例文内の「又」の役割4 最後の「又」2――記事№...22

 

古田武彦氏の説のウソ、・・№19」――

2−1 景初3年が正しい理由―その18

目次

 

 高句麗

  余談ですが高句麗についてちょっとだけ書かせてもらいます。高句麗とは東北アジア満州にいたツングース系民族の一部が漢の冊封を受けて建てた国の名です。民族名ではありません。ツングース系民族とはツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族のことです

歴史上に登場する民族・国家のうちツングース系民族と確定または比定されているのは、以下の民族・国家だそうです。

粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨、渤海女真、濊貊(濊、貊)、夫余、高句麗、沃沮、百済、豆莫婁

ツングース系民族は現代でもシベリアから満州にかけての極東、北東アジア地域に住み、主に牛馬の飼養と,狩猟,遊牧、一部は農業で生活しています。

現在民族集団を形成しているツングース系民族は以下のとおりと言います。

満州族、シベ族、オロチョン族、エヴェンキ - ソロンを含む、エヴェン、ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィルタ

これらの民族は満州民族を除いて人口が少なく、漢民族(中国語)やロシア民族(ロシア語)の影響が大きく、固有の言語、文化が危機にさらされている。

(Wikipediaより編集、)

 

前漢が元封四(前107)年に遼東郡の東、楽浪郡の北に東北地方(満州)に玄菟郡を建てました。当時の玄菟郡は幽州に属し、郡治は高句麗県にありました。残りは上殷台、西蓋馬の二県です。

 元鳳六(前75)年になると、漢の東北政策が変り、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になりました。玄菟郡は直接の支配領域を徐々に放棄して西へ縮小移転されました。郡治の高句麗県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村付近へ移され、元の高句驪県の場所には原地人の雄が高句麗侯として冊封されたのです。

                        (Wikipediaより編集、)

 

 一昔前まで我々庶民は高句麗を想像するのに現存するツングース系民族の生活様式を想起するしかありませんでした。

 しかし現代ではインターネットで高句麗人の生活を目の当たりにすることが出来ます。吉林省集安市や北朝鮮平壌周辺には、高句麗時代の遺跡が数多く残されており、石室封土墳に見られる壁画には、当時の生活文化や四神図などが鮮やかに、かつ生き生きと描かれています。

これらの遺跡は世界文化遺産に指定されネットでも公開されていますので「高句」で検索してみてください。

高句麗は周知のように騎馬民族国家です。その戦力は強力な騎兵によって構成されていました。集安周辺に残された遺跡からは高句麗前期の馬具、武具が多く発掘され、墳墓の壁画は当時の騎兵部隊の姿を再現してくれています。

遼東を犯し、新安・居郷を寇し西安平を攻めた伯固の軍も強力な騎兵部隊によって構成されていたはずです。

 

高句麗西安平攻撃

 

 本論に戻ります。高句麗西安平攻撃についてです。

 

要図

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  図 ソフト、カシミール付属の地図により作成

 

鴨緑江は長白山周辺を水源に中朝国境に沿って流れ遼東半島の付け根、現在の丹東市(西の文字あたり)で黄海に流れ込みます。丹東市が西安平です。当時の高句麗王城である丸都城(句の文字あたり)は鴨緑江中流域、現在の中国吉林省集安にあります。高句麗の領域は西に玄菟郡、西南に遼東郡都と境を接しています。遼東郡の郡治、襄平(襄の文字あたり)は現在の遼陽あたりにありました

 

二つの経路

 

冒頭の文節に「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」とあります。文節を読んでこの要図を見ると、高句麗西安平攻略経路は二つのケースが想定できます。

帶方県の治所と樂浪郡治がどこに移されていたかによって高句麗の侵攻経路の想定は違がって来るのです。

訂正

 

訂正します。

-修正-

それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。

―理解する世界史&世界を知りたい―

高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

 

前回-修正-が鴨緑江経由で西安平を攻めたとしていると書きましたが間違です。鴨緑江経由と説いた可能性があるのは―理解する世界史―でした。

 

-修正-の主張では遼東郡と帯方県が遼東郡のどこに移されていたかは、不明です。これを仮に二つの場合に分けて考えます。

遼河が遼西郡と遼東郡の間を流れています。この遼河と遼東半島から東北に延びる千山山脈の間、これが遼東郡本体だとします。ここに移されていた場合をケースAとします。

遼東郡の鴨緑江沿いに移されていた場合をケースBとします。―理解する世界史―の主張「当時遼東郡西安平県方面へ移動していた」はこれにあたります。

鴨緑江沿いの西安平攻めの可能性が出て来るのはこのケースなのです。

 

お詫びします。

 

ケースAの場合

往路

 ケースAの場合は地図、黒字の高句麗あたりから遼東郡に入ります。南下し、しばらく行って東に折れ西安平に向かいます。その途中で両者を攻略し、その後千山山脈を越え西安平を攻めたという経路になります。

 

 『漢書』地理志によれば遼東郡の県城は襄平、新昌、無慮、望平、房、候城、遼隊、遼陽、険涜、居就、高顕、安市、武次、平郭、西安平、文、番汗、沓氏の十八城があります。往路この十八城とは接触もなかったようです。高句麗は騎馬部隊の機動性で十八城を迂回しつつ駆け抜けましたということでしょう。状態としてはいわゆる中入りということになります。

たまたま楽浪郡、帯方県両治所に遭遇した時、高句麗軍は両者を迂回せず、蹂躙して去っています。中入りですから一日応戦されただけでも高句麗軍は苦境に陥ったはずです。その一日も保たなかったと思われます。両者は無防備状態に近い状態だったようです。

 

 高句麗の領域を離れて西安平までの距離をおおよその目測ですが500㎞前後としておきましょう。道は直線ではありません。また県城を回避しながらの行軍です。実際の踏破距離はその倍あったとしてもおかしくはありません。

wikipediaは騎兵の一日の行程を40~60㎞としています。並足や襲歩を組み合わせた平均的速度でしょう。日本陸軍の、と断ってあるので陸軍省発行の騎兵操典を参考にしたものと思われます。帝国陸軍日露戦争に備え、サラブレッド等を導入し、騎兵用の馬を改良しています。大型の馬を使うロシヤのコサック兵との交戦を想定したためです。日本馬の在来種は二回りほど小さいのです。高句麗の騎馬も同系統だったと考えられます。ネットを使って同じく同系統と思われるモンゴル馬で検索してみてください。馬格の違いは確実に一日行程の大小に影響します。

しかも、これは平滑地を基準にしています。山岳地や沼沢地ではこうはいかないことははっきりしています。高句麗軍が一日60㎞の行程をこなすのは難しいと思います。

 

高句麗領域から西安平までを700㎞、一日40㎞の行程と想定します。17日という日数が出ます。往復で34日です。戦闘中の日数を5日とします。合計39日です。39日分というと、食料だけでもたいそうな荷物になります。騎兵の長距離行軍には輜重は随伴できません。行軍速度が噛み合わないからです。まして隠密行動を必須とする中入り作戦での輜重は随伴不可能です。

この荷物を騎兵が携行するのでしょうか。接敵した時、動きにセーブがかかります。それは出来ません。

現地で買い上げ現地調達するのでしょうか、敵地を行軍しているのですから買い上げは無理でしょう。その場合もう一つの現地調達、略奪、強奪になります。通報を回避するため、現地人皆殺しの上の現地調達かもしれません。

 

私もそうですが、読んでくださっている方も疑問を持つのではないでしょか。

はたして遼東郡治である襄平や諸県城に背後をさらしたまま、危険な作戦を実施して、西安平を犯す必要があったのでしょう。

「犯遼東、寇新安・居郷」は納得がいくのです。境界近隣をサッと荒らして、サッと引き上げるのは、烏丸や鮮卑もやっていることです。この場合示威もあるでしょうが、攪乱と略奪も目的でしょう。

西安平までの中入りの場合は理解に苦しみます。

復路

復路は、こうやって通り過ぎたところを再度通ることになります。食料を入手することは往路より困難です。また遼東郡治には楽浪郡、帯方県両治所が襲われたことが知れているはずです。西安平が攻められたこともです。当然、遼東郡内には最高水準の警戒線が引かれ高句麗軍補足のため軍が編成されているはずです。西安平は陥落したわけではありません。追撃部隊も出しているかもしれません。袋のネズミ状態と言ってよいでしょう

帰還する高句麗軍に素通りされたと皇帝に聞こえれば遼東郡太守の処f罰は必至です。処刑もあり得ます。太守は必死でしょう。遼西郡や高句麗軍補足に成功しても失敗しても記事にするには絶好の出来事です。

文節には帰路について何も触れられていません。書き残すような何事もなかったとしか考えられません。このような状況の中、高句麗領域まで何事もなく帰還できたのですから奇跡です。

ではどうやって何事もなく帰還出来たのでしょう。可能性としては鴨緑江伝いに帰路をとって帰還したという想定は成り立ちます。次回はこの経路を考えますので合わせて検討してみましょう。

 

 

2−1 景初3年が正しい理由

例文内の「又」の役割3 最後の「又」1――記事№...21

古田武彦氏の説のウソ、・・№18」-2−1 景初3年が正しい理由―その17

 

今回から、やっとこの「又」についての検証に戻ります。

 

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。

――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」

 「又」の復習

 まず「又」についての復習から始めます。

「諸橋大漢和辞典」によると、一般的に適用できる訳語は下記の通りでした。

 

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。

❸ふたたびする。

 

ある事、またある物の記述があって、引き続いて別のある事、またある物を記述するときに使っています。

 

倭人条の例で見てみます。ある事、またある物を連続して、記述する語法を幾つか例示できます。

「×××、答汝所獻貢直。又特賜、○○○」の「又」は、下賜品の内、×は倭國より魏への貢献に対する答礼品、○は女王卑弥呼に対してのプレゼントという性格の違いがあることを表現しています。訳語としては❷㋑の「さらに」が当てはまります。

 

併記されていても相互に性格の違いを意識する必要がない場合、次のように続けて記述されます。

「絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹」

  次の場合は國の連なり具合を意識して書いたのだと思います。

「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、・・・」

Ⓐ「女王國東渡海千餘里」の文節は女王國の東方から南方に存在する未知の國々の告知という括りです。

 「復有國」は、新たに示された國々が「皆」女王國と同じ「倭種」であることを意識して、「又」ではなく「復」を使っています。21、Ⓑ「又」は「侏儒國」という國が「倭種」ではないことを意識して「又」を使っています。

22Ⓒ「又有裸國・黑齒國」は「倭種」でなく、「侏儒國」とも同じ種ではないという、「又」の使い方だと思います。

 Ⓒ「復在其東南、船行一年可至」の「復」は「其東南」の「其」について説明しています。「船行一年可」の起点である「其」は、前にある「女王國東渡海」「去女王四千餘里」と同じで「女王國」だと言っています。

 

⑲、⑳の「又南渡一海千餘里」「又渡一海、千餘里至末盧國、」は、その前にある「度一海、千餘里」と結びつくことで、二回目、三回目の渡海という時間的前後関係を表現しています。

―筑摩―の訳文

 復習を終えて本題に戻ります。

この文節に「後」とか「始」とか、時の前後を示す語句は入っていません。私の主張が正しいとすると、この「又」は「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」との性格の違いを受けていなくてはなりません。

 

 ―筑摩―の訳文を見てみましょう。この文節の括りは、高句麗王、伯固の遼東郡侵犯にあります。「新安・居郷」が現在の何処にあたるかはわかりませんでしたが、両地が遼東郡の何処かである事が前提の文脈です。西安平は鴨緑江の河口、遼東半島の付け根、今の丹東市です。ここも遼東郡です。その範囲では「又」で区別するべき理由が見当たりません。

 しかし「攻西安平」の後に「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」とあります。遼東半島の付け根、今の丹東市を攻めるのに楽浪郡治(平壌) を劫掠して通過したことになります。

 新安・居郷を寇したときは高句麗の領域から直接の侵攻で、西安平の場合は楽浪郡を押し渡って西安平を攻めたことになります。この時は遼東郡だけではなく楽浪郡も犯したことになります。

 この訳文は素直に読みとった逐語訳だと思いますが、「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」に「又」で両者の区別をつけた結果になっています。

楽浪郡北遷説

 ところが原文を―筑摩―の訳文と同じように読めない人も多いようです。

 例えば、今まで再々引用させてもらっている「三国志修正計画」では次のように言っています。

 

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正)」

 

 楽浪郡治は平壌に有ったというのが定説です。―修正―の説によると、伯固が遼東郡を寇した時、楽浪郡治も帯方県の治所も遼東郡内部に北遷していた、というのです。これは―修正―だけが説いている説ではありません。

 

後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものとなり、中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移ったらしい。

 AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

(理解する世界史&世界を知りたい-http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/bc108a2.htm-)」

 ネット上で私が見つけた―又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子―を明記しての楽浪郡、北遷説は、この二つですが北遷説を採っていると思われる記事を他にもいくつも見受けました。

北遷説よりさらに過激な次のような説もあります。

 

帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。 定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である」

 

虚構の楽浪郡平壌

http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html

真実の満韓史を求めて―http://blog.livedoor.jp/goshila/archives/1051741285.html

古代史俯瞰 by tokyoblog-帯方郡 楽浪郡http://tokyox.matrix.jp/wordpress/帯方郡-太守/

各国の位置(古代史の復元)

http://www.geocities.jp/mb1527/N1-03-2kakukoku.html

 

 

北遷説の説の根拠

まず楽浪郡治、帯方県の治所が遼東郡内に北遷していたという説の根拠を把握しようとしました。

残念なことにこの説を主張する論者達が、その根拠や、どのような論理で北遷説を導き出したか、それを説明する記事は見当たりませんでした。

 

この事があって自分の中での回答さえ出せず、最後までこの「又」の検証を先送りにしてきたのです。

 

厳密に調べるためとはいえ先延ばしには限界があります、やむをえずこの北遷説が拠って立つであろう、根拠と論理を自分なりに想定してみることにしました。この説を説明する記事を他に見つけられないのですから、この記事自体から類推するしかありません。

 

―修正―の記事を見つめ直しました。

 まずこの文節から楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあったことを指摘しています。そして「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」を根拠に、「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言及しています。

 

なぜ楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあれば「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」となるのか。

 私は北遷説の出発点をここである、と仮定することにしました。

 

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後漢期の東夷の勢力範囲(Wikipediaより 濊貊は三国志東夷伝の濊です)

 

上の地図は後漢のころの政治地図です。玄菟郡高句麗の西、遼東郡は南西にあります。高句麗の南東は東沃沮の領域が広がっています。東沃沮の南に濊貊(濊)がいます。東沃沮と濊貊の西に楽浪郡帯方郡があります。

高句麗から楽浪郡に入るには東沃沮を通過しなくてはなりません。文節は、遼東郡の西安平を攻める道すがら、「于道上」といっています。東沃沮については何も触れていません。

触れていない理由として次の三つが考えられます。東沃沮は高句麗軍の通過を容認した、多少の揉め事は有ったが書かれていない、高句麗の軍が東沃沮を通過しなかった。

北遷論者はまず、第一の可能性を否定します。他國の軍が自領域に侵入し通過するのを黙って見ている國はない、そう考えるのが普通でしょう。

第二と第三の可能性が残りますが北遷論者は三つ目の可能性を受け入れたのだと思います。

 

さて、遼東半島の付け根にある西安平の南側直近には鴨緑江が流れています。この大河は高句麗の領域、長白山(白頭山)のある長白山脈あたりに水源を発しています。地図上では赤い「高句麗」という三文字の、「麗」があるあたりでしょうか。

 

論者はこれに着目し「高句麗鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ。」と考えたのだと思います。しかし「高句麗鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ」のだとすると、平壌周辺に在った楽浪郡治も帯方県の治所もその侵攻経路からは大きくはずれています。「于道上(西安平を攻める途上で)殺帶方令、略得樂浪太守妻子」をどう理解するかという問題が残ります。論者は、楽浪郡治と帯方県楽浪郡治を遼東郡に北遷させることでこの問題を解決したのです。

 

これが私の想定した北遷説成立の大まかなシナリオです。勿論、論者によって小異はあるでしょう。しかし私にとってこれが推察でき、かつ違和感のないギリギリの範囲です。

( 論拠のない他人の説の論拠を探すのは結構大変なのですよ。)

楽浪・帯方両郡、半島不存在説

楽浪、帯方両郡を元々遼東郡にあったとする説は、どれも「後漢書」等の記事を論拠にしています。北遷説と違って、根拠は充分に提示されています。

 

しかし、私には論拠の解釈かかなり恣意的なに思えるし、前提となる史料批判も経ていません。

またこの説は現時点で相反する考古学的証明に触れていないか、考古学的検証そのものを問答無用で否定しています。

 

「中国史書が示す帯方郡の場所も(楽浪郡も)やはり遼東である」ということであれば、この文節中「復犯遼東」の「遼東」は遼東郡ではなく、遼東地方を指していることになります。この説と本稿との直接的関係はここにあります。

私の「又」理解は間違がっているか ?

北遷説は伯固の侵攻時に楽浪郡治と帯方県の治所は遼東郡内にあったといいます。

不存在説はもとから遼東地方に楽浪郡治と帯方郡があったと言います。

 

 どらちの説が正しくても、私の「又」についての解釈を当てはめると、この文節の記述は「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」でなくてはなりません。「犯遼東」という括りの中では、寇新安・居郷と攻西安平以下との間に区別すべき要素はありません。その場合「又」を使わないというのが私の主張だからです。

 

つまり、私の「又」についての解釈が間違っているのか、両説の主張が間違っているどちらかなのです。両立できない説なのです。

 

ということで北遷説は次回に検証してみることにします。不存在説の検証もそれが終わった後の回で触れたいと思います。

 

 

*1

 

*1:寒中お見舞い申し上げます。

 昨年の年末から正月にかけて、母が足をトラブって帰省していました。快癒の見通しがつき帰ってみると、妻と、同居している息子がインフルエンザで倒れていて、私に充分な看病ができるわけではないのですが、投稿に時間を割ける状態にありませんでした。

 

毎週の投稿を宣言していながら年末から寒中見舞いまで飛んでしまったことをお詫び申し上げます。

 

 

 

( 毎週の投稿って結構大変なんですね、月一回に変更しようかなあ・・。毎日投降の人って・・・すごい。) 

例文内の「又」の役割2 倭人条――記事№...20

古田武彦氏の説のウソ、・・№17」――2−1 景初3年が正しい理由―その16

 

倭人条」の「又」を検証しました。「又」が五個、三所所に出てきます。なかなか難しく一回休ませていただきましたが、やっと結論らしい形が付きました。ちょっと長くなりますが一気に片づけます。

目次

 

「又度壹海」

原文と訳文

⑲、⑳

「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。❶又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大一支國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。❷又渡一海、千餘里至末盧國、」

―筑摩-

帯方郡から倭にいくには、海岸にそって船で進み、韓國を経、南に進んだり東に進んだりして、倭の北の対岸である狗邪韓國にいたる。そこまでが七千餘里、そこではじめて(海岸を離れて)壹つの海を渡る。その距離は壹千餘里、対馬國につく。そこの長官は卑狗とよばれ、副官は卑奴母離と呼ばれる。四面を海にかこまれた島に住み、その広さは四百里ばかりである。土地は山が険しく、深い森林が多く、道はけものや鹿の通り道のようである。千余戸の家があり、、農地はやせていて、海産物を食べて生活し、船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れてくる。。さらに南に向かって瀚海と呼ばれ壹つの海を海千餘里船行すると、壹大(壹支)國につく。そこでも長官は卑狗、副官は卑奴母離と呼ばれている。ひろさは四方三百里ばかり、竹や木のやぶが多い。三千ばかりの家がある。田畑もなくはないが、農耕によっては食糧の自給ができず、そこの人々も南や北に海を渡って穀物を買い入れている。さらに壹つの海を渡り、壹千余里で末盧國に至る

―修正-

郡より倭に至るには、海岸を循って水行し、韓国を歴(へ)て、南しつ東しつ、その北岸の狗邪韓国に到り、七千余里にして始めて壹海を渡る。

 「到其北岸狗邪韓國」を、韓国が「東西以海為限」としながら「南與倭接」している事と併せ考えると、狗邪韓国が位置する“その北岸”は倭の北界となり、当時の倭が半島にも進出していた壹つの傍証になります。弁辰狗邪国=狗邪韓国とし、その後身を金官国、現在の金海市に比定する見解がありますが、そもそも『三國志』では狗邪韓国は倭の国邑だと認識しているので、弁辰狗邪国とは別物だと思われます。

千余里にして對馬国(対馬)に至る。その大官は卑狗、副は卑奴母離。居るのは絶島で、四方は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は禽鹿の径(こみち)の様である。千余戸があり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴(交易)する。

又た壹海を南渡すること千余里、名は瀚海といい、壹支国(壹岐)に至る。官は亦た卑狗、副は卑奴母離。四方は三百里ほどで竹木・叢林が多く、三千ばかりの家があり、やや田地があり、耕田しても猶お食には足りず、亦た南北に市糴する。 又た壹海を渡り、千余里にして末盧国(松浦)に至る。

 

 

コメント               

 

私は「又」単独では時間的前後の意味は持たないと主張しています。しここの文脈では「又」が時間的前後関係を示していると考えざるを得ませんでした。私の主張は覆ってしまいます。混乱しましたが原文をじっくり見直しました。そしてやっと一番最初に「始度一海」とあることに気が付きました。

 

記事№16で書いた例と同じケースなのです

景初中,〔㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」〕」

Ⓒの作戦がⒶ、Ⓑの作戦の後であることを表しているのは「又」ではなく「其後高句麗背叛」の「其後」でした。「其後」の「其」がⒶ、Ⓑ作戦を指しています。

 

壹番最初の「度一海」に「始」が付くことで、二つ目の「度一海」は「❶又南渡壹海――南へ向かって、再び海を渡る-」、三つめの「度一海」は「❷又渡一海―三度目に海を渡る-」と訳すのが正しいことになます。

 この段落に時間的前後関係を持たせたのは、二つ「又」ではなく「始」なのです。この理解に至るまでかなり苦戦しました。

 

 ここの「又」も、単独で時観的前後関係を示す表現にはなりません。

 

「又有」

原文と訳文

21、22 (ゴメンナサイ、○付の数字が出なくなりました)

 

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。又有裸國・黑齒國復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

-筑摩-

女王國から東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。さらに侏儒國がその南にあり、そこの者は身の丈が三、四尺、女王国から四千余里の距離にある。裸國・黑齒國がさらにその東南にあり、船で一年の航海をしてそこに行きつくことができる。いろいろな結果を総合してみると、倭の地は、大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。

-修正-

 女王国の東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。 又た侏儒国がその南にあり、人の身長は三・四尺、女王国を去ること四千余里である。又た裸国・黒歯国が復たその東南に在り、船行すること一年ほどで至る。倭地の問(情報)を参照するに、絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。

 

コメント

この段落も、訳文の解釈と私の解釈の食い違いにかなり悩みました。まずはここからです。

 

「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。」

-筑摩-

女王國から東に壹千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。

-修正-

女王国の東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。

と訳しています。

両者は女王國から東千余里のⒶに渡り、次にⒷがあり、Ⓑから遠く離れてⒸがある、と読んでいるようです。順読法とでも呼びましょうか。

 

両訳文を意訳だと主張されればそれはそれで有りか・・・とも思いました。

しかしこの文節をよく見ると、先頭「女王國」の前に「自(より・から)」がありません。女王國を起点に、何か行動を起こした場合、「自女王國」でなければなりません。逐語的に読み直すと「女王國から」という訳は間違っています。

私は「女王國の東は千餘里を渡る海である」もしく「女王國の東に千餘里を渡る海がある」となるのが訳として正しいと思います。そこに「復有國、皆倭種―別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。」のです。

 

私なら「女王國の東に千餘里の海がある。そこに復た國がある。その國々は皆倭種である。」と訳します。

 私の訳では、「この文節の主人公は東にある千餘里の海だ!!」ということになります。

 

 

「皆倭種の國々」と侏儒国

 「又有侏儒國在其南」

ここからはさらに困惑しました。

―筑摩-の訳文は「さらに侏儒國がその南にあり」そして「女王国から四千余里の距離にある」としています。―修正-は「侏儒国がその南にあり」で「女王国を去ること四千余里である」としています。

 

私は「儒國在其南」はいく通りかの解釈が出来ると思います。

 順読法で読んでいくと、読者はすでに「千餘里の海」を渡っているのですから「其」は、「皆倭種の國々」を指すことになります

 女王國から倭種の國々まで「千余里」です。残る倭種の國々から侏儒国まで約三千里です。下の地図ではマッチ針の壹区切りが千里-80㎞となっています。倭種の國々から縦、四本目のマッチ針より少し南の位置では南日向灘にあったことになります。

-筑摩-修正-の両訳者は侏儒国を南日向灘に放り込んだまま次の訳に移ります。

古田氏も侏儒国を宿毛市近辺に比定しています。訳者と同様順読法で解釈したと思われます。しかし古田氏には侏儒国を南日向灘から救い出す配慮があります。

 

三者の訳は成り立ちません。

 

       邪馬台(壹)国関連 地図1

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(ソフト「カシミール」付属の地図により作成しました。)

  黄色い線は長里での示した千里です。倭種の國々は邪馬台(壹)國から東へ、四国を横切り、紀伊海峡を越え、熊野あたりということになります。侏儒国の所在は南方、四千餘里です。この地図には収らないくらい遠方です 私には、少なくとも「倭人条」長里で理解できる人の頭の中が想像できません。

 

倭人条」の「周旋可五千餘里」を上の地図で壹辺千二百五十里(短里)の赤い正方形で示したつもりです。博多湾が中心です。「倭人条」の記事には「方千二百五十里」ではなくでは「周旋可五千餘里」ですから陸上面積はもっと広くなるでしょう。

 

 

この「四千餘里」を「裸國・黑齒國」までの距離として「去女王四千餘里。又有裸國・黑齒國Ⓓ復在其東南、船行壹年可至」、こういう区切り方もあり得ますが、いくら陳寿大陸国家の人と言え、四千餘里(320㎞)行くのに「船行一年」もかかるとは考えないでしょう。

 

次に陳寿が順読法に従って書いていないと解釈してみました。

「去女王四千餘里」。陳寿が方向の起点を「倭種の國々」に置いたまま、侏儒国への距離を測る起点を変えたと想定します。ダイレクトに女王國から侏儒国までの距離を示したことになります。

「皆倭種の國々」の南の方向に「去女王四千餘里」を測ってみますと侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になります。

 

もう一つの解釈は方向も距離も「女王國」が基点です。

この場合、侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になりました。

 

これでも成り立たないようです。どう考えればよいのか

そこでネットで侏儒国についていろいろ調べますと「れんだいこ」というホームぺージにヒントを見つけました。

 

れんだいこ

真実の歴史学「なかった」6号を読んでいて、二人の方が侏儒国について書かれていることに気付きました。

壹人は在四国の古田史学の会の事務局をされている合田洋壹さんの「侏儒国の痕跡を沖ノ島宿毛)に見た」という論考です。これは、古田武彦さんが「邪馬台国」はなかった、のなかで、侏儒国は豊後水道東側にあった、とされていることについての現地情報報告的なものです。

寅七(「れんだい」運営者の自称)が注目したのは、清水淹さんの「隋書、新・旧唐書東夷伝も短里」という論考です。そのなかで清水さんは、三国志で邪馬壹国の南4000里にあるとされる侏儒国を、種子島が距離的に合う、とされています。

清水さんは距離だけの合致以外の理由を述べておられません。南種子島弥生時代の広田遺跡は短身長集団の遺跡として有名ですが、古田先生の侏儒国=四国説に清水さんが遠慮されているのでなければ幸いですが。(寅七は随分前古田先生に、侏儒国=種子島説は成り立たないか、とお尋ねし、成り立ちません、と壹蹴されたことがありましたが。)

 

 さっそく「広田遺跡」を検索してみました。

 

種子島町ホームページ

広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地です。 弥生時代後期から古墳時代併行期の種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓などはつくらず、海岸の砂丘に墓地をつくったのです。 この遺跡の調査は、昭和32年から34年にかけて国分直壹・盛園尚孝氏らによって行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から157体の人骨が出土しました。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました。また、上顎の側切歯を1本だけ抜歯したり、後頭部を扁平(いわゆる絶壁頭)にしたりする特異な習俗をもつことがわかりました。 これらの人骨は、奄美沖縄諸島でとれる貝を素材とした貝輪や玉、幾何学文が彫刻された貝符や、竜佩形貝垂飾など総数44,242点にも及ぶ豊富で多彩な貝製の装身具を身につけていました。このような習俗・貝の装飾文化は、日本列島でこれまで他に例がありません。

 

 

 この遺跡を残した人々の活動していた時代は「弥生時代後期から古墳時代」ということで卑弥呼の時代を包含しています。種子島は上の地図で分かるように「倭人条」の示す距離とも壹致しています。「侏儒國」は種子島にあったと考えるべきでしょう。

 

すると、「種子島からおよそ五百里」という東西のずれが問題になります。さんざん悩みましたが、何とか一つの解法を思いつきました。

 

「計其道里、當在會稽・東冶之東。」

この一節は「倭人条」の「女王國東渡海千餘里」より少し前にある有名な一節です。會稽や東冶(治)がどこかについても論争の渦中ですが、會稽と東冶(治)を結ぶ線の東にあたると言っています。あたるのが倭地か、女王國か、邪馬台(壹)国かはさて置き、その位置を大雑把に示しています。ある地点と別の地点を示して、その間隔を移動させて別の地のおおよその位置を示しているのです。

 

 

この表現方法が侏儒國の位置にも使われているのだと思います。

「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。Ⓑ又有侏儒國在其南」

 「女王國」と「皆倭種の国々」それを結ぶ「千餘里」の海上の線、その南に「侏儒國」が有る、この様になります。

「其南」の「其」は「女王國」や「皆倭種」の國々を指しているのではなく、女王國から「皆倭種」の國々の間、「東渡海千餘里」のことをさしているのではないか、ということです。種子島はドンぴしゃり、その線の南方にあたります。

 

 會稽も東冶も中国の地名で、「倭人条」を読んでいる教養人に、それがどこかの説明は不要です。しかし倭の地理についてはそうはいきません。最小限の説明を加えています。それが日本人の我々にとっては理解の邪魔になったようです。

 

「侏儒國」は種子島の地に有った、これが私の出した結論です。

黒歯國・裸國

又有裸國・黑齒國復在其東南、船行壹年可至。」

 

 順読法に従った訳では、「黒歯國・裸國は侏儒國の次に有り、侏儒國から南東へ一年ほど航行して行きつく」と書かれていることになります。だがが私はこの理解は間違っていると思います。

Ⓓは「又」ではなく「復」です。単純に「侏儒國の南東」を指す場合には「又有侏儒國在其南」のように方位に「又」も「復」も不必要です。「復」にはそれなりの意味があるのです。

 

「復」の意味は次の通りです。

 

デジタル大辞泉の解説

ふく【復】[漢字項目]

 

[音]フク(漢) [訓]かえる かえす また

[学習漢字]5年

1 同じ道を引き返す。かえる。「復路/往復」

2 もとの状態にもどる。もどす。「復活・復帰・復旧・復元/回復・克復・修復・整復・本復・来復」

3 同じことを繰り返す。「復習・復唱/反復」

4 返事をする。「復啓・復命/拝復」

5 仕返しする。「復仇(ふっきゅう)・復讐(ふくしゅう)/報復」

[名のり]あきら・あつし・さかえ・しげる・なお・もち

[難読]復習(さら)う

 

 

「Ⓓ復在其東南」に2、の意味を訳語として採用します。もとに戻すものはなんでしょうか、「其」です。「其」は侏儒國を指しています。「侏儒國」をもとに戻すとはどういう意味でしょう。東南という方角の基点を「侏儒國」から「女王國」に戻すということだとおもいます。すると「船一年可至」の起点も「女王國」に戻ることになります。

 私の解釈で「東南、船行一年可至。」の基点も、起点も「女王國」に戻っています。

 

なぜ基、起点を女王國に戻したのでしょうか。指し示す「裸國・黑齒國」の位置が大凡しか掴めていなかったからだと思います。

 

別の例で考えてみましょう。

東京の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、サンフランシスコを指すことになります。

日本の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、アメリカ合衆国西海岸のほぼ全域を指すことになります。

「侏儒國」の東南、「船行一年」で示す「裸國・黑齒國」の位置は、「東京の東、船行九日」と同様かなり狭い範囲になります。そこまで的確に位置を示す情報はなかったのです。

 

 次に述べますが「倭地」は全域が把握されておらず、基、起点してと使えません。「女王國」を基、起点とすれば、「侏儒國」を基、起点とするよりかなり広い領域に「裸國・黑齒國」を想定することが出来ます。

「侏儒國」の位置も、「女王國の東にある千餘里の海」という大領域で指定している点では同じ手法だと思われます。

 

陳寿は「女王國」から「裸國・黑齒國」までの行程を説明しているのではありません。「女王國」の東、東南、南には、「まだまだ前書(史記漢書等)に記録されていなかった國々がありますよ」として、その代表的な國々と位置を列記しているのです。

この文節の二つの「又」も、” 話は変わって “ のように使われており時間的的前後関係はありません

 

「周旋可五千餘里」

 

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

-筑摩-

倭の地は、大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。

-修正-

倭地の問(情報)を参照するに、Ⓓ絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。

 

両者はこのように訳しています。

 

-筑摩-の訳は「周旋可五千餘里」を倭地の全周-ぐるっと巡ると五千餘里と理解しています。

地図1、で私が赤い正方形で示したような考え方です。

-修正-は「周旋」をそのまま使っています。こちらは「周旋」の意味を調べなければ、この文節の意味も分かりません。

ではまず「漢和辞典」で意味を調べてみましょう。

 

周旋」の検証

 

周旋- 大辞林

① 売買や雇用などの交渉で、仲に立って世話をすること。なかだち。斡旋あつせん。 「周旋業」 「適当な人物を周旋しますよ/破戒 藤村」

国際紛争の平和的処理方法の一。紛争当事国以外の第三者が当事国間の交渉を進めるために、通信の便宜を図ったり、場所を提供したりするなどの援助を行うこと。

③ 事をなすため立ちまわること。世話をすること。 「甲斐〱しく酒杯の間に周旋し/鬼啾々 夢柳」

④ あちこちめぐり歩くこと。周遊。 「ひろく所々を周旋して/洒落本・雑文穿袋」

⑤ ぐるぐるまわること。めぐりめぐること。 「みな本証の仏花を-する故に/正法眼蔵

 

次に中国語、「周旋」を日本語に訳す時の訳語も調べてみました。今手許に『諸橋大漢和辞典』がなく、ネットの翻訳サービスを使いました。エキサイト翻訳、so-net翻訳、Weblio翻訳、infoseekマルチ翻訳これだけに当たってみました。

「周旋」=「対応(する)」

調べた限りのサイトは共通してこのように訳していました。

 

検証してみましょう。「周旋屋」なにかに「対応」するために奔走する職業、「国際紛争」を平和的に解決するための対応、酒客の要望に対応する、前三つは意味と訳語が対応しています。「周旋」のもともとの意味は、「対応(する)」にあったのでしょう。

 -筑摩-の訳とは意味も訳語も違います。

 

④観光で「あちこちめぐり歩く」場合、見たい場所に「対応して」訪ね歩くことを「周遊」と言います。

 ⑤私は「ぐるぐるまわること」や「めぐりめぐること」と表現した場合、その動きはランダムで規則性は存在しないと思います

 

-筑摩—の「(倭地を) ぐるっとめぐる」という訳は大辞林で言えばあとの二つの意味と近いようにも思えますが、私は全く違うと思います。漢和辞典と-筑摩—の訳は一致していません。

 

-修正-は「周旋」をそのまま使っていますので、私のの検証結果に従って理解すればよいことになります。

 

もう一つの検証

 

―筑摩―の言う「(倭地を) ぐるっとめぐる」という理解が成り立たない理由を別の面から見てみましょう。

 

 Ⓐ、Ⓑ、Ⓒの記述から作表してみました。判りづらいと思いますが勘弁してください。

 

      北方の國々

     (山陰、北陸方面)    

            (東海千餘里) 東方倭種の國々(瀬戸内海方面)

使    女王國           

    狗奴國  投馬國(水行二十日)    

    

    侏儒國 (南へ四千余里)        -海-  

                                             ((南東船行壹年)黒歯國・裸國

    

    

 赤を女王國だと設定します。邪馬台(壹)國は女王國の北端近く、博多湾岸になります。この段落の範囲でこの設定を説明します。

 

前提として「里」について規定しておきます。短里の一里は約80m、長里で500mとしておきましょう。一千里は80㎞、一千余里を100~120㎞、四千里は320㎞。四千余里を350~400㎞と仮定します。私の話は基本的に短里の説にもとづいて進めます。

 

 この文節から女王国の位置を、近畿説で比定することは不可能です。女王国の東には少なくとも一千余里にわたる海が存在していなければなりません。山系に囲まれた盆地、ヤマト(奈良県)から「東渡海千餘里-東に千余里を渡る海がある」と表現すること自体があり得ることではありません。

 古田武彦氏が比定する博多湾岸であれば女王國を船出して「東渡海-東に海を渡る」、関門海峡を抜け周防灘から防予諸島の間を縫って愛媛県の松山あたりにぶつかります。

私が知る限りでは東に千余里の海がある女王國比定地は、博多湾岸しか思い当たりません。

 

表の説明に

戻りたいと思います。紫は倭種の國々です。千余里というのですから「皆倭種」の国々は山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町の大島という範囲になります。

「皆倭種」とありますが「属女王国」とは書いていませんから、この国々は女王國勢力圏外の倭人圏なのでしょう。

博多湾の東方、山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町あたりから、女王國に属さない国々があったことになります。ここは瀬戸内海へ向かっての喉首にあたります。四国、中国へと広がる瀬戸内海沿岸は女王國に属していなかったことになります。

「皆倭種」の國々を女王國に対比するのに「又」を使わず「復」と言っています。女王國と同じく小國家の連合王国なのでしょう。

 

この女王國に復さない倭種の國々の範囲は示されていません。女王國の人々にも判らないのでしょう。

 

同じ倭地でも「自女王國以北」は状態が違います。女王國より北の國々は次のように書かれています。

  「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳―女王國より北の倭人諸國はその戸数や距離について書くことを省略させてもらう。倭種以外で北にある諸國は遠く離れていて情報がない。」

これら女王國より北にある諸國とは、瀬戸内海側を含まず、中国地方北陸地方日本海側にあった國々ということになります。

「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之――伊都國に大きな軍事基地(もしくは政庁)があって諸國を檢察しているので女王國より北の國々は(壹大率を)非常に恐れている」とあります。「自女王國以北」の倭種の國々は女王國に服属していたことになります。

ちょっと矛盾している気もしますが、とりあえず倭地の北端については不明、ということになります。

 女王國の都、邪馬台(壹) 国について述べた後、南に下って女王國を構成する倭諸國の紹介として、二十一か國を列記します。その後次のように述べます。

 

「・・・次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」

この「奴國」が伊都國の東南百里、不彌國の西百里にあった「奴國」と同名異國なのか、同じ國なのかは問題になるところですが、ここでは放置します。

奴國までが女王の勢力圏で、その南にある狗奴國は女王に属さず対峙しています。

 

狗奴國の南端について、何も書かれてはいません。ということは倭地についても南端が不明ということになります。

 

このように倭地は東端、北端、南端、三方が不明の状態で紹介されています。したがって「(倭地を) ぐるっとめぐると五千余里」という理解が成り立たたないのです。

 

「裸國・黒歯国」の起、基点に設定できないと先に言ったのは、この事に理由があります。

 

「參問倭地」

 

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」

ではこの文節をどう理解すればよいのでしょうか。

 

       邪馬台(壹)国関連 地図2

 

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頭から解きほぐしていきましょう。まず「參問倭地」です。

 

「参」の意味を大辞林は次のように説明しています。

Ⓐ【参する】

仲間に加わる。かかわる。 「君は…機密に-・しておると想像して/社会百面相 魯庵

Ⓑ【参する】

〔動詞「まゐらす(参)」の転。中世後期に連用形「まゐし」が用いられるようになり、

① 人に物を与えるの意の謙譲語。差し上げる。 「君に-・せう京絵書いたる扇を/田植草紙」 「その代にめめを五十石-・する程に/狂言・比丘貞」

② (補助動詞) 動詞・助動詞の連用形に付いて、動作の及ぶ対象への敬意を表す。…し申し上げる。 「魏其こそよからうずらうなんどと、大后に云わせ-・したぞ/史記抄 14」

 

史記抄』とは室町中期の、「史記」の注釈書。当時の口語で注釈したもの、だそうです

 

ここではⒷ、は日本語の【参する】についての解説です。訳語して使えません。Ⓐの意味に取ると “ 倭地が問いに加わる(かかわる) “となります。では何の問いなのでしょうか。

 

この段落はすでに三つのことに答えています。

女王國~「皆倭種」の國  去女王四千餘里

女王國~侏儒國      去女王四千餘里

女王國~裸國・黑齒國   船行壹年

三つとも女王國からの距離です。

 

であればこの問いも女王國からの距離についての問い、です。どこかの地点から女王國までの距離が、もう一つの問いとして加わることになります。

 

原文を次のように区切り直すことが出来まると思います。

「參問、倭地 ( 絶在海中洲島之上、或絶或連 )」

“ 倭地における「絶在海中洲島之上、或絶或連」、この間の距離はどの位なのでしょう。” 私はこのように言っていると思います。「この間」の一方の端は当然「女王國」です。

 

「倭地・・・・周旋可五千餘里-倭地の・・・・・は五千餘里ほどあります」答えは五千餘里でした。

もうわかっている人もいると思いますが、この五千餘里という数字は別のところに出てきています。

「自(帯方)郡至女王國萬二千餘里。」とあります。「到其(倭地)北岸狗邪韓國、(帯方郡より)七千餘里」ともあります。すると狗邪韓國から女王國までの残る距離は五千餘里なのです。

 

「狗邪韓國」については「倭人条」で「其北岸」と紹介しています。「其」が指している可能性があるのは韓諸国と倭です。韓の一部であるなら、この國は南岸です。南方、北九州に狗邪韓國の本体、倭があるから「其北岸」と言えるのです。「狗邪韓國」は明らかに倭地です。

「韓条」にも「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、-韓は帶方郡の南にあり、東と西は海で限られ、南は倭と接している」とあります。倭との間に海があるという認識はありません。倭は半島の南部にいるとしています。

 

私流に全訳してみます。

“「絶在海中洲島之上」に「或絶或連」っている女王國までの経路の距離を「參問―問いに加える」ならば、「周旋―経路に沿って」五千餘里ばかりある。“

もうひとひねり判りやすくします。

“ 倭地に入った後、狗邪韓國から対馬壱岐を通って女王國までの距離は五千餘里ばかりである。“

 

「周旋」は「女王國への経路に対応して」、つまり経路に沿って、五千餘里と訳すべくなのです。

 

この文節は「又」と無関係でしたが、ついつい気分が乗ってしまって、申し訳ありません。

 

「又特賜汝」

原文と訳文

23、「今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米・牛利還到録受。」

―筑摩―

 「いま汝を親魏倭王となし、、金印紫綬を仮授するが、その金印は封印して帶方郡太守に託し、代わって汝に仮授させる。汝の種族の者を鎮め安んじ孝順に努めるように。汝の送ってよこした難升米と牛利とは、遠く旅をし途中苦労を重ねた。いま難升米を率善中郎將となして、牛利を率善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ下賜品を与えたあと、帰途につかせる。いま絳地交龍の錦五匹、絳地縐粟の罽(けおりもの)十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹をもって汝の件への成仏の献上物への代償とする。加えてとくに汝に紺地句文の錦三匹、細班華の罽五張、白絹五十匹、金八兩・五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠と鉛丹おのおの五十斤ずつを下賜し、皆箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、帰った後目録と共に汝に授ける。

―修正―

今、汝を親魏倭王とし、金印・紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して汝に仮し授ける。種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使の難升米・牛利は遠きを渉り、道路(道中)を勤労した。今、難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を仮し、引見して慰労・下賜して遣還する。今、絳地交龍錦五匹[12]・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝の貢献した値として答礼する。又た特に汝に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠と鉛丹各々五十斤を賜い、皆な装封して難升米・牛利に付し、還到のうえ目録を受(さず)ける。

 

コメント

「又」は「又特賜汝」と出ています。

この段落は明帝が卑弥呼宛に出した詔書の抜粋です。下賜品についての説明が大部分で、献上物への返礼と、それとは別に「特に」卑弥呼個人へ下賜品を賜うことが書かれています。

 両者が「又」で書き分けられていますが、同じ詔書に書き、一括して難升米と牛利に託した下賜品について、どちらを先に授けたという、時間的前後関係を問題にした表現をすることはあり得ません。

 下賜品の持つ違った性格を、「又」と区別しているのです。

引用は長いのですが結論は簡単でした。

 

 

倭人条」の「又」

 

以上見て来ましたが「倭人条」の「又」にも時間の前後を示す意味はありませんでした

ある話から別の性格を持つ話へ切り替わることを示すための「又」でした。

 

今回は「倭人条」の「又」についてでした。「倭人条」はいろいろご存じの方も多いと思い、重装備にしました。煩かったかもしれませんが、ご容赦ください。

 

次回は高句麗が遼東を侵犯した話に戻りたいと思います。

 

 

例文内の「又」の役割――記事№...19

古田武彦氏の説のウソ、・・№16」――2−1 景初3年が正しい理由―その15

 

前回、中断した復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」には、このままでは理解しづらいことがもう一つあります

 伯固が復犯遼東」と言っています。しかし「又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」とも言っています。「道上(途中で)」として帶方と樂浪の名が出ています。帶方と樂浪は明らかに遼東郡の領域ではありません

「又」にはこのように矛盾した記述を許す働きがあるのでしょうか。新安・居郷・西安平の内、何故、西安平だけに「又」が付けられたかという疑問と重なっています。高句麗「又」③の例文を解析するためにはまず「又」が文節の中でどのような働きをしているか、この点を確認しなければならないようです。

 

  私はここまで「又」について、時間的前後関係を示す意味があるのかどうかということに絞り込んで検証してきました。個々の例文の中で「又」がどのような働きをしているかについては触れていません。遠回りになりますが、もう一度最初からこの点について見直していきたいと思います。

 

「又」の役割

 

 

高句麗

 

 

①「其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭鬼神、祀靈星・社稷

―筑摩―その風俗として、食物を倹約して、宮殿や住居を盛んに建てる。居住地の左と右に大きな建物を建て、そこで鬼神におえなえものをし、また星祭りや社稷(土地神と穀神)の祭礼を行う。

―修正―その習俗は食物を節約し、宮室の修治に好く、住居の左右に大屋を立てて鬼神を祭り、又た霊星・社稷を祀る。

 

「左右立大屋」で執り行われる祭祀が三つ挙げられています。「祭鬼神」と「祀靈星」「祀社稷」です。

「又」は「祭鬼神」と「祀靈星・社稷」をつないでいます。ヒトに災厄を齎す鬼神を「祭」り、人を守る「靈星」と「社稷」は祀るのです。陳寿は「鬼神」を祭る行為と「祀靈・社稷」を祀る行為が別物だという認識を、違う文字を充てることで表わしています。

しかしどちらも「左右立大屋」で執り行われる祭祀ということで「又」として結び付けてあるのです。

 なんだかややこしいですね。しかし私たちの身近にもこのような表現する事象はあります。たとえば年賀状です。

「今年は賀状を五十枚書く。年頭に賀状を四十五枚もらい(又)昨年中にもらった喪中の通知が五通あった。」

賀状と喪中の通知は全く性格が違いますが、今年書く賀状の名宛人として一体になっています。

 この「又」は前に書かれた事柄と、後の事柄とに性格の違いがあることを示すと同時に、年賀状を書く対象という別の規準で一つのものとして結び付けているのです。

 

 ②「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。」ここまでは高句麗國の国情について述べています。「又」とあって、「有小水貊」、とここからは西安平縣北、小水のほとりに有る、高句麗と同種の「小水貊」という國について述べています。

「小水貊」について述べ終わると、

「王莽初發高句麗兵以伐胡、不欲行、彊迫遣之、皆亡出塞為寇盜。――王莽は初め高句麗兵を発徴して胡を伐とうとしたが、(高句麗は)行こうとせず、彊迫してこれを遣ったところ皆な逃亡出塞して寇盜を為した。」

前漢を簒奪した王莽(新)と高句麗の関係に話しが移り、続いて後漢高句麗との関係の記述に話は進んで行きます。

 

時間的前後関係については述べられていません。「東夷傳」の中で「小水貊」と「高句麗は」は同格です。

この「又」はここまで記述して来た高句麗の事柄と、これから記述する「小水貊」の事柄の区切りを示しています。同格の「小水貊」について「高句麗条」の中で語るので「又」は「ちょっと別の国の話になりますが」という感覚で使われています。この「又」は「小水貊」を「東夷傳」に登場する七か國全部と、同格に結び付けています。

このあと韓条でも、済州島(おそらく)について同様の表現を見ます。

東沃沮

④「自伯固時、數寇遼東、又受亡胡五百餘家。」

 伯固が高麗王だった時代の出来事として、二つの事柄を挙げています。陳寿はこの二つの出来事は性格が違うと見做して「又」で結んでいます。一方は侵略、もう一方は亡国の民の受容です。現代に生きる我々にとって陳寿の時代に生きた人より性格の違いは明確でしょう。二つの事柄の性格が同じであれば「自伯固時、數寇遼東、楽浪」この様に「又」を使わず記述したでしょう。

 

⑤、⑥

「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。」

 

 最初の「又」は東沃沮の自治に委ねた部分と、高句麗が直接実施した賦課徴収部分とを区別し、その上で服属後の東沃沮に施行した施策としてまとめています。

二つ目の「又」は、物的賦課と人的賦課に区別し、その上で服属後の東沃沮の全賦課の表現として纏めています。

 

⑦「新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者為數。又有瓦金䥶、置米其中、編縣之於槨戸邊。」

槨とは「墓制上の用語。中国古代の用法では,直接死体を収納するものを棺といい,その棺を置くところを槨といい,槨は壙の中に造られるという。厳密にいえば日本の古代の墓制にはあてはまらない。大正初期に棺槨論争があったが,現在は棺は用いるが,槨という用語はあまり使われていない。粘土槨,木炭槨という言葉は本来の厳密な意味からは離れており,木棺を粘土あるいは木炭などで包むような構造のものをいう。(ブリタニカ国際大百科事典)」

 

「又」までは遺体を槨に収める手順について述べています。「又」と区切った後は槨の外のことです。

供えられた金䥶の中には米を入れあるそうです。あの世で使者たちが飢えないための心遣いだと思います。金䥶は槨戸のあたりに置く、と言っていますから玄室や玄道付きの槨について述べているのでしょうか。

米は朽ちます。折々に入れ替えられたのでしょう。現代のわれわれも、墓前の花を墓参の度に差し替えます。

「又」以前と「又」以後はかかれていることの性格がちがいます。「又」は其の区切りを示す役を果たしています。しかしそれと同時に記述事項を「新死者」への葬礼一式としてまとめる役割をも果たしています。

 

⑧、⑨、⑩の「又」は老人の語った四つの話を、別々の話として分かりやすく区切ったものです。

 

 

⑪、⑫

「常用十月節祭天、晝夜飲酒歌舞、名之為舞天、❶又祭虎以為神。其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬、名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、❷又出果下馬、漢桓時獻之。」 

 

❶ 前々回解釈を間違えていました。「常用十月節祭天」と「祭虎」とはそれぞれ独立した濊の「其俗」でした。「又」は「其俗」の内「祭」についての記述の「祭天」と「祭虎」についての区切りとして使われています

❷樂浪檀弓、班魚皮、は無生物です。文豹も皮が珍重されます。ところが果下馬は生きて活躍することに価値があります。この四種の名産が漢の桓帝に献上された時も扱いは異なっていたでしょう。前三種は捧げ持たれて、皇帝の御覧に供せられ、果下馬は手綱で制御されながらの御覧だったでしょう。「又」は濊の名産物の種類を区切るのに使われています。

 

 

⑬ 「其國中有所為及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以為痛、既以勸作、且以為健。

 

「諸年少勇健者」が「勸作」する姿を描写しています。同一の姿の異なった二つの特徴を挙げて説明しています。「又」は記述が混乱しないために文の区切りとして用いられています。

 

⑭ 「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。」

 

日本で謂えば「又」の前は国ごとに「一宮」がある、それ以外に各郷村には「村社」がある、というところですか。「又」はその区別を際立ったものにする役割ですね。

 

⑮、⑯ 

「禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。❶又出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。❷又有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。

 

❶の「又」は⑫の❷とおなじです。韓の名産物を無生物と生物に区別しています。❷は③の「小水貊」と同じです。韓についての記述から切り離し、区別するために「又」を使っています。

 

弁韓

⑰、 「弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。」

 

「又」と「亦」と「復」

 

 日本語で「亦」も「また」と発声します。しかしおそらく中国語では全く違うでしょう。意味も使う場面も違っていると思います。

この「亦」は直前の段落「辰韓」についての記述にある「始有六國、稍分為十二國。」をうけて「弁韓」も十二國に分かれていると言っています。

 

論語』に次のような有名な文節があります。

「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。」

[書き下し文]

「子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。」

[口語訳]

「先生(孔子)がこうおっしゃった。『物事を学んで、後になって復習する、なんと楽しいことではないか。友達が遠くから自分に会いにやってきてくれる、なんと嬉しいことではないか。他人が自分を知らないからといって恨みに思うことなどまるでない、それが(奥ゆかしい謙譲の徳を備えた)君子というものだよ。』」

 

論語で「子曰」とあるのですから段落の始めの文節です。「不亦説乎」以前に「亦」が受けるべき事象、または事物が書かれていません。

「一般に楽しいことが色々あるが、『学而時習之』のも悦ばしいことではないか」という意味を含んでいるのだと思います。この「亦」は書かれていない事象、または事物を受けているのだと思います。

「舜人也、我亦人也――舜も人なり、我も亦た人なり。《孟子:離婁下》」

この場合「亦」は「舜人也」を受けているように読めます。しかし文意は

「王侯將相寧有種乎。――王族や平民などという種別はない」

こちらに近いのです。舜は偉人とされる人の象徴であって、具体的な舜という人を指しているのではありません。「亦」はここに書かれていない歴史上の異人全体を受けているのです。

日本で「また」とよみ、同義語とされる言葉に「復」があります。これは「復」とある前に書かれた事象、または事物がそっくり復活された場合に使われるのだろうと思います。

 

「さらに」は程度の深化

 

いろいろ試行錯誤したのですが、恥ずかしながら、私にとってこの「又」の役割を直接解析することは、ややこし過ぎました。そこで-筑摩-の理解を借用することにしました。

 

-筑摩-は「又」を「さらに」と訳しています。

品詞として「さらに」は副詞か接続詞です。

「副詞」としては程度を表しています。「さらに遠くへ行く」などがその代表的文例でしょう。

接続詞としては「別の物事を付け加える。」という役割を果たすそうです。「さらに」は別の物事を付け加える役割を果たすそうで。「日本語に接続詞がある。さらに英語にも接続詞がある」が文例でしょう。

(Wikipediaを参考にしました)

 この「又」は今まで見て来た例と同じように、同じ文節内で「又」以前にある事象、または事物を「又」以後の事象、または事物に繋いでいます。

弁韓辰韓と同じく十二國から成り立っている。その十二國はそれぞれ小さい邑に別れている。」と言っています。

原文は弁韓が十二國へ、十二國が「さらに」ちいさな邑へ細分されていると述べているのですから、-筑摩-が「さらに」と訳している意図は、「さらに」を副詞として使用し、細分されていく程度を表現していると考えるのが妥当だと思われます。

⑱、 「國出鐵、韓・濊・倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」

弁韓で産出する鉄について述べています。鉄についての話ではあっても、韓・濊・倭がその鉄を採取し、中国の銭のように通貨として使っていることと、採取された鉄が楽浪、帯方郡に供給されていることは別テーマの話です。「又」は同じ鉄についての、別々の事柄についての記述を区切るため使われてます。

 

全体を見通して書いているのではなく、一回一回手探りしながらの書き込みなので、遠回りをして、話を複雑にしてしまっています。申し訳ありません。次回は何としても「又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子「又」を片付けるつもりです。よろしくお願いします。

 

「又」の例文、その⒉――記事№...18

古田武彦氏の説のウソ、・・№15」――2−1 景初3年が正しい理由―その14

 

今回は後廻しにした二つについては述べたいと思います。

 

今回のこの二つの記事は、個々の国内についてとどまっている記事ではありません。そこで判りやすいようにwikipediaから地図を拝借して掲載しました。

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後漢期の東夷の勢力範囲 (Wikipediaより)

 

二つの記事は調べ始めた時『諸橋大漢和辞典』では訳の見つからない単語がいくつもあったりして文意がつかめず「さあ 大変だ!!」と身構えてしまいました。そこで後回しにしたのですが、東沃沮の記事については「東夷傳」の前後を見ていくと、単語の問題は簡単に解決しました。すると文意も比較的判りやすいものであることが判りました。

順序は逆になりますが、⑤、⑥から始めたいと思います。原文の後に二つ訳文を入れ、次に私の困った単語の意味を載せます。最後に私の訳と、この記事についてのコメントという順で述べるつもりです。

 

目次

 

 

東沃沮

原文と二つの訳文。

⑤、⑥

「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。」

―筑摩―

国は小さく、大国の間にあって圧迫を受け、けっきょく句麗の臣として仕えることになった。句麗はもとどおりその中の大人に使者の官を与えてその地の統治にあたらせ、また大加に命じて租税の徴収、貊布(貂布)や魚や塩や食用の海産物の献上をいっさいうけおわせ、千里もの距離をかついで高句麗まで運んでこさせることとした。またその地の美女を送らせて妾婢となし、奴隷や下僕のように扱った。

―修正―

国は小さく、大国の間で迫られ、かくて高句麗に臣事した。高句麗は復た(そのまま)中大人を使者として置き、相い主領させ、又た大加に統べさせてその租税である貊布・魚・塩・海中の食物を責(もと)め、千里を担負して来致させ、又たその美女を送らせて婢妾とし、これを遇すること奴僕のようだった。

語彙の説明。

「迫于大國之間-大国の間にあって圧迫を受け」

東沃沮が大國に挟まれている、もしくは囲まれていると言っていますが、東沃沮の周囲に大國は漢(楽浪郡玄菟郡)と高句麗しかありません。東沃沮は漢と高句麗に「どちらにつくのか!」と迫られて高句麗についたことになります。漢の施政より、高句麗の施政の方が受け入れやすかったということでしょうか。

 

「大人」

「大人」は普通、社会的地位の高い人を意味します。東沃沮の社会的地位の高い人についでの記事が有りました。

東沃沮条-「無大君王、世世邑落、各有長帥。」

-筑摩—

統一的な君主はなく、代々、邑落ごとにそれぞれ指導者がいた。

-修正—

大君王はおらず、世々に邑落の各々に長帥がいた。

 東沃沮の身分関係に関する記述はこれだけです。

したがって「大人」は邑落ごとの指導者を指していると思います。

 

「使者」

高句麗条-「其國有王、其官有相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人、尊卑各有等級。」

-筑摩—

この国には王がおり、相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人と呼ばれる官があって存否にはそれぞれ等級がある。

-修正—

その国には王がおり、官として相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人があり、尊卑は各々に等級がある。

「使者」とは下から二番目の官のことでした。

 

「使相主領-(邑落ごとの指導者を)それぞれの領の主として相使った」

「使大加統責其租税(等)-大加をして東沃沮からの租税等徴収の責任者とした」

この二つは私の訳です。

 

「大加」

高句麗条-「王之宗族、其大加皆稱古雛加」

-筑摩—

王の宗族や大加の官にあるものはみな古雛加と呼ばれる。

-修正—

王の宗族や大加は皆な古雛加を称す。

訳文は二つとも「大加」という独立した官として扱っていますが、「使者」と共にあった官名の一覧にはその名はありません。また訳文は「其大加」の「其」が何を指すのかを指定していません。私は「其」が差すのは「王之宗族」だと思います。「稱」は自称の場合が多いと思うのですが、確定できません。

「王の宗族、それ大加は、みな古雛加と呼ばれる。」

「王の宗族、それ大加は、みな古雛加と称していた。」

訳はどちらかでなければならないことになります。つまり王の宗族としての出自は、王に任命されなくとも古雛加の官と直結していたのでしょう。

私の訳文。

「東沃沮は國が小さく、しかも漢と高句麗に挟まれに挟まれ両方から圧迫を受けていたが、遂に高句麗の属国になる道を選んだ。高句麗は東沃沮の邑落ごとの指導者の地位を認め、高句麗の官、「使者」の地位を与えて、それぞれの邑落の行政を委ねた。しかし、東沃沮からは租税(安全保障税)を取り立てた。王の宗族である大加から選んで租税徴収と、高句麗までの移送の責任を持たせた。東沃沮からは美女を選んで高句麗に送り届けさせ妾婢としたがその扱いは奴僕のようであった。」

 高句麗が与えた「使者」という官位は下っ端のようだが、邑落の指導者に与えられたものであって、決してふさわしくないほど下に扱われたとは思えません。

 租税は属国になれば当然ですが、美女狩については良く分かりません。この文脈で行けば王命によってなされたようですが、人質としての狙いであったのかどうかでも持って来る意味が違います。大加の権限逸脱とも取れます。どうなのでしょう。

陳寿高句麗を良く思っておらず、このような記述になったとも考えられます

コメント。

一つ目の「又」は高句麗支配下という時間のくくりの中で、東沃沮に並行して実施された高句麗の施策を述べています。時間の前後を示す意味はありません。二つ目の「又」は大加の遂行した任務というくくりの中で、二つの任務が併記されています。こちらも時間の前後を示す意味はありません。どちらも前後の記述の同格を示しています。

 

高句麗

ここはちょっと込み入っています。カーブかシンカーを処理するつもりで書いています。

原文と二つの訳文

② 

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子

―筑摩―

宮が死ぬと息子の伯固が立った。順帝・桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪をはたらき、さらに西安平に攻撃をかけ、その道すがら帶方令を殺し、楽浪太守の妻子を奪い去った。

―修正―

宮が死に、子の伯固(新大王)が立った。順帝・桓帝の間(125~67)、復た遼東を犯し、新安・居郷に寇し、又た西安平(丹東市寛甸)を攻める途上で帯方令を殺し、略奪して楽浪太守の妻子を得た。

宮の在位中、後漢との軋轢は激しかったようです。

「至殤・安之間、句麗王宮數寇遼東、更屬玄菟。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光以宮為二郡害、興師伐之。宮詐降請和、二郡不進。宮密遣軍攻玄菟、焚燒候城、入遼隧、殺吏民。後宮復犯遼東、蔡風輕將吏士追討之、軍敗沒。(高句麗条)」

―筑摩―

殤帝・安帝のころになると、句麗王の宮がしばしば遼東郡を攻撃した。(永初九年に高句麗は)あらためて玄菟郡の監督下に入ることになった。

遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光とは宮為が両方の郡に損害を与えていることから、共同して師を起しこれを討伐した。宮がいつわって降伏して講和を申し出たので、、二郡の軍は進撃をとどめた。宮はひそかに軍を送って玄菟郡をせめさせ、候城県に火をかけ、遼隧県に侵入して、役人や民衆を殺害した。そののち、宮はふたたび遼東郡を侵犯した。蔡風は軽装備で軍吏や兵士をひきつれて追撃をかけたが戦いに敗れて死んだ。

―修正―

殤帝・安帝の間(105~125)に至ると、高句麗王の宮(太祖大王)はしばしば遼東に寇し(たが、永初三年/109年に)更めて玄菟に属した。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光は宮が二郡の害となっているので、師を興して伐った。宮が詐降して和を請うと、二郡は進まなかった。宮は密かに軍を遣って玄菟を攻めさせ、候城を焚焼し、遼隧に入って吏民を殺した。後に宮が復た遼東を犯すと、蔡風は軽率に吏士を率いて追討し、軍は敗れて歿した。

伯固の戦いは三年。

 Wikipediaによると高句麗王宮の在位期間53年 - 146年、伯固の在位期間は165年 - 179年とあります。この間空白があります。

 『後漢書』では宮を弟の遂成が嗣ぎ、伯固は遂成の子、『三国史記』では宮・遂成・伯固が兄弟相続し、『三国遺事』では少弟の伯固が遂成から簒奪したとあるそうです。(-修正-付属解説)

遂成が王に在位中は後漢との軋轢は回避されていたのでしょう。

 

後漢桓帝の在位期間は146から168年です。伯固の在位期間初頭の165~168年で重なっています。伯固は遂成の和平策に不満で、王位を継ぐや否や対後漢積極策を打ち出したことになります。しかし伯固は建寧二年(169)最終的には後漢に敗北を喫し降伏しています。

「靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。〔熹〕平中、伯固乞屬玄菟。(高句麗条)

―筑摩―

靈帝の建寧二(169)年、玄菟太守耿臨がこれを討伐し、斬首したり捕虜にした者が數百にのぼった。伯固は降伏し、遼東郡の支配下に入った。熹平年間(172~178)に伯固が願い出て、玄菟郡支配下に入ることになった。

―修正―

霊帝建寧二年(169)、玄菟太守耿臨がこれを討ち、賊虜の数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。熹平中(172~78)、伯固が乞うて玄菟に属した。

 高句麗㊁で引用した「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平」の記事は伯固が降伏する前の三年間について述べていることになります。この三年間のくくりで新安と居郷を犯し、西安平を攻めたと言っています。二つの訳文からもこの三都市にかけた攻撃の順番は示準されていません。私の主張ではこの記事は前後関係に触れていないことになります。

 では「復犯遼東、寇新安、居郷、西安平」でも「復犯遼東、寇新安、又居郷、西安平」でもよかったのではないでしょうか。なぜ西安平だけに「又」が付けられたのでしょう。

「復犯遼東、寇新安・居郷、『又』攻西安平」をこの角度から見てみようと思います。

 

 

今回はここまでにします。「又」について今日も終わりませんでした。思ったより重くて・・申し訳ありません

「又」の例文――記事№...17

古田武彦氏の説のウソ、・・№14」―― 景初3年が正しい理由―その13

 目次

 

 

 「又」の用

今回はⒷ作戦の実施時期を述べるつもりでしたが、今までの記述で終わらせると「又」について筆先の理屈で言いくるめているような気がしてきました。『三国志』の他の用例でどのように使われているかで見てもらうことにしました。

  しかし「又」は『三国志』全文ですと千六百余カ所もあるようです。これに個々の解釈を加えることは私もしんどいし、読んでいる方も大変でしょう。「東夷傳」だけでも五十カ所以上あります。裴松之注を外し、陳寿の本文に絞ると三十カ所前後になります。

 陳寿の原文に、―筑摩―と―修正―の訳文を付けさせてもらい、私のコメントを添えることで勘弁してもらうことにしたいと思います。

 

例文につける私のコメントでは、文章上二個以上の事柄が「又」で結ばれていて、前後関係がなく、単に併記してある場合、「又」の前後の事柄を同格と表現します。私が同格というのに他の要素は含みません。、

 

以下の記述に不審のある方は、「『三国志』修正計画」さんのホームページで原文参照の上、コメントお願いします。

 

 

夫餘

 「又」の文字はありません。

 

高句麗

 「又」の文字は四つあります。

 

① 「其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭鬼神、祀靈星・社稷。其人性凶急、善寇鈔。」

―筑摩―

その風俗として、食物を倹約して宮殿や住居を盛んに立てる。住居地の左と右に大きな建物を建て、そこで貴人にお供え物をし、また星祭りや社稷(土地神と穀神)の祭礼を行う。人々の性格はあらあらしく気短で、好んで侵入略奪をはたらく。

―修正―

その習俗は食物を節約し、宮室の修治に好く、住居の左右に大屋を立てて鬼神を祭り、又た霊星・社稷を祀る。人の性は凶急で、寇鈔に善い。

 

 

宮殿や住居で、鬼神や靈星・社稷を祭っている、ということを述べています。「祭鬼神」と靈星、社祭の祀りを性格の異なる祭祀としてあつかって、「又」で区分しているとものと思います。

時間的には同格です。

 

②「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。有小水貊。句麗作國、依大水而居、西安平縣北有小水、南流入海、句麗別種依小水作國、因名之為小水貊、出好弓、所謂貊弓是也。」

-筑摩-

一般の民衆は皆意気盛んで、戦闘になれている。沃沮や東濊は皆その支配下にある。別に小水貊とよばれる人々がいる。句麗は国を建てるとき大河のそばにその都を定めたが西安平県の北にあまり大きくない河があって、南に流れて海に入っており句麗の別種がこの小さな川のそばに国を建てた。そうした そうした所から小水貊と呼ばれる。よい弓を産出する。貊弓と呼ばれるのがこれである。

-修正-

国人は気力があり、戦闘に習熟し、沃沮・東濊は皆な属している。又た小水貊がいる。高句麗は国を作る時に大水(大河)に依って居住したが、西安平県の北には小水があって南流して海に入り、高句麗の別種が小水に依って国を作り、因んでこれに名付けて小水貊とした。よい弓を産出し、所謂る貊弓とはこれである

 ここまで、高句麗のことについて書いてきたが、ここでちょっと離れて高句麗と同種の小国が西安平のそばにあることに触れています。もちろん「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。」との時間的前後はない。高句麗の記事全体と同格です。

 

③ ちょっとややこしいので最後に次回に廻します。

 

④ 「自伯固時、數寇遼東、受亡胡五百餘家。」

―筑摩―

伯固の時代以来、しばしば遼東郡で略奪をはたらき、また逃亡してきた胡族の五百余家を受け入れた。

―修正―

伯固の時より、しばしば遼東に寇し、又た亡命の胡人五百余家を受容していた。

 

 伯固の時代という時間的くくりの中で、一見性格の相反する「遼東郡で略奪」と「胡族の五百余家を受け入れ」とがあったと言います。両者の違いを「又」で表現しています。

時間的には同格です。

 

東沃沮

 

 「又」の文字は六つあります。

⑤、⑥は一つの文節になりますが、次回に廻します。

 

⑦ 「新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者為數。有瓦金䥶、置米其中、編縣之於槨戸邊。」

-筑摩-

死者が出ると、みな一度仮の埋葬を行い、屍体がやっと隠れる程度に土をかけて、皮や肉が腐ってしまってから、骨を拾い集めて、槨の中に収める。一つの家族の骨は皆同じ槨に収められ、木を削って生前の姿に模し、使者の数だけその像を並べる。また土製の䥶のなかに米を入れ、ひもで縛って、槨の入り口のあたりにぶら下げる。

-修正-

新たな死者は皆な仮に埋め、才(わず)かに形を覆わせ、皮肉が尽きると骨を取って槨中に置く。家を挙げて皆なで一槨を共にし、木を刻んで生けるが如くの形とし、死者(数)に随って数を為す。又た瓦䥶(土器鬲)があってその中に米を置き、槨戸の辺に編んで懸けておく。

 

 

 どのような葬儀をするか、という話です。

全体を一つの葬礼としてみて、記述しています。副葬行為は時間的には同格です。

⑧、⑨、⑩

「王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。言有一國亦在海中、純女無男。説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」

-筑摩-

王頎は毌丘儉の命令を受けて本隊から離れて宮を追いかけ、北沃沮の東方の境界まで行きついた。その地の老人に尋ねた、「この海の東にも人間は住んでいるだろうか。」老人は言った。「この国の者が昔舟に乗って魚を獲っていて暴風にあい、数十日も吹き流され、東方のある島に漂着したことがあります。その島に人はいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では、毎年七月に童女を選んで海に沈めます」

また次のようにも言った。「海のかなたに、女ばかりで男のいない国もあります。」次のようにも述べた。「一枚の布製の着物が海から漂いついたことがあります。その着物の身ごろは普通の人の着物と変わりませんが、両袖は三丈もの長さが有りました。また難破船が波に流され海岸に漂いついたことがあり、その船には項の所にもう一つの顔がある人間がいて、生けどりにされました。しかし話しかけても言葉が通ぜず、食事をとらぬまま死にました。」こうした者たちのいる場所は、みな沃沮の東方の大海の中にあるのである

-修正-

(玄菟太守)王頎は別遣されて宮を追討し、その東界を尽した。その耆老に 「海東にも復た人がいるか?」 と問うた処、耆老が言うには 「国人が嘗て船に乗って魚を捕った時、風に遭って吹かれること数十日、東に一島を得て上陸したところ人がいたが、言語は曉らかではなく、その習俗として常に七月に童女を取って海に沈める」 と。又た言うには 「亦た海中に一国があり、女だけで男はいない」 と。又た説くには 「一枚の布衣を得たが、海中より浮かび出て、その身丈は中人の衣のようでしたが、その両袖の長さは三丈でした。又た一艘の破船を得た処、波に随って海岸辺に出たもので、項の中に復た面のある人がおり、生け捕りにしましたが、言語が通じず、食べずに死にました」 と。その地域は皆な沃沮の東の大海中にある。

 

  くくりは老人の話の中、の出来事です。また話された順番ではなく、話の現実性によって記されていると思われます。話された出来事の前後はつけようがありません。出来事は時間的に同格です。

 

挹婁

「又」の文字はありません。

 

 「又」の文字は二つあります。

 

⑪、⑫

「常用十月節祭天、晝夜飲酒歌舞、名之為舞天、❶祭虎以為神。其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬、名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、❷出果下馬、漢桓時獻之。

―筑摩―

十月を天の祭りの月とし、昼夜にわたって酒を飲み歌をうたい舞をまう、この行事を「舞天」と呼んでいる。また虎を神としてまつる。邑落のあいだで侵犯があったときは、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。この制度を「責禍」と呼ぶ。人を殺したものは死をもって罪を償わされる。略奪や泥棒は少ない。長さ三丈の矛を作り、時に数人がかりでこれを持ち、巧みに徒歩で戦う。楽浪の檀弓(またまゆみの木の弓)と呼ばれる弓はこの地に産する。海では班魚の皮を産し、陸には文豹が多く、また果下馬をを産出し漢の桓の帝ときこれが献上された。

―修正―

常に十月を天を祭る節とし、昼夜に飲酒・歌舞し、これを名付けて舞天とし、又た虎を祭って神とする。その邑落を相い侵犯したばあい、罰として生口や牛馬を責(もと)め、名付けて責禍としている。殺人は死で償う。寇盜は少ない。矛の長さ三丈を作り、数人で共にこれを持つ事もあり、歩戦に能い。楽浪の檀弓はその地に産出する。海では班魚(イサキ)の皮を産出し、土地には紋豹が饒(おお)く、又た果下馬を産出し、漢桓帝の時にこれを献上した。

 

 

 ❶の「舞天」と「祭虎以為神」は「十月節祭天」の間の出来事として同格で、❷の「海出班魚皮」、「土地饒文豹」と「果下馬」も地域名産品の列記として、時間的には同格です。

 

「又」の文字は四つあります。

 

⑬ 「其國中有所為及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以為痛、既以勸作、且以為健。

―筑摩―

その国都で大事業があったり官の命令で城郭を築いたりするときには、若者の中でも勇敢で意気盛んな者たちは、それぞれ背中の皮に穴をあけ、太い綱でその穴を貫いて、さらに一丈ばかりの木にその綱をかけわたし、一日じゅうかけ声をかけながら仕事をする。痛みは感じず、工事がはかどる上に、おおしいとされる。

―修正―

その国中で何事かあったり官家で城郭を築かせる場合、諸々の年少で勇健な者は皆な背の皮を鑿ち、大縄でこれを貫き、又た丈余の木で鍤(鋤の様に曳き)、日を通して呼しつつ作力(労働)するが、痛いとはせず、作業が進むうえに勇健だとされる。

「鑿脊皮」、「大繩貫之」、で身体的状態を表現し、その状態で「丈許木鍤之」、「通日嚾呼作力」という行為をしたと言っています。現代で言えばヘルメットをかぶり、腰に重い工具を付け一日中現場で働いて弱音を吐かない、ファッションに置き換えて言えば、鼻ピーをし、そこにチェーンを付け、一日中踊りまくるといったところでしょうか。身体的状態と行為は合わさって一つの事象であり、時間的に同格です。

 

⑭ 「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。

―筑摩―

鬼神を信じ、国々の邑(みやこ)ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りをつかどらせ、その者を天君と呼ぶ。またそれぞれの国にはおのおのもう一つの邑(みやこ)があって、蘇塗(そと)という名でよばれる。そこには大きな木が立てられそれには鈴(れい)と太鼓をぶら下げ、鬼神の再思を行う。

―修正―

鬼神を信じ、国邑では各々が一人を立てて天神の主祭とし、名付けて天君という。又た諸国は各々が別邑を有している。名付けてこれを蘇塗という。大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事える。

 國邑と別邑は同時並行して存在しています。天君と蘇塗も同じで同格です。

 

⑮、⑯ 

「禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。❶出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。❷有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬

―筑摩―

禽獣や草木もほぼ中国と同じである。大きな栗の実を産し、梨ほどの大きさがある。また細尾雞(尾長鶏)を産し、その尾の長さはみな五尺以上もある。男たちには時に入れ墨をするものがある。また州胡と呼ばれる民が、馬韓の西方の海中の大きな島に住む。その人は身の丈がやや小さく、言葉は韓と異なる。みな頭髪を剃っているのが鮮卑に似ているが、ただ(鮮卑と違って) 韋(かや)の衣服を着、牛や豚を盛んに飼う。

―修正―

禽獣や草木はほぼ中国と同じである。大栗を産出し、大きさは梨の様である。又た細尾?を産出するが、その尾は皆な長さ五尺余である。男子は時々に文身(刺青)する。

 又た州胡が馬韓の西の海中の大島の上におり、その住民はやや短小で、言語は韓とは同じではなく、皆な?頭すること鮮卑の様で、但だ韋(革)を衣とし、牛および豬を養うのに好い。

 

❶は大栗、大如梨と細尾雞は名産物の列記として同格です。「又」は異なる種類の名産物を区切る役割もしています。❷は記述する土地を韓から済州島(おそらく)に移すことを付けています。韓についての記述と済州島についての記述は、時間的に同格です。

 

弁韓

「又」の文字は三つあります。

 

⑰、⑱ 

「弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。

―筑摩―

弁辰も十二国からなり、さらにいくつかの地方的な小さな中心地がありそれぞれに渠帥(指導者)がいる。勢力の大きいものは臣智と呼ばれ、それより一等下がって險側、それより下がって樊濊、それより下がって殺奚、さらにその下に邑借と呼ばれる者がいる。

―修正―

弁韓も亦た十二国で、又た諸小の邑に別れ、各々に渠帥がおり、大なる者は臣智を名乗り、その次として剣側がおり、次が樊濊、次が殺奚、次が邑借である。

 

 

弁韓十二国と、それぞれの国内にある(行政?)区画と、その大小による首長の呼称について述べています。

普通の記述では上位の格から述べていますが、時間を基準とした場合、同格です。

 

⑲、 「國出鐵、韓・濊・倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、以供給二郡。―筑摩―

この国は鉄を産し、韓・濊・倭はそれぞれここから鉄を手に入れる。者の交易にはすべて鉄を用い、ちょうど中国で銭を用いるようであり、また鉄を楽浪と帯方の二郡に供給している。

―修正―

国は鉄を産出し、韓・濊・倭は皆なこれより取っている。諸々の市買には皆な鉄を用い、中国で銭を用いる様なもので、又た(楽浪・帯方)にも供給している。

 

 

 弁韓が鉄を二郡に供給する状況は、韓・濊・倭が交易通貨として砂鉄(おそらく)を用いる状況と併存して、時間的には同格です。

 

 以上十七の文例を見てきました。長くなりましたので、後回しにした二つと「倭人条」については次回述べたいと思います。

 

「又=すると、さらに」は間違い――記事№...16

古田武彦氏の説のウソ、・・№13」――2−1 景初3年が正しい理由

 

目次

 

さて次の疑問点です

短い同一段落に二つの「又」。

 引用文

景初中,㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」

この「又」の訳は「すると、さらに」です。

追加引用文

㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」

この「又」の訳は「再び」です。

このように別々に並んでいるとそれほど違和感がありません。段落やページが離れていれば文章の環境は違います。まして、A氏は㊀だけを抜粋して提示しています。比較することもないのですから、訳文に疑問を抱く余地は全くないといってよいと思います。

景初中,〔㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」〕

しかし原文通りに戻すとちょっと違います。ほんとに短い同じ段落の中に「又」という文字が二つ出てきています。そして違った訳文になっています。

同じく違った訳だとしても、①が「再び」で②が「すると、さらに」であれば、そのまま見逃したかもしれません。すぐ後の㊁で「再び」を繰り返して読まされる邪魔くささを避けたと理解できます。また最終到着点「東臨大海」に近づくことを強調しているとも取れますから。

しかし訳文はそうではありません。なぜ、重複回避や強調が前の方の「又」で使われるのか。

私はここに、引っかかってしまい、検証してみることにしました。

『諸橋大百科事典』

検証のために、まず語彙確認のための作業は『諸橋大百科事典』を引きました。

 

「又」を引きましたが『諸橋大漢和辞典』には「叉」として載っています。そして「叉」の正形は「又」のとあります。ここでは、同義語として使わせてもらいます。

❶て。めて。右に同じ

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。㋩有に通ず。(十有余年)

❸ふたたびする。

❹ゆるす。宥につうず。

❺姓。

❻符号の一つ。

 

 とあります。❶~❻まで出典の引用があります。その後「又」を含む二文字以上の用例が載っています。 

-筑摩—の訳語に①の「すると、さらに」はこの訳語にはありません。「さらに」だけが❷にあります。㊁の訳語「再び」は❸にあります。

 であれば「すると」は翻訳上、文意を明確にするための訳者による、挿入語ということになります。元の単語は原文中に存在しないのです。

「さらに」と「再び」の役割、そして「すると」を挿入した意味。

次に訳文の中の「さらに」と「再び」の持つ役割を確認しました。

「さらに」は派遣された師旅がⒶ作戦終了を終了して、再びⒷ作戦に取り組んだことを表現しています。

「再び」は、魏がⒶ、Ⓑ作戦の後、再度高句麗へ偏師を派遣したことを表現しています。

 ここまで訳者は①と②の「又」を同じ意味で理解しています。

 

訳者は①「又」の訳語に「すると」を挿入しました。その事で訳文に加わったのは、Ⓐ、Ⓑ間の喫緊性です。Ⓐ作戦を終了「すると」、間を置かず踵を接するようにⒷ作戦に取り掛かったと訳者は理解しています。「すると」を挿入したのはそれを表現するためです。ここで二つの「又」の違いが出てきたのです。

 

私の抱いた疑問に「なぜかそう訳したのか?」という面からは一応の答えが出ました。

新たな二つの疑問。

しかし、「すると」を挿入した段階でこの訳は逐語訳ではなく意訳になっています。訳者は本当に原文の趣旨を理解しているのか。最も基本的な部分が確認できなければ不安は残ります。といってもこの問いかけは余りにも漠然としています。そこで具体的な設問を設定したいと思います。

 検証項目の設定。

Ⓐ作戦終了を終了して、再びⒷ作戦に取り組んだ。この理解で良いのか。これを疑問①とします。

ⒶとⒷとの間に喫緊性はあったのか。これを疑問②とします。

この二つの設問に合格すれば私の不安は払しょくされたと考えることにします。

 

記述上の都合ですが、疑問②から検証することにします

疑問②。 

「又」①の訳語「すると、さらに」には喫緊の雰囲気があります。

それは「又」②の訳語「再び」と比べてみればわかります。「再び」では喫緊の語感はありません。高句麗条には高句麗王宮が魏に「背叛」したのは正始五(244)年とあります。Ⓐ、Ⓑ両作戦が実施された景初二(238)年との間隔は六年間になります。この訳も良いのでしょう。

 

〔「誅淵」でⒶ作戦の終了が八月二十三日である。そして八月以降には帯方郡太守が赴任できた。〕

A氏も「すると、さらに」をこのように理解しています。A氏の理解では八月二十三日に襄平で公孫淵を誅した魏軍、黄海沿岸まで移動し、そこから船に乗って、楽浪、帯方郡に攻め入ったことになります。両郡は北朝鮮の西半分の広さがあります。そこを八月いっぱいに平定したことになります。八月末までには七日しかありません。どう考えても日程的に無理でしょう。両郡に攻め込むのを相当急いで、要衝だけを占領してそこに太守を送り込んだと考えてもかなり難しい。

私の計算で無理であっても、この訳文はA氏にこう考えさせるだけの喫緊性を持っているのです。

 

さて二つの「又」が持つ、この喫緊性の有り、無しの違いを読み取るのに、訳文を読む我々には戸惑いは起きません。それは訳者が「叉」を「すると、さらに」と「再び」に訳し分けているからです。

 

しかし原文は①、②とも「又」とあるだけです。中国語には「すると、さらに」とか「再び」とか、日本語のように記述内容をコントロールする語法はないのでしょうか。中国の読者は同じ「又」を説明なしで読み分けているのでしょうか。

「すると、さらに」を、中国語訳してみました

この事を見るためにⒶ+Ⓑに類似する日本文を、翻訳ソフトで中国語訳してみました。

 

例文①「食事するとさらにデザートを食べた。

――吃飯而且甜点。

(吃=「喫」と通用、受け入れる。了=終わる。而且=さらに。甜点=デザート)」

意味を正確にするため、日本文を変えます。

例文②「食事すると、すぐデザートを食べた。

――吃飯立刻吃了甜点。

(立刻=直ちに,即座に,すぐに)」

 

この二つが喫緊性がある場合の中国語の表現です。喫緊性がない場合はどうでしょう。

 

例文③「食事をしてデザートを食べた。

――吃飯,吃了甜点。」

となりました。この場合だと時間の縛りがありません。食事とデザートの間に皿洗いがあっても、談笑時間があっても構いませんよね。

 

例文④「食事をした。デザートを食べた。

――吃饭了。吃了甜点。

もっと時間的自由度が高くます。

 

以上です。

中国語にも(当然ですが)日本語と同じように喫緊性をコントロールする表現はありました。

而且=さらに。

立刻=直ちに,即座に,すぐに)

です。

 

食事を終る表現もありました。これは四例文すべてについています。

了=終わる

終わって次のデザートに移るのですから、「食事を終わると、」という表現でしょう。訳文の「すると」に対応します。

 

おそらく、これらは中国語表現のいちぶで、もっと豊富な表現をしているのではないでしょうか。

「すると」の挿入は無根拠、不必要。

原文である「Ⓐ大興師旅,誅淵,又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」には、今出てきた種類の語句は一切ついていません。したがって原文ではⒶとⒷの間に喫緊性は全くないのです。

したがって訳者が挿入した「すると」という訳語は無根拠で、不必要だということになります。

疑問①。

一つ目の「又」①を見てみましょう。「すると、さらに」と訳されています。「すると」は喫緊性を表現する以外にⒶ作戦の終了も表します。ここで疑問が起きました。

疑問②でみたように前の行動が終わって次の行動に繋がることを表現する場合「了」が間に入っていなければならないはずです。

しかし原文にはそれがありません。

 

「すると」を削除して「さらに」となりました。「さらに」は終了したⒶ作戦とⒷ作戦は一連のものであり、司馬懿の率いるの同じ部隊の行動であることを表現しています。

まずⒶとⒷは一連、一体の軍事行動であるにもかかわらず、軍行の成果は別々に記載されていることです。

「景初年中大興師旅,又潛軍浮海,誅淵、收樂浪、帶方之郡」

このようになるのではないでしようか。

ビールとツマミ、どちらを先に買ったか。

 「夕方酒屋に行ってビールを買い、さらに(又)ツマミを買った」

この短文からビールとツマミ、どちらを先に買ったか確言できますか。ビールが先に書いてあるのだから、買ったのもビールが先という答えは、短慮です。「ブー」が鳴ります。

 実はツマミを先に買ったのだが、ビールが買い物の主目的だったから、さきに書いてあるのかもしれません。

「景初年中Ⓐ大興師旅,誅淵、又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」

 この文も同じではないでしょうか。公孫淵を誅することが主目的だったからⒶ作戦が先に書いてあるといえないことはないのです。

 

前後のはっきりする文例は原文の㊁です。

「㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」」

「又」の前に「其後高句麗背叛」とあります。「其」とは㊀の文全体、もしくは「東夷屈服」です。その後に高句麗が魏に叛いたのです。その高句麗を追討するために偏師を遣したのです。前後関係は明らかでⒶ、Ⓑ作戦が先で、Ⓒ作戦は後です。

 もし「其後」が「其前」となっていれば、高句麗の背叛と追討は公孫淵追討より前です。

 もし「其後」が無ければ、高句麗背叛と追討は時期不定で公孫淵追討と同時だったかもしれないのです。

 Ⓒ作戦はⒶ、Ⓑ作戦より後、という前後関係は「又」で決まるのではなく、「其後」が決めているのです。

 

㊀「景初中Ⓐ大興師旅,誅淵,①又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」も同じです

この文には「其後」にあたる語句は付いていません。

「東夷傳序文」内でのⒶ、Ⓑ作戦の時間的括りは、ともに「景初中」だけです。Ⓐ作戦は他の傳で時期が確定できます。であってもⒷ作戦はそれも出来ません。「其後」にあたる、Ⓑ作戦の時期を定める語句がどこにも付いていないからです。

 つまり、Ⓐ作戦とⒷ作戦の前後関係は㊁で「其後」が無かった場合と同じく不定なのです。原文にはⒶ作戦が終わって、Ⓑ作戦という関係はないのです。だからⒶ作戦とⒷ作戦の間に「了」という文字が入っていないのです。

前後関係が不定なもの結ぶ「又」に「すると」はもちろん、引き続いてという意味を含んだ「さらに」も訳語としては当てはめることは出来ません。

纏めそして、お願い。

 以上で言えることは㊀の訳文は、「景初中にⒶ作戦で公孫淵を誅殺し、Ⓑ作戦で楽浪、帯二郡を接収した。」となるということです。これで軍行の成果が別々

に記載されていることが納得できました。

 

私は-筑摩-の翻訳者は、原文をかなり読み違えていると思います。もちろん、ここで言えるのは「すると、さらに」に関連する範囲のことです。

 

――――お願い――――

 

今朝パソコンを立ち上げると、今回UPする予定だったファイルが消失してしまっていて、慌ててしまいました。大急ぎで書き直して何とか間に合いました。そういう事情で要旨には間違いないと思うのですが、、抜けたり、間違っていること、誤字、脱字もいつももより多いと思います。今後訂正することも多々あると思います。平にご容赦お願いする次第です。

 

 

 次回は、今回実不明として取り扱ったⒷ作戦の実施時期が指定してあることを述べたいと思います。それはなんと㊀の文の中です。もちろん「又」が指定しているのではありません。