なんとなく違うなあ -司馬懿の海上迂回戦略ー  記事№...6

古田武彦氏の説のウソ、・・№4」――2−1 景初3年が正しい理由―その3

 

 A氏の「1 景初3年が正しい理由」は二つの部分に分かれています。

前段は「遣使は景初3年が正しい、『三国志』はまちがっている。」という、いわば宣言です。

後段では、「遣使は景初3年」を正しいと主張する根拠を論述しています。

 

 

前段

記事№3の復習

記事№3でも引用したA氏がの抜粋掲載した記事です。A氏は主張の核心はここにあるのだ、と私は理解しています。ですので、くどくなりますが再掲させてもらいます

A.公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

B.景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。

C.これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

 

B.Cの原文を再掲しておきます。

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」

 

 

公孫家が三代にわたって漁等を占拠し東夷は漢朝と切り離され、絶域と見なされるようになった。景初二年には司馬懿の公孫淵討伐の戦が展開された。司馬懿は公孫淵を討ちとると、密かに迂回して、海上から楽浪・帯方郡攻め取った。それ以後、東夷世界は平穏になった。

 

筑摩書房版「三国志」訳本、公孫淵条では襄平攻防戦の描写も見ることが出来ます

(景初)2年(238)春、朝廷は、大尉の司馬宣王(司馬懿)を公孫淵征伐にさしむけた。6月、[司馬宣王の]軍は遼東に到達した。……

かくして城壁の下まで進撃し周囲に塹壕を築いた。おりしも、30日以上も長雨が降りつづき、遼水は急激に水かさを増し、運送船が遼水の口から城壁の下まで直行するようになった。雨があがると、土山を築き、やぐらを建造して、[その上に]連発式の弩(いしゆみ)を作り城中に射こんだ。公孫淵は手のうちようがなかった。食糧は底を突き、人々は互いに食らいあい、死者はおびただしい数にのぼった。楊祚らは投降した。

 

 

 悲惨ですね、しかしこれは襄平とその周辺の状況です。公孫淵は八月に討たれ、その後戦火は移り、楽浪・帯方郡攻略戦が展開されることになります。

 

 再度A氏の記述を引用します

 この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。それゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

 

「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります」。それゆえ「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」と続いています。

これがどうしても腑に落ちないのです

司馬懿の迂回作戦

 A氏の主張の通り作図してみました。手書きで見にくいですが我慢してください。

 

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魏軍の進路(赤丸が襄平)

 

 黒い線が司馬懿軍の進路です。六月に遼東郡に到着です。茶色の線を倭使とします。「三国志」によれば六月に帯方郡治に到着です。公孫淵を討った後の司馬懿軍は、舟を仕立て遼東半島を迂回し、楽浪、帯方郡へ出ます。これは紫の部分、摩天嶺山脈に強敵が待ち構えていて、その敵と正面から衝突するのを避け、気づかれぬよう背後に出る策戦です。そのような強敵が、何故襄平が陥落するまで何も手出しをしなかったのでしょうか。

それはともかく、公孫淵が8月23日に討たれたのであれば魏軍が楽浪、帯方郡に攻め込んだのは9月に入ってからの可能性が高いでしょう。遼東郡と楽浪、帯方郡は強敵よって遮断されているのですから、倭使 (茶色の線) が帯方郡に着いた六月には楽浪・帯方・韓では戦乱はないのです。

 

遮断する敵がいなかったとしても、公孫淵を誅してから海上経由で兵を楽浪、帯方郡へ移したのであり、その兵が上陸するまで、両郡に戦火は全く及んでいません。

 

六月は「未だ道開かざる(戦乱の最中)」状態だ、とする構図は崩れてしまいます。これでは「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」というA氏の主張は成立しません。「三国志」にあるように、帯方郡治までは到着できるのです。

 

A氏の主張のように、帯方郡治に遣使が到着不可能な状態であるには、六月以前に渡海作戦を実施されていなければなりません。すると公孫淵を「誅殺する前」でなくてはなりません。困りましたね

異説あり

 このタイムラグを根拠にした、ある人の説を読んだことがあります。六月に帯方郡に到着した倭使は、公孫淵への朝貢使だった、とする説です。

景初元年(237年)公孫淵は自立を宣言し、燕王を称し紹漢元年と改元しています。魏朝と決定的な手切れとなった出来事です。この時、淵の支配は遼東地方と帯方郡楽浪郡に及んだそうです。だとすれば倭から公孫淵への遣使はあり得ることです。

帯方郡治に到着した倭使は、六月に魏軍が襄平を包囲するという事態に、郡治で待機させられます。公孫淵が敗れた後、急襲して来た魏軍に身柄を拘束されます。魏の将軍(司馬懿?)はどう処遇すれば一番自分の功績になるかを考え、この倭使が魏への朝貢使だったことに仕立てて洛陽に送った、というのです。事実、この後の成り行きを考えれば魏朝は将軍の処置を大喜びした事になります。

 

私は違う考え方ですが、この説も成立します。

 

 倭の使者は十二月に明帝に拝謁しています。司馬懿は「三国志」の中で洛陽から遼東郡までの軍行を四カ月と言っています。厳重に武装し、輜重部隊、攻城兵器を伴った四万の兵の行軍は非常に遅いのです。

使者が八月いっぱい帯方郡で身柄を拘束されていたとして、景初二年九月初頭に身柄を洛陽に送られたのであれば、景初二年十二月の拝謁は十分に可能です。

 

 司馬懿、公孫淵の戦いがあったことが、「倭の遣使、景初三年の根拠」であり「『三国志』の誤りの根拠」とは了解しかねる論理だてに思えるのです。

 

後段

 A氏は『梁書』の編者、姚思廉や、新井白石内藤湖南について述べ、「三国志」の記述が間違っている、証拠としています。しかしいずれも直接的に倭使が帯方郡に行けなかった証拠ではありません。氏の論理を検証するには間隙が多すぎますので、この部分については、A氏の今後の記述に添って、徐々に書き込ませていただきます 。

 

〔お願い〕ブログの体裁も若干はましになってきましたので、今後週一金曜日に更新したいと思いってます。読んでいる方がいたら、継続してお読みくださるようお願いします。