例文内の「又」の役割4 最後の「又」2――記事№...22

 

古田武彦氏の説のウソ、・・№19」――

2−1 景初3年が正しい理由―その18

目次

 

 高句麗

  余談ですが高句麗についてちょっとだけ書かせてもらいます。高句麗とは東北アジア満州にいたツングース系民族の一部が漢の冊封を受けて建てた国の名です。民族名ではありません。ツングース系民族とはツングース諸語に属する言語を母語とする諸民族のことです

歴史上に登場する民族・国家のうちツングース系民族と確定または比定されているのは、以下の民族・国家だそうです。

粛慎、挹婁、勿吉、靺鞨、渤海女真、濊貊(濊、貊)、夫余、高句麗、沃沮、百済、豆莫婁

ツングース系民族は現代でもシベリアから満州にかけての極東、北東アジア地域に住み、主に牛馬の飼養と,狩猟,遊牧、一部は農業で生活しています。

現在民族集団を形成しているツングース系民族は以下のとおりと言います。

満州族、シベ族、オロチョン族、エヴェンキ - ソロンを含む、エヴェン、ナナイ、オロチ、ウリチ、ネギダール、ウデヘ、ウィルタ

これらの民族は満州民族を除いて人口が少なく、漢民族(中国語)やロシア民族(ロシア語)の影響が大きく、固有の言語、文化が危機にさらされている。

(Wikipediaより編集、)

 

前漢が元封四(前107)年に遼東郡の東、楽浪郡の北に東北地方(満州)に玄菟郡を建てました。当時の玄菟郡は幽州に属し、郡治は高句麗県にありました。残りは上殷台、西蓋馬の二県です。

 元鳳六(前75)年になると、漢の東北政策が変り、未開であり人口の少ない北部や東部の丘陵・山岳地帯は、統治費用が嵩むとして、冊封体制下での間接支配に切り替える方針になりました。玄菟郡は直接の支配領域を徐々に放棄して西へ縮小移転されました。郡治の高句麗県は現在の遼寧省撫順市内の東部、新賓満族自治県永陵鎮老城村付近へ移され、元の高句驪県の場所には原地人の雄が高句麗侯として冊封されたのです。

                        (Wikipediaより編集、)

 

 一昔前まで我々庶民は高句麗を想像するのに現存するツングース系民族の生活様式を想起するしかありませんでした。

 しかし現代ではインターネットで高句麗人の生活を目の当たりにすることが出来ます。吉林省集安市や北朝鮮平壌周辺には、高句麗時代の遺跡が数多く残されており、石室封土墳に見られる壁画には、当時の生活文化や四神図などが鮮やかに、かつ生き生きと描かれています。

これらの遺跡は世界文化遺産に指定されネットでも公開されていますので「高句」で検索してみてください。

高句麗は周知のように騎馬民族国家です。その戦力は強力な騎兵によって構成されていました。集安周辺に残された遺跡からは高句麗前期の馬具、武具が多く発掘され、墳墓の壁画は当時の騎兵部隊の姿を再現してくれています。

遼東を犯し、新安・居郷を寇し西安平を攻めた伯固の軍も強力な騎兵部隊によって構成されていたはずです。

 

高句麗西安平攻撃

 

 本論に戻ります。高句麗西安平攻撃についてです。

 

要図

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  図 ソフト、カシミール付属の地図により作成

 

鴨緑江は長白山周辺を水源に中朝国境に沿って流れ遼東半島の付け根、現在の丹東市(西の文字あたり)で黄海に流れ込みます。丹東市が西安平です。当時の高句麗王城である丸都城(句の文字あたり)は鴨緑江中流域、現在の中国吉林省集安にあります。高句麗の領域は西に玄菟郡、西南に遼東郡都と境を接しています。遼東郡の郡治、襄平(襄の文字あたり)は現在の遼陽あたりにありました

 

二つの経路

 

冒頭の文節に「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」とあります。文節を読んでこの要図を見ると、高句麗西安平攻略経路は二つのケースが想定できます。

帶方県の治所と樂浪郡治がどこに移されていたかによって高句麗の侵攻経路の想定は違がって来るのです。

訂正

 

訂正します。

-修正-

それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。

―理解する世界史&世界を知りたい―

高句麗が遼東郡の西安平県(現在の遼寧省丹東市付近)で楽浪郡太守の妻子を捕らえ、帯方県令を殺害していることから、楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。

 

前回-修正-が鴨緑江経由で西安平を攻めたとしていると書きましたが間違です。鴨緑江経由と説いた可能性があるのは―理解する世界史―でした。

 

-修正-の主張では遼東郡と帯方県が遼東郡のどこに移されていたかは、不明です。これを仮に二つの場合に分けて考えます。

遼河が遼西郡と遼東郡の間を流れています。この遼河と遼東半島から東北に延びる千山山脈の間、これが遼東郡本体だとします。ここに移されていた場合をケースAとします。

遼東郡の鴨緑江沿いに移されていた場合をケースBとします。―理解する世界史―の主張「当時遼東郡西安平県方面へ移動していた」はこれにあたります。

鴨緑江沿いの西安平攻めの可能性が出て来るのはこのケースなのです。

 

お詫びします。

 

ケースAの場合

往路

 ケースAの場合は地図、黒字の高句麗あたりから遼東郡に入ります。南下し、しばらく行って東に折れ西安平に向かいます。その途中で両者を攻略し、その後千山山脈を越え西安平を攻めたという経路になります。

 

 『漢書』地理志によれば遼東郡の県城は襄平、新昌、無慮、望平、房、候城、遼隊、遼陽、険涜、居就、高顕、安市、武次、平郭、西安平、文、番汗、沓氏の十八城があります。往路この十八城とは接触もなかったようです。高句麗は騎馬部隊の機動性で十八城を迂回しつつ駆け抜けましたということでしょう。状態としてはいわゆる中入りということになります。

たまたま楽浪郡、帯方県両治所に遭遇した時、高句麗軍は両者を迂回せず、蹂躙して去っています。中入りですから一日応戦されただけでも高句麗軍は苦境に陥ったはずです。その一日も保たなかったと思われます。両者は無防備状態に近い状態だったようです。

 

 高句麗の領域を離れて西安平までの距離をおおよその目測ですが500㎞前後としておきましょう。道は直線ではありません。また県城を回避しながらの行軍です。実際の踏破距離はその倍あったとしてもおかしくはありません。

wikipediaは騎兵の一日の行程を40~60㎞としています。並足や襲歩を組み合わせた平均的速度でしょう。日本陸軍の、と断ってあるので陸軍省発行の騎兵操典を参考にしたものと思われます。帝国陸軍日露戦争に備え、サラブレッド等を導入し、騎兵用の馬を改良しています。大型の馬を使うロシヤのコサック兵との交戦を想定したためです。日本馬の在来種は二回りほど小さいのです。高句麗の騎馬も同系統だったと考えられます。ネットを使って同じく同系統と思われるモンゴル馬で検索してみてください。馬格の違いは確実に一日行程の大小に影響します。

しかも、これは平滑地を基準にしています。山岳地や沼沢地ではこうはいかないことははっきりしています。高句麗軍が一日60㎞の行程をこなすのは難しいと思います。

 

高句麗領域から西安平までを700㎞、一日40㎞の行程と想定します。17日という日数が出ます。往復で34日です。戦闘中の日数を5日とします。合計39日です。39日分というと、食料だけでもたいそうな荷物になります。騎兵の長距離行軍には輜重は随伴できません。行軍速度が噛み合わないからです。まして隠密行動を必須とする中入り作戦での輜重は随伴不可能です。

この荷物を騎兵が携行するのでしょうか。接敵した時、動きにセーブがかかります。それは出来ません。

現地で買い上げ現地調達するのでしょうか、敵地を行軍しているのですから買い上げは無理でしょう。その場合もう一つの現地調達、略奪、強奪になります。通報を回避するため、現地人皆殺しの上の現地調達かもしれません。

 

私もそうですが、読んでくださっている方も疑問を持つのではないでしょか。

はたして遼東郡治である襄平や諸県城に背後をさらしたまま、危険な作戦を実施して、西安平を犯す必要があったのでしょう。

「犯遼東、寇新安・居郷」は納得がいくのです。境界近隣をサッと荒らして、サッと引き上げるのは、烏丸や鮮卑もやっていることです。この場合示威もあるでしょうが、攪乱と略奪も目的でしょう。

西安平までの中入りの場合は理解に苦しみます。

復路

復路は、こうやって通り過ぎたところを再度通ることになります。食料を入手することは往路より困難です。また遼東郡治には楽浪郡、帯方県両治所が襲われたことが知れているはずです。西安平が攻められたこともです。当然、遼東郡内には最高水準の警戒線が引かれ高句麗軍補足のため軍が編成されているはずです。西安平は陥落したわけではありません。追撃部隊も出しているかもしれません。袋のネズミ状態と言ってよいでしょう

帰還する高句麗軍に素通りされたと皇帝に聞こえれば遼東郡太守の処f罰は必至です。処刑もあり得ます。太守は必死でしょう。遼西郡や高句麗軍補足に成功しても失敗しても記事にするには絶好の出来事です。

文節には帰路について何も触れられていません。書き残すような何事もなかったとしか考えられません。このような状況の中、高句麗領域まで何事もなく帰還できたのですから奇跡です。

ではどうやって何事もなく帰還出来たのでしょう。可能性としては鴨緑江伝いに帰路をとって帰還したという想定は成り立ちます。次回はこの経路を考えますので合わせて検討してみましょう。

 

 

2−1 景初3年が正しい理由