前段、A氏の理路―記事№...7

古田武彦氏の説のウソ、・・№5」――2−1 景初3年が正しい理由―その4

 

 前回はA氏が「倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」と主張し、私は「海上迂回戦略」に注目して疑問を呈しました。今回はA氏の理路全体を追って検証してみます。

 

 

 A氏の理路――郡治に魏の帯方郡太守がいない

 A氏の理路を私は下記、①~④のように纏めました。その前に①に至るまでの東夷傳にある記事を加えました。Ⓐ~Ⓔです。これに原文を付けました。

 

  景初二年正月 明帝司馬懿に公孫淵討伐の勅を降す。

   「(景初)二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東(明帝紀)」

  景初二年六月 司馬懿、遼東郡に到着。         

   「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳公孫淵))」

  Ⓒ景初二年六月    ( 倭の使者、帯方郡治に到着。)

   (「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、(東夷傳倭人))

  景初二年六~八月   襄平をめぐって攻防戦。

  景初二年八月二十三日 司馬懿 公孫淵父子を誅殺。

   「(八月)壬午(二十三日)、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(公孫度傳公孫淵)」

 

魏志公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。

公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(筑摩書房三国志」訳本)

 「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後海表謐然、東夷

  屈服。(東夷傳序文)」

「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」

「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」

それゆえ倭の遣使は、翌年景初三年六月になります。

 

 ③はA氏の解釈です。④もA氏の主張です。Ⓓと⑤は私が理解補助の為付け足した項目です。ですから添付する原文記事はありません。なおⒺと①は当然同一の記事です。

 ③、④で「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後だから、Ⓒはあり得ない」と主張しています この③、④二項のような解釈ができるかどうかを調べます

 

帯方郡の沿革――太守は存在した

 まず倭使が帯方郡治に到着したととき、受け入れるべき太守府があったか、太守がいたかどうかを検証してみましょう。

 

帯方郡の沿革を調べてみました

 紀元前108年に前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置きました。紀元前82年に真番郡、臨屯郡を放棄しています。紀元前75年には玄菟郡を西に移し、半島は楽浪郡だけが残りました。帯方郡は紀元204年になって公孫康(公孫淵の父)が立てました。(wikipediaを編集)

公孫康が立てた、という記事は東夷傳韓条にあります。

「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

――桓帝霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流出した。建安中(196220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って(真番郡、臨屯郡の)遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐った。逃亡していた旧二郡の民は次第に韓、濊の地を出て帶方郡に戻った。この後、倭・韓は帯方郡に属するようになった。

 魏が置いた帯方郡太守は景初二年八月以降かもしれません。しかし帯方郡も太守府も、景初二年八月以前から公孫氏の勢力圏下ではあっても存在し、太守もいたのです。

魏の太守でなかったから、遣使するはずはない ?

三国志」に倭使が帯方郡治に詣でたというのは景初二年六月です。司馬懿もこの月に遼東郡に到着しています。この時から遼東郡の攻防戦は始まります。

帯方郡には太守がいました。しかしA氏は③、④で「魏が太守を置くのは、景初2年8月以後のことであり景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」と言います。

A氏の主張通りだと、遅くとも六月には、おそらくそれ以前に倭は遼東で戦端が開かれることを知っており、しかも司馬懿勝利を確信していたことになります。

三国志」には「是後倭韓遂屬帶方――倭と韓は帯方郡に属す」とあります。帯方郡と属国である倭の間では定期的な貢献や、必要が生じての交流があります。それを、一切断ち切ったことになります。よほどの確信がないと、読みがは外れた場合を思えばこんな決断は出来ません。

A氏は司馬懿の遼東到着時点ですでに、倭がその決断をしていたと主張していることになるのです。

三国志」には倭がそんなに情報通であることを記した記事はありません。A氏主張の論拠は何処にもありません。

 

 普通に考えてみましょう。司馬懿による襄平攻略戦が開始された景初二年六月には前回も述べたように戦火は楽浪、帯方郡まで広がっていません。情報があったとしても倭にとって単によそ事だったでしょう。「倭韓遂屬帶方」、ですから、倭の使者が郡治に詣でるのに何の不思議もありませんし、太守が受け入れるのにも不思議はありません。これを「あり得ない」という方がおかしい。

但し前回の異説にある、公孫淵に詣でたい、という倭使の申し出に許可を与えることは出来ません。郡治に留め置くか、謝絶して返すかどちらかでしょう。

 

「景初2年8月以後」魏軍が帯方郡治に進駐してきたとき、倭使を受け入れた太守は、公孫淵の影響下で任じられた太守なのですから司馬懿に誅殺されたかもしれません。しかしそうでなかったかもしれません。倭の使者を洛陽に送った太守劉夏は公孫淵政権から横滑りした太守だったかもしれないのです。

 

帯方郡太守が新任であろうと、留任であろうと、郡治に留められた倭使が、太守の劉夏と占領軍のトップ司馬懿によって、魏朝への朝貢使にすり替えられたという可能性を否定することは至難の業でしょう。だからこそ異説、「倭 (帯方郡属していた) の使者は公孫淵に朝貢を申し出るため帯方郡治に詣でていた」、が成り立つのです。

 

 A氏は「あり得ない」と断言していますが、「あり得ない」ことこそ「あり得ない」のです。「あり得」るのです。A氏の④での断定は「三国志」が語る史実から、はみだしています。

 

       次回は後段については述べさせてもらますが、ちょっと長くなります。