「又」の例文、その⒉――記事№...18

古田武彦氏の説のウソ、・・№15」――2−1 景初3年が正しい理由―その14

 

今回は後廻しにした二つについては述べたいと思います。

 

今回のこの二つの記事は、個々の国内についてとどまっている記事ではありません。そこで判りやすいようにwikipediaから地図を拝借して掲載しました。

f:id:s-tokuji:20171006154257p:plain

後漢期の東夷の勢力範囲 (Wikipediaより)

 

二つの記事は調べ始めた時『諸橋大漢和辞典』では訳の見つからない単語がいくつもあったりして文意がつかめず「さあ 大変だ!!」と身構えてしまいました。そこで後回しにしたのですが、東沃沮の記事については「東夷傳」の前後を見ていくと、単語の問題は簡単に解決しました。すると文意も比較的判りやすいものであることが判りました。

順序は逆になりますが、⑤、⑥から始めたいと思います。原文の後に二つ訳文を入れ、次に私の困った単語の意味を載せます。最後に私の訳と、この記事についてのコメントという順で述べるつもりです。

 

目次

 

 

東沃沮

原文と二つの訳文。

⑤、⑥

「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。」

―筑摩―

国は小さく、大国の間にあって圧迫を受け、けっきょく句麗の臣として仕えることになった。句麗はもとどおりその中の大人に使者の官を与えてその地の統治にあたらせ、また大加に命じて租税の徴収、貊布(貂布)や魚や塩や食用の海産物の献上をいっさいうけおわせ、千里もの距離をかついで高句麗まで運んでこさせることとした。またその地の美女を送らせて妾婢となし、奴隷や下僕のように扱った。

―修正―

国は小さく、大国の間で迫られ、かくて高句麗に臣事した。高句麗は復た(そのまま)中大人を使者として置き、相い主領させ、又た大加に統べさせてその租税である貊布・魚・塩・海中の食物を責(もと)め、千里を担負して来致させ、又たその美女を送らせて婢妾とし、これを遇すること奴僕のようだった。

語彙の説明。

「迫于大國之間-大国の間にあって圧迫を受け」

東沃沮が大國に挟まれている、もしくは囲まれていると言っていますが、東沃沮の周囲に大國は漢(楽浪郡玄菟郡)と高句麗しかありません。東沃沮は漢と高句麗に「どちらにつくのか!」と迫られて高句麗についたことになります。漢の施政より、高句麗の施政の方が受け入れやすかったということでしょうか。

 

「大人」

「大人」は普通、社会的地位の高い人を意味します。東沃沮の社会的地位の高い人についでの記事が有りました。

東沃沮条-「無大君王、世世邑落、各有長帥。」

-筑摩—

統一的な君主はなく、代々、邑落ごとにそれぞれ指導者がいた。

-修正—

大君王はおらず、世々に邑落の各々に長帥がいた。

 東沃沮の身分関係に関する記述はこれだけです。

したがって「大人」は邑落ごとの指導者を指していると思います。

 

「使者」

高句麗条-「其國有王、其官有相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人、尊卑各有等級。」

-筑摩—

この国には王がおり、相加・對盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人と呼ばれる官があって存否にはそれぞれ等級がある。

-修正—

その国には王がおり、官として相加・対盧・沛者・古雛加・主簿・優台丞・使者・皁衣先人があり、尊卑は各々に等級がある。

「使者」とは下から二番目の官のことでした。

 

「使相主領-(邑落ごとの指導者を)それぞれの領の主として相使った」

「使大加統責其租税(等)-大加をして東沃沮からの租税等徴収の責任者とした」

この二つは私の訳です。

 

「大加」

高句麗条-「王之宗族、其大加皆稱古雛加」

-筑摩—

王の宗族や大加の官にあるものはみな古雛加と呼ばれる。

-修正—

王の宗族や大加は皆な古雛加を称す。

訳文は二つとも「大加」という独立した官として扱っていますが、「使者」と共にあった官名の一覧にはその名はありません。また訳文は「其大加」の「其」が何を指すのかを指定していません。私は「其」が差すのは「王之宗族」だと思います。「稱」は自称の場合が多いと思うのですが、確定できません。

「王の宗族、それ大加は、みな古雛加と呼ばれる。」

「王の宗族、それ大加は、みな古雛加と称していた。」

訳はどちらかでなければならないことになります。つまり王の宗族としての出自は、王に任命されなくとも古雛加の官と直結していたのでしょう。

私の訳文。

「東沃沮は國が小さく、しかも漢と高句麗に挟まれに挟まれ両方から圧迫を受けていたが、遂に高句麗の属国になる道を選んだ。高句麗は東沃沮の邑落ごとの指導者の地位を認め、高句麗の官、「使者」の地位を与えて、それぞれの邑落の行政を委ねた。しかし、東沃沮からは租税(安全保障税)を取り立てた。王の宗族である大加から選んで租税徴収と、高句麗までの移送の責任を持たせた。東沃沮からは美女を選んで高句麗に送り届けさせ妾婢としたがその扱いは奴僕のようであった。」

 高句麗が与えた「使者」という官位は下っ端のようだが、邑落の指導者に与えられたものであって、決してふさわしくないほど下に扱われたとは思えません。

 租税は属国になれば当然ですが、美女狩については良く分かりません。この文脈で行けば王命によってなされたようですが、人質としての狙いであったのかどうかでも持って来る意味が違います。大加の権限逸脱とも取れます。どうなのでしょう。

陳寿高句麗を良く思っておらず、このような記述になったとも考えられます

コメント。

一つ目の「又」は高句麗支配下という時間のくくりの中で、東沃沮に並行して実施された高句麗の施策を述べています。時間の前後を示す意味はありません。二つ目の「又」は大加の遂行した任務というくくりの中で、二つの任務が併記されています。こちらも時間の前後を示す意味はありません。どちらも前後の記述の同格を示しています。

 

高句麗

ここはちょっと込み入っています。カーブかシンカーを処理するつもりで書いています。

原文と二つの訳文

② 

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子

―筑摩―

宮が死ぬと息子の伯固が立った。順帝・桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪をはたらき、さらに西安平に攻撃をかけ、その道すがら帶方令を殺し、楽浪太守の妻子を奪い去った。

―修正―

宮が死に、子の伯固(新大王)が立った。順帝・桓帝の間(125~67)、復た遼東を犯し、新安・居郷に寇し、又た西安平(丹東市寛甸)を攻める途上で帯方令を殺し、略奪して楽浪太守の妻子を得た。

宮の在位中、後漢との軋轢は激しかったようです。

「至殤・安之間、句麗王宮數寇遼東、更屬玄菟。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光以宮為二郡害、興師伐之。宮詐降請和、二郡不進。宮密遣軍攻玄菟、焚燒候城、入遼隧、殺吏民。後宮復犯遼東、蔡風輕將吏士追討之、軍敗沒。(高句麗条)」

―筑摩―

殤帝・安帝のころになると、句麗王の宮がしばしば遼東郡を攻撃した。(永初九年に高句麗は)あらためて玄菟郡の監督下に入ることになった。

遼東太守の蔡風と玄菟太守の姚光とは宮為が両方の郡に損害を与えていることから、共同して師を起しこれを討伐した。宮がいつわって降伏して講和を申し出たので、、二郡の軍は進撃をとどめた。宮はひそかに軍を送って玄菟郡をせめさせ、候城県に火をかけ、遼隧県に侵入して、役人や民衆を殺害した。そののち、宮はふたたび遼東郡を侵犯した。蔡風は軽装備で軍吏や兵士をひきつれて追撃をかけたが戦いに敗れて死んだ。

―修正―

殤帝・安帝の間(105~125)に至ると、高句麗王の宮(太祖大王)はしばしば遼東に寇し(たが、永初三年/109年に)更めて玄菟に属した。遼東太守蔡風・玄菟太守姚光は宮が二郡の害となっているので、師を興して伐った。宮が詐降して和を請うと、二郡は進まなかった。宮は密かに軍を遣って玄菟を攻めさせ、候城を焚焼し、遼隧に入って吏民を殺した。後に宮が復た遼東を犯すと、蔡風は軽率に吏士を率いて追討し、軍は敗れて歿した。

伯固の戦いは三年。

 Wikipediaによると高句麗王宮の在位期間53年 - 146年、伯固の在位期間は165年 - 179年とあります。この間空白があります。

 『後漢書』では宮を弟の遂成が嗣ぎ、伯固は遂成の子、『三国史記』では宮・遂成・伯固が兄弟相続し、『三国遺事』では少弟の伯固が遂成から簒奪したとあるそうです。(-修正-付属解説)

遂成が王に在位中は後漢との軋轢は回避されていたのでしょう。

 

後漢桓帝の在位期間は146から168年です。伯固の在位期間初頭の165~168年で重なっています。伯固は遂成の和平策に不満で、王位を継ぐや否や対後漢積極策を打ち出したことになります。しかし伯固は建寧二年(169)最終的には後漢に敗北を喫し降伏しています。

「靈帝建寧二年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。〔熹〕平中、伯固乞屬玄菟。(高句麗条)

―筑摩―

靈帝の建寧二(169)年、玄菟太守耿臨がこれを討伐し、斬首したり捕虜にした者が數百にのぼった。伯固は降伏し、遼東郡の支配下に入った。熹平年間(172~178)に伯固が願い出て、玄菟郡支配下に入ることになった。

―修正―

霊帝建寧二年(169)、玄菟太守耿臨がこれを討ち、賊虜の数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。熹平中(172~78)、伯固が乞うて玄菟に属した。

 高句麗㊁で引用した「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平」の記事は伯固が降伏する前の三年間について述べていることになります。この三年間のくくりで新安と居郷を犯し、西安平を攻めたと言っています。二つの訳文からもこの三都市にかけた攻撃の順番は示準されていません。私の主張ではこの記事は前後関係に触れていないことになります。

 では「復犯遼東、寇新安、居郷、西安平」でも「復犯遼東、寇新安、又居郷、西安平」でもよかったのではないでしょうか。なぜ西安平だけに「又」が付けられたのでしょう。

「復犯遼東、寇新安・居郷、『又』攻西安平」をこの角度から見てみようと思います。

 

 

今回はここまでにします。「又」について今日も終わりませんでした。思ったより重くて・・申し訳ありません