例文内の「又」の役割5 最後の「又」3――記事№...23

 古田武彦氏の説のウソ、・・№20」――2−1 景初3年が正しい理由

―その19

 

ケースBの場

目次

 

―理解する世界史―

楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる

東沃沮や挹婁、濊、韓に圧迫されて西安平県方面へ移動していたと言っているのだと思います

楽浪郡に属していた帶方県も樂浪郡と共に西安平県方面へ移動していたことになります。楽浪郡には『漢書』地理志によると始元五(前82)年に二十五県、後漢建武6 (紀元30)年には嶺東七県廃止によって減少したとは言え十八県が存在していました。

 帶方県以外の縣はどうだったのでしょう。

 

その疑問はともあれ、楽浪郡西安平付近にあったそうです。鴨緑江に沿って並んであったのか、西安平の対岸、北朝鮮側にあったのか、もしくは県城西安平の中にあったのかそれは、不明です。

 

前回の要図に戻ります。ケースBの場合、集安から鴨緑江に沿って下り、西安平に至り、付近にある「殺帶方令、略得樂浪太守妻子」、その後、本格的に西安平を攻めた。この経路は容易に想定出来ます。一見、ケースAの場合より格段と困難は少なそうです。ところがそうでもないのです。

江上を征路に選ぶ

まず、船を使う場合を考えました。攻めるに必要な騎馬部隊を鴨緑江上船で運んだとしましょう。どれくらいの兵を運ぶことになるのでしょう。それを仮定するには西安平、楽浪郡治、帯方県治の兵力を想定しなければなりません。丹東にあった西安平県城の規模と兵力はどの位だったでしょう。探しましたが特定できる記事はありませんでした。

標準的県城

 河北省武安県牛汲古城跡の遺跡によると、南北768メートル、東西889メートルの城壁に囲まれたスペースが漢代から三国時代の県城でした。

 この城壁に囲まれた県城は、さらに里という区画に分かれていました。里の大きさは南北380メートル、東西175メートルの長方形で30~50メートルの間隔を開けて50件程度の住宅が建っていました。

里の中の各家は、15m×20mの大きさだというので、ら大体、一軒で180坪位という事になります。基本、県は、10の里という行政区画に分かれていました。

一つの里には50戸があり、一つの戸の平均人口は5名程度でした。

こうして考えると、一里の人口が250名になりますから10里あると県城の住民は2500名程度となります。

もっとも、大きい県も小さい県もあるので、これは目安にしかならないですが。

(はじめての三国志 https://hajimete-sangokushi.com/2016/01/16/post-8778/)

このような記事が有りました。

西安平は水上陸上の交通と流通の要衝ですからこんな数字ではないと思いますが、一応の規準的数値として規模をこの様に想定します。

丹東(西安)付近の兵力

次に兵員の想定です。

 

牛汲古城跡城壁の全長  

        768+889=1657*2=3314m 100mおきの哨兵として2交代で 約70名

里内の治安要員 50名2交代で 100名

城門二つの衛兵 50名2交代で 100名

県府の衛兵   50名2交代で 100名

周辺の巡回要員 50名2交代で 100名

 

合計で約500名こんなところでしょうか。

 

建安八(203)年、いまだ呉の基礎が定まらない時、會稽郡で六万一千戸を擁する現地民の反乱が起きました。その時、孫策は賀斉に平定を命じ五千の兵を与えました。

「郡發屬縣五千兵、各使本縣長將之、皆受齊節度。(『三国志』魏書 賀斉傳)

-修正-

郡は属県より五千の兵を徴発し、各々本県の長にこれを率いて、皆な賀斉の節度を受けさせた。」

 県の長に率いさせているのですから、かなり本気の徴発であったのでしょうが、当然県の抱えた兵をすべて反乱軍へ差し向けられるわけではありません。それぞれの県の治安維持等がありますから。

動員出来たのは、多くて半分から三分の一つ程度でしょう。

 この当時、會稽郡には二十六の県があったそうです。一県から約各二百の兵を引き抜いたことになります。すると常時県の抱えている兵は四百から六百だったと仮定できます。

 

仮に三者が別々の城だったとして三城の守備兵は最低約1500とします。

高句麗の騎馬数

 次は高句麗の動員した騎兵数を想定します。

近代ドイツ軍の研究に攻城三倍の法則というのがあるそうです。孫子も「同等の兵力なら最善を尽くして戦い、こちらの兵力が少ないなら引き上げ、敵の兵力が大きい場合は戦い自体を避けよ。」と言ったそうです。

城を落とすことが目的でない限り、三倍は必要ないとしても、それなりの兵は必要です。上陸して戦闘中、河岸で船を確保しておく要員等後備の兵も必要です。無根拠ですが遠征に動員した騎数を千と仮定します。

 

これだけの兵を運ぶのにどれだけの船を用意しなければならないでしょうまず一隻当たり乗船できる兵員数を知る必要があります。

公園にあるボートは二人の乗りです。江田島のカッターは13人乗りです。こんな舟では騎兵は運べません。遣唐使船は乗客、乗員共で150人乗れたそうです。ネットで見てください、甲板だけでとてもそんなに乗れたとは見えません。船倉まで使ってのことでしょう。

遣唐使船クラスの船で乗員を20人とします。

西安平遠征軍の場合、軽量種、とは言え馬を人数分随伴しています。移動中、馬が騒いでも大丈夫なように搾具等特殊な装備も必要になります。騎兵一騎で最低五人分の空間は必要だと思います。すると、馬は26頭しか乗れないことになります。千頭運ぶために39隻必要です。

一隻に乗れる人員は130人です。八隻必要です。食料等を積んだ船まで加えると、艦隊は約50隻にまでなります。

勿論二千でも三千でもよいのでしょうが、動員した騎馬数が増えれば用意しなければならない船も倍、三倍と増えます。準備する船数が膨れ上がり、ためにする想定と思われては困るので最小の数としました。

 

高句麗騎馬民族の建てた國です。五十隻であっても、それだけの船とそれを操船できる人員を用意できるとは思えません。

しかしここでは敢えて船が準備できたとして侵攻の検討を続けます。

 

集安と丹東付近の鴨緑江の川幅を調べてみました。

鴨緑江を跨いで吉林省通化市内の集安市と北朝鮮満浦市を結ぶ集安鴨緑江国境鉄道大橋ががあります。 長さ598m、幅5mで20の橋脚で支えられています (wikipedia) 。グーグルマップの航空写真で見ると橋梁の半分強が豊かな流水面上にあります。約300 mを流水面が占めていることになり、残りが河川敷です。橋の上流でも下流でも、流水面はここより広くなっています。集安近辺の水深は3メートルだそうです。  

山岳地帯のただなかです、集安付近での水量は四季を通じて豊かだと思われます。

丹東市にある中朝友誼橋遼寧省丹東市と北朝鮮新義州市を結ぶ橋で、中国側の正式名称は鴨緑江大橋です。全長946.2m、橋脚12の橋です。(wikipedia)この橋は堤防から堤防を結んでいて橋梁はほゞすべて流水面上にあり。橋梁の長さ即鴨緑江の流水面の幅です。ただし、中国側と北朝鮮側とではいちじるしく水深が違い、水量が少なくなると川幅の半分くらい、北朝鮮側が河川敷になると思われます。

 

集安から丹東へグーグルマップで河流を追ってみました。下っていくと白く泡立ちが何㎞も続いている領域が何個所もありました。水深が浅く急流になっているのです。河流が岩の間を縫っている領域も複数あります。

更に下ると河流が唐草模様のようになっているところもあります。そのなかの一本の河流を間違がいなく選んで進んでいかなくてはなりません。

 

読んでいるあなたも、グーグルマップで「集安」をキーワードに検索して鴨緑江を追みてください。鴨緑江は集安の南境を流れています。追うのは容易です。

 

集安や丹東付近は良いとして、途中この河流に船が耐えられるのでしょうか。耐えられたとしてもそれぞれの船を操船する要員はここを乗り切る能力が必要です。

約50隻に操船する要員1000名、すべてにその能力は必要ないとしても、騎馬民族国家の高句麗にそれだけの要員を準備するのは無理だと、私は考えます。このような河流を船団で降ってゆくことは無理です。途中でボロボロになってしまいます。バラバラになった船が時間差を置いて到着するのでは各個撃破される可能性が高まります。

 

いくつもの困難についてこの私の想定が正しいとすれば、とても船を使ったとは考えられません。

それでも高句麗軍が西安平を犯したとしなければなりません。では兵員運搬について他にどのような方法が考えられるでしょう。

船でなく筏

筏の利用があります。船の代わりに大きな筏を組んで鴨緑江を降ったと想定します。筏を組むのは船を準備するよりは容易いし、途中で引っ掛かってもやり直しや、改修はたやすい。

勿論これは船を使った場合に比べてです。日本でも木曽川の筏下りが有名ですが、筏を組むにも乗りこなすにもかなりの技術を要すると思います。筏が分解したときの苦労も生半可ではないでしょう。

帰路の困難

それも置いて、とりあえず高句麗の騎馬部隊が鴨緑江下流域に到着したことにします。帯方県、楽浪郡を攻略し、西安平を脅かしました。

さて帰路はどうするのでしょう。筏で鴨緑江を遡上することはできません。江に沿って陸路を辿るしかありません。

ケースAで保留にした帰路も、以下と条件が同じになります。

 

河岸を二種類に分別しました。人馬が通行できる河岸と、出来ない河岸ですマップでグーグルを最大の倍率にして、江に沿って陸路を遡上してみました。河岸の状態は大略、半分近くが人馬通行不能部分だと思われます。山腹が直接流水に落こんでいるのです

 

私の判断ですがこれでは馬を棄てて、兵のみが集安まで帰り着けるかどうかです。

 

ケースA、Bに応じて想定した西安平への征路はどちらも帰路は部隊が困窮に落ち入ってしまいます。

納得できません

「復犯遼東、寇新安・居郷、攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子、」

 

私にはこの記述からは西安平遠征軍の困難は窺えません。後漢高句麗王、伯固の跳梁に苦しむ姿しか浮かんできません。

 

 私はここまで北遷説に従って征路の想定を進めてきました。

 記事では遠征軍が西安平を犯す前に楽浪郡、帯方県を攻略しています。北遷説によれば、この時、楽浪郡治が定説の通り平壌であれば、それは起こりえない事態である、というのです。

 楽浪郡、鮮朝半島不存在説はより詳しく言っています。

高句麗の太祖大王(伯固)も、遼東郡の西安平県を攻めたついでに平壌にも軍を派遣して楽浪郡を攻めて太守の家族を誘拐したばかりでなく、さらに大同江を越えてソウルまで行って帯方令を殺して帰ってくるなど、有り得ません(虚構の楽浪郡平壌説)。」

 

 北遷説に従って想定してきた結果が、原文の持つ雰囲気とは全く違う状況を示していると、私は思います。もしかすると原文にふさわしい状況が現出するような想定が別にあるのではないでしょうか。

 また一週間考えさせていただいて、続きは次回述べさせていただきます。