(「魏書の景初二年は史実です」の予定目次は記事№32にあります) ★ごめんさい 、大幅に改訂してしまいました。 ネット上に見る ”新井白石 ” 1.目を押せば二つに見えるお月さま 2.頑固おやじの言いたい放題 3.コタロー邪馬台国を訪ねて 4.サイト名不明 5.サイ…
「このブログの筆者からのご連絡です。」でお知らせましたように、A氏のブログの所在が確認できなくなりました。氏の書かれた記事に対応して書き進めるスタイルをとってきた私のブログの記事は、読者の方が確認するべき大本を失い宙に浮いてしまうことになり…
このブログの筆者からのご連絡です。 このブログは現在ある方(本当に筆者名不明なのです。私はA氏と呼ばせていただきました。)のブログの諸テーマの内、「古田氏の説のウソ、景初3年が正しい理由」という古田武彦氏対する批判部分を反批判する形で綴ってき…
「古田氏の説のウソ、・・№28――2−1 景初3年が正しい理由―その27 湖南の景初三年説—帯方郡はなかった 湖南: 帶方の郡名は漢時になきを以て。(卑弥呼考) 『後漢書』國郡志に帯方郡がないー またもや蛇足 景初三年に特定できる根拠は何 ? 帯方郡が存在しなく…
「古田氏の説のウソ、・・№27」――2−1 景初3年が正しい理由―その26 湖南の景初三年説 「二年説」対「三年説」の構図 「建安中(196 - 220年)、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡」 倭使が訪れた時、帯方郡太守は公孫淵の閥 B氏の主張 公孫淵への朝献を求めた倭…
「古田氏の説のウソ、・・№26」――2−1 景初3年が正しい理由―その25 前回のまとめとして、今後自分の検証した「景初二年か、三年か」について書くと宣言しました。しかし現状、大苦戦中です。他人の説をつついて何か書くのとは比較のしようがないほど大変で…
「古田氏の説のウソ、・・№25」――2−1 景初3年が正しい理由―その24 さて、前回申しました通り、今回からは前向きに「遣使景初二年」の証明に取り組むことにします。 目次 内藤湖南と『日本書紀』神功紀・『梁書』 神功紀 『梁書』 倭条の公孫淵誅殺は景初三…
「古田氏の説のウソ、・・№24」――2−1 景初3年が正しい理由―その23 訳者たちの訳語 「筑摩版訳本」と「修正計画」 筑摩書房版訳本の景初二年説 信長と鉄砲 合格発表の例文 甲州征伐の例文 行為者名を省略しました 省略された行為者を挿入します 信長は実際…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№23」―― 2−1 景初3年が正しい理由―その22 お詫び ここまでの検証で分かったこと 古田氏批判の出発点 A氏、六段階論理を展開 前回までの検証 「又」=「すると、さらに」=「後」の論理 「又」=「後」 「又」=「すると、さらに」…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№22」――2−1 景初3年が正しい理由―その21 今回は記事№21からの繰り返し説明が多くなります。前三回うまく説明しきれていないという私の思いがあってのことなのですが少し我慢してお付き合いいただければ幸いです。 目次 「楽浪…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№21」――2−1 景初3年が正しい理由 ―その20 ケースCの場合。 ここまでの纏め。 第三のルート。 高句麗はこのルートを知っていたか。 「又」へ戻ります。 ケースCの場合。 ここまでの纏め。 ちょっと北遷説に話を戻します。 「…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№20」――2−1 景初3年が正しい理由 ―その19 ケースBの場 目次 江上を征路に選ぶ 標準的県城 丹東(西安平)付近の兵力 高句麗の騎馬数 船でなく筏 帰路の困難 納得できません ―理解する世界史― 楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№19」―― 2−1 景初3年が正しい理由―その18 目次 目次 高句麗の西安平攻撃 要図 二つの経路 訂正 ケースAの場合 往路 復路 高句麗 余談ですが高句麗についてちょっとだけ書かせてもらいます。高句麗とは東北アジア、満州にいた…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№18」-2−1 景初3年が正しい理由―その17 今回から、やっとこの「又」についての検証に戻ります。 「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。 ――宮が死ぬと、皇…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№17」――2−1 景初3年が正しい理由―その16 「倭人条」の「又」を検証しました。「又」が五個、三所所に出てきます。なかなか難しく一回休ませていただきましたが、やっと結論らしい形が付きました。ちょっと長くなりますが一気…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№16」――2−1 景初3年が正しい理由―その15 前回、中断した「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」には、このままでは理解しづらいことがもう一つあります。 伯固が「復犯遼東」と言っていま…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№15」――2−1 景初3年が正しい理由―その14 今回は後廻しにした二つについては述べたいと思います。 今回のこの二つの記事は、個々の国内についてとどまっている記事ではありません。そこで判りやすいようにwikipediaから地図を…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№14」―― 景初3年が正しい理由―その13 目次 「古田武彦氏の説のウソ、・・№14」―― 景初3年が正しい理由―その13 「又」の用 夫餘 高句麗 東沃沮 挹婁 濊 韓 「又」の用 今回はⒷ作戦の実施時期を述べるつもりでしたが、今までの…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№13」――2−1 景初3年が正しい理由 目次 さて次の疑問点です 短い同一段落に二つの「又」。 『諸橋大百科事典』 「さらに」と「再び」の役割、そして「すると」を挿入した意味。 新たな二つの疑問。 検証項目の設定。 疑問②。 …
「古田武彦氏の説のウソ、・・№12」――2−1 景初3年が正しい理由―その11 今回からA氏の主張する遣使景初三年説の根拠について検証して行きたいと思います。論拠となっているのは筑摩書房版『三国志』訳本の訳文です。 まず前回述べましたように「收樂浪帶方…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№11」――2−1 景初3年が正しい理由―その10 先賢の「遣使」年度についての所説は切り離されました。ここからの私のA氏の主張検証は次の三項に重点を置きたいと思っています。 目次 検証の方針。 「公孫度 (淵ママ)傳」――八月壬…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№10」――2−1 景初3年が正しい理由―その9 〔「東夷傳序文」の風景〕の続きと「ここまでの纏め」の書き直しです。前回の「ここまでの纏め」に補足を加え、(削除すべきなのでしょうが)今回の後半で書き直しました。 目次 〔「東夷…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№9」――1 景初3年が正しい理由―その8 『卑弥呼考』を見つけました。 飛ばし読みです。 お粗末な景初三年の証明。 湖南のイデオロギー告白か?。 白石について。 ここまでの纏。 『卑弥呼考』を見つけました。 先に内藤湖南の「…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№8」――2−1 景初3年が正しい理由―その7 すでにお馴染みになった引用文を、その少し後まで紹介します。すると馴染の引用文は「東夷傳 序文」全体から見ないと理解しずらいことが判ります。 目次 偏師派遣 (東)沃沮 粛慎 偏師派…
「古田武彦氏の説のウソ、・・ №7」―1 景初3年が正しい理由―その6 『古史通或問』には、A氏・湖南の二人と、白石の違いがさらにはっきり判る記述があります。 白石は正始四年説。 引用文の補足。 『晋書』 [皇后摂政三十九年] [神功摂政四十三年] 道は…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№7」―2−1 景初3年が正しい理由―その6 ネット上、絶対的多数の記事は「新井白石と内藤湖南が邪馬台国近畿論者であり、『三国志』の倭遣使記事にある『景初二年六月』も、誤りと断定している」、と主張しています。A氏もその…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№6」――2−1 景初3年が正しい理由―その5 A氏は諸先賢の氏と同じ主張を紹介します。姚思廉、新井白石、内藤湖南、の「三人が《魏は景初2年6月、まだ帯方郡に太守を置いてない、倭の遣使は、景初3年6月の誤りである》と、” …
「古田武彦氏の説のウソ、・・№5」――2−1 景初3年が正しい理由―その4 前回はA氏が「倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ない」と主張し、私は「海上迂回戦略」に注目して疑問を呈しました。今回はA氏の理路全体を追って検証してみます。 A氏…
「古田武彦氏の説のウソ、・・№4」――2−1 景初3年が正しい理由―その3 A氏の「1 景初3年が正しい理由」は二つの部分に分かれています。 前段は「遣使は景初3年が正しい、『三国志』はまちがっている。」という、いわば宣言です。 後段では、「遣使は景…
「古田武彦氏の説のウソ、№...3」 まずお詫びです。 この記事を書きながら、HTМLをいじってしまいブログを消失飛させてしまいました。素人は怖い、でも失敗を怖がっては前に進めない、(冷や汗・・)。 再度立ち上げたのですが書き込み日付は復元できませ…