例文内の「又」の役割3 最後の「又」1――記事№...21

古田武彦氏の説のウソ、・・№18」-2−1 景初3年が正しい理由―その17

 

今回から、やっとこの「又」についての検証に戻ります。

 

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。

――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」

 「又」の復習

 まず「又」についての復習から始めます。

「諸橋大漢和辞典」によると、一般的に適用できる訳語は下記の通りでした。

 

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。

❸ふたたびする。

 

ある事、またある物の記述があって、引き続いて別のある事、またある物を記述するときに使っています。

 

倭人条の例で見てみます。ある事、またある物を連続して、記述する語法を幾つか例示できます。

「×××、答汝所獻貢直。又特賜、○○○」の「又」は、下賜品の内、×は倭國より魏への貢献に対する答礼品、○は女王卑弥呼に対してのプレゼントという性格の違いがあることを表現しています。訳語としては❷㋑の「さらに」が当てはまります。

 

併記されていても相互に性格の違いを意識する必要がない場合、次のように続けて記述されます。

「絳地交龍錦五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹」

  次の場合は國の連なり具合を意識して書いたのだと思います。

「次有斯馬國、次有已百支國、次有伊邪國、次有都支國、次有彌奴國、・・・」

Ⓐ「女王國東渡海千餘里」の文節は女王國の東方から南方に存在する未知の國々の告知という括りです。

 「復有國」は、新たに示された國々が「皆」女王國と同じ「倭種」であることを意識して、「又」ではなく「復」を使っています。21、Ⓑ「又」は「侏儒國」という國が「倭種」ではないことを意識して「又」を使っています。

22Ⓒ「又有裸國・黑齒國」は「倭種」でなく、「侏儒國」とも同じ種ではないという、「又」の使い方だと思います。

 Ⓒ「復在其東南、船行一年可至」の「復」は「其東南」の「其」について説明しています。「船行一年可」の起点である「其」は、前にある「女王國東渡海」「去女王四千餘里」と同じで「女王國」だと言っています。

 

⑲、⑳の「又南渡一海千餘里」「又渡一海、千餘里至末盧國、」は、その前にある「度一海、千餘里」と結びつくことで、二回目、三回目の渡海という時間的前後関係を表現しています。

―筑摩―の訳文

 復習を終えて本題に戻ります。

この文節に「後」とか「始」とか、時の前後を示す語句は入っていません。私の主張が正しいとすると、この「又」は「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」との性格の違いを受けていなくてはなりません。

 

 ―筑摩―の訳文を見てみましょう。この文節の括りは、高句麗王、伯固の遼東郡侵犯にあります。「新安・居郷」が現在の何処にあたるかはわかりませんでしたが、両地が遼東郡の何処かである事が前提の文脈です。西安平は鴨緑江の河口、遼東半島の付け根、今の丹東市です。ここも遼東郡です。その範囲では「又」で区別するべき理由が見当たりません。

 しかし「攻西安平」の後に「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」とあります。遼東半島の付け根、今の丹東市を攻めるのに楽浪郡治(平壌) を劫掠して通過したことになります。

 新安・居郷を寇したときは高句麗の領域から直接の侵攻で、西安平の場合は楽浪郡を押し渡って西安平を攻めたことになります。この時は遼東郡だけではなく楽浪郡も犯したことになります。

 この訳文は素直に読みとった逐語訳だと思いますが、「復犯遼東、寇新安・居郷」と「攻西安平」に「又」で両者の区別をつけた結果になっています。

楽浪郡北遷説

 ところが原文を―筑摩―の訳文と同じように読めない人も多いようです。

 例えば、今まで再々引用させてもらっている「三国志修正計画」では次のように言っています。

 

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正)」

 

 楽浪郡治は平壌に有ったというのが定説です。―修正―の説によると、伯固が遼東郡を寇した時、楽浪郡治も帯方県の治所も遼東郡内部に北遷していた、というのです。これは―修正―だけが説いている説ではありません。

 

後漢時代には、楽浪郡の組織も在地豪族を主体とするものとなり、中国の郡県支配の中心は遼東郡(現在の遼寧省方面・大陸部)に移ったらしい。

 AD132年に、高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

(理解する世界史&世界を知りたい-http://www2s.biglobe.ne.jp/~t_tajima/nenpyo-1/bc108a2.htm-)」

 ネット上で私が見つけた―又攻西安平,于道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子―を明記しての楽浪郡、北遷説は、この二つですが北遷説を採っていると思われる記事を他にもいくつも見受けました。

北遷説よりさらに過激な次のような説もあります。

 

帯方郡とは楽浪郡の南に置かれた郡である。 定説ではソウル付近となっている。 帯方郡の場所の記述は多くないが、中国史書が示す帯方郡の場所もやはり遼東である」

 

虚構の楽浪郡平壌

http://lelang.sites-hosting.com/naklang/rakurou.html

真実の満韓史を求めて―http://blog.livedoor.jp/goshila/archives/1051741285.html

古代史俯瞰 by tokyoblog-帯方郡 楽浪郡http://tokyox.matrix.jp/wordpress/帯方郡-太守/

各国の位置(古代史の復元)

http://www.geocities.jp/mb1527/N1-03-2kakukoku.html

 

 

北遷説の説の根拠

まず楽浪郡治、帯方県の治所が遼東郡内に北遷していたという説の根拠を把握しようとしました。

残念なことにこの説を主張する論者達が、その根拠や、どのような論理で北遷説を導き出したか、それを説明する記事は見当たりませんでした。

 

この事があって自分の中での回答さえ出せず、最後までこの「又」の検証を先送りにしてきたのです。

 

厳密に調べるためとはいえ先延ばしには限界があります、やむをえずこの北遷説が拠って立つであろう、根拠と論理を自分なりに想定してみることにしました。この説を説明する記事を他に見つけられないのですから、この記事自体から類推するしかありません。

 

―修正―の記事を見つめ直しました。

 まずこの文節から楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあったことを指摘しています。そして「于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子」を根拠に、「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言及しています。

 

なぜ楽浪郡治と帯方県の治所は「遼東郡の西安平を攻める途上」にあれば「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」となるのか。

 私は北遷説の出発点をここである、と仮定することにしました。

 

 f:id:s-tokuji:20171006154257p:plain

後漢期の東夷の勢力範囲(Wikipediaより 濊貊は三国志東夷伝の濊です)

 

上の地図は後漢のころの政治地図です。玄菟郡高句麗の西、遼東郡は南西にあります。高句麗の南東は東沃沮の領域が広がっています。東沃沮の南に濊貊(濊)がいます。東沃沮と濊貊の西に楽浪郡帯方郡があります。

高句麗から楽浪郡に入るには東沃沮を通過しなくてはなりません。文節は、遼東郡の西安平を攻める道すがら、「于道上」といっています。東沃沮については何も触れていません。

触れていない理由として次の三つが考えられます。東沃沮は高句麗軍の通過を容認した、多少の揉め事は有ったが書かれていない、高句麗の軍が東沃沮を通過しなかった。

北遷論者はまず、第一の可能性を否定します。他國の軍が自領域に侵入し通過するのを黙って見ている國はない、そう考えるのが普通でしょう。

第二と第三の可能性が残りますが北遷論者は三つ目の可能性を受け入れたのだと思います。

 

さて、遼東半島の付け根にある西安平の南側直近には鴨緑江が流れています。この大河は高句麗の領域、長白山(白頭山)のある長白山脈あたりに水源を発しています。地図上では赤い「高句麗」という三文字の、「麗」があるあたりでしょうか。

 

論者はこれに着目し「高句麗鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ。」と考えたのだと思います。しかし「高句麗鴨緑江沿いに西安平を攻めたのだ」のだとすると、平壌周辺に在った楽浪郡治も帯方県の治所もその侵攻経路からは大きくはずれています。「于道上(西安平を攻める途上で)殺帶方令、略得樂浪太守妻子」をどう理解するかという問題が残ります。論者は、楽浪郡治と帯方県楽浪郡治を遼東郡に北遷させることでこの問題を解決したのです。

 

これが私の想定した北遷説成立の大まかなシナリオです。勿論、論者によって小異はあるでしょう。しかし私にとってこれが推察でき、かつ違和感のないギリギリの範囲です。

( 論拠のない他人の説の論拠を探すのは結構大変なのですよ。)

楽浪・帯方両郡、半島不存在説

楽浪、帯方両郡を元々遼東郡にあったとする説は、どれも「後漢書」等の記事を論拠にしています。北遷説と違って、根拠は充分に提示されています。

 

しかし、私には論拠の解釈かかなり恣意的なに思えるし、前提となる史料批判も経ていません。

またこの説は現時点で相反する考古学的証明に触れていないか、考古学的検証そのものを問答無用で否定しています。

 

「中国史書が示す帯方郡の場所も(楽浪郡も)やはり遼東である」ということであれば、この文節中「復犯遼東」の「遼東」は遼東郡ではなく、遼東地方を指していることになります。この説と本稿との直接的関係はここにあります。

私の「又」理解は間違がっているか ?

北遷説は伯固の侵攻時に楽浪郡治と帯方県の治所は遼東郡内にあったといいます。

不存在説はもとから遼東地方に楽浪郡治と帯方郡があったと言います。

 

 どらちの説が正しくても、私の「又」についての解釈を当てはめると、この文節の記述は「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」でなくてはなりません。「犯遼東」という括りの中では、寇新安・居郷と攻西安平以下との間に区別すべき要素はありません。その場合「又」を使わないというのが私の主張だからです。

 

つまり、私の「又」についての解釈が間違っているのか、両説の主張が間違っているどちらかなのです。両立できない説なのです。

 

ということで北遷説は次回に検証してみることにします。不存在説の検証もそれが終わった後の回で触れたいと思います。

 

 

*1

 

*1:寒中お見舞い申し上げます。

 昨年の年末から正月にかけて、母が足をトラブって帰省していました。快癒の見通しがつき帰ってみると、妻と、同居している息子がインフルエンザで倒れていて、私に充分な看病ができるわけではないのですが、投稿に時間を割ける状態にありませんでした。

 

毎週の投稿を宣言していながら年末から寒中見舞いまで飛んでしまったことをお詫び申し上げます。

 

 

 

( 毎週の投稿って結構大変なんですね、月一回に変更しようかなあ・・。毎日投降の人って・・・すごい。)