後段1――先賢が「異口同音」に景初三年説?-姚思廉・新井白石・内藤湖南――記事№...8

古田武彦氏の説のウソ、・・№6」――2−1 景初3年が正しい理由―その5

 

A氏は諸先賢の氏と同じ主張を紹介します。姚思廉、新井白石内藤湖南、の「三人が《魏は景初2年6月、まだ帯方郡に太守を置いてない、倭の遣使は、景初3年6月の誤りである》と、 異口同音に 述べている」そうです

下の囲みは、A氏による「1 景初3年が正しい理由」後段の纏めです。

このように、『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて、姚思廉・新井白石内藤湖南の三人は、異口同音に、次のように述べている訳です。

「公孫淵が滅んだのは、景初2年8月だから、6月にはまだ魏は帯方郡に太守を置いてない。景初2年6月は、3年の誤りである。」

遣使正始元年説の「梁書」姚思廉

まず姚思廉の検証から始めます。A氏は姚思廉について次のように紹介しています。

「この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉のようです。『梁書倭伝』には、『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて、《魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した》、と記しています。」

 A氏と姚思廉のコラボ

A氏の紹介する通り、姚思廉は「梁書倭伝」で「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以爲親魏王,假金印紫綬。」と書いています。

 

A氏の言うように姚思廉は「卑彌呼始遣使」を「公孫淵誅後」としています。しかし、しょっぱなに「公孫淵誅」が景初三年とあります。このまま読めば卑弥呼朝貢も、金印紫綬の拝受も景初三年の出来事になります。A氏は「公孫淵誅」を景初二年八月としています。「梁書」の記述を正しいとするなら、これまでのA氏の主張と齟齬が生じています。

帯方郡太守については、ここでも、この後にもいっさい触れていません。姚思廉がどのような意見であったかは類推するしかありません。

 

これから「梁書」の記事を、A氏の理路に当てはめて類推してみます。

A氏はその理路で「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った」とし、「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」と主張していました。「梁書」では「公孫淵誅」が景初三年なのですから、両郡を攻め落とすのも「魏が帯方郡に太守を置く」のも「景初3年8月以後のこと」と訂正されてしまいます。そして倭の使いが、はじめて朝見したのが景初二年六月はもちろん、景初三年六月でもなく、「公孫淵誅」の翌年の「正始元年」となります。姚思廉は遣使、正始元年論者のようです。

 

姚思廉の記述をA氏の理路から推し量っていくと、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初三年八月以降なのです。

A氏は「『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて」、『梁書倭伝』は自分と同じ意見だといいますが、踏まえた結果をA氏の理路に当てはめると、帯方郡太守の赴任時期を「景初三年八月以後」と言っています。A氏と姚思廉姚思廉とは同意見ではなく両立できない関係です。

 

 以上のように素直に読めば、A氏と「梁書倭伝」の間には齟齬があります。それでも同意見だとするのなら、普通はこの齟齬について説明があって「だから自分と同意見だ」と締めくくるでしょう。

A氏の姚思廉紹介文の後、白石についての記述まで三十六行あります。氏は三十六行の間の記述で「梁書」との、この齟齬について一切触れていません。

帯方郡太守赴任の時期とは無関係な記述を続け、白石について述べる冒頭で「それはさておき」と、三十六行が纏められているのですから、A氏に齟齬の説明作業をする気がないのは間違いないでしょう。何の不安も抱かなかったのでしょうか。

それとも、「三十六計 ( 証明から ) 逃げるしかず」ですかね

「多数説」とA氏のコラボ

  おそらくこれを書いた時、A氏は「景初三年」という文字だけを見て、「同意見だ」と主張しても、なんの不安もなかったと思います。

 

実は古代史学会の多数説が「『梁書』は倭の遣使を景初三年としている」と言うものだからです。多数説のロジックは「梁書」に「《至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢・・》とあるが、『公孫淵誅』だけは、前年の出来事なのだ、というものなのです。多数説を信仰していれば辻褄はあってきます。

 

 私はこの説を取りません。もし多数説が正しいのなら、記事の語順がおかしいからです。多数説を受け入れるには原文が「公孫淵誅、至魏景初三年,卑彌呼始遣使朝貢・・」こうなっていなくてはなりません。

A氏はこの多数説を絶対的に信頼していて、原文をよく読み直す必要さえ感じなかったようです。

 

A氏の「梁書」に対する所感を反駁してみます。

姚思廉が「三国志」を「東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえ」ているとA氏は言います。「三国志」の中で「東夷伝序文」と「公孫淵伝」は随分と離れた位置にあります。その両傳を踏まえることが出来るぐらい読み込んでいるのであれば、当然「公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡・・・・是後倭韓遂屬帶方(韓傳)――公孫康は屯有縣を分けて南の荒地を帶方郡とした。・・・・この後、倭と韓は帯方郡に属す。」も読み込んでいるはずです。

現に帯方郡は存在し太守も存在するのです。倭は郡に属しています。属国である倭には帯方郡への定期的な朝貢は義務づけられています。魏の置いた太守であるか、公孫淵の置いた太守であるかは帯方郡の内情です、倭はそれと無関係に帯方郡治へ朝貢します。

唐の朝廷人である姚思廉が「魏の任じた郡太守でないから、倭の遣使が、『正始元年』(もしくは『景初三年』)にずれ込んだ。」と考える筈もありません。

 

反駁と言いましたがこれは私の類推です。私の理路の最後の部分を事実だと証明できる確実な根拠はありません。それはA氏の理路③、④も同じなのです。何個所かに飛躍があります。たとえばわたしが根拠とした引用は「三国志」にあります。しかし「梁書倭伝」は帯方郡太守について、いっさい触れていないのです。A氏の話は私の話より深刻で、根拠は全くないと言ってよいほどです。

さらには、A氏の説は自身が触れていない多数説のサポートがあって始めて成立する跛行状態の主張なのです。

 

喧嘩両成敗、ここではそれでも充分だろうと思います。ここでは「姚思廉がA氏と同意見である」という主張に根拠がないと了解してもらえばよいのですから。

内藤湖南と新井白

次にA氏が古田氏の「邪馬台国はなかった」から引用しているフレーズです。

 

まず白石。

魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。

遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

そして湖南のフレーズです

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。

梁書にも三年に作れり」(『卑弥呼考』)<上記の古田氏の著書より孫引き(ママ)

 

 A氏は両フレーズが同主旨だ言っているわけです。困ったことに、姚思廉の場合と同じくなぜ同意見でであるかということを説明するためのコメントを付けていません。「東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて」いることを理解していれば一目瞭然、三者は同意見だ、いうことなのでしょう。姚思廉の検証は終わりましたので、両フレーズを比べればよいことになりますが、A氏の主張と両フレーズ、三者で比較してみることにします。

 

A氏   「公孫淵が滅んだのは、景初2年8月だから、6月にはまだ魏は帯方郡に太      守を置いてない。」

湖南   「公孫淵(こうそんえん)が司馬懿に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり」

白石    触れていません。

 

A氏   「景初2年6月は、3年の誤りである。」

湖南   「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。」

白石   景初二年六月にあった出来事を疑問視していますが、「だから遣使は景初三年だった」とは言っていません。

 

内藤湖南とA氏の主張と一致しています。しかし新井白石帯方郡太守に触れていませんし、遣使が景初三年だったとも言っていません。

私には三者の主張が一目瞭然同意見で、「異口同音に・・・」であるとは、とても思えません。

 

しかし、これは私の受けた印象です。A氏の意見は多分違うでしょう。例えば、

「白石は『遣使景初二年』を否定しているのだから《東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて考えている》。であれば「帯方郡太守」と「遣使景初三年」についても、引用文にこそないが、当然同じ理解だ」、

とか主張するのではないでしょうか。

 

長くなりましたので、続きは次回にさせてもらいます。