例文内の「又」の役割6 最後の「又」4――記事№...24
「古田武彦氏の説のウソ、・・№21」――2−1 景初3年が正しい理由
―その20
ケースCの場合。
ここまでの纏め。
ちょっと北遷説に話を戻します。
「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」
-(修正)-はこのように訳しています。
「復た遼東を犯し、新安・居郷に寇し、又た西安平(丹東市寛甸)を攻める途上で帯方令を殺し、略奪して楽浪太守の妻子を得た。」
-(筑摩)-の訳は「ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。」となっています。両訳文の趣旨は一緒です。
但し-(修正)-の訳文には次のように注釈がついています。
「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。」
私はこの注釈に代表される説を北遷説と称しました。
「帯方令を殺し」、「楽浪太守の妻子を得(奪い去っ)た」のは「西安平を攻める途上」、もしくは「その道すがら」であると訳しています。するとどちらの訳文でも西安平を攻める前に平壌方面にある楽浪郡治や帯方県を攻めたことになり、伯固の征路は西安平を攻める前に、楽浪郡治や帯方県を経ていることになります。
定説では楽浪郡治や帯方県は西安平より百㎞以上南にあったことになっています。-修正-は百㎞以上南にある楽浪郡治や帯方県を通過して西安平に至る征路を想定することが出来なかったのでしょう。そこで「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」として訳文をより理解しやすく補正したのだと思われます。
私は北遷説に基づいて、「遼東郡内に徙され」る三つのケースを想定してみました。最初に西安平県城内に移された場合。この想定は文脈上成り立ちません。この場合、「その道すがら」とも「途上にあり」とも表現できませんから。
残る二つは、遼東半島、千山山脈の北、遼東郡本体の中に取り込まれた場合と、鴨緑江に沿い元々の楽浪郡を窺う配置をとって徙されたばあいです。この想定には問題ないと思います
前回、前々回とこの想定に基づき伯固の征路を検証してみました。地形や私の仮定した諸元を繰り込み高句麗の西安平遠征路をシュミレーションしてみました。
その上で高句麗条の伯固の遠征記事を読み直しました。
高句麗条は、伯固が後漢朝を悩まし、その上で意気揚々と帰国したことを伝えているとしか、私には理解できません。
しかしシミュレーションでは、楽浪郡治や帯方県が遼東郡に遷されていた場合、伯固の遠征は成功に結びつきませんでした。伯固の遠征部隊が最終的に補足されるか、疲弊して自滅するかの可能性が高いのです。高句麗条に、失敗を臭わせる記述はありません。
第三のルート。
この乖離について考えました。
“わたしのシミュレーションが間違っているのか。”
再度試みました。思い込みかもしれませんが結果は同じでした。
“実は不成功だったのだが高句麗条では隠されている。”伯固の遠征が失敗したのなら、陳寿それをかくす理由が見当たりません。むしろ得々として書き残すと思います。
高句麗伝から読み取れるように、伯固の遠征が成功裏した、と原文を理解できるそのような解釈を探しました。
そして想定した遠征経路が間違っているのではないか、と思いつきました。伯固は遼東郡を縦断したり、鴨緑江に沿って侵攻する征路を選んでいないのではないか。伯固が成功裏に帰還できる別のルートがあるのではないかないかということです。グーグルマップで調べました。
そのルートが北朝鮮側にあったのです
伯固の征路
線濃い青が清川江、薄い青が大同江とその主要な支流です。
北朝鮮内の地名や河川、山名等を細かく記すことは出来ません。グーグルの表記がハングルになっているからですが、とりあえず鴨緑江(国境)を挟んで、集安の対岸、北朝鮮側は満浦(チャガン)市であることは判りました。
グーグルマップで北朝鮮を絞り込んでゆくと満浦市を起点とし南下する道が現れます。おおよそのところを下地図に赤い線で複写しました。南下してゆくと安州平野に達します。安州平野にはいって海岸に向かうと道路は二つに分かれます。片方は西に丹東方面へ向かっています。もう片方はさらに南下して平壌平野に抜け平壌方面に向かっています。
伯固の遠征路はこれなのではないでしょうか。この道路が天然の地形を利用した物であれば、かつて伯固の騎馬部隊も遠征路として使用できたでしょう。
この道路を満浦市の起点からグーグルの航空写真で追ってみました。その限りでは、近代の土木技術で大幅に地形を変えたり、長いトンネルを付けたりした形跡は見て取れません。この道路は自然の地形に沿って作られています。
騎馬部隊は移動できるでしょうか。上記地図から、この道路が大きく二つの地形の地域を通過していることが見て取れます。一つは安州平野、平壌平野の平坦部です。ここは大丈夫ですが問題は山岳地帯です。
黒い台形線に囲まれた範囲をグーグル航空写真で調べてみました。山間には盆地や清川江の支流に沿った平坦地が連なっています。盆地を囲む山々の傾斜は緩く、清川江へ繋がる支流も比較的広い河川敷や河原を擁しながら流れています。
伯固がこの道を辿ったとすれば、遼東郡本体を強行突破するより、鴨緑江沿いに騎馬部隊で西安平まで下るよりも、明らかに容易で、安全だったと思います。
前漢の時代も楽浪郡と玄菟郡・臨屯郡を結ぶ幹線道路だった可能性があるでしょう。
「両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」という-修正-の注釈を導き出すにあたって、第三のルートの存在は考慮しているのでしょうか。
私は一顧だにされていないと思います。なぜなら伯固が第三のルートを通ったと考えた場合、定説を否定してまで「両者の治所が遼東郡内に徙され」ているという発想には結びつかないのです。
第三のルートを辿ってみましょう。満浦から安州平野に抜け、西安平へ向かう征路もケースAと同じく中入りです。安州平野から直接西安平へ向かったとします。伯固軍が西安平へ向かった情報は当然楽浪郡治へ届きます。楽浪郡太守は大急ぎで麾下の十八県の兵を糾合して、伯固軍を追います。各県が守備兵の半分ずつ、二百五十を派遣できたとして楽浪郡太守の率いる部隊は四千五百です。伯固は西安平付近を荒らしまわっている時か、荒らし終わって引上げる途中で追尾する西安平の部隊と、北上してきた楽浪郡の部隊とに対峙しなければならなくなります。この時には帰路を塞がれた形になります。おそらくどのような将であっても、帰路を断たれ、前後から挟撃を受ける事態は避けるでしょう。さきに楽浪郡治と帯方県治をつぶしたと考えられます。
伯固は西安平へ向かう前に平壌にある楽浪郡城や、この方面にある各県城を奇襲し、各個撃破で襲ったのです。こちら方面を潰しておけば、背後から襲われることもなく帰路が塞がれることもありません。
「殺帶方令」は伯固を迎え撃って、敗死したと考えられます。
「略得樂浪太守妻子。」この部分についての状況が不明です。
「略」には―省く,省略する,簡略な.省く,なおざりにする―といった一般的な意味があります。この意味を採用すると、例えば樂浪太守の妻子は殺されたということになります。
―はかりごと,策略,策,計画―という意味もあります。この意味を採ると、例えば樂浪太守の妻子は誘き出されて拉致されたということになります。
―奪う―この意味だと、例えば、どこかから楽浪郡城に帰還の途中に襲われて強奪されたことになります。
語句の解釈もありますが、迎え撃つべき太守が無事で、郡城の奥深くにいるべき妻子が遭難したというのが判りません。その状況を想像できないのです。
伯固の部隊は安州平野から平壌方面進んでいきます。騎馬部隊に急襲された途中の各県城からの平壌への通報は封殺されるでしょう。西安平がこの事を察知するのにはさらに時間がかかります。察知した時にはすでに取って返してきた伯固の部隊が西安平の城下に達していた、という状況もあり得ます。
つまり、伯固の記事の大略は「両者の治所が遼東郡内に徙され」ていず、楽浪郡治が平壌にあっても充分に説明がつくのです。
高句麗はこのルートを知っていたか。
後漢書によると高句麗は、朱蒙が卒本城(遼寧省本渓市桓仁満族自治県 五女山山城)を都城として建国したといいます。建武九(33)年には第2代の瑠璃明王が隣国夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(国内城、丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊、かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられています(wikipedia)。
高句麗の國都,丸都(国内)城は建武九(33)年から、第三ルートの起点、満浦市の対岸にあったのです。
「建武六 (29) 年、省邊郡、都尉由此罷。其後皆以其縣中渠帥為縣侯、不耐・華麗・沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐、(東沃沮条)
-漢の建武六年に辺郡を省いた時、都尉はこれに由って罷めた。その後は皆なその県中の渠帥(有力族長)が県侯となり、不耐・華麗(高句麗)・沃沮の諸県は皆な侯国となった。夷狄は更めて相い攻伐し、-修正-」
「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。(東沃沮条)
-(東沃沮は) 國が小さく、大國の間にあり迫られて、遂に高句麗に臣屬した。-修正-」
「又句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。(東沃沮条)
-高句麗は臣屬する前の東沃沮の大人を使者(高句麗の下級官吏)として任命し、領地の主とし使った。一方、税に関しては〘注〙大加(高句麗王の宗族)に統べさせて貊布・魚・塩・海中の食物を収めさせ、千里を担負して来致させ、又たその美女を送らせて婢妾とし、これを遇すること奴僕のようだった。-修正-を補正-
〘注〙王之宗族、其大加皆稱古雛加。(高句麗条)」
建武六年に後漢の侯国となった東夷諸国は相い攻伐しあい、東沃沮は敗れ高句麗の属国となったのです。東沃沮内部の行政はもともとの首長たちに委ねられたが、徴税は高句麗の王族が差配したといっています。東沃沮で徴税を円滑に行うには、東沃沮の地理、地形、人口構成等を把握していなければなりません。
「毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千餘級、宮奔北沃沮。(夫余条)
-毌丘倹が高句麗を討った時、高句麗王の宮が沃沮に奔ったので、師を進めてこれを撃った。沃沮の邑落を皆な破り、斬首・獲虜は三千余級。宮は北沃沮に奔った-修正-」
「正始三年,宮寇西安平,其(正始)五年,爲幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。(高句麗条)」
「正始中、儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。(毌丘倹傳)」
丸都城は一旦魏の手に落ちました。高句麗王は東沃沮に逃れ抗戦を続けます。毌丘倹は高句麗王に従って戦う東沃沮の邑落を皆打ち破り、その時、斬首・獲虜された東沃沮人は三千余人を数えたというのです。
東沃沮人の高句麗王への忠誠を見ると、正始五(244)年に東沃沮は高句麗の属国というより、高句麗の一部といってよいのではないでしょうか。高句麗の東沃沮統治はうまくいっていたようです。
伯固が遼東に攻め込んだのは「順・桓之間」とあります。
順帝永建年間(126)年-建寧元(146)年、桓帝の没年が永康元(168)年です。
伯固の在位は後漢の延熹八(165)年-光和二(179)年です(wikipedia)。
伯固は建寧二(169)年に玄菟太守耿に降伏〘注〙しています。
〘注〙「靈帝建寧二(169)年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。(高句麗条)
―霊帝の建寧二年、玄菟太守耿臨がこれを討ち、賊虜の数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。―修正-。」
伯固は王位についた後の四年間暴れまわったようです。勿論この四年間、当然東沃沮は高句麗に臣属しています。
北朝鮮の満浦市が高句麗の領域か東沃沮の領域かは判りません。しかし高句麗にとってここは熟知しきった地域であったのは間違いありません。そこから南西へ楽浪郡との境界がどこにあったかも不明ですが、しかしそこまでは、満浦市近辺と同じく、高句麗にとって自領であるか、それに等しい地域であったことになります。
楽浪郡との境界には後詰めや、補給の部隊が待機していたかもしれません。伯固が凱旋した時、待機していた部隊の歓呼で迎えられたかもしれません。
以上、述べてきたことから高句麗は第三ルートの存在をよく知っていたと考えなければならないのです。
このようなルートがあり、そのルートを知っているのにわざわざ困難が予想される遼東郡内を強行突破したり、揚子江沿いに下るルートを辿ったりしたと考えるのはあまりにも不自然です。半島の地理を検討していない未熟な議論だと私は思います。
伯固は第三ルートを通って楽浪郡、帯方県等背後の脅威を除いてから西安平を攻めたのです。
「又」へ戻ります。
やっと結論にたどりつきましが、またもや原文に戻ります。
「復犯遼東、寇Ⓐ新安・Ⓑ日居郷、又攻Ⓒ西安平、于道上殺Ⓓ帶方令、Ⓔ太守妻子。」
Ⓐ、Ⓑの時は素直に高句麗から遼東郡に攻め入って寇したのです。しかしⒸのときはⒹ、Ⓔも攻めているのです。遼東郡だけではなく楽浪郡も攻めているのです。同じ「復犯遼東」で括られてはいてもⒶ、ⒷとⒸは内容的に違っているのです。
だからこそ、たんに列記するだけではなく、Ⓐ、ⒷとⒸとの間に「又」をおいて区別しているのです。私には陳寿自身もⒶ、Ⓑは「寇」とし、Ⓒ、Ⓓ、Ⓔは「攻」としてこの違いを際立たせようとしているように思えます。
北遷説には、「遼東郡内に徙されていた」と言い切っていない記事もあります。
「楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。―理解する世界史―」
楽浪郡治が移ったのは楽浪郡の北部だったかもしれない、という説です。この説が成り立つかどうかの問題はありますが、成り立ったとしても私の「又」についての主張には影響がないと思います。西安平を攻めた時には、遼東郡のⒶ、Ⓑだけを寇したのと違って、楽浪郡と遼東郡を犯したということには変わりがありません。
かなりくどくなってしまいましたが、-(修正)-の北遷説が正しければ私のこの「又」についての主張が間違っていることになってしまいます。この点を理解いただき、長広舌ご容赦いただけると幸いです。
例文内の「又」の役割5 最後の「又」3――記事№...23
「古田武彦氏の説のウソ、・・№20」――2−1 景初3年が正しい理由
―その19
ケースBの場
目次
―理解する世界史―
東沃沮や挹婁、濊、韓に圧迫されて西安平県方面へ移動していたと言っているのだと思います
楽浪郡に属していた帶方県も樂浪郡と共に西安平県方面へ移動していたことになります。楽浪郡には『漢書』地理志によると始元五(前82)年に二十五県、後漢の建武6 (紀元30)年には嶺東七県廃止によって減少したとは言え十八県が存在していました。
帶方県以外の縣はどうだったのでしょう。
その疑問はともあれ、楽浪郡は西安平付近にあったそうです。鴨緑江に沿って並んであったのか、西安平の対岸、北朝鮮側にあったのか、もしくは県城西安平の中にあったのかそれは、不明です。
前回の要図に戻ります。ケースBの場合、集安から鴨緑江に沿って下り、西安平に至り、付近にある「殺帶方令、略得樂浪太守妻子」、その後、本格的に西安平を攻めた。この経路は容易に想定出来ます。一見、ケースAの場合より格段と困難は少なそうです。ところがそうでもないのです。
江上を征路に選ぶ
まず、船を使う場合を考えました。攻めるに必要な騎馬部隊を鴨緑江上船で運んだとしましょう。どれくらいの兵を運ぶことになるのでしょう。それを仮定するには西安平、楽浪郡治、帯方県治の兵力を想定しなければなりません。丹東にあった西安平県城の規模と兵力はどの位だったでしょう。探しましたが特定できる記事はありませんでした。
標準的県城
河北省武安県牛汲古城跡の遺跡によると、南北768メートル、東西889メートルの城壁に囲まれたスペースが漢代から三国時代の県城でした。
この城壁に囲まれた県城は、さらに里という区画に分かれていました。里の大きさは南北380メートル、東西175メートルの長方形で30~50メートルの間隔を開けて50件程度の住宅が建っていました。
里の中の各家は、15m×20mの大きさだというので、ら大体、一軒で180坪位という事になります。基本、県は、10の里という行政区画に分かれていました。
一つの里には50戸があり、一つの戸の平均人口は5名程度でした。
こうして考えると、一里の人口が250名になりますから10里あると県城の住民は2500名程度となります。
もっとも、大きい県も小さい県もあるので、これは目安にしかならないですが。
(はじめての三国志 https://hajimete-sangokushi.com/2016/01/16/post-8778/)
このような記事が有りました。
西安平は水上陸上の交通と流通の要衝ですからこんな数字ではないと思いますが、一応の規準的数値として規模をこの様に想定します。
丹東(西安平)付近の兵力
次に兵員の想定です。
牛汲古城跡城壁の全長
768+889=1657*2=3314m 100mおきの哨兵として2交代で 約70名
里内の治安要員 50名2交代で 100名
城門二つの衛兵 50名2交代で 100名
県府の衛兵 50名2交代で 100名
周辺の巡回要員 50名2交代で 100名
合計で約500名こんなところでしょうか。
建安八(203)年、いまだ呉の基礎が定まらない時、會稽郡で六万一千戸を擁する現地民の反乱が起きました。その時、孫策は賀斉に平定を命じ五千の兵を与えました。
「郡發屬縣五千兵、各使本縣長將之、皆受齊節度。(『三国志』魏書 賀斉傳)
-修正-
郡は属県より五千の兵を徴発し、各々本県の長にこれを率いて、皆な賀斉の節度を受けさせた。」
県の長に率いさせているのですから、かなり本気の徴発であったのでしょうが、当然県の抱えた兵をすべて反乱軍へ差し向けられるわけではありません。それぞれの県の治安維持等がありますから。
動員出来たのは、多くて半分から三分の一つ程度でしょう。
この当時、會稽郡には二十六の県があったそうです。一県から約各二百の兵を引き抜いたことになります。すると常時県の抱えている兵は四百から六百だったと仮定できます。
仮に三者が別々の城だったとして三城の守備兵は最低約1500とします。
高句麗の騎馬数
次は高句麗の動員した騎兵数を想定します。
近代ドイツ軍の研究に攻城三倍の法則というのがあるそうです。孫子も「同等の兵力なら最善を尽くして戦い、こちらの兵力が少ないなら引き上げ、敵の兵力が大きい場合は戦い自体を避けよ。」と言ったそうです。
城を落とすことが目的でない限り、三倍は必要ないとしても、それなりの兵は必要です。上陸して戦闘中、河岸で船を確保しておく要員等後備の兵も必要です。無根拠ですが遠征に動員した騎数を千と仮定します。
これだけの兵を運ぶのにどれだけの船を用意しなければならないでしょうまず一隻当たり乗船できる兵員数を知る必要があります。
公園にあるボートは二人の乗りです。江田島のカッターは13人乗りです。こんな舟では騎兵は運べません。遣唐使船は乗客、乗員共で150人乗れたそうです。ネットで見てください、甲板だけでとてもそんなに乗れたとは見えません。船倉まで使ってのことでしょう。
遣唐使船クラスの船で乗員を20人とします。
西安平遠征軍の場合、軽量種、とは言え馬を人数分随伴しています。移動中、馬が騒いでも大丈夫なように搾具等特殊な装備も必要になります。騎兵一騎で最低五人分の空間は必要だと思います。すると、馬は26頭しか乗れないことになります。千頭運ぶために39隻必要です。
一隻に乗れる人員は130人です。八隻必要です。食料等を積んだ船まで加えると、艦隊は約50隻にまでなります。
勿論二千でも三千でもよいのでしょうが、動員した騎馬数が増えれば用意しなければならない船も倍、三倍と増えます。準備する船数が膨れ上がり、ためにする想定と思われては困るので最小の数としました。
高句麗は騎馬民族の建てた國です。五十隻であっても、それだけの船とそれを操船できる人員を用意できるとは思えません。
しかしここでは敢えて船が準備できたとして侵攻の検討を続けます。
集安と丹東付近の鴨緑江の川幅を調べてみました。
鴨緑江を跨いで吉林省通化市内の集安市と北朝鮮満浦市を結ぶ集安鴨緑江国境鉄道大橋ががあります。 長さ598m、幅5mで20の橋脚で支えられています (wikipedia) 。グーグルマップの航空写真で見ると橋梁の半分強が豊かな流水面上にあります。約300 mを流水面が占めていることになり、残りが河川敷です。橋の上流でも下流でも、流水面はここより広くなっています。集安近辺の水深は3メートルだそうです。
山岳地帯のただなかです、集安付近での水量は四季を通じて豊かだと思われます。
丹東市にある中朝友誼橋は遼寧省丹東市と北朝鮮民新義州市を結ぶ橋で、中国側の正式名称は鴨緑江大橋です。全長946.2m、橋脚12の橋です。(wikipedia)この橋は堤防から堤防を結んでいて橋梁はほゞすべて流水面上にあり。橋梁の長さ即鴨緑江の流水面の幅です。ただし、中国側と北朝鮮側とではいちじるしく水深が違い、水量が少なくなると川幅の半分くらい、北朝鮮側が河川敷になると思われます。
集安から丹東へグーグルマップで河流を追ってみました。下っていくと白く泡立ちが何㎞も続いている領域が何個所もありました。水深が浅く急流になっているのです。河流が岩の間を縫っている領域も複数あります。
更に下ると河流が唐草模様のようになっているところもあります。そのなかの一本の河流を間違がいなく選んで進んでいかなくてはなりません。
読んでいるあなたも、グーグルマップで「集安」をキーワードに検索して鴨緑江を追みてください。鴨緑江は集安の南境を流れています。追うのは容易です。
集安や丹東付近は良いとして、途中この河流に船が耐えられるのでしょうか。耐えられたとしてもそれぞれの船を操船する要員はここを乗り切る能力が必要です。
約50隻に操船する要員1000名、すべてにその能力は必要ないとしても、騎馬民族国家の高句麗にそれだけの要員を準備するのは無理だと、私は考えます。このような河流を船団で降ってゆくことは無理です。途中でボロボロになってしまいます。バラバラになった船が時間差を置いて到着するのでは各個撃破される可能性が高まります。
いくつもの困難についてこの私の想定が正しいとすれば、とても船を使ったとは考えられません。
それでも高句麗軍が西安平を犯したとしなければなりません。では兵員運搬について他にどのような方法が考えられるでしょう。
船でなく筏
筏の利用があります。船の代わりに大きな筏を組んで鴨緑江を降ったと想定します。筏を組むのは船を準備するよりは容易いし、途中で引っ掛かってもやり直しや、改修はたやすい。
勿論これは船を使った場合に比べてです。日本でも木曽川の筏下りが有名ですが、筏を組むにも乗りこなすにもかなりの技術を要すると思います。筏が分解したときの苦労も生半可ではないでしょう。
帰路の困難
それも置いて、とりあえず高句麗の騎馬部隊が鴨緑江下流域に到着したことにします。帯方県、楽浪郡を攻略し、西安平を脅かしました。
さて帰路はどうするのでしょう。筏で鴨緑江を遡上することはできません。江に沿って陸路を辿るしかありません。
ケースAで保留にした帰路も、以下と条件が同じになります。
河岸を二種類に分別しました。人馬が通行できる河岸と、出来ない河岸ですマップでグーグルを最大の倍率にして、江に沿って陸路を遡上してみました。河岸の状態は大略、半分近くが人馬通行不能部分だと思われます。山腹が直接流水に落こんでいるのです
私の判断ですがこれでは馬を棄てて、兵のみが集安まで帰り着けるかどうかです。
ケースA、Bに応じて想定した西安平への征路はどちらも帰路は部隊が困窮に落ち入ってしまいます。
納得できません
「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」
私にはこの記述からは西安平遠征軍の困難は窺えません。後漢が高句麗王、伯固の跳梁に苦しむ姿しか浮かんできません。
私はここまで北遷説に従って征路の想定を進めてきました。
記事では遠征軍が西安平を犯す前に楽浪郡、帯方県を攻略しています。北遷説によれば、この時、楽浪郡治が定説の通り平壌であれば、それは起こりえない事態である、というのです。
楽浪郡、鮮朝半島不存在説はより詳しく言っています。
「高句麗の太祖大王(伯固)も、遼東郡の西安平県を攻めたついでに平壌にも軍を派遣して楽浪郡を攻めて太守の家族を誘拐したばかりでなく、さらに大同江を越えてソウルまで行って帯方令を殺して帰ってくるなど、有り得ません(虚構の楽浪郡、平壌説)。」
北遷説に従って想定してきた結果が、原文の持つ雰囲気とは全く違う状況を示していると、私は思います。もしかすると原文にふさわしい状況が現出するような想定が別にあるのではないでしょうか。
また一週間考えさせていただいて、続きは次回述べさせていただきます。
例文内の「又」の役割4 最後の「又」2――記事№...22
「古田武彦氏の説のウソ、・・№19」――
2−1 景初3年が正しい理由―その18
目次
余談ですが高句麗についてちょっとだけ書かせてもらいます。高句麗とは東北アジア、満州にいたツングース系民族の一部が漢の冊封を受けて建てた国の名です。民族名ではありません。ツングース系民族とはツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族のことです
歴史上に登場する民族・国家のうちツングース系民族と確定または比定されているのは、以下の民族・国家だそうです。
粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨、渤海、女真、濊貊(濊、貊)、夫余、高句麗、沃沮、百済、豆莫婁
ツングース系民族は現代でもシベリアから満州にかけての極東、北東アジア地域に住み、主に牛馬の飼養と,狩猟,遊牧、一部は農業で生活しています。
現在民族集団を形成しているツングース系民族は以下のとおりと言います。
満州族、シベ族、オロチョン族、エヴェンキ - ソロンを含む、エヴェン、ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィルタ
これらの民族は満州民族を除いて人口が少なく、漢民族(中国語)やロシア民族(ロシア語)の影響が大きく、固有の言語、文化が危機にさらされている。
(Wikipediaより編集、)
前漢が元封四(前107)年に遼東郡の東、楽浪郡の北に東北地方(満州)に玄菟郡を建てました。当時の玄菟郡は幽州に属し、郡治は高句麗県にありました。残りは上殷台、西蓋馬の二県です。
元鳳六(前75)年になると、漢の東北政策が変り、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になりました。玄菟郡は直接の支配領域を徐々に放棄して西へ縮小移転されました。郡治の高句麗県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村付近へ移され、元の高句驪県の場所には原地人の雄が高句麗侯として冊封されたのです。
(Wikipediaより編集、)
一昔前まで我々庶民は高句麗を想像するのに現存するツングース系民族の生活様式を想起するしかありませんでした。
しかし現代ではインターネットで高句麗人の生活を目の当たりにすることが出来ます。吉林省集安市や北朝鮮平壌周辺には、高句麗時代の遺跡が数多く残されており、石室封土墳に見られる壁画には、当時の生活文化や四神図などが鮮やかに、かつ生き生きと描かれています。
これらの遺跡は世界文化遺産に指定されネットでも公開されていますので「高句」で検索してみてください。
高句麗は周知のように騎馬民族国家です。その戦力は強力な騎兵によって構成されていました。集安周辺に残された遺跡からは高句麗前期の馬具、武具が多く発掘され、墳墓の壁画は当時の騎兵部隊の姿を再現してくれています。
遼東を犯し、新安・居郷を寇し西安平を攻めた伯固の軍も強力な騎兵部隊によって構成されていたはずです。
高句麗の西安平攻撃
要図
図 ソフト、カシミール付属の地図により作成
鴨緑江は長白山周辺を水源に中朝国境に沿って流れ遼東半島の付け根、現在の丹東市(西の文字あたり)で黄海に流れ込みます。丹東市が西安平です。当時の高句麗王城である丸都城(句の文字あたり)は鴨緑江中流域、現在の中国吉林省集安にあります。高句麗の領域は西に玄菟郡、西南に遼東郡都と境を接しています。遼東郡の郡治、襄平(襄の文字あたり)は現在の遼陽あたりにありました
二つの経路
冒頭の文節に「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」とあります。文節を読んでこの要図を見ると、高句麗の西安平攻略経路は二つのケースが想定できます。
帶方県の治所と樂浪郡治がどこに移されていたかによって高句麗の侵攻経路の想定は違がって来るのです。
訂正
訂正します。
-修正-
それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。
―理解する世界史&世界を知りたい―
高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。
前回-修正-が鴨緑江経由で西安平を攻めたとしていると書きましたが間違です。鴨緑江経由と説いた可能性があるのは―理解する世界史―でした。
-修正-の主張では遼東郡と帯方県が遼東郡のどこに移されていたかは、不明です。これを仮に二つの場合に分けて考えます。
遼河が遼西郡と遼東郡の間を流れています。この遼河と遼東半島から東北に延びる千山山脈の間、これが遼東郡本体だとします。ここに移されていた場合をケースAとします。
遼東郡の鴨緑江沿いに移されていた場合をケースBとします。―理解する世界史―の主張「当時遼東郡西安平県方面へ移動していた」はこれにあたります。
鴨緑江沿いの西安平攻めの可能性が出て来るのはこのケースなのです。
お詫びします。
ケースAの場合
往路
ケースAの場合は地図、黒字の高句麗あたりから遼東郡に入ります。南下し、しばらく行って東に折れ西安平に向かいます。その途中で両者を攻略し、その後千山山脈を越え西安平を攻めたという経路になります。
『漢書』地理志によれば遼東郡の県城は襄平、新昌、無慮、望平、房、候城、遼隊、遼陽、険涜、居就、高顕、安市、武次、平郭、西安平、文、番汗、沓氏の十八城があります。往路この十八城とは接触もなかったようです。高句麗は騎馬部隊の機動性で十八城を迂回しつつ駆け抜けましたということでしょう。状態としてはいわゆる中入りということになります。
たまたま楽浪郡、帯方県両治所に遭遇した時、高句麗軍は両者を迂回せず、蹂躙して去っています。中入りですから一日応戦されただけでも高句麗軍は苦境に陥ったはずです。その一日も保たなかったと思われます。両者は無防備状態に近い状態だったようです。
高句麗の領域を離れて西安平までの距離をおおよその目測ですが500㎞前後としておきましょう。道は直線ではありません。また県城を回避しながらの行軍です。実際の踏破距離はその倍あったとしてもおかしくはありません。
wikipediaは騎兵の一日の行程を40~60㎞としています。並足や襲歩を組み合わせた平均的速度でしょう。日本陸軍の、と断ってあるので陸軍省発行の騎兵操典を参考にしたものと思われます。帝国陸軍は日露戦争に備え、サラブレッド等を導入し、騎兵用の馬を改良しています。大型の馬を使うロシヤのコサック兵との交戦を想定したためです。日本馬の在来種は二回りほど小さいのです。高句麗の騎馬も同系統だったと考えられます。ネットを使って同じく同系統と思われるモンゴル馬で検索してみてください。馬格の違いは確実に一日行程の大小に影響します。
しかも、これは平滑地を基準にしています。山岳地や沼沢地ではこうはいかないことははっきりしています。高句麗軍が一日60㎞の行程をこなすのは難しいと思います。
高句麗領域から西安平までを700㎞、一日40㎞の行程と想定します。17日という日数が出ます。往復で34日です。戦闘中の日数を5日とします。合計39日です。39日分というと、食料だけでもたいそうな荷物になります。騎兵の長距離行軍には輜重は随伴できません。行軍速度が噛み合わないからです。まして隠密行動を必須とする中入り作戦での輜重は随伴不可能です。
この荷物を騎兵が携行するのでしょうか。接敵した時、動きにセーブがかかります。それは出来ません。
現地で買い上げ現地調達するのでしょうか、敵地を行軍しているのですから買い上げは無理でしょう。その場合もう一つの現地調達、略奪、強奪になります。通報を回避するため、現地人皆殺しの上の現地調達かもしれません。
私もそうですが、読んでくださっている方も疑問を持つのではないでしょか。
はたして遼東郡治である襄平や諸県城に背後をさらしたまま、危険な作戦を実施して、西安平を犯す必要があったのでしょう。
「犯遼東、寇新安・居郷」は納得がいくのです。境界近隣をサッと荒らして、サッと引き上げるのは、烏丸や鮮卑もやっていることです。この場合示威もあるでしょうが、攪乱と略奪も目的でしょう。
西安平までの中入りの場合は理解に苦しみます。
復路
復路は、こうやって通り過ぎたところを再度通ることになります。食料を入手することは往路より困難です。また遼東郡治には楽浪郡、帯方県両治所が襲われたことが知れているはずです。西安平が攻められたこともです。当然、遼東郡内には最高水準の警戒線が引かれ高句麗軍補足のため軍が編成されているはずです。西安平は陥落したわけではありません。追撃部隊も出しているかもしれません。袋のネズミ状態と言ってよいでしょう
帰還する高句麗軍に素通りされたと皇帝に聞こえれば遼東郡太守の処f罰は必至です。処刑もあり得ます。太守は必死でしょう。遼西郡や高句麗軍補足に成功しても失敗しても記事にするには絶好の出来事です。
文節には帰路について何も触れられていません。書き残すような何事もなかったとしか考えられません。このような状況の中、高句麗領域まで何事もなく帰還できたのですから奇跡です。
ではどうやって何事もなく帰還出来たのでしょう。可能性としては鴨緑江伝いに帰路をとって帰還したという想定は成り立ちます。次回はこの経路を考えますので合わせて検討してみましょう。
例文内の「又」の役割3 最後の「又」1――記事№...21
「古田武彦氏の説のウソ、・・№18」-2−1 景初3年が正しい理由―その17
今回から、やっとこの「又」についての検証に戻ります。
「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。
――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」
「又」の復習
まず「又」についての復習から始めます。
「諸橋大漢和辞典」によると、一般的に適用できる訳語は下記の通りでした。
❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。
❸ふたたびする。
ある事、またある物の記述があって、引き続いて別のある事、またある物を記述するときに使っています。
倭人条の例で見てみます。ある事、またある物を連続して、記述する語法を幾つか例示できます。
「×××、答汝所獻貢直。又特賜、○○○」の「又」は、下賜品の内、×は倭國より魏への貢献に対する答礼品、○は女王卑弥呼に対してのプレゼントという性格の違いがあることを表現しています。訳語としては❷㋑の「さらに」が当てはまります。
併記されていても相互に性格の違いを意識する必要がない場合、次のように続けて記述されます。
「絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹」
次の場合は國の連なり具合を意識して書いたのだと思います。
「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、・・・」
Ⓐ「女王國東渡海千餘里」の文節は女王國の東方から南方に存在する未知の國々の告知という括りです。
「復有國」は、新たに示された國々が「皆」女王國と同じ「倭種」であることを意識して、「又」ではなく「復」を使っています。21、Ⓑ「又」は「侏儒國」という國が「倭種」ではないことを意識して「又」を使っています。
22Ⓒ「又有裸國・黑齒國」は「倭種」でなく、「侏儒國」とも同じ種ではないという、「又」の使い方だと思います。
Ⓒ「復在其東南、船行一年可至」の「復」は「其東南」の「其」について説明しています。「船行一年可」の起点である「其」は、前にある「女王國東渡海」「去女王四千餘里」と同じで「女王國」だと言っています。
⑲、⑳の「又南渡一海千餘里」「又渡一海、千餘里至末盧國、」は、その前にある「始度一海、千餘里」と結びつくことで、二回目、三回目の渡海という時間的前後関係を表現しています。
―筑摩―の訳文
復習を終えて本題に戻ります。
この文節に「後」とか「始」とか、時の前後を示す語句は入っていません。私の主張が正しいとすると、この「又」は「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」との性格の違いを受けていなくてはなりません。
―筑摩―の訳文を見てみましょう。この文節の括りは、高句麗王、伯固の遼東郡侵犯にあります。「新安・居郷」が現在の何処にあたるかはわかりませんでしたが、両地が遼東郡の何処かである事が前提の文脈です。西安平は鴨緑江の河口、遼東半島の付け根、今の丹東市です。ここも遼東郡です。その範囲では「又」で区別するべき理由が見当たりません。
しかし「攻西安平」の後に「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」とあります。遼東半島の付け根、今の丹東市を攻めるのに楽浪郡治(平壌) を劫掠して通過したことになります。
新安・居郷を寇したときは高句麗の領域から直接の侵攻で、西安平の場合は楽浪郡を押し渡って西安平を攻めたことになります。この時は遼東郡だけではなく楽浪郡も犯したことになります。
この訳文は素直に読みとった逐語訳だと思いますが、「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」に「又」で両者の区別をつけた結果になっています。
楽浪郡北遷説
ところが原文を―筑摩―の訳文と同じように読めない人も多いようです。
例えば、今まで再々引用させてもらっている「三国志修正計画」では次のように言っています。
「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正)」
楽浪郡治は平壌に有ったというのが定説です。―修正―の説によると、伯固が遼東郡を寇した時、楽浪郡治も帯方県の治所も遼東郡内部に北遷していた、というのです。これは―修正―だけが説いている説ではありません。
「後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものとなり、中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移ったらしい。
AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。
(理解する世界史&世界を知りたい-http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/bc108a2.htm-)」
ネット上で私が見つけた―又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子―を明記しての楽浪郡、北遷説は、この二つですが北遷説を採っていると思われる記事を他にもいくつも見受けました。
北遷説よりさらに過激な次のような説もあります。
「帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。 定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である」
―http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html
真実の満韓史を求めて―http://blog.livedoor.jp/goshila/archives/1051741285.html
古代史俯瞰 by tokyoblog-帯方郡 楽浪郡 ―http://tokyox.matrix.jp/wordpress/帯方郡-太守/
各国の位置(古代史の復元)
北遷説の説の根拠
まず楽浪郡治、帯方県の治所が遼東郡内に北遷していたという説の根拠を把握しようとしました。
残念なことにこの説を主張する論者達が、その根拠や、どのような論理で北遷説を導き出したか、それを説明する記事は見当たりませんでした。
この事があって自分の中での回答さえ出せず、最後までこの「又」の検証を先送りにしてきたのです。
厳密に調べるためとはいえ先延ばしには限界があります、やむをえずこの北遷説が拠って立つであろう、根拠と論理を自分なりに想定してみることにしました。この説を説明する記事を他に見つけられないのですから、この記事自体から類推するしかありません。
―修正―の記事を見つめ直しました。
まずこの文節から楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあったことを指摘しています。そして「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」を根拠に、「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言及しています。
なぜ楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあれば「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」となるのか。
私は北遷説の出発点をここである、と仮定することにしました。
後漢期の東夷の勢力範囲(Wikipediaより 濊貊は三国志東夷伝の濊です)
上の地図は後漢のころの政治地図です。玄菟郡が高句麗の西、遼東郡は南西にあります。高句麗の南東は東沃沮の領域が広がっています。東沃沮の南に濊貊(濊)がいます。東沃沮と濊貊の西に楽浪郡と帯方郡があります。
高句麗から楽浪郡に入るには東沃沮を通過しなくてはなりません。文節は、遼東郡の西安平を攻める道すがら、「于道上」といっています。東沃沮については何も触れていません。
触れていない理由として次の三つが考えられます。東沃沮は高句麗軍の通過を容認した、多少の揉め事は有ったが書かれていない、高句麗の軍が東沃沮を通過しなかった。
北遷論者はまず、第一の可能性を否定します。他國の軍が自領域に侵入し通過するのを黙って見ている國はない、そう考えるのが普通でしょう。
第二と第三の可能性が残りますが北遷論者は三つ目の可能性を受け入れたのだと思います。
さて、遼東半島の付け根にある西安平の南側直近には鴨緑江が流れています。この大河は高句麗の領域、長白山(白頭山)のある長白山脈あたりに水源を発しています。地図上では赤い「高句麗」という三文字の、「麗」があるあたりでしょうか。
論者はこれに着目し「高句麗は鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ。」と考えたのだと思います。しかし「高句麗が鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ」のだとすると、平壌周辺に在った楽浪郡治も帯方県の治所もその侵攻経路からは大きくはずれています。「于道上(西安平を攻める途上で)殺帶方令、略得樂浪太守妻子」をどう理解するかという問題が残ります。論者は、楽浪郡治と帯方県楽浪郡治を遼東郡に北遷させることでこの問題を解決したのです。
これが私の想定した北遷説成立の大まかなシナリオです。勿論、論者によって小異はあるでしょう。しかし私にとってこれが推察でき、かつ違和感のないギリギリの範囲です。
( 論拠のない他人の説の論拠を探すのは結構大変なのですよ。)
楽浪・帯方両郡、半島不存在説
楽浪、帯方両郡を元々遼東郡にあったとする説は、どれも「後漢書」等の記事を論拠にしています。北遷説と違って、根拠は充分に提示されています。
しかし、私には論拠の解釈かかなり恣意的なに思えるし、前提となる史料批判も経ていません。
またこの説は現時点で相反する考古学的証明に触れていないか、考古学的検証そのものを問答無用で否定しています。
「中国史書が示す帯方郡の場所も(楽浪郡も)やはり遼東である」ということであれば、この文節中「復犯遼東」の「遼東」は遼東郡ではなく、遼東地方を指していることになります。この説と本稿との直接的関係はここにあります。
私の「又」理解は間違がっているか ?
北遷説は伯固の侵攻時に楽浪郡治と帯方県の治所は遼東郡内にあったといいます。
不存在説はもとから遼東地方に楽浪郡治と帯方郡があったと言います。
どらちの説が正しくても、私の「又」についての解釈を当てはめると、この文節の記述は「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」でなくてはなりません。「犯遼東」という括りの中では、寇新安・居郷と攻西安平以下との間に区別すべき要素はありません。その場合「又」を使わないというのが私の主張だからです。
つまり、私の「又」についての解釈が間違っているのか、両説の主張が間違っているどちらかなのです。両立できない説なのです。
ということで北遷説は次回に検証してみることにします。不存在説の検証もそれが終わった後の回で触れたいと思います。
*1
*1:寒中お見舞い申し上げます。
昨年の年末から正月にかけて、母が足をトラブって帰省していました。快癒の見通しがつき帰ってみると、妻と、同居している息子がインフルエンザで倒れていて、私に充分な看病ができるわけではないのですが、投稿に時間を割ける状態にありませんでした。 毎週の投稿を宣言していながら年末から寒中見舞いまで飛んでしまったことをお詫び申し上げます。 ( 毎週の投稿って結構大変なんですね、月一回に変更しようかなあ・・。毎日投降の人って・・・すごい。)
例文内の「又」の役割2 倭人条――記事№...20
「古田武彦氏の説のウソ、・・№17」――2−1 景初3年が正しい理由―その16
「倭人条」の「又」を検証しました。「又」が五個、三所所に出てきます。なかなか難しく一回休ませていただきましたが、やっと結論らしい形が付きました。ちょっと長くなりますが一気に片づけます。
目次
「又度壹海」
原文と訳文
⑲、⑳
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。❶又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大一支國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。❷又渡一海、千餘里至末盧國、」
―筑摩-
帯方郡から倭にいくには、海岸にそって船で進み、韓國を経、南に進んだり東に進んだりして、倭の北の対岸である狗邪韓國にいたる。そこまでが七千餘里、そこではじめて(海岸を離れて)壹つの海を渡る。その距離は壹千餘里、対馬國につく。そこの長官は卑狗とよばれ、副官は卑奴母離と呼ばれる。四面を海にかこまれた島に住み、その広さは四百里ばかりである。土地は山が険しく、深い森林が多く、道はけものや鹿の通り道のようである。千余戸の家があり、、農地はやせていて、海産物を食べて生活し、船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れてくる。。さらに南に向かって瀚海と呼ばれ壹つの海を海千餘里船行すると、壹大(壹支)國につく。そこでも長官は卑狗、副官は卑奴母離と呼ばれている。ひろさは四方三百里ばかり、竹や木のやぶが多い。三千ばかりの家がある。田畑もなくはないが、農耕によっては食糧の自給ができず、そこの人々も南や北に海を渡って穀物を買い入れている。さらに壹つの海を渡り、壹千余里で末盧國に至る
―修正-
郡より倭に至るには、海岸を循って水行し、韓国を歴(へ)て、南しつ東しつ、その北岸の狗邪韓国に到り、七千余里にして始めて壹海を渡る。
「到其北岸狗邪韓國」を、韓国が「東西以海為限」としながら「南與倭接」している事と併せ考えると、狗邪韓国が位置する“その北岸”は倭の北界となり、当時の倭が半島にも進出していた壹つの傍証になります。弁辰狗邪国=狗邪韓国とし、その後身を金官国、現在の金海市に比定する見解がありますが、そもそも『三國志』では狗邪韓国は倭の国邑だと認識しているので、弁辰狗邪国とは別物だと思われます。
千余里にして對馬国(対馬)に至る。その大官は卑狗、副は卑奴母離。居るのは絶島で、四方は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は禽鹿の径(こみち)の様である。千余戸があり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴(交易)する。
又た壹海を南渡すること千余里、名は瀚海といい、壹支国(壹岐)に至る。官は亦た卑狗、副は卑奴母離。四方は三百里ほどで竹木・叢林が多く、三千ばかりの家があり、やや田地があり、耕田しても猶お食には足りず、亦た南北に市糴する。 又た壹海を渡り、千余里にして末盧国(松浦)に至る。
コメント
私は「又」単独では時間的前後の意味は持たないと主張しています。しここの文脈では「又」が時間的前後関係を示していると考えざるを得ませんでした。私の主張は覆ってしまいます。混乱しましたが原文をじっくり見直しました。そしてやっと一番最初に「始度一海」とあることに気が付きました。
記事№16で書いた例と同じケースなのです
景初中,〔㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」〕」
Ⓒの作戦がⒶ、Ⓑの作戦の後であることを表しているのは「又」ではなく「其後高句麗背叛」の「其後」でした。「其後」の「其」がⒶ、Ⓑ作戦を指しています。
壹番最初の「度一海」に「始」が付くことで、二つ目の「度一海」は「❶又南渡壹海――南へ向かって、再び海を渡る-」、三つめの「度一海」は「❷又渡一海―三度目に海を渡る-」と訳すのが正しいことになます。
この段落に時間的前後関係を持たせたのは、二つ「又」ではなく「始」なのです。この理解に至るまでかなり苦戦しました。
ここの「又」も、単独で時観的前後関係を示す表現にはなりません。
「又有」
原文と訳文
21、22 (ゴメンナサイ、○付の数字が出なくなりました)
「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。Ⓑ又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。Ⓒ又有裸國・黑齒國Ⓒ復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
-筑摩-
女王國からⒶ東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。Ⓑさらに侏儒國がその南にあり、そこの者は身の丈が三、四尺、女王国から四千余里の距離にある。Ⓒ裸國・黑齒國がさらにその東南にあり、船で一年の航海をしてそこに行きつくことができる。いろいろな結果を総合してみると、倭の地は、Ⓓ大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。
-修正-
女王国のⒶ東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。 Ⓑ又た侏儒国がその南にあり、人の身長は三・四尺、女王国を去ること四千余里である。Ⓒ又た裸国・黒歯国が復たその東南に在り、船行すること一年ほどで至る。倭地の問(情報)を参照するに、Ⓓ絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。
コメント
この段落も、訳文の解釈と私の解釈の食い違いにかなり悩みました。まずはここからです。
「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。」
-筑摩-
女王國からⒶ東に壹千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。
-修正-
女王国のⒶ東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。
と訳しています。
両者は女王國から東千余里のⒶに渡り、次にⒷがあり、Ⓑから遠く離れてⒸがある、と読んでいるようです。順読法とでも呼びましょうか。
両訳文を意訳だと主張されればそれはそれで有りか・・・とも思いました。
しかしこの文節をよく見ると、先頭「女王國」の前に「自(より・から)」がありません。女王國を起点に、何か行動を起こした場合、「自女王國」でなければなりません。逐語的に読み直すと「女王國から」という訳は間違っています。
私は「女王國の東は千餘里を渡る海である」もしく「女王國の東に千餘里を渡る海がある」となるのが訳として正しいと思います。そこに「復有國、皆倭種―別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。」のです。
私なら「女王國の東に千餘里の海がある。そこに復た國がある。その國々は皆倭種である。」と訳します。
私の訳では、「この文節の主人公は東にある千餘里の海だ!!」ということになります。
「皆倭種の國々」と侏儒国
「又有侏儒國在其南」
ここからはさらに困惑しました。
―筑摩-の訳文は「さらに侏儒國がその南にあり」そして「女王国から四千余里の距離にある」としています。―修正-は「侏儒国がその南にあり」で「女王国を去ること四千余里である」としています。
私は「儒國在其南」はいく通りかの解釈が出来ると思います。
順読法で読んでいくと、読者はすでに「千餘里の海」を渡っているのですから「其」は、「皆倭種の國々」を指すことになります
女王國から倭種の國々まで「千余里」です。残る倭種の國々から侏儒国まで約三千里です。下の地図ではマッチ針の壹区切りが千里-80㎞となっています。倭種の國々から縦、四本目のマッチ針より少し南の位置では南日向灘にあったことになります。
-筑摩-修正-の両訳者は侏儒国を南日向灘に放り込んだまま次の訳に移ります。
古田氏も侏儒国を宿毛市近辺に比定しています。訳者と同様順読法で解釈したと思われます。しかし古田氏には侏儒国を南日向灘から救い出す配慮があります。
三者の訳は成り立ちません。
邪馬台(壹)国関連 地図1
(ソフト「カシミール」付属の地図により作成しました。)
黄色い線は長里での示した千里です。倭種の國々は邪馬台(壹)國から東へ、四国を横切り、紀伊海峡を越え、熊野あたりということになります。侏儒国の所在は南方、四千餘里です。この地図には収らないくらい遠方です 私には、少なくとも「倭人条」長里で理解できる人の頭の中が想像できません。
「倭人条」の「周旋可五千餘里」を上の地図で壹辺千二百五十里(短里)の赤い正方形で示したつもりです。博多湾が中心です。「倭人条」の記事には「方千二百五十里」ではなくでは「周旋可五千餘里」ですから陸上面積はもっと広くなるでしょう。
この「四千餘里」を「裸國・黑齒國」までの距離として「去女王四千餘里。Ⓒ又有裸國・黑齒國Ⓓ復在其東南、船行壹年可至」、こういう区切り方もあり得ますが、いくら陳寿が大陸国家の人と言え、四千餘里(320㎞)行くのに「船行一年」もかかるとは考えないでしょう。
次に陳寿が順読法に従って書いていないと解釈してみました。
「去女王四千餘里」。陳寿が方向の起点を「倭種の國々」に置いたまま、侏儒国への距離を測る起点を変えたと想定します。ダイレクトに女王國から侏儒国までの距離を示したことになります。
「皆倭種の國々」の南の方向に「去女王四千餘里」を測ってみますと侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になります。
もう一つの解釈は方向も距離も「女王國」が基点です。
この場合、侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になりました。
これでも成り立たないようです。どう考えればよいのか
そこでネットで侏儒国についていろいろ調べますと「れんだいこ」というホームぺージにヒントを見つけました。
れんだいこ
真実の歴史学「なかった」6号を読んでいて、二人の方が侏儒国について書かれていることに気付きました。
壹人は在四国の古田史学の会の事務局をされている合田洋壹さんの「侏儒国の痕跡を沖ノ島(宿毛)に見た」という論考です。これは、古田武彦さんが「邪馬台国」はなかった、のなかで、侏儒国は豊後水道東側にあった、とされていることについての現地情報報告的なものです。
寅七(「れんだい」運営者の自称)が注目したのは、清水淹さんの「隋書、新・旧唐書の東夷伝も短里」という論考です。そのなかで清水さんは、三国志で邪馬壹国の南4000里にあるとされる侏儒国を、種子島が距離的に合う、とされています。
清水さんは距離だけの合致以外の理由を述べておられません。南種子島の弥生時代の広田遺跡は短身長集団の遺跡として有名ですが、古田先生の侏儒国=四国説に清水さんが遠慮されているのでなければ幸いですが。(寅七は随分前古田先生に、侏儒国=種子島説は成り立たないか、とお尋ねし、成り立ちません、と壹蹴されたことがありましたが。)
さっそく「広田遺跡」を検索してみました。
南種子島町ホームページ
広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地です。 弥生時代後期から古墳時代併行期の種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓などはつくらず、海岸の砂丘に墓地をつくったのです。 この遺跡の調査は、昭和32年から34年にかけて国分直壹・盛園尚孝氏らによって行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から157体の人骨が出土しました。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました。また、上顎の側切歯を1本だけ抜歯したり、後頭部を扁平(いわゆる絶壁頭)にしたりする特異な習俗をもつことがわかりました。 これらの人骨は、奄美・沖縄諸島でとれる貝を素材とした貝輪や玉、幾何学文が彫刻された貝符や、竜佩形貝垂飾など総数44,242点にも及ぶ豊富で多彩な貝製の装身具を身につけていました。このような習俗・貝の装飾文化は、日本列島でこれまで他に例がありません。
この遺跡を残した人々の活動していた時代は「弥生時代後期から古墳時代」ということで卑弥呼の時代を包含しています。種子島は上の地図で分かるように「倭人条」の示す距離とも壹致しています。「侏儒國」は種子島にあったと考えるべきでしょう。
すると、「種子島からおよそ五百里」という東西のずれが問題になります。さんざん悩みましたが、何とか一つの解法を思いつきました。
「計其道里、當在會稽・東冶之東。」
この一節は「倭人条」の「女王國東渡海千餘里」より少し前にある有名な一節です。會稽や東冶(治)がどこかについても論争の渦中ですが、會稽と東冶(治)を結ぶ線の東にあたると言っています。あたるのが倭地か、女王國か、邪馬台(壹)国かはさて置き、その位置を大雑把に示しています。ある地点と別の地点を示して、その間隔を移動させて別の地のおおよその位置を示しているのです。
この表現方法が侏儒國の位置にも使われているのだと思います。
「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。Ⓑ又有侏儒國在其南」
「女王國」と「皆倭種の国々」それを結ぶ「千餘里」の海上の線、その南に「侏儒國」が有る、この様になります。
「其南」の「其」は「女王國」や「皆倭種」の國々を指しているのではなく、女王國から「皆倭種」の國々の間、「東渡海千餘里」のことをさしているのではないか、ということです。種子島はドンぴしゃり、その線の南方にあたります。
會稽も東冶も中国の地名で、「倭人条」を読んでいる教養人に、それがどこかの説明は不要です。しかし倭の地理についてはそうはいきません。最小限の説明を加えています。それが日本人の我々にとっては理解の邪魔になったようです。
「侏儒國」は種子島の地に有った、これが私の出した結論です。
黒歯國・裸國
「Ⓒ又有裸國・黑齒國Ⓓ復在其東南、船行壹年可至。」
順読法に従った訳では、「黒歯國・裸國は侏儒國の次に有り、侏儒國から南東へ一年ほど航行して行きつく」と書かれていることになります。だがが私はこの理解は間違っていると思います。
Ⓓは「又」ではなく「復」です。単純に「侏儒國の南東」を指す場合には「又有侏儒國在其南」のように方位に「又」も「復」も不必要です。「復」にはそれなりの意味があるのです。
「復」の意味は次の通りです。
デジタル大辞泉の解説
ふく【復】[漢字項目]
[音]フク(漢) [訓]かえる かえす また
[学習漢字]5年
1 同じ道を引き返す。かえる。「復路/往復」
2 もとの状態にもどる。もどす。「復活・復帰・復旧・復元/回復・克復・修復・整復・本復・来復」
3 同じことを繰り返す。「復習・復唱/反復」
4 返事をする。「復啓・復命/拝復」
5 仕返しする。「復仇(ふっきゅう)・復讐(ふくしゅう)/報復」
[名のり]あきら・あつし・さかえ・しげる・なお・もち
[難読]復習(さら)う
「Ⓓ復在其東南」に2、の意味を訳語として採用します。もとに戻すものはなんでしょうか、「其」です。「其」は侏儒國を指しています。「侏儒國」をもとに戻すとはどういう意味でしょう。東南という方角の基点を「侏儒國」から「女王國」に戻すということだとおもいます。すると「船一年可至」の起点も「女王國」に戻ることになります。
私の解釈で「東南、船行一年可至。」の基点も、起点も「女王國」に戻っています。
なぜ基、起点を女王國に戻したのでしょうか。指し示す「裸國・黑齒國」の位置が大凡しか掴めていなかったからだと思います。
別の例で考えてみましょう。
東京の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、サンフランシスコを指すことになります。
日本の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、アメリカ合衆国西海岸のほぼ全域を指すことになります。
「侏儒國」の東南、「船行一年」で示す「裸國・黑齒國」の位置は、「東京の東、船行九日」と同様かなり狭い範囲になります。そこまで的確に位置を示す情報はなかったのです。
次に述べますが「倭地」は全域が把握されておらず、基、起点してと使えません。「女王國」を基、起点とすれば、「侏儒國」を基、起点とするよりかなり広い領域に「裸國・黑齒國」を想定することが出来ます。
「侏儒國」の位置も、「女王國の東にある千餘里の海」という大領域で指定している点では同じ手法だと思われます。
陳寿は「女王國」から「裸國・黑齒國」までの行程を説明しているのではありません。「女王國」の東、東南、南には、「まだまだ前書(史記、漢書等)に記録されていなかった國々がありますよ」として、その代表的な國々と位置を列記しているのです。
この文節の二つの「又」も、” 話は変わって “ のように使われており時間的的前後関係はありません
「周旋可五千餘里」
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
-筑摩-
倭の地は、大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。
-修正-
倭地の問(情報)を参照するに、Ⓓ絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。
両者はこのように訳しています。
-筑摩-の訳は「周旋可五千餘里」を倭地の全周-ぐるっと巡ると五千餘里と理解しています。
地図1、で私が赤い正方形で示したような考え方です。
-修正-は「周旋」をそのまま使っています。こちらは「周旋」の意味を調べなければ、この文節の意味も分かりません。
ではまず「漢和辞典」で意味を調べてみましょう。
「周旋」の検証
周旋- 大辞林 -
① 売買や雇用などの交渉で、仲に立って世話をすること。なかだち。斡旋あつせん。 「周旋業」 「適当な人物を周旋しますよ/破戒 藤村」
② 国際紛争の平和的処理方法の一。紛争当事国以外の第三者が当事国間の交渉を進めるために、通信の便宜を図ったり、場所を提供したりするなどの援助を行うこと。
③ 事をなすため立ちまわること。世話をすること。 「甲斐〱しく酒杯の間に周旋し/鬼啾々 夢柳」
④ あちこちめぐり歩くこと。周遊。 「ひろく所々を周旋して/洒落本・雑文穿袋」
⑤ ぐるぐるまわること。めぐりめぐること。 「みな本証の仏花を-する故に/正法眼蔵」
次に中国語、「周旋」を日本語に訳す時の訳語も調べてみました。今手許に『諸橋大漢和辞典』がなく、ネットの翻訳サービスを使いました。エキサイト翻訳、so-net翻訳、Weblio翻訳、infoseekマルチ翻訳これだけに当たってみました。
「周旋」=「対応(する)」
調べた限りのサイトは共通してこのように訳していました。
検証してみましょう。「周旋屋」なにかに「対応」するために奔走する職業、「国際紛争」を平和的に解決するための対応、酒客の要望に対応する、前三つは意味と訳語が対応しています。「周旋」のもともとの意味は、「対応(する)」にあったのでしょう。
-筑摩-の訳とは意味も訳語も違います。
④観光で「あちこちめぐり歩く」場合、見たい場所に「対応して」訪ね歩くことを「周遊」と言います。
⑤私は「ぐるぐるまわること」や「めぐりめぐること」と表現した場合、その動きはランダムで規則性は存在しないと思います
-筑摩—の「(倭地を) ぐるっとめぐる」という訳は大辞林で言えばあとの二つの意味と近いようにも思えますが、私は全く違うと思います。漢和辞典と-筑摩—の訳は一致していません。
-修正-は「周旋」をそのまま使っていますので、私のの検証結果に従って理解すればよいことになります。
もう一つの検証
―筑摩―の言う「(倭地を) ぐるっとめぐる」という理解が成り立たない理由を別の面から見てみましょう。
Ⓐ、Ⓑ、Ⓒの記述から作表してみました。判りづらいと思いますが勘弁してください。
北方の國々
(山陰、北陸方面)
魏 (東海千餘里) 東方倭種の國々(瀬戸内海方面)
使 女王國
の 狗奴國 投馬國(水行二十日)
渡
っ 侏儒國 (南へ四千余里) -海-
た ((南東船行壹年)黒歯國・裸國
海
赤を女王國だと設定します。邪馬台(壹)國は女王國の北端近く、博多湾岸になります。この段落の範囲でこの設定を説明します。
前提として「里」について規定しておきます。短里の一里は約80m、長里で500mとしておきましょう。一千里は80㎞、一千余里を100~120㎞、四千里は320㎞。四千余里を350~400㎞と仮定します。私の話は基本的に短里の説にもとづいて進めます。
この文節から女王国の位置を、近畿説で比定することは不可能です。女王国の東には少なくとも一千余里にわたる海が存在していなければなりません。山系に囲まれた盆地、ヤマト(奈良県)から「東渡海千餘里-東に千余里を渡る海がある」と表現すること自体があり得ることではありません。
古田武彦氏が比定する博多湾岸であれば女王國を船出して「東渡海-東に海を渡る」、関門海峡を抜け周防灘から防予諸島の間を縫って愛媛県の松山あたりにぶつかります。
私が知る限りでは東に千余里の海がある女王國比定地は、博多湾岸しか思い当たりません。
表の説明に
戻りたいと思います。紫は倭種の國々です。千余里というのですから「皆倭種」の国々は山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町の大島という範囲になります。
「皆倭種」とありますが「属女王国」とは書いていませんから、この国々は女王國勢力圏外の倭人圏なのでしょう。
博多湾の東方、山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町あたりから、女王國に属さない国々があったことになります。ここは瀬戸内海へ向かっての喉首にあたります。四国、中国へと広がる瀬戸内海沿岸は女王國に属していなかったことになります。
「皆倭種」の國々を女王國に対比するのに「又」を使わず「復」と言っています。女王國と同じく小國家の連合王国なのでしょう。
この女王國に復さない倭種の國々の範囲は示されていません。女王國の人々にも判らないのでしょう。
同じ倭地でも「自女王國以北」は状態が違います。女王國より北の國々は次のように書かれています。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳―女王國より北の倭人諸國はその戸数や距離について書くことを省略させてもらう。倭種以外で北にある諸國は遠く離れていて情報がない。」
これら女王國より北にある諸國とは、瀬戸内海側を含まず、中国地方、北陸地方の日本海側にあった國々ということになります。
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之――伊都國に大きな軍事基地(もしくは政庁)があって諸國を檢察しているので女王國より北の國々は(壹大率を)非常に恐れている」とあります。「自女王國以北」の倭種の國々は女王國に服属していたことになります。
ちょっと矛盾している気もしますが、とりあえず倭地の北端については不明、ということになります。
女王國の都、邪馬台(壹) 国について述べた後、南に下って女王國を構成する倭諸國の紹介として、二十一か國を列記します。その後次のように述べます。
「・・・次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」
この「奴國」が伊都國の東南百里、不彌國の西百里にあった「奴國」と同名異國なのか、同じ國なのかは問題になるところですが、ここでは放置します。
奴國までが女王の勢力圏で、その南にある狗奴國は女王に属さず対峙しています。
狗奴國の南端について、何も書かれてはいません。ということは倭地についても南端が不明ということになります。
このように倭地は東端、北端、南端、三方が不明の状態で紹介されています。したがって「(倭地を) ぐるっとめぐると五千余里」という理解が成り立たたないのです。
「裸國・黒歯国」の起、基点に設定できないと先に言ったのは、この事に理由があります。
「參問倭地」
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
ではこの文節をどう理解すればよいのでしょうか。
邪馬台(壹)国関連 地図2
頭から解きほぐしていきましょう。まず「參問倭地」です。
「参」の意味を大辞林は次のように説明しています。
Ⓐ【参する】
仲間に加わる。かかわる。 「君は…機密に-・しておると想像して/社会百面相 魯庵」
Ⓑ【参する】
〔動詞「まゐらす(参)」の転。中世後期に連用形「まゐし」が用いられるようになり、
① 人に物を与えるの意の謙譲語。差し上げる。 「君に-・せう京絵書いたる扇を/田植草紙」 「その代にめめを五十石-・する程に/狂言・比丘貞」
② (補助動詞) 動詞・助動詞の連用形に付いて、動作の及ぶ対象への敬意を表す。…し申し上げる。 「魏其こそよからうずらうなんどと、大后に云わせ-・したぞ/史記抄 14」
『史記抄』とは室町中期の、「史記」の注釈書。当時の口語で注釈したもの、だそうです
ここではⒷ、は日本語の【参する】についての解説です。訳語して使えません。Ⓐの意味に取ると “ 倭地が問いに加わる(かかわる) “となります。では何の問いなのでしょうか。
この段落はすでに三つのことに答えています。
女王國~「皆倭種」の國 去女王四千餘里
女王國~侏儒國 去女王四千餘里
女王國~裸國・黑齒國 船行壹年
三つとも女王國からの距離です。
であればこの問いも女王國からの距離についての問い、です。どこかの地点から女王國までの距離が、もう一つの問いとして加わることになります。
原文を次のように区切り直すことが出来まると思います。
「參問、倭地 ( 絶在海中洲島之上、或絶或連 )」
“ 倭地における「絶在海中洲島之上、或絶或連」、この間の距離はどの位なのでしょう。” 私はこのように言っていると思います。「この間」の一方の端は当然「女王國」です。
「倭地・・・・周旋可五千餘里-倭地の・・・・・は五千餘里ほどあります」答えは五千餘里でした。
もうわかっている人もいると思いますが、この五千餘里という数字は別のところに出てきています。
「自(帯方)郡至女王國萬二千餘里。」とあります。「到其(倭地)北岸狗邪韓國、(帯方郡より)七千餘里」ともあります。すると狗邪韓國から女王國までの残る距離は五千餘里なのです。
「狗邪韓國」については「倭人条」で「其北岸」と紹介しています。「其」が指している可能性があるのは韓諸国と倭です。韓の一部であるなら、この國は南岸です。南方、北九州に狗邪韓國の本体、倭があるから「其北岸」と言えるのです。「狗邪韓國」は明らかに倭地です。
「韓条」にも「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、-韓は帶方郡の南にあり、東と西は海で限られ、南は倭と接している」とあります。倭との間に海があるという認識はありません。倭は半島の南部にいるとしています。
私流に全訳してみます。
“「絶在海中洲島之上」に「或絶或連」っている女王國までの経路の距離を「參問―問いに加える」ならば、「周旋―経路に沿って」五千餘里ばかりある。“
もうひとひねり判りやすくします。
“ 倭地に入った後、狗邪韓國から対馬、壱岐を通って女王國までの距離は五千餘里ばかりである。“
「周旋」は「女王國への経路に対応して」、つまり経路に沿って、五千餘里と訳すべくなのです。
この文節は「又」と無関係でしたが、ついつい気分が乗ってしまって、申し訳ありません。
「又特賜汝」
原文と訳文
23、「今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米・牛利還到録受。」
―筑摩―
「いま汝を親魏倭王となし、、金印紫綬を仮授するが、その金印は封印して帶方郡太守に託し、代わって汝に仮授させる。汝の種族の者を鎮め安んじ孝順に努めるように。汝の送ってよこした難升米と牛利とは、遠く旅をし途中苦労を重ねた。いま難升米を率善中郎將となして、牛利を率善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ下賜品を与えたあと、帰途につかせる。いま絳地交龍の錦五匹、絳地縐粟の罽(けおりもの)十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹をもって汝の件への成仏の献上物への代償とする。加えてとくに汝に紺地句文の錦三匹、細班華の罽五張、白絹五十匹、金八兩・五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠と鉛丹おのおの五十斤ずつを下賜し、皆箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、帰った後目録と共に汝に授ける。
―修正―
今、汝を親魏倭王とし、金印・紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して汝に仮し授ける。種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使の難升米・牛利は遠きを渉り、道路(道中)を勤労した。今、難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を仮し、引見して慰労・下賜して遣還する。今、絳地交龍錦五匹[12]・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝の貢献した値として答礼する。又た特に汝に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠と鉛丹各々五十斤を賜い、皆な装封して難升米・牛利に付し、還到のうえ目録を受(さず)ける。
コメント
「又」は「又特賜汝」と出ています。
この段落は明帝が卑弥呼宛に出した詔書の抜粋です。下賜品についての説明が大部分で、献上物への返礼と、それとは別に「特に」卑弥呼個人へ下賜品を賜うことが書かれています。
両者が「又」で書き分けられていますが、同じ詔書に書き、一括して難升米と牛利に託した下賜品について、どちらを先に授けたという、時間的前後関係を問題にした表現をすることはあり得ません。
下賜品の持つ違った性格を、「又」と区別しているのです。
引用は長いのですが結論は簡単でした。
「倭人条」の「又」
以上見て来ましたが「倭人条」の「又」にも時間の前後を示す意味はありませんでした
ある話から別の性格を持つ話へ切り替わることを示すための「又」でした。
今回は「倭人条」の「又」についてでした。「倭人条」はいろいろご存じの方も多いと思い、重装備にしました。煩かったかもしれませんが、ご容赦ください。
次回は高句麗が遼東を侵犯した話に戻りたいと思います。
例文内の「又」の役割――記事№...19
「古田武彦氏の説のウソ、・・№16」――2−1 景初3年が正しい理由―その15
前回、中断した「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」には、このままでは理解しづらいことがもう一つあります。
伯固が「復犯遼東」と言っています。しかし「又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」とも言っています。「道上(途中で)」として帶方と樂浪の名が出ています。帶方と樂浪は明らかに遼東郡の領域ではありません
「又」にはこのように矛盾した記述を許す働きがあるのでしょうか。新安・居郷・西安平の内、何故、西安平だけに「又」が付けられたかという疑問と重なっています。高句麗「又」③の例文を解析するためにはまず「又」が文節の中でどのような働きをしているか、この点を確認しなければならないようです。
私はここまで「又」について、時間的前後関係を示す意味があるのかどうかということに絞り込んで検証してきました。個々の例文の中で「又」がどのような働きをしているかについては触れていません。遠回りになりますが、もう一度最初からこの点について見直していきたいと思います。
「又」の役割
高句麗
①「其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭鬼神、又祀靈星・社稷。
―筑摩―その風俗として、食物を倹約して、宮殿や住居を盛んに建てる。居住地の左と右に大きな建物を建て、そこで鬼神におえなえものをし、また星祭りや社稷(土地神と穀神)の祭礼を行う。
―修正―その習俗は食物を節約し、宮室の修治に好く、住居の左右に大屋を立てて鬼神を祭り、又た霊星・社稷を祀る。
「左右立大屋」で執り行われる祭祀が三つ挙げられています。「祭鬼神」と「祀靈星」「祀社稷」です。
「又」は「祭鬼神」と「祀靈星・社稷」をつないでいます。ヒトに災厄を齎す鬼神を「祭」り、人を守る「靈星」と「社稷」は祀るのです。陳寿は「鬼神」を祭る行為と「祀靈・社稷」を祀る行為が別物だという認識を、違う文字を充てることで表わしています。
しかしどちらも「左右立大屋」で執り行われる祭祀ということで「又」として結び付けてあるのです。
なんだかややこしいですね。しかし私たちの身近にもこのような表現する事象はあります。たとえば年賀状です。
「今年は賀状を五十枚書く。年頭に賀状を四十五枚もらい(又)昨年中にもらった喪中の通知が五通あった。」
賀状と喪中の通知は全く性格が違いますが、今年書く賀状の名宛人として一体になっています。
この「又」は前に書かれた事柄と、後の事柄とに性格の違いがあることを示すと同時に、年賀状を書く対象という別の規準で一つのものとして結び付けているのです。
②「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。」ここまでは高句麗國の国情について述べています。「又」とあって、「有小水貊」、とここからは西安平縣北、小水のほとりに有る、高句麗と同種の「小水貊」という國について述べています。
「小水貊」について述べ終わると、
「王莽初發高句麗兵以伐胡、不欲行、彊迫遣之、皆亡出塞為寇盜。――王莽は初め高句麗兵を発徴して胡を伐とうとしたが、(高句麗は)行こうとせず、彊迫してこれを遣ったところ皆な逃亡出塞して寇盜を為した。」
と前漢を簒奪した王莽(新)と高句麗の関係に話しが移り、続いて後漢と高句麗との関係の記述に話は進んで行きます。
時間的前後関係については述べられていません。「東夷傳」の中で「小水貊」と「高句麗は」は同格です。
この「又」はここまで記述して来た高句麗の事柄と、これから記述する「小水貊」の事柄の区切りを示しています。同格の「小水貊」について「高句麗条」の中で語るので「又」は「ちょっと別の国の話になりますが」という感覚で使われています。この「又」は「小水貊」を「東夷傳」に登場する七か國全部と、同格に結び付けています。
このあと韓条でも、済州島(おそらく)について同様の表現を見ます。
東沃沮
④「自伯固時、數寇遼東、又受亡胡五百餘家。」
伯固が高麗王だった時代の出来事として、二つの事柄を挙げています。陳寿はこの二つの出来事は性格が違うと見做して「又」で結んでいます。一方は侵略、もう一方は亡国の民の受容です。現代に生きる我々にとって陳寿の時代に生きた人より性格の違いは明確でしょう。二つの事柄の性格が同じであれば「自伯固時、數寇遼東、楽浪」この様に「又」を使わず記述したでしょう。
⑤、⑥
「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。」
最初の「又」は東沃沮の自治に委ねた部分と、高句麗が直接実施した賦課徴収部分とを区別し、その上で服属後の東沃沮に施行した施策としてまとめています。
二つ目の「又」は、物的賦課と人的賦課に区別し、その上で服属後の東沃沮の全賦課の表現として纏めています。
⑦「新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者為數。又有瓦金䥶、置米其中、編縣之於槨戸邊。」
槨とは「墓制上の用語。中国古代の用法では,直接死体を収納するものを棺といい,その棺を置くところを槨といい,槨は壙の中に造られるという。厳密にいえば日本の古代の墓制にはあてはまらない。大正初期に棺槨論争があったが,現在は棺は用いるが,槨という用語はあまり使われていない。粘土槨,木炭槨という言葉は本来の厳密な意味からは離れており,木棺を粘土あるいは木炭などで包むような構造のものをいう。(ブリタニカ国際大百科事典)」
「又」までは遺体を槨に収める手順について述べています。「又」と区切った後は槨の外のことです。
供えられた金䥶の中には米を入れあるそうです。あの世で使者たちが飢えないための心遣いだと思います。金䥶は槨戸のあたりに置く、と言っていますから玄室や玄道付きの槨について述べているのでしょうか。
米は朽ちます。折々に入れ替えられたのでしょう。現代のわれわれも、墓前の花を墓参の度に差し替えます。
「又」以前と「又」以後はかかれていることの性格がちがいます。「又」は其の区切りを示す役を果たしています。しかしそれと同時に記述事項を「新死者」への葬礼一式としてまとめる役割をも果たしています。
⑧、⑨、⑩の「又」は老人の語った四つの話を、別々の話として分かりやすく区切ったものです。
濊
⑪、⑫
「常用十月節祭天、晝夜飲酒歌舞、名之為舞天、❶又祭虎以為神。其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬、名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、❷又出果下馬、漢桓時獻之。」
❶ 前々回解釈を間違えていました。「常用十月節祭天」と「祭虎」とはそれぞれ独立した濊の「其俗」でした。「又」は「其俗」の内「祭」についての記述の「祭天」と「祭虎」についての区切りとして使われています
❷樂浪檀弓、班魚皮、は無生物です。文豹も皮が珍重されます。ところが果下馬は生きて活躍することに価値があります。この四種の名産が漢の桓帝に献上された時も扱いは異なっていたでしょう。前三種は捧げ持たれて、皇帝の御覧に供せられ、果下馬は手綱で制御されながらの御覧だったでしょう。「又」は濊の名産物の種類を区切るのに使われています。
韓
⑬ 「其國中有所為及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以為痛、既以勸作、且以為健。
「諸年少勇健者」が「勸作」する姿を描写しています。同一の姿の異なった二つの特徴を挙げて説明しています。「又」は記述が混乱しないために文の区切りとして用いられています。
⑭ 「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。」
日本で謂えば「又」の前は国ごとに「一宮」がある、それ以外に各郷村には「村社」がある、というところですか。「又」はその区別を際立ったものにする役割ですね。
⑮、⑯
「禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。❶又出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。❷又有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。
❶の「又」は⑫の❷とおなじです。韓の名産物を無生物と生物に区別しています。❷は③の「小水貊」と同じです。韓についての記述から切り離し、区別するために「又」を使っています。
弁韓
⑰、 「弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。」
「又」と「亦」と「復」
日本語で「亦」も「また」と発声します。しかしおそらく中国語では全く違うでしょう。意味も使う場面も違っていると思います。
この「亦」は直前の段落「辰韓」についての記述にある「始有六國、稍分為十二國。」をうけて「弁韓」も十二國に分かれていると言っています。
『論語』に次のような有名な文節があります。
「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。」
[書き下し文]
「子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。」
[口語訳]
「先生(孔子)がこうおっしゃった。『物事を学んで、後になって復習する、なんと楽しいことではないか。友達が遠くから自分に会いにやってきてくれる、なんと嬉しいことではないか。他人が自分を知らないからといって恨みに思うことなどまるでない、それが(奥ゆかしい謙譲の徳を備えた)君子というものだよ。』」
論語で「子曰」とあるのですから段落の始めの文節です。「不亦説乎」以前に「亦」が受けるべき事象、または事物が書かれていません。
「一般に楽しいことが色々あるが、『学而時習之』のも悦ばしいことではないか」という意味を含んでいるのだと思います。この「亦」は書かれていない事象、または事物を受けているのだと思います。
「舜人也、我亦人也――舜も人なり、我も亦た人なり。《孟子:離婁下》」
この場合「亦」は「舜人也」を受けているように読めます。しかし文意は
「王侯將相寧有種乎。――王族や平民などという種別はない」
こちらに近いのです。舜は偉人とされる人の象徴であって、具体的な舜という人を指しているのではありません。「亦」はここに書かれていない歴史上の異人全体を受けているのです。
日本で「また」とよみ、同義語とされる言葉に「復」があります。これは「復」とある前に書かれた事象、または事物がそっくり復活された場合に使われるのだろうと思います。
「さらに」は程度の深化
いろいろ試行錯誤したのですが、恥ずかしながら、私にとってこの「又」の役割を直接解析することは、ややこし過ぎました。そこで-筑摩-の理解を借用することにしました。
-筑摩-は「又」を「さらに」と訳しています。
品詞として「さらに」は副詞か接続詞です。
「副詞」としては程度を表しています。「さらに遠くへ行く」などがその代表的文例でしょう。
接続詞としては「別の物事を付け加える。」という役割を果たすそうです。「さらに」は別の物事を付け加える役割を果たすそうで。「日本語に接続詞がある。さらに英語にも接続詞がある」が文例でしょう。
(Wikipediaを参考にしました)
この「又」は今まで見て来た例と同じように、同じ文節内で「又」以前にある事象、または事物を「又」以後の事象、または事物に繋いでいます。
「弁韓は辰韓と同じく十二國から成り立っている。その十二國はそれぞれ小さい邑に別れている。」と言っています。
原文は弁韓が十二國へ、十二國が「さらに」ちいさな邑へ細分されていると述べているのですから、-筑摩-が「さらに」と訳している意図は、「さらに」を副詞として使用し、細分されていく程度を表現していると考えるのが妥当だと思われます。
⑱、 「國出鐵、韓・濊・倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」
弁韓で産出する鉄について述べています。鉄についての話ではあっても、韓・濊・倭がその鉄を採取し、中国の銭のように通貨として使っていることと、採取された鉄が楽浪、帯方郡に供給されていることは別テーマの話です。「又」は同じ鉄についての、別々の事柄についての記述を区切るため使われてます。
全体を見通して書いているのではなく、一回一回手探りしながらの書き込みなので、遠回りをして、話を複雑にしてしまっています。申し訳ありません。次回は何としても「又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」の「又」を片付けるつもりです。よろしくお願いします。
「又」の例文、その⒉――記事№...18
「古田武彦氏の説のウソ、・・№15」――2−1 景初3年が正しい理由―その14
今回は後廻しにした二つについては述べたいと思います。
今回のこの二つの記事は、個々の国内についてとどまっている記事ではありません。そこで判りやすいようにwikipediaから地図を拝借して掲載しました。
二つの記事は調べ始めた時『諸橋大漢和辞典』では訳の見つからない単語がいくつもあったりして文意がつかめず「さあ 大変だ!!」と身構えてしまいました。そこで後回しにしたのですが、東沃沮の記事については「東夷傳」の前後を見ていくと、単語の問題は簡単に解決しました。すると文意も比較的判りやすいものであることが判りました。
順序は逆になりますが、⑤、⑥から始めたいと思います。原文の後に二つ訳文を入れ、次に私の困った単語の意味を載せます。最後に私の訳と、この記事についてのコメントという順で述べるつもりです。
目次
東沃沮
原文と二つの訳文。
⑤、⑥
「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。」
―筑摩―
国は小さく、大国の間にあって圧迫を受け、けっきょく句麗の臣として仕えることになった。句麗はもとどおりその中の大人に使者の官を与えてその地の統治にあたらせ、また大加に命じて租税の徴収、貊布(貂布)や魚や塩や食用の海産物の献上をいっさいうけおわせ、千里もの距離をかついで高句麗まで運んでこさせることとした。またその地の美女を送らせて妾婢となし、奴隷や下僕のように扱った。
―修正―
国は小さく、大国の間で迫られ、かくて高句麗に臣事した。高句麗は復た(そのまま)中大人を使者として置き、相い主領させ、又た大加に統べさせてその租税である貊布・魚・塩・海中の食物を責(もと)め、千里を担負して来致させ、又たその美女を送らせて婢妾とし、これを遇すること奴僕のようだった。
語彙の説明。
「迫于大國之間-大国の間にあって圧迫を受け」
東沃沮が大國に挟まれている、もしくは囲まれていると言っていますが、東沃沮の周囲に大國は漢(楽浪郡・玄菟郡)と高句麗しかありません。東沃沮は漢と高句麗に「どちらにつくのか!」と迫られて高句麗についたことになります。漢の施政より、高句麗の施政の方が受け入れやすかったということでしょうか。
「大人」
「大人」は普通、社会的地位の高い人を意味します。東沃沮の社会的地位の高い人についでの記事が有りました。
東沃沮条-「無大君王、世世邑落、各有長帥。」
-筑摩—
統一的な君主はなく、代々、邑落ごとにそれぞれ指導者がいた。
-修正—
大君王はおらず、世々に邑落の各々に長帥がいた。
東沃沮の身分関係に関する記述はこれだけです。
したがって「大人」は邑落ごとの指導者を指していると思います。
「使者」
高句麗条-「其國有王、其官有相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人、尊卑各有等級。」
-筑摩—
この国には王がおり、相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人と呼ばれる官があって存否にはそれぞれ等級がある。
-修正—
その国には王がおり、官として相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人があり、尊卑は各々に等級がある。
「使者」とは下から二番目の官のことでした。
「使相主領-(邑落ごとの指導者を)それぞれの領の主として相使った」
「使大加統責其租税(等)-大加をして東沃沮からの租税等徴収の責任者とした」
この二つは私の訳です。
「大加」
高句麗条-「王之宗族、其大加皆稱古雛加」
-筑摩—
王の宗族や大加の官にあるものはみな古雛加と呼ばれる。
-修正—
王の宗族や大加は皆な古雛加を称す。
訳文は二つとも「大加」という独立した官として扱っていますが、「使者」と共にあった官名の一覧にはその名はありません。また訳文は「其大加」の「其」が何を指すのかを指定していません。私は「其」が差すのは「王之宗族」だと思います。「稱」は自称の場合が多いと思うのですが、確定できません。
「王の宗族、それ大加は、みな古雛加と呼ばれる。」
「王の宗族、それ大加は、みな古雛加と称していた。」
訳はどちらかでなければならないことになります。つまり王の宗族としての出自は、王に任命されなくとも古雛加の官と直結していたのでしょう。
私の訳文。
「東沃沮は國が小さく、しかも漢と高句麗に挟まれに挟まれ両方から圧迫を受けていたが、遂に高句麗の属国になる道を選んだ。高句麗は東沃沮の邑落ごとの指導者の地位を認め、高句麗の官、「使者」の地位を与えて、それぞれの邑落の行政を委ねた。しかし、東沃沮からは租税(安全保障税)を取り立てた。王の宗族である大加から選んで租税徴収と、高句麗までの移送の責任を持たせた。東沃沮からは美女を選んで高句麗に送り届けさせ妾婢としたがその扱いは奴僕のようであった。」
高句麗が与えた「使者」という官位は下っ端のようだが、邑落の指導者に与えられたものであって、決してふさわしくないほど下に扱われたとは思えません。
租税は属国になれば当然ですが、美女狩については良く分かりません。この文脈で行けば王命によってなされたようですが、人質としての狙いであったのかどうかでも持って来る意味が違います。大加の権限逸脱とも取れます。どうなのでしょう。
陳寿が高句麗を良く思っておらず、このような記述になったとも考えられます
コメント。
一つ目の「又」は高句麗支配下という時間のくくりの中で、東沃沮に並行して実施された高句麗の施策を述べています。時間の前後を示す意味はありません。二つ目の「又」は大加の遂行した任務というくくりの中で、二つの任務が併記されています。こちらも時間の前後を示す意味はありません。どちらも前後の記述の同格を示しています。
高句麗
ここはちょっと込み入っています。カーブかシンカーを処理するつもりで書いています。
原文と二つの訳文
②
「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子
―筑摩―
宮が死ぬと息子の伯固が立った。順帝・桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪をはたらき、さらに西安平に攻撃をかけ、その道すがら帶方令を殺し、楽浪太守の妻子を奪い去った。
―修正―
宮が死に、子の伯固(新大王)が立った。順帝・桓帝の間(125~67)、復た遼東を犯し、新安・居郷に寇し、又た西安平(丹東市寛甸)を攻める途上で帯方令を殺し、略奪して楽浪太守の妻子を得た。
宮の在位中、後漢との軋轢は激しかったようです。
「至殤・安之間、句麗王宮數寇遼東、更屬玄菟。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光以宮為二郡害、興師伐之。宮詐降請和、二郡不進。宮密遣軍攻玄菟、焚燒候城、入遼隧、殺吏民。後宮復犯遼東、蔡風輕將吏士追討之、軍敗沒。(高句麗条)」
―筑摩―
殤帝・安帝のころになると、句麗王の宮がしばしば遼東郡を攻撃した。(永初九年に高句麗は)あらためて玄菟郡の監督下に入ることになった。
遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光とは宮為が両方の郡に損害を与えていることから、共同して師を起しこれを討伐した。宮がいつわって降伏して講和を申し出たので、、二郡の軍は進撃をとどめた。宮はひそかに軍を送って玄菟郡をせめさせ、候城県に火をかけ、遼隧県に侵入して、役人や民衆を殺害した。そののち、宮はふたたび遼東郡を侵犯した。蔡風は軽装備で軍吏や兵士をひきつれて追撃をかけたが戦いに敗れて死んだ。
―修正―
殤帝・安帝の間(105~125)に至ると、高句麗王の宮(太祖大王)はしばしば遼東に寇し(たが、永初三年/109年に)更めて玄菟に属した。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光は宮が二郡の害となっているので、師を興して伐った。宮が詐降して和を請うと、二郡は進まなかった。宮は密かに軍を遣って玄菟を攻めさせ、候城を焚焼し、遼隧に入って吏民を殺した。後に宮が復た遼東を犯すと、蔡風は軽率に吏士を率いて追討し、軍は敗れて歿した。
伯固の戦いは三年。
Wikipediaによると高句麗王宮の在位期間53年 - 146年、伯固の在位期間は165年 - 179年とあります。この間空白があります。
『後漢書』では宮を弟の遂成が嗣ぎ、伯固は遂成の子、『三国史記』では宮・遂成・伯固が兄弟相続し、『三国遺事』では少弟の伯固が遂成から簒奪したとあるそうです。(-修正-付属解説)
遂成が王に在位中は後漢との軋轢は回避されていたのでしょう。
後漢、桓帝の在位期間は146から168年です。伯固の在位期間初頭の165~168年で重なっています。伯固は遂成の和平策に不満で、王位を継ぐや否や対後漢積極策を打ち出したことになります。しかし伯固は建寧二年(169)最終的には後漢に敗北を喫し降伏しています。
「靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。〔熹〕平中、伯固乞屬玄菟。(高句麗条)
―筑摩―
靈帝の建寧二(169)年、玄菟太守耿臨がこれを討伐し、斬首したり捕虜にした者が數百にのぼった。伯固は降伏し、遼東郡の支配下に入った。熹平年間(172~178)に伯固が願い出て、玄菟郡の支配下に入ることになった。
―修正―
霊帝の建寧二年(169)、玄菟太守耿臨がこれを討ち、賊虜の数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。熹平中(172~78)、伯固が乞うて玄菟に属した。
高句麗㊁で引用した「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平」の記事は伯固が降伏する前の三年間について述べていることになります。この三年間のくくりで新安と居郷を犯し、西安平を攻めたと言っています。二つの訳文からもこの三都市にかけた攻撃の順番は示準されていません。私の主張ではこの記事は前後関係に触れていないことになります。
では「復犯遼東、寇新安、居郷、西安平」でも「復犯遼東、寇新安、又居郷、西安平」でもよかったのではないでしょうか。なぜ西安平だけに「又」が付けられたのでしょう。
「復犯遼東、寇新安・居郷、『又』攻西安平」をこの角度から見てみようと思います。
今回はここまでにします。「又」について今日も終わりませんでした。思ったより重くて・・申し訳ありません