「又=すると、さらに」は間違い――記事№...16

古田武彦氏の説のウソ、・・№13」――2−1 景初3年が正しい理由

 

目次

 

さて次の疑問点です

短い同一段落に二つの「又」。

 引用文

景初中,㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」

この「又」の訳は「すると、さらに」です。

追加引用文

㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」

この「又」の訳は「再び」です。

このように別々に並んでいるとそれほど違和感がありません。段落やページが離れていれば文章の環境は違います。まして、A氏は㊀だけを抜粋して提示しています。比較することもないのですから、訳文に疑問を抱く余地は全くないといってよいと思います。

景初中,〔㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」〕

しかし原文通りに戻すとちょっと違います。ほんとに短い同じ段落の中に「又」という文字が二つ出てきています。そして違った訳文になっています。

同じく違った訳だとしても、①が「再び」で②が「すると、さらに」であれば、そのまま見逃したかもしれません。すぐ後の㊁で「再び」を繰り返して読まされる邪魔くささを避けたと理解できます。また最終到着点「東臨大海」に近づくことを強調しているとも取れますから。

しかし訳文はそうではありません。なぜ、重複回避や強調が前の方の「又」で使われるのか。

私はここに、引っかかってしまい、検証してみることにしました。

『諸橋大百科事典』

検証のために、まず語彙確認のための作業は『諸橋大百科事典』を引きました。

 

「又」を引きましたが『諸橋大漢和辞典』には「叉」として載っています。そして「叉」の正形は「又」のとあります。ここでは、同義語として使わせてもらいます。

❶て。めて。右に同じ

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。㋩有に通ず。(十有余年)

❸ふたたびする。

❹ゆるす。宥につうず。

❺姓。

❻符号の一つ。

 

 とあります。❶~❻まで出典の引用があります。その後「又」を含む二文字以上の用例が載っています。 

-筑摩—の訳語に①の「すると、さらに」はこの訳語にはありません。「さらに」だけが❷にあります。㊁の訳語「再び」は❸にあります。

 であれば「すると」は翻訳上、文意を明確にするための訳者による、挿入語ということになります。元の単語は原文中に存在しないのです。

「さらに」と「再び」の役割、そして「すると」を挿入した意味。

次に訳文の中の「さらに」と「再び」の持つ役割を確認しました。

「さらに」は派遣された師旅がⒶ作戦終了を終了して、再びⒷ作戦に取り組んだことを表現しています。

「再び」は、魏がⒶ、Ⓑ作戦の後、再度高句麗へ偏師を派遣したことを表現しています。

 ここまで訳者は①と②の「又」を同じ意味で理解しています。

 

訳者は①「又」の訳語に「すると」を挿入しました。その事で訳文に加わったのは、Ⓐ、Ⓑ間の喫緊性です。Ⓐ作戦を終了「すると」、間を置かず踵を接するようにⒷ作戦に取り掛かったと訳者は理解しています。「すると」を挿入したのはそれを表現するためです。ここで二つの「又」の違いが出てきたのです。

 

私の抱いた疑問に「なぜかそう訳したのか?」という面からは一応の答えが出ました。

新たな二つの疑問。

しかし、「すると」を挿入した段階でこの訳は逐語訳ではなく意訳になっています。訳者は本当に原文の趣旨を理解しているのか。最も基本的な部分が確認できなければ不安は残ります。といってもこの問いかけは余りにも漠然としています。そこで具体的な設問を設定したいと思います。

 検証項目の設定。

Ⓐ作戦終了を終了して、再びⒷ作戦に取り組んだ。この理解で良いのか。これを疑問①とします。

ⒶとⒷとの間に喫緊性はあったのか。これを疑問②とします。

この二つの設問に合格すれば私の不安は払しょくされたと考えることにします。

 

記述上の都合ですが、疑問②から検証することにします

疑問②。 

「又」①の訳語「すると、さらに」には喫緊の雰囲気があります。

それは「又」②の訳語「再び」と比べてみればわかります。「再び」では喫緊の語感はありません。高句麗条には高句麗王宮が魏に「背叛」したのは正始五(244)年とあります。Ⓐ、Ⓑ両作戦が実施された景初二(238)年との間隔は六年間になります。この訳も良いのでしょう。

 

〔「誅淵」でⒶ作戦の終了が八月二十三日である。そして八月以降には帯方郡太守が赴任できた。〕

A氏も「すると、さらに」をこのように理解しています。A氏の理解では八月二十三日に襄平で公孫淵を誅した魏軍、黄海沿岸まで移動し、そこから船に乗って、楽浪、帯方郡に攻め入ったことになります。両郡は北朝鮮の西半分の広さがあります。そこを八月いっぱいに平定したことになります。八月末までには七日しかありません。どう考えても日程的に無理でしょう。両郡に攻め込むのを相当急いで、要衝だけを占領してそこに太守を送り込んだと考えてもかなり難しい。

私の計算で無理であっても、この訳文はA氏にこう考えさせるだけの喫緊性を持っているのです。

 

さて二つの「又」が持つ、この喫緊性の有り、無しの違いを読み取るのに、訳文を読む我々には戸惑いは起きません。それは訳者が「叉」を「すると、さらに」と「再び」に訳し分けているからです。

 

しかし原文は①、②とも「又」とあるだけです。中国語には「すると、さらに」とか「再び」とか、日本語のように記述内容をコントロールする語法はないのでしょうか。中国の読者は同じ「又」を説明なしで読み分けているのでしょうか。

「すると、さらに」を、中国語訳してみました

この事を見るためにⒶ+Ⓑに類似する日本文を、翻訳ソフトで中国語訳してみました。

 

例文①「食事するとさらにデザートを食べた。

――吃飯而且甜点。

(吃=「喫」と通用、受け入れる。了=終わる。而且=さらに。甜点=デザート)」

意味を正確にするため、日本文を変えます。

例文②「食事すると、すぐデザートを食べた。

――吃飯立刻吃了甜点。

(立刻=直ちに,即座に,すぐに)」

 

この二つが喫緊性がある場合の中国語の表現です。喫緊性がない場合はどうでしょう。

 

例文③「食事をしてデザートを食べた。

――吃飯,吃了甜点。」

となりました。この場合だと時間の縛りがありません。食事とデザートの間に皿洗いがあっても、談笑時間があっても構いませんよね。

 

例文④「食事をした。デザートを食べた。

――吃饭了。吃了甜点。

もっと時間的自由度が高くます。

 

以上です。

中国語にも(当然ですが)日本語と同じように喫緊性をコントロールする表現はありました。

而且=さらに。

立刻=直ちに,即座に,すぐに)

です。

 

食事を終る表現もありました。これは四例文すべてについています。

了=終わる

終わって次のデザートに移るのですから、「食事を終わると、」という表現でしょう。訳文の「すると」に対応します。

 

おそらく、これらは中国語表現のいちぶで、もっと豊富な表現をしているのではないでしょうか。

「すると」の挿入は無根拠、不必要。

原文である「Ⓐ大興師旅,誅淵,又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」には、今出てきた種類の語句は一切ついていません。したがって原文ではⒶとⒷの間に喫緊性は全くないのです。

したがって訳者が挿入した「すると」という訳語は無根拠で、不必要だということになります。

疑問①。

一つ目の「又」①を見てみましょう。「すると、さらに」と訳されています。「すると」は喫緊性を表現する以外にⒶ作戦の終了も表します。ここで疑問が起きました。

疑問②でみたように前の行動が終わって次の行動に繋がることを表現する場合「了」が間に入っていなければならないはずです。

しかし原文にはそれがありません。

 

「すると」を削除して「さらに」となりました。「さらに」は終了したⒶ作戦とⒷ作戦は一連のものであり、司馬懿の率いるの同じ部隊の行動であることを表現しています。

まずⒶとⒷは一連、一体の軍事行動であるにもかかわらず、軍行の成果は別々に記載されていることです。

「景初年中大興師旅,又潛軍浮海,誅淵、收樂浪、帶方之郡」

このようになるのではないでしようか。

ビールとツマミ、どちらを先に買ったか。

 「夕方酒屋に行ってビールを買い、さらに(又)ツマミを買った」

この短文からビールとツマミ、どちらを先に買ったか確言できますか。ビールが先に書いてあるのだから、買ったのもビールが先という答えは、短慮です。「ブー」が鳴ります。

 実はツマミを先に買ったのだが、ビールが買い物の主目的だったから、さきに書いてあるのかもしれません。

「景初年中Ⓐ大興師旅,誅淵、又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」

 この文も同じではないでしょうか。公孫淵を誅することが主目的だったからⒶ作戦が先に書いてあるといえないことはないのです。

 

前後のはっきりする文例は原文の㊁です。

「㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」」

「又」の前に「其後高句麗背叛」とあります。「其」とは㊀の文全体、もしくは「東夷屈服」です。その後に高句麗が魏に叛いたのです。その高句麗を追討するために偏師を遣したのです。前後関係は明らかでⒶ、Ⓑ作戦が先で、Ⓒ作戦は後です。

 もし「其後」が「其前」となっていれば、高句麗の背叛と追討は公孫淵追討より前です。

 もし「其後」が無ければ、高句麗背叛と追討は時期不定で公孫淵追討と同時だったかもしれないのです。

 Ⓒ作戦はⒶ、Ⓑ作戦より後、という前後関係は「又」で決まるのではなく、「其後」が決めているのです。

 

㊀「景初中Ⓐ大興師旅,誅淵,①又Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡」も同じです

この文には「其後」にあたる語句は付いていません。

「東夷傳序文」内でのⒶ、Ⓑ作戦の時間的括りは、ともに「景初中」だけです。Ⓐ作戦は他の傳で時期が確定できます。であってもⒷ作戦はそれも出来ません。「其後」にあたる、Ⓑ作戦の時期を定める語句がどこにも付いていないからです。

 つまり、Ⓐ作戦とⒷ作戦の前後関係は㊁で「其後」が無かった場合と同じく不定なのです。原文にはⒶ作戦が終わって、Ⓑ作戦という関係はないのです。だからⒶ作戦とⒷ作戦の間に「了」という文字が入っていないのです。

前後関係が不定なもの結ぶ「又」に「すると」はもちろん、引き続いてという意味を含んだ「さらに」も訳語としては当てはめることは出来ません。

纏めそして、お願い。

 以上で言えることは㊀の訳文は、「景初中にⒶ作戦で公孫淵を誅殺し、Ⓑ作戦で楽浪、帯二郡を接収した。」となるということです。これで軍行の成果が別々

に記載されていることが納得できました。

 

私は-筑摩-の翻訳者は、原文をかなり読み違えていると思います。もちろん、ここで言えるのは「すると、さらに」に関連する範囲のことです。

 

――――お願い――――

 

今朝パソコンを立ち上げると、今回UPする予定だったファイルが消失してしまっていて、慌ててしまいました。大急ぎで書き直して何とか間に合いました。そういう事情で要旨には間違いないと思うのですが、、抜けたり、間違っていること、誤字、脱字もいつももより多いと思います。今後訂正することも多々あると思います。平にご容赦お願いする次第です。

 

 

 次回は、今回実不明として取り扱ったⒷ作戦の実施時期が指定してあることを述べたいと思います。それはなんと㊀の文の中です。もちろん「又」が指定しているのではありません。