後段3――「異口同音」なのはA氏と湖南だけ 2――記事№...10

 古田武彦氏の説のウソ、・・  №7」― 景初3年が正しい理由―その6

 

『古史通或問』には、A氏・湖南の二人と、白石の違いがさらにはっきり判る記述があります。                                    

白石は正始四年説。

引用文の補足。

湖南は景初二年六月の遣使を完全に否定しています。

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり      (A氏の文中より)

次に白石の引用を再掲します

魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。

遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

                (『古史通或問』)               

 白石は、半島でまだ戦火が消えていないのに、使者が帯方郡の都に治に行けるのか、として[景初二年六月]の遣使を疑問視しています。

 

『古史通或問』中、遣使についての白石の記述は、ここまでで終わったわけではありません。原本では引用文の後にさらに書き続けています。

『晋書』には公孫氏平ぎて倭女王の使い帯方に至りしとみえたり。これ其実を得たりしとぞみえたる。さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて、その年月のごときは詳らかならす。「日本紀」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」

                       (『古史通或問』)

 古田氏の引用も、A氏も孫引きも、白石の主張をすべては抜粋してはいないのです。

 

 景初二年六月には帯方郡に行けないのではないかとし、「さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後」としています。ここまでに区切って見れば湖南と同意見と見ることは出来ます。しかし、白石の筆は「帯方郡太守」云々に向かわず、『晋書』へ向かっています。

 

白石の引用文をなぞってみましょう。

『晋書』

『晋書』の「東夷傳倭人条」に次のようにあります。

「宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。

――宣帝、公孫氏を平げる也。その女王、使を遣し帶方に至り朝見す。其後、貢聘が絕えず。」

『晋書』の記事はこれだけです。これでは《魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後》としつつも、遣使した《その年月のごときは詳らかならす》、年度が判らないというのが当然です。宣帝とは晋になっての呼称で、魏の司馬懿・宣王のことです。

 

白石は「梁書」の示す[景初三年]をとりあげていません。公孫淵が誅殺された年を[景初三年]としています。『魏志』と誅殺年度が食い違っています。淵の誅殺を景初三年とした場合、『魏志』にあるこれ以降の記事をすべて一年ずらさなければならなくなります。大問題です。また遣使年度については明記していません。

梁書」の記事は誤りとして、遣使年度検証の参考とする必要を感じなかったのでしょう

[皇后摂政三十九年]

 「皇后摂政三十九年」は景初三年にあたります。

日本書紀』のこの記事には《魏志云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難升米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す》とあります。

 

魏志云はく」とは”これ以後は『魏志』からの引用文ですよ ”ということです。

ご存じのように「魏志(三国志 魏書)」には「景初二年六月」とあります。

 引用文が原文と違っていては、白石が「皇后摂政三十九年」記事を《其實を得しにはあらじ。》とするのは当然です。

 

 白石以前に遣使景初二・三年問題に触れたのが松下見林です。見林は『異説日本史』で《景初二年の二、日本書紀に拠るに、当に三に造るべし》と述べています。白石は『日本書紀』の記事を否定すると同時に、先輩にあたる見林の説を斬って捨てたことになります

 後に内藤湖南が《景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀にこれを引きて三年に作れるを正とすべし。》とするのですが、白石がそれを知ることが出来たら同じように切って捨てたことでしょう

[神功摂政四十三年]

日本書紀』神功紀に卑弥呼関連と思われる引用文は次の三個所です。

 

 (神功摂政)三十九年。是年、太歳、己未。魏志に伝はく、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。

 

(神功摂政)四十年。魏志に伝はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国

詣らしむ。

 

(神功摂政)四十三年。魏志に伝はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人を遣して上献す。

(神功摂政)四十三年は正始四年です。

魏志』に《其(正始)四年、倭王復遣使大夫伊聲(声)耆・掖邪狗等八人》とあります。「日本書紀 神功紀」の記事は『魏志』の記事と一致しています。そして『古事記』にもそれを思わせる記事があったのでしょう。

ただし、白石は[神功摂政四十年]正始元年、魏からの返礼使を無視したことになります。

 

遣使の時期について、白石の理路はこうです。

三国志』の記事は納得できない、『晋書』で、公孫淵誅殺後であることは判るが、遣使の年月はわからない。『日本書紀』の[皇后摂政三十九年]記事は間違い。『日本書紀』の[神功摂政四十三年事記]は『魏志』の記事にも一致している。『古事記』の記すところともあっている。だから初めて魏と国交を結んだのは[正始四年]でなくてはならない。

道は開けた。

 A氏や湖南は景初二年八月以前、魏の任命した帯方郡太守はいない、としました。太守が不在期間に、朝見でを請うて、郡治に詣るはずがない。帯方郡太守が赴任したのは公孫淵が誅された時点以後になってだろう、と仮定しました。その仮定と、『魏志』の六月を組み合わせ、直近の景初三年六月の遣使だと主張しているのです。

 

 白石は、淵が誅され、道が開けてもすぐに使いを出したとは言っていません。あくまで史書の記事中に遣使の時期を示す記事を求めています。『晋書』、『魏志』、『日本書紀』、『古事記』四史書の一致点として、(神功摂政)四十三年・正始四年を提起しています。

帯方郡太守の赴任が景初二年八月であろうが、九月であろうが、白石にとって史書原本に記載がないのですから無関心なのではないでしょうか遣使の時期についてもそうですが、結論に至る方法論も全く違います。

 

 私が前々回に書いたように、単に、白石が書いていない、と述べたり、前回のように文法に戻ってどうこう言っているだけでは、A氏は、いろいろと指摘を躱す術を持っているでしょう。例えば、記事にはないが、記事裏には白石の隠れた意図がある、とか。

しかし、このような事実の前にしては躱すにも躱しようがないはずです。

 

A氏の言う「異口同音」から、姚思廉に続いてまた一人外れました

どうして白石と湖南は違うのか

 湖南は遣使の時期を景初三年とします。白石は正始四年としています。なぜ主張が違うのでしょう

 

白石は論拠として史書の記述を重視しています。『魏志』「景初二年遣使記事」を疑問視し、『魏志』「正始四年遣使記事」を魏と倭の最初の国交記事として採用しました。『晋書』と『日本書紀』『古事記』の記事に一致しているからです。

 

では湖南どうでしょう。

 

 古田氏とA氏が示した湖南の主張は、その著書『卑弥呼考』からの引用で私の手元にはなく湖南の論拠を参照できません。では全く分からないのでしょうか。いいえ、湖南を理解するのにA氏という判りやすい味方がいます。

A氏 「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」。

だから景初二年六月の倭の遣使は誤り。

湖南 「淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり」。

だから景初二年六月の倭の遣使は誤り。

 A氏と湖南の、これこそ「異口同音」と言えます。

 

A氏は自分の論拠を筑摩書房版『三国志』訳本にあるとしています。具体的には次の二個所になります。

 

《『魏志公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。》

《 公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(東夷傳 序文) 》

 

A氏はこの二個所を論拠に次のように主張しています。

 

 公孫淵傳(公孫度傳公孫淵条の誤り)に公孫淵を誅殺したのが、景初二年八月二十三日とある。司馬懿はそれから海を渡って二郡を攻め取った。すると景初二年六月には魏の任命した太守は帯方郡存在しない。淵が誅殺され、司馬懿が二郡に攻め込んだ八月以降は魏の任命した太守が赴任することが出来るようになる。倭が、帯方郡太守に天子への朝貢を願って使節を派遣するのは、それ以降であり、翌年の景初三年六月である。

さらに公孫度傳と東夷傳序文を踏まえた三人の先賢は「異口同音」だと主張しています。(これについては、すでに「異口異音」だということを論証しました。)これがA氏の論法です。

 ここでは一旦、同一の結論に至る論法は、似通っていと考えさせてください。

 

湖南が、A氏と同じ訳本を読んで同意見に達したということはあり得ません。内藤湖南は1934年(昭和9年)に没しており、筑摩書房の『三国志』全三冊は1977年~1989年の刊行です。むしろ訳者が湖南の影響を受けていると考えられます。

湖南は『三国志』原文を読んで、筑摩書房版『三国志』訳本に先んじて、同じように読み取ったことになります。

「八月・・・壬午(二十三日)、・・・・・・斬淵父子。」

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」      (これが『三国志』の原文です。)

白石もおなじ原文を読んでいますが、原文のこの部分には全く触れていません。遣使の時期検証に重要性を認めていないのです。白石と湖南の主張の違いはこの一文の解釈の違いかもしれません・

 

 僭越ですが、次回は私も原文の解釈に加わって、そのあたりの雰囲気を掴んでみたいと思います。