は、論として成り立っていないことを立証しました。

 

というわけでこれからの私の検証は、三先賢を考慮する必要がなくなったというのが現状です。ここからは「A氏の筑摩書房版『三国志』訳本訳文を根拠にした景初三年説」を検証することに専念する事が出来ます。

古田氏が唱える倭の遣使景初二年説が正しいか間違っているか、結論を出しましょう

邪馬台国論争との関係。

念のために申し添えておきますが景初二、三年問題が解決しても邪馬台国が九州であるか近畿であるかの論争解決に直接は結び付きません。影響があるのは精々、景初三年鏡が邪馬台国論争の論点になりえるかどうかというところまでです。

史書解読の結果、遣使が景初三年という結論であって初めて、景初三年鏡が重大な論点になるのであり、結論が景初二年で落ち着けば、景初三年鏡は邪馬台国論争の論点とはなりません。そこまでです。

 

毎日新聞に次のような記事がありました。

三角縁神獣鏡 中国で「発見」? 徹底的な追究を期待

 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)という日本の古墳から出土する銅鏡が、初めて中国で出土したとする報告が現れ、関西を中心に報道された。事実なら、古代史最大の謎、邪馬台国(やまたいこく)所在地論争を左右する発見だ。しかし、出土状況が不明なため、資料価値を全否定する見解もある。私も最初そう思ったが、興味深い論争を一歩前に進める機会になるかもしれないと考えを変えた。

大阪府教委文化財保護課の研究者、西川寿勝副主査が昨年11月、現物を調べた後、広く日本に紹介した。09年以前に同省の洛陽(らくよう)(魏の首都)近郊で農民が見つけ、骨董(こっとう)市に出されたのを研究者が入手したという。不明瞭な経緯だ。

毎日新聞2016年3月2日 東京朝刊

この記事には、この鏡についての議論の経緯等いろいろ書かれているのですが、一部のみを抜粋しました。

 

 執筆した筆者は邪馬台国所在地論争に中立の立場で書いているようですが、遣使景初二、三年問題では三年の立場をとって書いていることを読み取れますか

 三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡である。魏使が卑弥呼に鏡をもたらしたのは正始元年である。であれば景初三年の銘がある三角縁神獣鏡卑弥呼に下賜されたものである。三角縁神獣鏡が出土するのは圧倒的に近畿地方である、したがって邪馬台国は近畿にあった。

これは小林行雄博士の唱えた説の要約です。判りやすく書きましたが、もちろんこれほど単純ではありません。

現在も遣使景初三年問題が定説となっているようですが、私は、これは景初三年鏡を根拠とした小林行雄博士の立論が大きく作用していると思っています。

 

ところが近年、三角縁神獣鏡は国産であるという説が盛んになってきました。このままでは小林行雄博士の説は否定されてしまいます。

そこに三角縁神獣鏡が中国の洛陽近郊で見つかりました。

 

この三角縁神獣鏡が本物の中国産であれば、日本出土の景初三年銘三角縁神獣鏡も魏由来の鏡である可能性がある。であれば小林行雄博士の説は元気に復活する。

 

これが毎日新聞の記事の要旨です。

 

古田武彦氏は『三国志』の記事を根拠に小林博士の説を否定しています。

  倭の使は景初二年十二月に鏡の下賜を受け、持ち帰るはずだった。ところが明帝の不予によってそれが出来ず、手ぶらで帰国した。正始元年に魏の答礼使が持参したのは、景初二年十二月に下賜された鏡である。したがって卑弥呼の下賜された鏡に景初三年の銘があるはずがない。(要約)

 鏡はこの詔書とともに倭使へ下賜されるべく準備されたはずです。景初二年に用意された鏡に「景初三年」という銘が入っているはずがありません。確かに小林氏の説は「三国志」にある帯方郡治への「景初二年六月」遣使という日付と、明帝が「其年十二月、詔書報倭女王曰」という記事を無視しています。

 

古田氏の説が正しく遣使が景初二年であれば、三角縁神獣鏡の真贋以前に小林氏の説は無意味であることを言いたかったのですが意味は通じたでしょうか。

 遣使が景初三年でなければ「景初三年」と書かれた鏡に邪馬台国の位置を云々する資料的価値はないのです。

毎日新聞の記事はこの点を無視しています。『三国志』の「景初二年六月」と「其年十二月」という日付があるのを無視しているのです。邪馬台国の位置に記銘三角縁神獣鏡がかかわるのは景初二、三年問題が景初三年に決着してからの話なのです。

 

以上述べたようにのように景初二、三年問題は直接的には邪馬台国には影響を与えません。マイナーなテーマですがよろしくお付き合いください。

内藤湖南の『卑弥呼考』――記事№...12

古田武彦氏の説のウソ、・・№9」―― 景初3年が正しい理由―その8

卑弥呼考』を見つけました。

 先に内藤湖南の「卑弥呼考」が手許に無く、最寄りの図書館にも蔵書がなく、「湖南の論拠を参照できません」と書いたのですが、ネット上の「青空文庫」という無料電子図書館翻刻掲載されているのを見つけました。底本は筑摩書房刊行『内藤湖南全集 第七巻』に収録されているそうです。独立した単行本ではなく、雑誌に連載された論文だったのですね。見つからないはずです。「青空文庫」のボランティアの皆さんに感謝します

青空文庫 卑弥呼考」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html

 飛ばし読みです。

卑弥呼考」は大和説を唱える論『魏略』を中心とした『三国志』、『後漢書』等の比較検証、「三国志」版本調査などの記述部分、私はお見事としか言いようがありません。また『魏志』「倭人条」に基づいた国名、人物検証もありました。これは、当時の学問的状況をよく伝えているのでしょう

 江戸時代初期から邪馬台国論争は (私の個人的意見では)九州説が有力でした。本居宣長は『馭戎慨言』で卑弥呼を、熊襲のたぐいの女酋である、としました。

 明治になっても、那珂通世が明治11(1878)年、「上世年紀元考」を著し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とし、「邪馬台女王は南九州にいた熊曽の女酋である」と主張しています。那珂は神武紀元を修正し「紀年論争」を引き起こしたこと有名です。

 星野恒氏は明治25(1892)年、「日本国号考」で「邪馬台国筑後国山門郡説」を発表しました。

 菅政友は「漢籍倭人伝」で薩摩・大隅と比定しています。

吉田東伍は明治31(1898)年「日韓古史断」で邪馬台国熊襲説を取りました。

神道は祭天の古俗”という論文や著書「日本古代史」で有名な久米邦武も熊本県玉名市の江田古墳を邪馬台国の関係遺物としたそうです。

(「れんだいこ」氏のホームページに依りました。近畿説は省きました。また九州説もこれだけではありません。)

 

 こういった環境の中で湖南は強力に邪馬台国、大和説を主張しました。当時のことですから「倭国条」の解釈に『日本書紀』や、『古事記』等がストレートに使われています。例えば「魏志」にある韓諸国を、『日本書紀』や、『古事記』中に出て来る半島諸国で説明しようとしています。これにはかなり無理が生じているはずです

「五 結論」として次のようにあります。

 已上の各章に於て、魏書倭人傳の邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと女王卑彌呼とは倭姫命なることは粗ぼ論じ盡せり。

 これでもわかるように「卑弥呼考」は近畿説を主張する一論文なのです。

古田氏によって引用され、A氏によって孫引きされた湖南の記述は「四、本文( 三国志 倭人条 ) の考證」末尾にあることが確認できました。

 

お粗末な景初三年の証明。

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

 景初二、三年問題についての論及はこの引用部分ですべてです。流し読みのせいか、「四、本文考證」末尾に至って、景初二、三年問題への論及はあまりにも唐突に感じられます

「神功紀」そのものの正しさを証明する論述はなされていません。傍証として二件挙げられています。

「魏書」から「淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり」を。『梁書』からは景初三年記事です。

 

湖南に代わって検証してみます。まず「神功紀」です。「三年に作れり」という記事原文を再掲します。

卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

―― (神功摂政)三十九年。是年、太歳、己未。魏志に伝はく、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。

「云う」というのは魏志を引用したという『日本書紀』編者の但し書きです。『日本書紀』は「魏志 東夷傳序文」の「景初二年」を「景初三年」と誤引用しているのです

私が湖南の説を間違っていると考えているとしても、「神功紀に之を引きて三年に作れるを”誤”とすべし」と引用すれば、明らかに私の誤りですよね。引用先と引用元が違っていれば、引用先が間違いであることは公理です。私が”誤”を”正”に引用し直して初めて、読者は相手にしてくれます。

なぜでしょう。例えば、引用の後、私が湖南の意見を肯定するにしても、否定するにしても「神功紀に之を引きて三年に作れるを”誤”とすべし」と誤引用したままでは後に続く文意が不明で支離滅裂になるからです。

 

湖南は「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし」といいます。「引用先と引用元が食い違っている。引用元が間違いである。引用先が正しい。」、二つの文章を比較して当否を評する、普通であれば何の問題もありません。しかし引用文の場合は「食い違っている」ことが大問題です。「引用先と引用元は絶対的に同一」でなくてはならないのです。引用先と引用元が食い違っていれば、私の誤引用と同じで引用先を引用元と同一に正さなければなりません。湖南の主張は公理に反しています。

 

日本書紀』のから引用文も、景初三年を景初二年と訂正して初めて論議が可能なのです。訂正すれば『日本書紀』も「天子に詣らむことを求めて朝献」したのは景初二年と言っているのです。

 

湖南は「六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり」と述べます。そしては帶方郡太守赴任の具体的記事を示していません。しかし「韓条」には「「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡――「景初中、明帝が密に帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣の二人を海を越えて遣し、二郡を定めさせた」とあります。二郡の太守はこの時派遣されています。

私は「密遣」とあるのを、遼東で公孫淵が、まだ権勢を奮って時期の派遣だと理解します。

「六月に魏はすでに帶方郡に太守を置くに”至っていた”」可能性は十分にあります。

「韓条」引用文中にあるこの「景初中」が景初二年八月以降であることを証明してからでなくては、湖南の主張は成立しません。

 

次に「『梁書』にも三年に作れり」と挙証しています。『梁書』の原文を見てみましょう。

「至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬――魏景初三年に至り、公孫淵を誅した後、卑彌呼が始めて朝貢使を遣し・・・」

とあります。『梁書』は淵が滅んだのは景初三年になってから、と言っていますが、湖南は「淵の滅びしは景初二年八月に在り」と平然として言っています。『梁書』か、湖南のどちらかが間違っています。

湖南の主張が正しいとすれば、『梁書』の「至魏景初三年公孫淵誅」は「至魏景初二年」の誤りで、「卑彌呼始遣使朝貢」も「公孫淵誅後」の「景初二年」の出来事となります。「神功紀」にある「景初三年」の根拠にはなりえません。

 

 『梁書』が正しいとどうなるのでしょう。「倭人条」は自己完結していますので、倭の遣使が「景初三年」でも問題が目立ちません。しかし「公孫淵誅」が「景初三年」となると、「魏志」内で年記の玉突き現象が起こります。例えば景初二年十二月、明帝不予を知らされた司馬懿は、洛陽に近い河内郡まで帰還していました。公孫淵を誅しないまま帰還していたのでしょうか。公孫淵を誅しての帰還であれば、ここも景初三年十二月に改めなければならない。明帝の臨終も景初三年十二月になります。すると明帝の死は正始元年正月になります。この余波で玉突き現象はさらに範囲を広げます。『晋書』の「宣帝紀」まで書き直しになるかもしれません。

明らかに『梁書』の誤記です。

湖南のイデオロギー告白か?。

「神功紀」が正しいとして湖南が挙げた傍証二つは、ともに簡単に破たんしてしまいました。湖南は大学者です。これは湖南がちょっとでも注意を注げば、気が付く水準の簡単な論理の欠陥です。湖南は一見、遣使が二年であるか、三年であるかという事実検証にはあまり興味は持っていないように見えます。というか「神功紀」の記述に絶対的な信頼を置いて、突き詰めた事実検証の必要を感じていないというのが正確なのかもしれません。

魏志云」の持つ意味は見落としたのでしょう。景初二、三年問題に限って言うと、湖南の読解力。の未熟さはお話にならない水準であることになります。大学者の湖南です。それはあり得ないのですが、私はそう理解したい。

 

見落としでない場合、どうなるのでしょう。先ほど誤引用は正したうえでさになるかを見てみましょう。

 

「明帝景初三年六月、・・」は誤引用文ですから、『日本書紀』の真意は、「明帝景初二年六月、・・」にあります。ところが、湖南はそれでも「景初二年六月」を誤りとしています。

「景初二年六月は三年の誤りなり。」「神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。」ですね。

「引きて」は「引用して」の意味ですからですから、『日本書紀』は誤引用であることを理解の上で「景初三年六月」としている、と主張しているとことになります。「理解の上」であるという説明はありません。

すると「本居宣長」ばりに「中国の史書と本邦の史書の記述が食い違っていたら、(問答無用で) ” 本邦の史書の記述 ” を信じるように」と説いていることになります。

 

湖南は「卑弥呼考」で「倭人条」にある邪馬台国が、大和であることを論証するために、ストレートで『日本書紀』や『古事記』等を駆使しました。そこに”歪”が生じているのを、自覚していたのではないでしょうか。自分のこれまで書いてきた「倭人条」解釈に”歪”が生じるのは自分の解釈がおかしいのではなく「倭人条」が間違っているからだ、と宣言していることになります。

 

 以上が、見落としでなかった場合の論理シミュレーションです。

 

これは事実の証明努力を放棄した、皇国史観イデオロギーです。であればこれ以上引用文を検証しても、湖南のイデオロギーの検証になってしまいます。ここで膨大なエネルギーを要するイデオロギー検証をするつもりはありません。

いやですよね、大学者にこんな想像を被せるのは。湖南のごく一部に関する、単純な見落としであることを願う由縁です。

白石について。

 新井白石の所説について、一切触れられていません白石の研究家、宮崎道生氏は次のように言っています。

一般的には学者としての白石の声価は寛政の頃に定まり、明治に入りその著作が逐次公刊されるようになって確定しました。

しかし古代史学者としての評価はまた別でした。「古史通」は明治四年、「古史通或問」は明治三九年に「新井白石全集」に収められ刊行になったが、明治の著名な史家は本居宣長の説を例にとることは多かったが、白石の説は殆ど顧みられなかつた。白石の邪馬台国観が本格的に取り上げられるようになったのは敗戦後、歴史を自由に論じられるようになり、邪馬台国論争も活発になってからである。

卑弥呼考」の初出が『藝文』1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、7月第1年第4号だそうですので、「そうなのか・・」という感じです。

 

そもそも遣使が景初二年であるか三年であるかというだけでは、近畿説、九州説に何の影響もありません。私は、本格的な景初二、三年論争は昭和28(1953)年、「景初三年鏡」の発見があってからだと思っています(記事№4参照)。湖南が景初二、三年の考察について深く立ち入っていないのは当然なのかもしれません。

 

卑弥呼考」は、二・三年について湖南の思索の後を辿れる、と私が予想していたものではありませんでした

ここまでの纏。

さて姚思廉、新井白石内藤湖南が「異口同音に」A氏と同じく倭の遣使、景初三年説であるという主張を検証してきました。私は姚思廉の「梁書」の景初三年を誤記だとして退けました。新井白石が正始四年を提唱していることを指摘しました。ここでA氏の主張する「異口同音」はなくなりました。内藤湖南の「卑弥呼考」での、景初三年についての記述は、これ以上検証すべき領域にはないことを指摘しました。

 

というわけでこれからの私の検証で、三先賢を考慮する必要はなくなりました。ここからは「A氏の筑摩書房版「三国志」訳本訳文を根拠にした景初三年説」検証に専念する事にさせていただきます。

 

 

 

「東夷傳 序文」の風景――記事№...11

古田武彦氏の説のウソ、・・№8」――2−1 景初3年が正しい理由―その7

 すでにお馴染みになった引用文を、その少し後まで紹介します。すると馴染の引用文は「東夷傳 序文」全体から見ないと理解しずらいことが判ります。

目次

 偏師派遣

 「景初中,Ⓐ大興師旅誅淵,①潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡而後海表謐然東夷屈服其後句麗背叛,②又Ⓒ遣偏師致討,㊁窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海

 

景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに船で兵を運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。これ以後、東海の彼方の地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たち中国の支配下に入ってその命令に従うようになった。後に高句麗がそむくと、再び軍の一部を分けて討伐におもむかせた。その軍は極遠の地をきわめ烏丸、骨都をこえ、沃沮を通り粛慎の居住地に足を踏み入れて、東海の海を臨む地にまで到達した。―筑摩―

景初中(237~39)、大いに師旅を興して公孫淵を誅し、又た潜かに軍を海に浮かべて楽浪・帯方の郡を接収し、その後は海表(海外)は謐然となり、東夷は屈服した。その後に高句麗が背叛し、又た偏師を遣って致討し、追討を窮めて遠方を極め、烏丸・骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、粛慎の庭を踐み、東のかた大海に臨んだ。―修正―

 

  Ⓐという軍行の後にⒷという軍行、その後のⒸという軍行が書かれています。

Ⓐの軍行の成果は「誅淵」です。Ⓑの戦果は「收樂浪、帶方之郡」だと言っています。Ⓒの戦果としては高句麗を討ったことと、「㊁窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海」を挙げています。

「遣偏師(支隊)致討」ですから、高句麗に派遣された軍の規模は公孫淵討伐行とは比較にならないくらい小さかったと思います。㊁は引用文を読んでいる限り高句麗を討った後は威力偵察にすぎません。陳寿はその小部隊の、たかだか威力偵察を、陳寿高句麗を討ったことと同等の功績として評価しています。文字数からすればむしろ㊁のほうが高評価と言えるでしょう

 この高い評価の意味を理解するには、これだけではわかりません。「東夷傳序文」全文を読み直す必要があります。

書稱「《東漸于海、西被于流沙》。其九服之制、可得而言也。然荒域之外、重譯而至、非足跡車軌所及、未有知其國俗殊方者也。自虞曁周、西戎有白環之獻、東夷有肅慎之貢、皆曠世而至、其遐遠也如此。及漢氏遣張騫使西域、窮河源、經歴諸國、遂置都護以總領之、然後西域之事具存、故史官得詳載焉。魏興、西域雖不能盡至、其大國龜茲・于寘・康居・烏孫・疎勒・月氏・鄯善・車師之屬、無歳不奉朝貢、略如漢氏故事。而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子為其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏――『尚書(書経)』〔禹貢編〕には「東は海に入るまで、西は流沙に及ぶまで〔の地域に、中国の教化が広がった〕」と書かれている。〔すなわち〕こうした九服の制度に含まれる地域については、ちゃんとした根拠をもっていろいろ述べることが可能なのである。しかし九服のもっとも外の荒服のかなたの地域については、そこからの使者が幾度も通訳を重ねて中国に来ることもあって、中国人の足跡や馬車の轍はそこに及ばず、その国々の民衆の生活、様々な土地のありさまについて知る者はいなかったのである。

 舜の時代から周代に至るまでの間に西戎(西方の異民族)が白玉の環を献上したり東夷が粛慎氏の弓矢を上納したりすることはあったが、そうしたものも久しく年代を隔てて時たまやってくるのであって、その土地の遠さは、こうした事からも知ることが出来る。漢の王朝が張騫を使者として西方に遣わし、黄河の源流をつきとめ、多くの国々を遍歴させたことがあって、その結果、都護の官がおかれてこの地域を総領するようになった。それ以後、西域の事が詳しく知られ、そのため史官たちもそれを詳細に記録することが出来たのである。魏が国をおこしてからは、西域の全ての地域から使者が来るというわけにはいかなかったが、それでもその中の大国である亀茲、干填、康居、烏孫、疎勒、月氏、鄯善、車師といった国々からの朝貢がない年はなく、漢の王朝の場合とおおよそ異なることはなかった。ただ〔東方の地域については〕公孫淵が父祖三代にわたって遼東の地を領有したため、天子はこのあたりを絶域〔中国と直接関係を持たぬ地域〕と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中国の地へ使者のやって来ることも不可能となった。・・・・・・・・・・(筑摩)

  そしてお馴染みの「景初年中・・」と続き、偏師は沃沮、粛慎へと進んでいきます

・・・・・踐肅慎之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

「践粛慎之庭、東臨大海。――粛慎の庭を践で東に大海を望む」、現ロシア領沿海州の海岸まで至ったとされています。

この後続けて「長老説有異面之人、近日之所出、――夷番の勢力圏東の果てに棲む長老が語るには、更に東方、海の向こうには異面之人々が住んでいる、という。」とあります。これを倭と観るか、古代のエミシやエゾと観るか、どうなのでしょう。

 

さらに「遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。――東夷諸国を周く実見して、その法・俗を採訪し、小大の区別や、各々の名号を詳紀する事ができた。」これは

周や漢がなしえなかった偉業です。

「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

――夷狄の邦とはいえ、俎豆之象(古中国の祭祀儀礼)は存在している。中国が礼を失った場合、それを、この四夷に求めて回復できると信じている。ゆえにその国を撰次(編纂)し、その同異を列記する事で、前史(『史記』、『漢書』) に未だ備わっていない記録を捕捉する。(-修正-の訳を補正)

 陳寿は「東夷傳」のことを、「周や漢が到達できず、『史記』、『漢書』にはない蕃夷の地を、魏が実際に践んで記録したものを、撰次(編纂)した」ものだと誇っています。

 

 偏師が威力偵察した「東臨大海」や、魏使の「倭國」探訪が、張騫の偉業や班超の西域経営と比較されているのです。

 

「東夷傳序文」のクライマックスは公孫淵誅殺にあるのではなく、魏が前王朝未踏の「東臨大海」に至った、偏師(支隊)の威力偵察にあり、「東夷傳」のクライマックスは倭人条にあるのです

()沃沮

 この偏師の軍行について「東沃沮条」、「毌丘儉傳」にはより詳しく出ています 

ここでは「東沃沮条」、を紹介します。

毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千餘級、宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里、其俗南北皆同、與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔、北沃沮畏之、夏月恆在山巖深穴中為守備、冬月冰凍、船道不通、乃下居村落。王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中、純女無男。又説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。(東沃沮条)

――毌丘倹が句麗を討伐すると、句麗王の宮が沃沮に逃げ込んだの、でさら沃沮の地にまでに軍を進めて、攻撃をかけた。沃沮の邑落をすべて破り。首級をあげ獲虜にしたものが三千余にのぼった。宮は北沃沮に逃げ込んだ。北沃沮は置溝婁ともよばれ、南沃沮から八百余里の距離にある。その習俗は南北と異なる所なく、挹婁と境を接している。挹婁が船を使って盛んに侵入行為を行うので、北沃沮はこれを畏れて、夏の期間はいつもけわしい山の深い洞窟の中で守りを固め、冬に氷が張って、船の通行が出来なくなると、山を下ってりて村落に居住する。王頎は、毌丘倹の命令を受けて本隊から別れて宮を追いかけ、北沃沮の東方の東界まで行き着いた。その地の老人尋ねた。「この海の東にも人間が住んでいるだろうか。」老人が言った、 「この国の者がむかし船に乗って魚を捕っていて、暴風にあい、数十日も吹き流され、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の習俗では、毎年七月に童女を選んで海に沈めます。」 また次のようにいった。「海のかなたには、女ばかりで男のいない国もあります。」 次のようにも述べた 「一枚の布製の着物が海から漂いついたことがあります。その着物の身ごろ普通の人の着物と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また難破船が波に流され海岸に漂いついたことがあり、その船には項(うなじ)の所にもう一つ顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし話しかけても言葉が通ぜず、食事をとらぬまま死にました。」 こうした者たちのいる場所は、みな沃沮の東方の大海の中にあるのである。 (筑摩)

 毌丘倹傳によると高句麗を攻めた偏師は「歩騎万人」だったそうです。高句驪王、宮は歩騎二万人を率いて沸流水(渾江)の上(ほとり)を進軍し、梁口で戦い(梁の音は渇)、連破されて南沃沮に逃走しました。偏師は南沃沮へ宮を追い、これを撃破しました。さらに宮は北沃沮へ逃れました。ここで毌丘倹の本隊は凱旋し、宮を追ったのは、王頎の率いる一隊で、宮の身柄確保には失敗しています。 

 毌丘倹の読みの浅さと、王頎の、宮の身柄、確保の失敗が、高句麗を存続させ、後の隋の大敗に繋がっていきます。

 

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   後漢三国時代直前の地図です(wikipedia)

 

 この記事に出て来るのは南北沃沮と挹婁です。南北沃沮を攻め、北沃沮(溝婁)で耆老に海東の様子を聞いています。粛慎との接触は書かれていません。では「践粛慎之庭」とは何のことを言っているのでしょう。

 粛慎

 粛慎は次の史書に出てきます。(wikipediaを編集)

書経』、周初の史官の記録にあると考えられている。儒教では孔子が編纂したとする。

『春秋左氏伝』孔子と同時代の魯の太史であった左丘明であるといわれている。

『国語』は『春秋左氏伝』と同じく左丘明であると言われている。

山海経』、戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられている。

史記』周本紀

 いずれも周初の武王や康王の事績として書かれている。

 

後漢書東夷伝

周初の武王や康王の事績の中に出て来る。

『晋書』四夷伝

周初の武王や康王の事績の中に書かれている。晋の文帝(司馬昭)が魏の丞相となった頃、魏の景元年中魏帝(曹奐)の、時粛慎が来貢したとある。晋になっての武帝(在位:265年 - 289年)の時ふたたび来朝して献上し、元帝(在位:317年 - 322年)が晋朝を中興すると、また江左(江東すなわち建康)に詣でた。成帝(在位:325年 - 342年)の時に至り、後趙(北朝)の石季龍に朝貢するようになった。季龍はこれを問い、粛慎の使者が答えて言った「たえず牛馬の様子を見ていましたところ、西南に向かって眠ることが3年続きました。これによって大国(後趙)の所在を知ることができましたので、やって参りました」と。

『晋書』は唐になって編纂されています。唐は北朝の系譜の王朝です。後趙のころから北荻が北朝朝貢していたと言いたいのでしょう。仕込みが見え透いていますね。

 

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前漢時代の地図で、周辺の蕃夷の国名は周初と異なっています(wikipedia)

 

三国志」編纂する陳寿は北沃沮を、前書(『史記』等)にある、周への朝貢国の一つ粛慎に見立てているのです。「東夷傳序文」で陳寿は、周や漢では未踏だった粛慎の地まで兵を送り込み、他の東夷諸国もつぶさに記録したと誇って(賛美して?) いるのです。

 おなじみの引用文はこの文脈の中で理解しなくてはならないのです。

 

 次回こそ、訳文の検証にかかりたいと思います。それまでに「三国志修正計画」さんの提供してくれる対訳を読んでいただければ有難いです。