例文内の「又」の役割2 倭人条――記事№...20
「古田武彦氏の説のウソ、・・№17」――2−1 景初3年が正しい理由―その16
「倭人条」の「又」を検証しました。「又」が五個、三所所に出てきます。なかなか難しく一回休ませていただきましたが、やっと結論らしい形が付きました。ちょっと長くなりますが一気に片づけます。
目次
「又度壹海」
原文と訳文
⑲、⑳
「從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓國、七千餘里、始度一海、千餘里至對馬國。其大官曰卑狗、副曰卑奴母離。所居絶島、方可四百餘里、土地山險、多深林、道路如禽鹿徑。有千餘戸、無良田、食海物自活、乖船南北市糴。❶又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大一支國、官亦曰卑狗、副曰卑奴母離。方可三百里、多竹木叢林、有三千許家、差有田地、耕田猶不足食、亦南北市糴。❷又渡一海、千餘里至末盧國、」
―筑摩-
帯方郡から倭にいくには、海岸にそって船で進み、韓國を経、南に進んだり東に進んだりして、倭の北の対岸である狗邪韓國にいたる。そこまでが七千餘里、そこではじめて(海岸を離れて)壹つの海を渡る。その距離は壹千餘里、対馬國につく。そこの長官は卑狗とよばれ、副官は卑奴母離と呼ばれる。四面を海にかこまれた島に住み、その広さは四百里ばかりである。土地は山が険しく、深い森林が多く、道はけものや鹿の通り道のようである。千余戸の家があり、、農地はやせていて、海産物を食べて生活し、船に乗って南や北に海を渡って穀物を買い入れてくる。。さらに南に向かって瀚海と呼ばれ壹つの海を海千餘里船行すると、壹大(壹支)國につく。そこでも長官は卑狗、副官は卑奴母離と呼ばれている。ひろさは四方三百里ばかり、竹や木のやぶが多い。三千ばかりの家がある。田畑もなくはないが、農耕によっては食糧の自給ができず、そこの人々も南や北に海を渡って穀物を買い入れている。さらに壹つの海を渡り、壹千余里で末盧國に至る
―修正-
郡より倭に至るには、海岸を循って水行し、韓国を歴(へ)て、南しつ東しつ、その北岸の狗邪韓国に到り、七千余里にして始めて壹海を渡る。
「到其北岸狗邪韓國」を、韓国が「東西以海為限」としながら「南與倭接」している事と併せ考えると、狗邪韓国が位置する“その北岸”は倭の北界となり、当時の倭が半島にも進出していた壹つの傍証になります。弁辰狗邪国=狗邪韓国とし、その後身を金官国、現在の金海市に比定する見解がありますが、そもそも『三國志』では狗邪韓国は倭の国邑だと認識しているので、弁辰狗邪国とは別物だと思われます。
千余里にして對馬国(対馬)に至る。その大官は卑狗、副は卑奴母離。居るのは絶島で、四方は四百余里ほど。土地は山が険しく、深林が多く、道路は禽鹿の径(こみち)の様である。千余戸があり、良田は無く、海産物を食べて自活し、船に乗って南北に市糴(交易)する。
又た壹海を南渡すること千余里、名は瀚海といい、壹支国(壹岐)に至る。官は亦た卑狗、副は卑奴母離。四方は三百里ほどで竹木・叢林が多く、三千ばかりの家があり、やや田地があり、耕田しても猶お食には足りず、亦た南北に市糴する。 又た壹海を渡り、千余里にして末盧国(松浦)に至る。
コメント
私は「又」単独では時間的前後の意味は持たないと主張しています。しここの文脈では「又」が時間的前後関係を示していると考えざるを得ませんでした。私の主張は覆ってしまいます。混乱しましたが原文をじっくり見直しました。そしてやっと一番最初に「始度一海」とあることに気が付きました。
記事№16で書いた例と同じケースなのです
景初中,〔㊀「Ⓐ『大興師旅,誅淵』,①又Ⓑ『潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡』, 而後海表謐然,東夷屈服。」㊁「其後高句麗背叛,②又Ⓒ『遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。』」〕」
Ⓒの作戦がⒶ、Ⓑの作戦の後であることを表しているのは「又」ではなく「其後高句麗背叛」の「其後」でした。「其後」の「其」がⒶ、Ⓑ作戦を指しています。
壹番最初の「度一海」に「始」が付くことで、二つ目の「度一海」は「❶又南渡壹海――南へ向かって、再び海を渡る-」、三つめの「度一海」は「❷又渡一海―三度目に海を渡る-」と訳すのが正しいことになます。
この段落に時間的前後関係を持たせたのは、二つ「又」ではなく「始」なのです。この理解に至るまでかなり苦戦しました。
ここの「又」も、単独で時観的前後関係を示す表現にはなりません。
「又有」
原文と訳文
21、22 (ゴメンナサイ、○付の数字が出なくなりました)
「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。Ⓑ又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。Ⓒ又有裸國・黑齒國Ⓒ復在其東南、船行一年可至。參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
-筑摩-
女王國からⒶ東に一千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。Ⓑさらに侏儒國がその南にあり、そこの者は身の丈が三、四尺、女王国から四千余里の距離にある。Ⓒ裸國・黑齒國がさらにその東南にあり、船で一年の航海をしてそこに行きつくことができる。いろいろな結果を総合してみると、倭の地は、Ⓓ大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。
-修正-
女王国のⒶ東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。 Ⓑ又た侏儒国がその南にあり、人の身長は三・四尺、女王国を去ること四千余里である。Ⓒ又た裸国・黒歯国が復たその東南に在り、船行すること一年ほどで至る。倭地の問(情報)を参照するに、Ⓓ絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。
コメント
この段落も、訳文の解釈と私の解釈の食い違いにかなり悩みました。まずはここからです。
「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。」
-筑摩-
女王國からⒶ東に壹千余里の海を渡ると、別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。
-修正-
女王国のⒶ東に渡海すること千余里に復た国があり、皆な倭種である。
と訳しています。
両者は女王國から東千余里のⒶに渡り、次にⒷがあり、Ⓑから遠く離れてⒸがある、と読んでいるようです。順読法とでも呼びましょうか。
両訳文を意訳だと主張されればそれはそれで有りか・・・とも思いました。
しかしこの文節をよく見ると、先頭「女王國」の前に「自(より・から)」がありません。女王國を起点に、何か行動を起こした場合、「自女王國」でなければなりません。逐語的に読み直すと「女王國から」という訳は間違っています。
私は「女王國の東は千餘里を渡る海である」もしく「女王國の東に千餘里を渡る海がある」となるのが訳として正しいと思います。そこに「復有國、皆倭種―別の国々があって、それらもみな倭と同じ人種である。」のです。
私なら「女王國の東に千餘里の海がある。そこに復た國がある。その國々は皆倭種である。」と訳します。
私の訳では、「この文節の主人公は東にある千餘里の海だ!!」ということになります。
「皆倭種の國々」と侏儒国
「又有侏儒國在其南」
ここからはさらに困惑しました。
―筑摩-の訳文は「さらに侏儒國がその南にあり」そして「女王国から四千余里の距離にある」としています。―修正-は「侏儒国がその南にあり」で「女王国を去ること四千余里である」としています。
私は「儒國在其南」はいく通りかの解釈が出来ると思います。
順読法で読んでいくと、読者はすでに「千餘里の海」を渡っているのですから「其」は、「皆倭種の國々」を指すことになります
女王國から倭種の國々まで「千余里」です。残る倭種の國々から侏儒国まで約三千里です。下の地図ではマッチ針の壹区切りが千里-80㎞となっています。倭種の國々から縦、四本目のマッチ針より少し南の位置では南日向灘にあったことになります。
-筑摩-修正-の両訳者は侏儒国を南日向灘に放り込んだまま次の訳に移ります。
古田氏も侏儒国を宿毛市近辺に比定しています。訳者と同様順読法で解釈したと思われます。しかし古田氏には侏儒国を南日向灘から救い出す配慮があります。
三者の訳は成り立ちません。
邪馬台(壹)国関連 地図1
(ソフト「カシミール」付属の地図により作成しました。)
黄色い線は長里での示した千里です。倭種の國々は邪馬台(壹)國から東へ、四国を横切り、紀伊海峡を越え、熊野あたりということになります。侏儒国の所在は南方、四千餘里です。この地図には収らないくらい遠方です 私には、少なくとも「倭人条」長里で理解できる人の頭の中が想像できません。
「倭人条」の「周旋可五千餘里」を上の地図で壹辺千二百五十里(短里)の赤い正方形で示したつもりです。博多湾が中心です。「倭人条」の記事には「方千二百五十里」ではなくでは「周旋可五千餘里」ですから陸上面積はもっと広くなるでしょう。
この「四千餘里」を「裸國・黑齒國」までの距離として「去女王四千餘里。Ⓒ又有裸國・黑齒國Ⓓ復在其東南、船行壹年可至」、こういう区切り方もあり得ますが、いくら陳寿が大陸国家の人と言え、四千餘里(320㎞)行くのに「船行一年」もかかるとは考えないでしょう。
次に陳寿が順読法に従って書いていないと解釈してみました。
「去女王四千餘里」。陳寿が方向の起点を「倭種の國々」に置いたまま、侏儒国への距離を測る起点を変えたと想定します。ダイレクトに女王國から侏儒国までの距離を示したことになります。
「皆倭種の國々」の南の方向に「去女王四千餘里」を測ってみますと侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になります。
もう一つの解釈は方向も距離も「女王國」が基点です。
この場合、侏儒国は種子島の東方、およそ五百里くらいの海上という位置になりました。
これでも成り立たないようです。どう考えればよいのか
そこでネットで侏儒国についていろいろ調べますと「れんだいこ」というホームぺージにヒントを見つけました。
れんだいこ
真実の歴史学「なかった」6号を読んでいて、二人の方が侏儒国について書かれていることに気付きました。
壹人は在四国の古田史学の会の事務局をされている合田洋壹さんの「侏儒国の痕跡を沖ノ島(宿毛)に見た」という論考です。これは、古田武彦さんが「邪馬台国」はなかった、のなかで、侏儒国は豊後水道東側にあった、とされていることについての現地情報報告的なものです。
寅七(「れんだい」運営者の自称)が注目したのは、清水淹さんの「隋書、新・旧唐書の東夷伝も短里」という論考です。そのなかで清水さんは、三国志で邪馬壹国の南4000里にあるとされる侏儒国を、種子島が距離的に合う、とされています。
清水さんは距離だけの合致以外の理由を述べておられません。南種子島の弥生時代の広田遺跡は短身長集団の遺跡として有名ですが、古田先生の侏儒国=四国説に清水さんが遠慮されているのでなければ幸いですが。(寅七は随分前古田先生に、侏儒国=種子島説は成り立たないか、とお尋ねし、成り立ちません、と壹蹴されたことがありましたが。)
さっそく「広田遺跡」を検索してみました。
南種子島町ホームページ
広田遺跡は、種子島の南部、太平洋に面した全長約100mの海岸砂丘上につくられた集団墓地です。 弥生時代後期から古墳時代併行期の種子島では、日本本土と異なり、古墳や墳丘墓などはつくらず、海岸の砂丘に墓地をつくったのです。 この遺跡の調査は、昭和32年から34年にかけて国分直壹・盛園尚孝氏らによって行われ、合葬を含む90ヵ所の埋葬遺構から157体の人骨が出土しました。埋葬された人骨を調べた結果、広田人は、身長が成人男性で平均約154㎝、女性で平均約143㎝しかなく、同じ頃の北部九州の弥生人(成人男性で平均約163㎝、女性で平均約152㎝)と比べても、極めて身長が低い人々であることがわかりました。また、上顎の側切歯を1本だけ抜歯したり、後頭部を扁平(いわゆる絶壁頭)にしたりする特異な習俗をもつことがわかりました。 これらの人骨は、奄美・沖縄諸島でとれる貝を素材とした貝輪や玉、幾何学文が彫刻された貝符や、竜佩形貝垂飾など総数44,242点にも及ぶ豊富で多彩な貝製の装身具を身につけていました。このような習俗・貝の装飾文化は、日本列島でこれまで他に例がありません。
この遺跡を残した人々の活動していた時代は「弥生時代後期から古墳時代」ということで卑弥呼の時代を包含しています。種子島は上の地図で分かるように「倭人条」の示す距離とも壹致しています。「侏儒國」は種子島にあったと考えるべきでしょう。
すると、「種子島からおよそ五百里」という東西のずれが問題になります。さんざん悩みましたが、何とか一つの解法を思いつきました。
「計其道里、當在會稽・東冶之東。」
この一節は「倭人条」の「女王國東渡海千餘里」より少し前にある有名な一節です。會稽や東冶(治)がどこかについても論争の渦中ですが、會稽と東冶(治)を結ぶ線の東にあたると言っています。あたるのが倭地か、女王國か、邪馬台(壹)国かはさて置き、その位置を大雑把に示しています。ある地点と別の地点を示して、その間隔を移動させて別の地のおおよその位置を示しているのです。
この表現方法が侏儒國の位置にも使われているのだと思います。
「女王國東渡海千餘里、Ⓐ復有國、皆倭種。Ⓑ又有侏儒國在其南」
「女王國」と「皆倭種の国々」それを結ぶ「千餘里」の海上の線、その南に「侏儒國」が有る、この様になります。
「其南」の「其」は「女王國」や「皆倭種」の國々を指しているのではなく、女王國から「皆倭種」の國々の間、「東渡海千餘里」のことをさしているのではないか、ということです。種子島はドンぴしゃり、その線の南方にあたります。
會稽も東冶も中国の地名で、「倭人条」を読んでいる教養人に、それがどこかの説明は不要です。しかし倭の地理についてはそうはいきません。最小限の説明を加えています。それが日本人の我々にとっては理解の邪魔になったようです。
「侏儒國」は種子島の地に有った、これが私の出した結論です。
黒歯國・裸國
「Ⓒ又有裸國・黑齒國Ⓓ復在其東南、船行壹年可至。」
順読法に従った訳では、「黒歯國・裸國は侏儒國の次に有り、侏儒國から南東へ一年ほど航行して行きつく」と書かれていることになります。だがが私はこの理解は間違っていると思います。
Ⓓは「又」ではなく「復」です。単純に「侏儒國の南東」を指す場合には「又有侏儒國在其南」のように方位に「又」も「復」も不必要です。「復」にはそれなりの意味があるのです。
「復」の意味は次の通りです。
デジタル大辞泉の解説
ふく【復】[漢字項目]
[音]フク(漢) [訓]かえる かえす また
[学習漢字]5年
1 同じ道を引き返す。かえる。「復路/往復」
2 もとの状態にもどる。もどす。「復活・復帰・復旧・復元/回復・克復・修復・整復・本復・来復」
3 同じことを繰り返す。「復習・復唱/反復」
4 返事をする。「復啓・復命/拝復」
5 仕返しする。「復仇(ふっきゅう)・復讐(ふくしゅう)/報復」
[名のり]あきら・あつし・さかえ・しげる・なお・もち
[難読]復習(さら)う
「Ⓓ復在其東南」に2、の意味を訳語として採用します。もとに戻すものはなんでしょうか、「其」です。「其」は侏儒國を指しています。「侏儒國」をもとに戻すとはどういう意味でしょう。東南という方角の基点を「侏儒國」から「女王國」に戻すということだとおもいます。すると「船一年可至」の起点も「女王國」に戻ることになります。
私の解釈で「東南、船行一年可至。」の基点も、起点も「女王國」に戻っています。
なぜ基、起点を女王國に戻したのでしょうか。指し示す「裸國・黑齒國」の位置が大凡しか掴めていなかったからだと思います。
別の例で考えてみましょう。
東京の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、サンフランシスコを指すことになります。
日本の東、船行九日と言えば、太平洋を越えて、アメリカ合衆国西海岸のほぼ全域を指すことになります。
「侏儒國」の東南、「船行一年」で示す「裸國・黑齒國」の位置は、「東京の東、船行九日」と同様かなり狭い範囲になります。そこまで的確に位置を示す情報はなかったのです。
次に述べますが「倭地」は全域が把握されておらず、基、起点してと使えません。「女王國」を基、起点とすれば、「侏儒國」を基、起点とするよりかなり広い領域に「裸國・黑齒國」を想定することが出来ます。
「侏儒國」の位置も、「女王國の東にある千餘里の海」という大領域で指定している点では同じ手法だと思われます。
陳寿は「女王國」から「裸國・黑齒國」までの行程を説明しているのではありません。「女王國」の東、東南、南には、「まだまだ前書(史記、漢書等)に記録されていなかった國々がありますよ」として、その代表的な國々と位置を列記しているのです。
この文節の二つの「又」も、” 話は変わって “ のように使われており時間的的前後関係はありません
「周旋可五千餘里」
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
-筑摩-
倭の地は、大海中の孤立した島嶼の上にあって国々が連なったり離れたりしながら分布し、ぐるっとめぐると五千余里ほどである。
-修正-
倭地の問(情報)を参照するに、Ⓓ絶域の海中の洲島の上に在り、或るものは隔絶し或るものは連なり、周旋すること五千余里ほどである。
両者はこのように訳しています。
-筑摩-の訳は「周旋可五千餘里」を倭地の全周-ぐるっと巡ると五千餘里と理解しています。
地図1、で私が赤い正方形で示したような考え方です。
-修正-は「周旋」をそのまま使っています。こちらは「周旋」の意味を調べなければ、この文節の意味も分かりません。
ではまず「漢和辞典」で意味を調べてみましょう。
「周旋」の検証
周旋- 大辞林 -
① 売買や雇用などの交渉で、仲に立って世話をすること。なかだち。斡旋あつせん。 「周旋業」 「適当な人物を周旋しますよ/破戒 藤村」
② 国際紛争の平和的処理方法の一。紛争当事国以外の第三者が当事国間の交渉を進めるために、通信の便宜を図ったり、場所を提供したりするなどの援助を行うこと。
③ 事をなすため立ちまわること。世話をすること。 「甲斐〱しく酒杯の間に周旋し/鬼啾々 夢柳」
④ あちこちめぐり歩くこと。周遊。 「ひろく所々を周旋して/洒落本・雑文穿袋」
⑤ ぐるぐるまわること。めぐりめぐること。 「みな本証の仏花を-する故に/正法眼蔵」
次に中国語、「周旋」を日本語に訳す時の訳語も調べてみました。今手許に『諸橋大漢和辞典』がなく、ネットの翻訳サービスを使いました。エキサイト翻訳、so-net翻訳、Weblio翻訳、infoseekマルチ翻訳これだけに当たってみました。
「周旋」=「対応(する)」
調べた限りのサイトは共通してこのように訳していました。
検証してみましょう。「周旋屋」なにかに「対応」するために奔走する職業、「国際紛争」を平和的に解決するための対応、酒客の要望に対応する、前三つは意味と訳語が対応しています。「周旋」のもともとの意味は、「対応(する)」にあったのでしょう。
-筑摩-の訳とは意味も訳語も違います。
④観光で「あちこちめぐり歩く」場合、見たい場所に「対応して」訪ね歩くことを「周遊」と言います。
⑤私は「ぐるぐるまわること」や「めぐりめぐること」と表現した場合、その動きはランダムで規則性は存在しないと思います
-筑摩—の「(倭地を) ぐるっとめぐる」という訳は大辞林で言えばあとの二つの意味と近いようにも思えますが、私は全く違うと思います。漢和辞典と-筑摩—の訳は一致していません。
-修正-は「周旋」をそのまま使っていますので、私のの検証結果に従って理解すればよいことになります。
もう一つの検証
―筑摩―の言う「(倭地を) ぐるっとめぐる」という理解が成り立たない理由を別の面から見てみましょう。
Ⓐ、Ⓑ、Ⓒの記述から作表してみました。判りづらいと思いますが勘弁してください。
北方の國々
(山陰、北陸方面)
魏 (東海千餘里) 東方倭種の國々(瀬戸内海方面)
使 女王國
の 狗奴國 投馬國(水行二十日)
渡
っ 侏儒國 (南へ四千余里) -海-
た ((南東船行壹年)黒歯國・裸國
海
赤を女王國だと設定します。邪馬台(壹)國は女王國の北端近く、博多湾岸になります。この段落の範囲でこの設定を説明します。
前提として「里」について規定しておきます。短里の一里は約80m、長里で500mとしておきましょう。一千里は80㎞、一千余里を100~120㎞、四千里は320㎞。四千余里を350~400㎞と仮定します。私の話は基本的に短里の説にもとづいて進めます。
この文節から女王国の位置を、近畿説で比定することは不可能です。女王国の東には少なくとも一千余里にわたる海が存在していなければなりません。山系に囲まれた盆地、ヤマト(奈良県)から「東渡海千餘里-東に千余里を渡る海がある」と表現すること自体があり得ることではありません。
古田武彦氏が比定する博多湾岸であれば女王國を船出して「東渡海-東に海を渡る」、関門海峡を抜け周防灘から防予諸島の間を縫って愛媛県の松山あたりにぶつかります。
私が知る限りでは東に千余里の海がある女王國比定地は、博多湾岸しか思い当たりません。
表の説明に
戻りたいと思います。紫は倭種の國々です。千余里というのですから「皆倭種」の国々は山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町の大島という範囲になります。
「皆倭種」とありますが「属女王国」とは書いていませんから、この国々は女王國勢力圏外の倭人圏なのでしょう。
博多湾の東方、山口県の徳山、下松、光市、県東南端部、上関町室津半島、周防大島町あたりから、女王國に属さない国々があったことになります。ここは瀬戸内海へ向かっての喉首にあたります。四国、中国へと広がる瀬戸内海沿岸は女王國に属していなかったことになります。
「皆倭種」の國々を女王國に対比するのに「又」を使わず「復」と言っています。女王國と同じく小國家の連合王国なのでしょう。
この女王國に復さない倭種の國々の範囲は示されていません。女王國の人々にも判らないのでしょう。
同じ倭地でも「自女王國以北」は状態が違います。女王國より北の國々は次のように書かれています。
「自女王國以北、其戸數道里可得略載、其餘旁國遠絶、不可得詳―女王國より北の倭人諸國はその戸数や距離について書くことを省略させてもらう。倭種以外で北にある諸國は遠く離れていて情報がない。」
これら女王國より北にある諸國とは、瀬戸内海側を含まず、中国地方、北陸地方の日本海側にあった國々ということになります。
「自女王國以北、特置一大率、檢察諸國、諸國畏憚之――伊都國に大きな軍事基地(もしくは政庁)があって諸國を檢察しているので女王國より北の國々は(壹大率を)非常に恐れている」とあります。「自女王國以北」の倭種の國々は女王國に服属していたことになります。
ちょっと矛盾している気もしますが、とりあえず倭地の北端については不明、ということになります。
女王國の都、邪馬台(壹) 国について述べた後、南に下って女王國を構成する倭諸國の紹介として、二十一か國を列記します。その後次のように述べます。
「・・・次有奴國、此女王境界所盡。其南有狗奴國、男子為王、其官有狗古智卑狗、不屬女王。」
この「奴國」が伊都國の東南百里、不彌國の西百里にあった「奴國」と同名異國なのか、同じ國なのかは問題になるところですが、ここでは放置します。
奴國までが女王の勢力圏で、その南にある狗奴國は女王に属さず対峙しています。
狗奴國の南端について、何も書かれてはいません。ということは倭地についても南端が不明ということになります。
このように倭地は東端、北端、南端、三方が不明の状態で紹介されています。したがって「(倭地を) ぐるっとめぐると五千余里」という理解が成り立たたないのです。
「裸國・黒歯国」の起、基点に設定できないと先に言ったのは、この事に理由があります。
「參問倭地」
「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里。」
ではこの文節をどう理解すればよいのでしょうか。
邪馬台(壹)国関連 地図2
頭から解きほぐしていきましょう。まず「參問倭地」です。
「参」の意味を大辞林は次のように説明しています。
Ⓐ【参する】
仲間に加わる。かかわる。 「君は…機密に-・しておると想像して/社会百面相 魯庵」
Ⓑ【参する】
〔動詞「まゐらす(参)」の転。中世後期に連用形「まゐし」が用いられるようになり、
① 人に物を与えるの意の謙譲語。差し上げる。 「君に-・せう京絵書いたる扇を/田植草紙」 「その代にめめを五十石-・する程に/狂言・比丘貞」
② (補助動詞) 動詞・助動詞の連用形に付いて、動作の及ぶ対象への敬意を表す。…し申し上げる。 「魏其こそよからうずらうなんどと、大后に云わせ-・したぞ/史記抄 14」
『史記抄』とは室町中期の、「史記」の注釈書。当時の口語で注釈したもの、だそうです
ここではⒷ、は日本語の【参する】についての解説です。訳語して使えません。Ⓐの意味に取ると “ 倭地が問いに加わる(かかわる) “となります。では何の問いなのでしょうか。
この段落はすでに三つのことに答えています。
女王國~「皆倭種」の國 去女王四千餘里
女王國~侏儒國 去女王四千餘里
女王國~裸國・黑齒國 船行壹年
三つとも女王國からの距離です。
であればこの問いも女王國からの距離についての問い、です。どこかの地点から女王國までの距離が、もう一つの問いとして加わることになります。
原文を次のように区切り直すことが出来まると思います。
「參問、倭地 ( 絶在海中洲島之上、或絶或連 )」
“ 倭地における「絶在海中洲島之上、或絶或連」、この間の距離はどの位なのでしょう。” 私はこのように言っていると思います。「この間」の一方の端は当然「女王國」です。
「倭地・・・・周旋可五千餘里-倭地の・・・・・は五千餘里ほどあります」答えは五千餘里でした。
もうわかっている人もいると思いますが、この五千餘里という数字は別のところに出てきています。
「自(帯方)郡至女王國萬二千餘里。」とあります。「到其(倭地)北岸狗邪韓國、(帯方郡より)七千餘里」ともあります。すると狗邪韓國から女王國までの残る距離は五千餘里なのです。
「狗邪韓國」については「倭人条」で「其北岸」と紹介しています。「其」が指している可能性があるのは韓諸国と倭です。韓の一部であるなら、この國は南岸です。南方、北九州に狗邪韓國の本体、倭があるから「其北岸」と言えるのです。「狗邪韓國」は明らかに倭地です。
「韓条」にも「韓在帶方之南、東西以海為限、南與倭接、-韓は帶方郡の南にあり、東と西は海で限られ、南は倭と接している」とあります。倭との間に海があるという認識はありません。倭は半島の南部にいるとしています。
私流に全訳してみます。
“「絶在海中洲島之上」に「或絶或連」っている女王國までの経路の距離を「參問―問いに加える」ならば、「周旋―経路に沿って」五千餘里ばかりある。“
もうひとひねり判りやすくします。
“ 倭地に入った後、狗邪韓國から対馬、壱岐を通って女王國までの距離は五千餘里ばかりである。“
「周旋」は「女王國への経路に対応して」、つまり経路に沿って、五千餘里と訳すべくなのです。
この文節は「又」と無関係でしたが、ついつい気分が乗ってしまって、申し訳ありません。
「又特賜汝」
原文と訳文
23、「今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、裝封付帶方太守假授汝。其綏撫種人、勉為孝順。汝來使難升米・牛利渉遠、道路勤勞、今以難升米為率善中郎將、牛利為率善校尉、假銀印青綬、引見勞賜遣還。今以絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹、答汝所獻貢直。又特賜汝紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八兩・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤、皆裝封付難升米・牛利還到録受。」
―筑摩―
「いま汝を親魏倭王となし、、金印紫綬を仮授するが、その金印は封印して帶方郡太守に託し、代わって汝に仮授させる。汝の種族の者を鎮め安んじ孝順に努めるように。汝の送ってよこした難升米と牛利とは、遠く旅をし途中苦労を重ねた。いま難升米を率善中郎將となして、牛利を率善校尉となして、銀印青綬を仮授し、引見してねぎらいの言葉をかけ下賜品を与えたあと、帰途につかせる。いま絳地交龍の錦五匹、絳地縐粟の罽(けおりもの)十張、蒨絳五十匹、紺青五十匹をもって汝の件への成仏の献上物への代償とする。加えてとくに汝に紺地句文の錦三匹、細班華の罽五張、白絹五十匹、金八兩・五尺の刀二ふり、銅鏡百枚、真珠と鉛丹おのおの五十斤ずつを下賜し、皆箱に入れ封印して難升米と牛利に託し、帰った後目録と共に汝に授ける。
―修正―
今、汝を親魏倭王とし、金印・紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して汝に仮し授ける。種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝の来使の難升米・牛利は遠きを渉り、道路(道中)を勤労した。今、難升米を率善中郎将とし、牛利を率善校尉とし、銀印・青綬を仮し、引見して慰労・下賜して遣還する。今、絳地交龍錦五匹[12]・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝の貢献した値として答礼する。又た特に汝に紺地句文錦三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠と鉛丹各々五十斤を賜い、皆な装封して難升米・牛利に付し、還到のうえ目録を受(さず)ける。
コメント
「又」は「又特賜汝」と出ています。
この段落は明帝が卑弥呼宛に出した詔書の抜粋です。下賜品についての説明が大部分で、献上物への返礼と、それとは別に「特に」卑弥呼個人へ下賜品を賜うことが書かれています。
両者が「又」で書き分けられていますが、同じ詔書に書き、一括して難升米と牛利に託した下賜品について、どちらを先に授けたという、時間的前後関係を問題にした表現をすることはあり得ません。
下賜品の持つ違った性格を、「又」と区別しているのです。
引用は長いのですが結論は簡単でした。
「倭人条」の「又」
以上見て来ましたが「倭人条」の「又」にも時間の前後を示す意味はありませんでした
ある話から別の性格を持つ話へ切り替わることを示すための「又」でした。
今回は「倭人条」の「又」についてでした。「倭人条」はいろいろご存じの方も多いと思い、重装備にしました。煩かったかもしれませんが、ご容赦ください。
次回は高句麗が遼東を侵犯した話に戻りたいと思います。