A氏の論理の検証  ” いざ !!  “と張り切っています、が・・・苦戦しています。――記事№...14

古田武彦氏の説のウソ、・・№11」――2−1 景初3年が正しい理由―その10 

先賢の「遣使」年度についての所説は切り離されました。ここからの私のA氏の主張検証は次の三項に重点を置きたいと思っています。

  目次

 

 

検証の方針。

第一 -筑摩-の翻訳は正しいか。

第二 -A氏の訳文の引用、論理展開は正しいか。

第三 原文との矛盾はないか。

 

進行の順は基本的に、この要件を踏まえながら進めていくつもりですが、必要によっては前後することもあると思います。

 

A氏が遣使景初三年説を主張する論拠は「東夷傳序文」と「公孫度(淵ママ)」にあります。まず、簡単だと思われる「公孫度(淵ママ)傳」を検証することにします

公孫度 (淵ママ)傳」――八月壬午(二十三日)「斬淵父子」―

「八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子(公孫度傳公孫淵条)。

――八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)司馬懿は公孫淵の軍兵を壊滅させた。淵はその子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急襲し、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。―(修正)―」

この訳は筑摩書房三国志』訳本の訳文からではありません。執筆時の今、たまたま同書が手元に無く、やむを得ずネット上『三国志』修正計画さんから借用し、若干補正しました。修正計画さんのホームぺージでは『三国志』の全対訳進行中です。今後も処々で借用させていただくと思います。そのときは—修正—とマークさせていただきます。

 

三国志修正計画」http://home.t02.itscom.net/izn/ea/kd3/00.html#gi

 

こここで翻訳の要点は丙寅と壬午です。wikipediaに丙寅は3、壬午も19とあります。正直言って干支の正誤は私にはわかりません。

ですが、公孫淵父子の斬られたのが八月中であると理解すれば済む範囲の誤差、と考えておくことで良いのではないでしょうか。

 A氏は「公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。」と引用しています。同じ八月の出来事ということで、問題はないことにしましょう。

 「東夷傳序文」――疑問点―

三つの文節。

 私は「東夷傳序文」は三つの文節からなっていると考えています。「書稱《東漸于海、西被于流沙》」」に始まって「遂隔斷東夷、不得通於諸夏」までで第一文節。前漢の最盛期から後漢末の戦乱で東夷との交流が絶えるまでです。

 

第二文節がお馴染みの引用部分です。「景初中」に始まって「東臨大海」までです。ただ第二文節の引用が前半だけにとどまっています。併せて引用しておかなければこの文節の真意が伝わらないと思い追加しました。先に欠けた部分を追加引用しましたが再掲します。

引用文

「景初中,Ⓐ大興師旅,誅淵,①Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡, 而後海表謐然,東夷屈服。

追加引用文

「②其後高句麗背叛,又Ⓒ遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海

――景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

――後に高句麗がそむくと、再び軍の一部を分けて討伐におもむかせた。その軍は極遠の地をきわめ烏丸、骨都をこえ、沃沮を通り粛慎の居住地に足を踏み入れて、東海の海を臨む地にまで到達した。

 第三文節が「遂周觀諸國、采其法俗」から最後まで。東夷伝の編集主旨まとめです。

三つの疑問点。

 「東夷傳序文」をつらつら眺めているうち、第二文節中にいくつか疑問点が出てきました。

 

三国志倭人条」』に、倭が天子への朝見を求めて帯方郡への使を派遣したのは「景初二年六月」とあります。

まずA氏はこの引用文と公孫度傳の引用文とを合わせて、「斬淵父子」が景初二年八月二十三日で「6月にはまだ魏は帯方郡に太守を置いてない。」と言います。-存在しない帯方郡太守のもとへ使節を派遣するはずがない-これがA氏の主張の根本だと私は解釈しています。

検証するべき部分が違うのではないでしょうか。A氏が引用した訳文中にも、原文にも帯方郡太守は何も触れられていません。

一方、先に指摘した「韓条」に

「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡」

 という記事があります。この時帯方郡太守は赴任したことが明記されています。(記事№12「白石の『卑弥呼考』」おそまつな・・・。)

ここの検証がなくては、太守の赴任の時期は論じられないはずです。

 

次に「又」です。

A氏の引用した部分だけを見ていると判りませんが、短い第二節の中に「又」が二つ出てきているのです。そして二つの「又」が異なった訳になっているのです。①又は「すると、さらに」、②又は「再び」です。この訳で良いのでしょうか。普通、この文勢で読めば同じ訳語にならなければならない気がします。

 

三つ目が「収」です。「攻め取った」と訳されています。なんとなくですが語感が違うのです。

 

 

 

今、纏めるのに苦戦しています。次回までに何とか記述の流れを整えたいと思っています。次回は(一見)簡単そうなので、「収」の検証にかかります。