内藤湖南の『卑弥呼考』――記事№...12

古田武彦氏の説のウソ、・・№9」―― 景初3年が正しい理由―その8

卑弥呼考』を見つけました。

 先に内藤湖南の「卑弥呼考」が手許に無く、最寄りの図書館にも蔵書がなく、「湖南の論拠を参照できません」と書いたのですが、ネット上の「青空文庫」という無料電子図書館翻刻掲載されているのを見つけました。底本は筑摩書房刊行『内藤湖南全集 第七巻』に収録されているそうです。独立した単行本ではなく、雑誌に連載された論文だったのですね。見つからないはずです。「青空文庫」のボランティアの皆さんに感謝します

青空文庫 卑弥呼考」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html

 飛ばし読みです。

卑弥呼考」は大和説を唱える論『魏略』を中心とした『三国志』、『後漢書』等の比較検証、「三国志」版本調査などの記述部分、私はお見事としか言いようがありません。また『魏志』「倭人条」に基づいた国名、人物検証もありました。これは、当時の学問的状況をよく伝えているのでしょう

 江戸時代初期から邪馬台国論争は (私の個人的意見では)九州説が有力でした。本居宣長は『馭戎慨言』で卑弥呼を、熊襲のたぐいの女酋である、としました。

 明治になっても、那珂通世が明治11(1878)年、「上世年紀元考」を著し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とし、「邪馬台女王は南九州にいた熊曽の女酋である」と主張しています。那珂は神武紀元を修正し「紀年論争」を引き起こしたこと有名です。

 星野恒氏は明治25(1892)年、「日本国号考」で「邪馬台国筑後国山門郡説」を発表しました。

 菅政友は「漢籍倭人伝」で薩摩・大隅と比定しています。

吉田東伍は明治31(1898)年「日韓古史断」で邪馬台国熊襲説を取りました。

神道は祭天の古俗”という論文や著書「日本古代史」で有名な久米邦武も熊本県玉名市の江田古墳を邪馬台国の関係遺物としたそうです。

(「れんだいこ」氏のホームページに依りました。近畿説は省きました。また九州説もこれだけではありません。)

 

 こういった環境の中で湖南は強力に邪馬台国、大和説を主張しました。当時のことですから「倭国条」の解釈に『日本書紀』や、『古事記』等がストレートに使われています。例えば「魏志」にある韓諸国を、『日本書紀』や、『古事記』中に出て来る半島諸国で説明しようとしています。これにはかなり無理が生じているはずです

「五 結論」として次のようにあります。

 已上の各章に於て、魏書倭人傳の邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと女王卑彌呼とは倭姫命なることは粗ぼ論じ盡せり。

 これでもわかるように「卑弥呼考」は近畿説を主張する一論文なのです。

古田氏によって引用され、A氏によって孫引きされた湖南の記述は「四、本文( 三国志 倭人条 ) の考證」末尾にあることが確認できました。

 

お粗末な景初三年の証明。

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

 景初二、三年問題についての論及はこの引用部分ですべてです。流し読みのせいか、「四、本文考證」末尾に至って、景初二、三年問題への論及はあまりにも唐突に感じられます

「神功紀」そのものの正しさを証明する論述はなされていません。傍証として二件挙げられています。

「魏書」から「淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり」を。『梁書』からは景初三年記事です。

 

湖南に代わって検証してみます。まず「神功紀」です。「三年に作れり」という記事原文を再掲します。

卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

―― (神功摂政)三十九年。是年、太歳、己未。魏志に伝はく、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。

「云う」というのは魏志を引用したという『日本書紀』編者の但し書きです。『日本書紀』は「魏志 東夷傳序文」の「景初二年」を「景初三年」と誤引用しているのです

私が湖南の説を間違っていると考えているとしても、「神功紀に之を引きて三年に作れるを”誤”とすべし」と引用すれば、明らかに私の誤りですよね。引用先と引用元が違っていれば、引用先が間違いであることは公理です。私が”誤”を”正”に引用し直して初めて、読者は相手にしてくれます。

なぜでしょう。例えば、引用の後、私が湖南の意見を肯定するにしても、否定するにしても「神功紀に之を引きて三年に作れるを”誤”とすべし」と誤引用したままでは後に続く文意が不明で支離滅裂になるからです。

 

湖南は「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし」といいます。「引用先と引用元が食い違っている。引用元が間違いである。引用先が正しい。」、二つの文章を比較して当否を評する、普通であれば何の問題もありません。しかし引用文の場合は「食い違っている」ことが大問題です。「引用先と引用元は絶対的に同一」でなくてはならないのです。引用先と引用元が食い違っていれば、私の誤引用と同じで引用先を引用元と同一に正さなければなりません。湖南の主張は公理に反しています。

 

日本書紀』のから引用文も、景初三年を景初二年と訂正して初めて論議が可能なのです。訂正すれば『日本書紀』も「天子に詣らむことを求めて朝献」したのは景初二年と言っているのです。

 

湖南は「六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり」と述べます。そしては帶方郡太守赴任の具体的記事を示していません。しかし「韓条」には「「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡――「景初中、明帝が密に帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣の二人を海を越えて遣し、二郡を定めさせた」とあります。二郡の太守はこの時派遣されています。

私は「密遣」とあるのを、遼東で公孫淵が、まだ権勢を奮って時期の派遣だと理解します。

「六月に魏はすでに帶方郡に太守を置くに”至っていた”」可能性は十分にあります。

「韓条」引用文中にあるこの「景初中」が景初二年八月以降であることを証明してからでなくては、湖南の主張は成立しません。

 

次に「『梁書』にも三年に作れり」と挙証しています。『梁書』の原文を見てみましょう。

「至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬――魏景初三年に至り、公孫淵を誅した後、卑彌呼が始めて朝貢使を遣し・・・」

とあります。『梁書』は淵が滅んだのは景初三年になってから、と言っていますが、湖南は「淵の滅びしは景初二年八月に在り」と平然として言っています。『梁書』か、湖南のどちらかが間違っています。

湖南の主張が正しいとすれば、『梁書』の「至魏景初三年公孫淵誅」は「至魏景初二年」の誤りで、「卑彌呼始遣使朝貢」も「公孫淵誅後」の「景初二年」の出来事となります。「神功紀」にある「景初三年」の根拠にはなりえません。

 

 『梁書』が正しいとどうなるのでしょう。「倭人条」は自己完結していますので、倭の遣使が「景初三年」でも問題が目立ちません。しかし「公孫淵誅」が「景初三年」となると、「魏志」内で年記の玉突き現象が起こります。例えば景初二年十二月、明帝不予を知らされた司馬懿は、洛陽に近い河内郡まで帰還していました。公孫淵を誅しないまま帰還していたのでしょうか。公孫淵を誅しての帰還であれば、ここも景初三年十二月に改めなければならない。明帝の臨終も景初三年十二月になります。すると明帝の死は正始元年正月になります。この余波で玉突き現象はさらに範囲を広げます。『晋書』の「宣帝紀」まで書き直しになるかもしれません。

明らかに『梁書』の誤記です。

湖南のイデオロギー告白か?。

「神功紀」が正しいとして湖南が挙げた傍証二つは、ともに簡単に破たんしてしまいました。湖南は大学者です。これは湖南がちょっとでも注意を注げば、気が付く水準の簡単な論理の欠陥です。湖南は一見、遣使が二年であるか、三年であるかという事実検証にはあまり興味は持っていないように見えます。というか「神功紀」の記述に絶対的な信頼を置いて、突き詰めた事実検証の必要を感じていないというのが正確なのかもしれません。

魏志云」の持つ意味は見落としたのでしょう。景初二、三年問題に限って言うと、湖南の読解力。の未熟さはお話にならない水準であることになります。大学者の湖南です。それはあり得ないのですが、私はそう理解したい。

 

見落としでない場合、どうなるのでしょう。先ほど誤引用は正したうえでさになるかを見てみましょう。

 

「明帝景初三年六月、・・」は誤引用文ですから、『日本書紀』の真意は、「明帝景初二年六月、・・」にあります。ところが、湖南はそれでも「景初二年六月」を誤りとしています。

「景初二年六月は三年の誤りなり。」「神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。」ですね。

「引きて」は「引用して」の意味ですからですから、『日本書紀』は誤引用であることを理解の上で「景初三年六月」としている、と主張しているとことになります。「理解の上」であるという説明はありません。

すると「本居宣長」ばりに「中国の史書と本邦の史書の記述が食い違っていたら、(問答無用で) ” 本邦の史書の記述 ” を信じるように」と説いていることになります。

 

湖南は「卑弥呼考」で「倭人条」にある邪馬台国が、大和であることを論証するために、ストレートで『日本書紀』や『古事記』等を駆使しました。そこに”歪”が生じているのを、自覚していたのではないでしょうか。自分のこれまで書いてきた「倭人条」解釈に”歪”が生じるのは自分の解釈がおかしいのではなく「倭人条」が間違っているからだ、と宣言していることになります。

 

 以上が、見落としでなかった場合の論理シミュレーションです。

 

これは事実の証明努力を放棄した、皇国史観イデオロギーです。であればこれ以上引用文を検証しても、湖南のイデオロギーの検証になってしまいます。ここで膨大なエネルギーを要するイデオロギー検証をするつもりはありません。

いやですよね、大学者にこんな想像を被せるのは。湖南のごく一部に関する、単純な見落としであることを願う由縁です。

白石について。

 新井白石の所説について、一切触れられていません白石の研究家、宮崎道生氏は次のように言っています。

一般的には学者としての白石の声価は寛政の頃に定まり、明治に入りその著作が逐次公刊されるようになって確定しました。

しかし古代史学者としての評価はまた別でした。「古史通」は明治四年、「古史通或問」は明治三九年に「新井白石全集」に収められ刊行になったが、明治の著名な史家は本居宣長の説を例にとることは多かったが、白石の説は殆ど顧みられなかつた。白石の邪馬台国観が本格的に取り上げられるようになったのは敗戦後、歴史を自由に論じられるようになり、邪馬台国論争も活発になってからである。

卑弥呼考」の初出が『藝文』1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、7月第1年第4号だそうですので、「そうなのか・・」という感じです。

 

そもそも遣使が景初二年であるか三年であるかというだけでは、近畿説、九州説に何の影響もありません。私は、本格的な景初二、三年論争は昭和28(1953)年、「景初三年鏡」の発見があってからだと思っています(記事№4参照)。湖南が景初二、三年の考察について深く立ち入っていないのは当然なのかもしれません。

 

卑弥呼考」は、二・三年について湖南の思索の後を辿れる、と私が予想していたものではありませんでした

ここまでの纏。

さて姚思廉、新井白石内藤湖南が「異口同音に」A氏と同じく倭の遣使、景初三年説であるという主張を検証してきました。私は姚思廉の「梁書」の景初三年を誤記だとして退けました。新井白石が正始四年を提唱していることを指摘しました。ここでA氏の主張する「異口同音」はなくなりました。内藤湖南の「卑弥呼考」での、景初三年についての記述は、これ以上検証すべき領域にはないことを指摘しました。

 

というわけでこれからの私の検証で、三先賢を考慮する必要はなくなりました。ここからは「A氏の筑摩書房版「三国志」訳本訳文を根拠にした景初三年説」検証に専念する事にさせていただきます。