例文内の「又」の役割――記事№...19

古田武彦氏の説のウソ、・・№16」――2−1 景初3年が正しい理由―その15

 

前回、中断した復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」には、このままでは理解しづらいことがもう一つあります

 伯固が復犯遼東」と言っています。しかし「又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」とも言っています。「道上(途中で)」として帶方と樂浪の名が出ています。帶方と樂浪は明らかに遼東郡の領域ではありません

「又」にはこのように矛盾した記述を許す働きがあるのでしょうか。新安・居郷・西安平の内、何故、西安平だけに「又」が付けられたかという疑問と重なっています。高句麗「又」③の例文を解析するためにはまず「又」が文節の中でどのような働きをしているか、この点を確認しなければならないようです。

 

  私はここまで「又」について、時間的前後関係を示す意味があるのかどうかということに絞り込んで検証してきました。個々の例文の中で「又」がどのような働きをしているかについては触れていません。遠回りになりますが、もう一度最初からこの点について見直していきたいと思います。

 

「又」の役割

 

 

高句麗

 

 

①「其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭鬼神、祀靈星・社稷

―筑摩―その風俗として、食物を倹約して、宮殿や住居を盛んに建てる。居住地の左と右に大きな建物を建て、そこで鬼神におえなえものをし、また星祭りや社稷(土地神と穀神)の祭礼を行う。

―修正―その習俗は食物を節約し、宮室の修治に好く、住居の左右に大屋を立てて鬼神を祭り、又た霊星・社稷を祀る。

 

「左右立大屋」で執り行われる祭祀が三つ挙げられています。「祭鬼神」と「祀靈星」「祀社稷」です。

「又」は「祭鬼神」と「祀靈星・社稷」をつないでいます。ヒトに災厄を齎す鬼神を「祭」り、人を守る「靈星」と「社稷」は祀るのです。陳寿は「鬼神」を祭る行為と「祀靈・社稷」を祀る行為が別物だという認識を、違う文字を充てることで表わしています。

しかしどちらも「左右立大屋」で執り行われる祭祀ということで「又」として結び付けてあるのです。

 なんだかややこしいですね。しかし私たちの身近にもこのような表現する事象はあります。たとえば年賀状です。

「今年は賀状を五十枚書く。年頭に賀状を四十五枚もらい(又)昨年中にもらった喪中の通知が五通あった。」

賀状と喪中の通知は全く性格が違いますが、今年書く賀状の名宛人として一体になっています。

 この「又」は前に書かれた事柄と、後の事柄とに性格の違いがあることを示すと同時に、年賀状を書く対象という別の規準で一つのものとして結び付けているのです。

 

 ②「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。」ここまでは高句麗國の国情について述べています。「又」とあって、「有小水貊」、とここからは西安平縣北、小水のほとりに有る、高句麗と同種の「小水貊」という國について述べています。

「小水貊」について述べ終わると、

「王莽初發高句麗兵以伐胡、不欲行、彊迫遣之、皆亡出塞為寇盜。――王莽は初め高句麗兵を発徴して胡を伐とうとしたが、(高句麗は)行こうとせず、彊迫してこれを遣ったところ皆な逃亡出塞して寇盜を為した。」

前漢を簒奪した王莽(新)と高句麗の関係に話しが移り、続いて後漢高句麗との関係の記述に話は進んで行きます。

 

時間的前後関係については述べられていません。「東夷傳」の中で「小水貊」と「高句麗は」は同格です。

この「又」はここまで記述して来た高句麗の事柄と、これから記述する「小水貊」の事柄の区切りを示しています。同格の「小水貊」について「高句麗条」の中で語るので「又」は「ちょっと別の国の話になりますが」という感覚で使われています。この「又」は「小水貊」を「東夷傳」に登場する七か國全部と、同格に結び付けています。

このあと韓条でも、済州島(おそらく)について同様の表現を見ます。

東沃沮

④「自伯固時、數寇遼東、又受亡胡五百餘家。」

 伯固が高麗王だった時代の出来事として、二つの事柄を挙げています。陳寿はこの二つの出来事は性格が違うと見做して「又」で結んでいます。一方は侵略、もう一方は亡国の民の受容です。現代に生きる我々にとって陳寿の時代に生きた人より性格の違いは明確でしょう。二つの事柄の性格が同じであれば「自伯固時、數寇遼東、楽浪」この様に「又」を使わず記述したでしょう。

 

⑤、⑥

「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。」

 

 最初の「又」は東沃沮の自治に委ねた部分と、高句麗が直接実施した賦課徴収部分とを区別し、その上で服属後の東沃沮に施行した施策としてまとめています。

二つ目の「又」は、物的賦課と人的賦課に区別し、その上で服属後の東沃沮の全賦課の表現として纏めています。

 

⑦「新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者為數。又有瓦金䥶、置米其中、編縣之於槨戸邊。」

槨とは「墓制上の用語。中国古代の用法では,直接死体を収納するものを棺といい,その棺を置くところを槨といい,槨は壙の中に造られるという。厳密にいえば日本の古代の墓制にはあてはまらない。大正初期に棺槨論争があったが,現在は棺は用いるが,槨という用語はあまり使われていない。粘土槨,木炭槨という言葉は本来の厳密な意味からは離れており,木棺を粘土あるいは木炭などで包むような構造のものをいう。(ブリタニカ国際大百科事典)」

 

「又」までは遺体を槨に収める手順について述べています。「又」と区切った後は槨の外のことです。

供えられた金䥶の中には米を入れあるそうです。あの世で使者たちが飢えないための心遣いだと思います。金䥶は槨戸のあたりに置く、と言っていますから玄室や玄道付きの槨について述べているのでしょうか。

米は朽ちます。折々に入れ替えられたのでしょう。現代のわれわれも、墓前の花を墓参の度に差し替えます。

「又」以前と「又」以後はかかれていることの性格がちがいます。「又」は其の区切りを示す役を果たしています。しかしそれと同時に記述事項を「新死者」への葬礼一式としてまとめる役割をも果たしています。

 

⑧、⑨、⑩の「又」は老人の語った四つの話を、別々の話として分かりやすく区切ったものです。

 

 

⑪、⑫

「常用十月節祭天、晝夜飲酒歌舞、名之為舞天、❶又祭虎以為神。其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬、名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、❷又出果下馬、漢桓時獻之。」 

 

❶ 前々回解釈を間違えていました。「常用十月節祭天」と「祭虎」とはそれぞれ独立した濊の「其俗」でした。「又」は「其俗」の内「祭」についての記述の「祭天」と「祭虎」についての区切りとして使われています

❷樂浪檀弓、班魚皮、は無生物です。文豹も皮が珍重されます。ところが果下馬は生きて活躍することに価値があります。この四種の名産が漢の桓帝に献上された時も扱いは異なっていたでしょう。前三種は捧げ持たれて、皇帝の御覧に供せられ、果下馬は手綱で制御されながらの御覧だったでしょう。「又」は濊の名産物の種類を区切るのに使われています。

 

 

⑬ 「其國中有所為及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以為痛、既以勸作、且以為健。

 

「諸年少勇健者」が「勸作」する姿を描写しています。同一の姿の異なった二つの特徴を挙げて説明しています。「又」は記述が混乱しないために文の区切りとして用いられています。

 

⑭ 「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。」

 

日本で謂えば「又」の前は国ごとに「一宮」がある、それ以外に各郷村には「村社」がある、というところですか。「又」はその区別を際立ったものにする役割ですね。

 

⑮、⑯ 

「禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。❶又出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。❷又有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬。

 

❶の「又」は⑫の❷とおなじです。韓の名産物を無生物と生物に区別しています。❷は③の「小水貊」と同じです。韓についての記述から切り離し、区別するために「又」を使っています。

 

弁韓

⑰、 「弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。」

 

「又」と「亦」と「復」

 

 日本語で「亦」も「また」と発声します。しかしおそらく中国語では全く違うでしょう。意味も使う場面も違っていると思います。

この「亦」は直前の段落「辰韓」についての記述にある「始有六國、稍分為十二國。」をうけて「弁韓」も十二國に分かれていると言っています。

 

論語』に次のような有名な文節があります。

「子曰、学而時習之、不亦説乎、有朋自遠方来、不亦楽乎、人不知而不慍、不亦君子乎。」

[書き下し文]

「子曰く(しいわく)、学びて時に之を習う、また説ばし(よろこばし)からずや。朋遠方より来たる有り、また楽しからずや。人知らずして慍みず(うらみず)、また君子ならずや。」

[口語訳]

「先生(孔子)がこうおっしゃった。『物事を学んで、後になって復習する、なんと楽しいことではないか。友達が遠くから自分に会いにやってきてくれる、なんと嬉しいことではないか。他人が自分を知らないからといって恨みに思うことなどまるでない、それが(奥ゆかしい謙譲の徳を備えた)君子というものだよ。』」

 

論語で「子曰」とあるのですから段落の始めの文節です。「不亦説乎」以前に「亦」が受けるべき事象、または事物が書かれていません。

「一般に楽しいことが色々あるが、『学而時習之』のも悦ばしいことではないか」という意味を含んでいるのだと思います。この「亦」は書かれていない事象、または事物を受けているのだと思います。

「舜人也、我亦人也――舜も人なり、我も亦た人なり。《孟子:離婁下》」

この場合「亦」は「舜人也」を受けているように読めます。しかし文意は

「王侯將相寧有種乎。――王族や平民などという種別はない」

こちらに近いのです。舜は偉人とされる人の象徴であって、具体的な舜という人を指しているのではありません。「亦」はここに書かれていない歴史上の異人全体を受けているのです。

日本で「また」とよみ、同義語とされる言葉に「復」があります。これは「復」とある前に書かれた事象、または事物がそっくり復活された場合に使われるのだろうと思います。

 

「さらに」は程度の深化

 

いろいろ試行錯誤したのですが、恥ずかしながら、私にとってこの「又」の役割を直接解析することは、ややこし過ぎました。そこで-筑摩-の理解を借用することにしました。

 

-筑摩-は「又」を「さらに」と訳しています。

品詞として「さらに」は副詞か接続詞です。

「副詞」としては程度を表しています。「さらに遠くへ行く」などがその代表的文例でしょう。

接続詞としては「別の物事を付け加える。」という役割を果たすそうです。「さらに」は別の物事を付け加える役割を果たすそうで。「日本語に接続詞がある。さらに英語にも接続詞がある」が文例でしょう。

(Wikipediaを参考にしました)

 この「又」は今まで見て来た例と同じように、同じ文節内で「又」以前にある事象、または事物を「又」以後の事象、または事物に繋いでいます。

弁韓辰韓と同じく十二國から成り立っている。その十二國はそれぞれ小さい邑に別れている。」と言っています。

原文は弁韓が十二國へ、十二國が「さらに」ちいさな邑へ細分されていると述べているのですから、-筑摩-が「さらに」と訳している意図は、「さらに」を副詞として使用し、細分されていく程度を表現していると考えるのが妥当だと思われます。

⑱、 「國出鐵、韓・濊・倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。」

弁韓で産出する鉄について述べています。鉄についての話ではあっても、韓・濊・倭がその鉄を採取し、中国の銭のように通貨として使っていることと、採取された鉄が楽浪、帯方郡に供給されていることは別テーマの話です。「又」は同じ鉄についての、別々の事柄についての記述を区切るため使われてます。

 

全体を見通して書いているのではなく、一回一回手探りしながらの書き込みなので、遠回りをして、話を複雑にしてしまっています。申し訳ありません。次回は何としても「又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子「又」を片付けるつもりです。よろしくお願いします。