例文内の「又」の役割6 最後の「又」4――記事№...24

古田武彦氏の説のウソ、・・№21」――2−1 景初3年が正しい理由

―その20

 

 ケースCの場合。

ここまでの纏め。

ちょっと北遷説に話を戻します。

「復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」

 

-(修正)-はこのように訳しています。

「復た遼東を犯し、新安・居郷に寇し、又た西安平(丹東市寛甸)を攻める途上で帯方令を殺し、略奪して楽浪太守の妻子を得た。」

-(筑摩)-の訳は「ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。」となっています。両訳文の趣旨は一緒です。

 

但し-(修正)-の訳文には次のように注釈がついています。

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致られた以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。」

 私はこの注釈に代表される説を北遷説と称しました。

 

「帯方令を殺し」、「楽浪太守の妻子を得(奪い去っ)た」のは「西安平を攻める途上」、もしくは「その道すがら」であると訳しています。するとどちらの訳文でも西安平を攻める前に平壌方面にある楽浪郡治や帯方県を攻めたことになり、伯固の征路は西安平を攻める前に、楽浪郡治や帯方県を経ていることになります。

定説では楽浪郡治や帯方県は西安平より百㎞以上南にあったことになっています。-修正-は百㎞以上南にある楽浪郡治や帯方県を通過して西安平に至る征路を想定することが出来なかったのでしょう。そこで「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」として訳文をより理解しやすく補正したのだと思われます。

 

私は北遷説に基づいて、「遼東郡内に徙され」る三つのケースを想定してみました。最初に西安平県城内に移された場合。この想定は文脈上成り立ちません。この場合、「その道すがら」とも「途上にあり」とも表現できませんから。

残る二つは、遼東半島、千山山脈の北、遼東郡本体の中に取り込まれた場合と、鴨緑江に沿い元々の楽浪郡を窺う配置をとって徙されたばあいです。この想定には問題ないと思います

前回、前々回とこの想定に基づき伯固の征路を検証してみました。地形や私の仮定した諸元を繰り込み高句麗西安平遠征路をシュミレーションしてみました。

 

その上で高句麗条の伯固の遠征記事を読み直しました。

高句麗条は、伯固が後漢朝を悩まし、その上で意気揚々と帰国したことを伝えているとしか、私には理解できません。

しかしシミュレーションでは、楽浪郡治や帯方県が遼東郡に遷されていた場合、伯固の遠征は成功に結びつきませんでした。伯固の遠征部隊が最終的に補足されるか、疲弊して自滅するかの可能性が高いのです。高句麗条に、失敗を臭わせる記述はありません。

 

第三のルート。

この乖離について考えました。

“わたしのシミュレーションが間違っているのか。”

再度試みました。思い込みかもしれませんが結果は同じでした。

“実は不成功だったのだが高句麗条では隠されている。”伯固の遠征が失敗したのなら、陳寿それをかくす理由が見当たりません。むしろ得々として書き残すと思います。

 

高句麗伝から読み取れるように、伯固の遠征が成功裏した、と原文を理解できるそのような解釈を探しました。

そして想定した遠征経路が間違っているのではないか、と思いつきました。伯固は遼東郡を縦断したり、鴨緑江に沿って侵攻する征路を選んでいないのではないか。伯固が成功裏に帰還できる別のルートがあるのではないかないかということです。グーグルマップで調べました。

 

そのルートが北朝鮮側にあったのです

 

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                  伯固の征路

線濃い青が清川江、薄い青が大同江とその主要な支流です。

 

北朝鮮内の地名や河川、山名等を細かく記すことは出来ません。グーグルの表記がハングルになっているからですが、とりあえず鴨緑江(国境)を挟んで、集安の対岸、北朝鮮側は満浦(チャガン)市であることは判りました。

 

グーグルマップで北朝鮮を絞り込んでゆくと満浦市を起点とし南下する道が現れます。おおよそのところを下地図に赤い線で複写しました。南下してゆくと安州平野に達します。安州平野にはいって海岸に向かうと道路は二つに分かれます。片方は西に丹東方面へ向かっています。もう片方はさらに南下して平壌平野に抜け平壌方面に向かっています。

 

伯固の遠征路はこれなのではないでしょうか。この道路が天然の地形を利用した物であれば、かつて伯固の騎馬部隊も遠征路として使用できたでしょう。

 

 

 

 

 

 この道路を満浦市の起点からグーグルの航空写真で追ってみました。その限りでは、近代の土木技術で大幅に地形を変えたり、長いトンネルを付けたりした形跡は見て取れません。この道路は自然の地形に沿って作られています。

 

騎馬部隊は移動できるでしょうか。上記地図から、この道路が大きく二つの地形の地域を通過していることが見て取れます。一つは安州平野、平壌平野の平坦部です。ここは大丈夫ですが問題は山岳地帯です。

黒い台形線に囲まれた範囲をグーグル航空写真で調べてみました。山間には盆地や清川江の支流に沿った平坦地が連なっています。盆地を囲む山々の傾斜は緩く、清川江へ繋がる支流も比較的広い河川敷や河原を擁しながら流れています。

 

伯固がこの道を辿ったとすれば、遼東郡本体を強行突破するより、鴨緑江沿いに騎馬部隊で西安平まで下るよりも、明らかに容易で、安全だったと思います。

 

前漢の時代も楽浪郡玄菟郡・臨屯郡を結ぶ幹線道路だった可能性があるでしょう。

 

「両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」という-修正-の注釈を導き出すにあたって、第三のルートの存在は考慮しているのでしょうか。

私は一顧だにされていないと思います。なぜなら伯固が第三のルートを通ったと考えた場合、定説を否定してまで「両者の治所が遼東郡内に徙され」ているという発想には結びつかないのです。

 

第三のルートを辿ってみましょう。満浦から安州平野に抜け、西安平へ向かう征路もケースAと同じく中入りです。安州平野から直接西安平へ向かったとします。伯固軍が西安平へ向かった情報は当然楽浪郡治へ届きます。楽浪郡太守は大急ぎで麾下の十八県の兵を糾合して、伯固軍を追います。各県が守備兵の半分ずつ、二百五十を派遣できたとして楽浪郡太守の率いる部隊は四千五百です。伯固は西安平付近を荒らしまわっている時か、荒らし終わって引上げる途中で追尾する西安平の部隊と、北上してきた楽浪郡の部隊とに対峙しなければならなくなります。この時には帰路を塞がれた形になります。おそらくどのような将であっても、帰路を断たれ、前後から挟撃を受ける事態は避けるでしょう。さきに楽浪郡治と帯方県治をつぶしたと考えられます。

伯固は西安平へ向かう前に平壌にある楽浪郡城や、この方面にある各県城を奇襲し、各個撃破で襲ったのです。こちら方面を潰しておけば、背後から襲われることもなく帰路が塞がれることもありません。

 

「殺帶方令」は伯固を迎え撃って、敗死したと考えられます。

「略得樂浪太守妻子。」この部分についての状況が不明です。

「略」には―省く,省略する,簡略な.省く,なおざりにする―といった一般的な意味があります。この意味を採用すると、例えば樂浪太守の妻子は殺されたということになります。

―はかりごと,策略,策,計画―という意味もあります。この意味を採ると、例えば樂浪太守の妻子は誘き出されて拉致されたということになります。

―奪う―この意味だと、例えば、どこかから楽浪郡城に帰還の途中に襲われて強奪されたことになります。

語句の解釈もありますが、迎え撃つべき太守が無事で、郡城の奥深くにいるべき妻子が遭難したというのが判りません。その状況を想像できないのです。

 

伯固の部隊は安州平野から平壌方面進んでいきます。騎馬部隊に急襲された途中の各県城からの平壌への通報は封殺されるでしょう。西安平がこの事を察知するのにはさらに時間がかかります。察知した時にはすでに取って返してきた伯固の部隊が西安平の城下に達していた、という状況もあり得ます。

 

つまり、伯固の記事の大略は「両者の治所が遼東郡内に徙され」ていず、楽浪郡治が平壌にあっても充分に説明がつくのです。

 

高句麗はこのルートを知っていたか。

 

後漢書によると高句麗は、朱蒙が卒本城(遼寧省本渓市桓仁満族自治県 五女山山城)を都城として建国したといいます。建武九(33)年には第2代の瑠璃明王が隣国夫余の兵を避けるため鴨緑江岸の丸都城(国内城、丸都山城、尉那巌城。現在の中国吉林省集安市近郊、かつての玄菟郡配下の高句麗県)の山城へ遷都したと伝えられています(wikipedia)。

 

高句麗の國都,丸都(国内)城は建武九(33)年から、第三ルートの起点、満浦市の対岸にあったのです。

 

建武六 (29) 年、省邊郡、都尉由此罷。其後皆以其縣中渠帥為縣侯、不耐・華麗・沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐、(東沃沮条)

-漢の建武六年に辺郡を省いた時、都尉はこれに由って罷めた。その後は皆なその県中の渠帥(有力族長)が県侯となり、不耐・華麗(高句麗)・沃沮の諸県は皆な侯国となった。夷狄は更めて相い攻伐し、-修正-」

「國小、迫于大國之間、遂臣屬句麗。(東沃沮条)

-(東沃沮は) 國が小さく、大國の間にあり迫られて、遂に高句麗に臣屬した。-修正-」

「又句麗復置其中大人為使者、使相主領、又使大加統責其租税、貊布・魚・鹽・海中食物、千里擔負致之、又送其美女以為婢妾、遇之如奴僕。(東沃沮条)

高句麗は臣屬する前の東沃沮の大人を使者(高句麗の下級官吏)として任命し、領地の主とし使った。一方、税に関しては〘注〙大加(高句麗王の宗族)に統べさせて貊布・魚・塩・海中の食物を収めさせ、千里を担負して来致させ、又たその美女を送らせて婢妾とし、これを遇すること奴僕のようだった。-修正-を補正-

〘注〙王之宗族、其大加皆稱古雛加。(高句麗条)」

 

建武六年に後漢の侯国となった東夷諸国は相い攻伐しあい、東沃沮は敗れ高句麗の属国となったのです。東沃沮内部の行政はもともとの首長たちに委ねられたが、徴税は高句麗の王族が差配したといっています。東沃沮で徴税を円滑に行うには、東沃沮の地理、地形、人口構成等を把握していなければなりません。

 

「毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千餘級、宮奔北沃沮。(夫余条)

-毌丘倹が高句麗を討った時、高句麗王の宮が沃沮に奔ったので、師を進めてこれを撃った。沃沮の邑落を皆な破り、斬首・獲虜は三千余級。宮は北沃沮に奔った-修正-」

「正始三年,宮寇西安平,其(正始)五年,爲幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。(高句麗条)」

「正始中、儉以高句驪數侵叛、督諸軍歩騎萬人出玄菟、從諸道討之。(毌丘倹傳)」

 

都城は一旦魏の手に落ちました。高句麗王は東沃沮に逃れ抗戦を続けます。毌丘倹は高句麗王に従って戦う東沃沮の邑落を皆打ち破り、その時、斬首・獲虜された東沃沮人は三千余人を数えたというのです。

東沃沮人の高句麗王への忠誠を見ると、正始五(244)年に東沃沮は高句麗の属国というより、高句麗の一部といってよいのではないでしょうか。高句麗の東沃沮統治はうまくいっていたようです。

 

伯固が遼東に攻め込んだのは「順・桓之間」とあります。

順帝永建年間(126)年-建寧元(146)年、桓帝の没年が永康元(168)年です。

伯固の在位は後漢延熹八(165)年-光和二(179)年です(wikipedia)。

伯固は建寧二(169)年に玄菟太守耿に降伏〘注〙しています。

〘注〙「靈帝建寧二(169)年、玄菟太守耿臨討之、斬首虜數百級、伯固降、屬遼東。(高句麗条)

霊帝建寧二年、玄菟太守耿臨がこれを討ち、賊虜の数百級を斬首し、伯固は降って遼東に属した。―修正-。」

 

伯固は王位についた後の四年間暴れまわったようです。勿論この四年間、当然東沃沮は高句麗に臣属しています。

 

 北朝鮮の満浦市が高句麗の領域か東沃沮の領域かは判りません。しかし高句麗にとってここは熟知しきった地域であったのは間違いありません。そこから南西へ楽浪郡との境界がどこにあったかも不明ですが、しかしそこまでは、満浦市近辺と同じく、高句麗にとって自領であるか、それに等しい地域であったことになります。

 楽浪郡との境界には後詰めや、補給の部隊が待機していたかもしれません。伯固が凱旋した時、待機していた部隊の歓呼で迎えられたかもしれません。

以上、述べてきたことから高句麗は第三ルートの存在をよく知っていたと考えなければならないのです。

 

 このようなルートがあり、そのルートを知っているのにわざわざ困難が予想される遼東郡内を強行突破したり、揚子江沿いに下るルートを辿ったりしたと考えるのはあまりにも不自然です。半島の地理を検討していない未熟な議論だと私は思います。

 

伯固は第三ルートを通って楽浪郡、帯方県等背後の脅威を除いてから西安平を攻めたのです。

「又」へ戻ります。

やっと結論にたどりつきましが、またもや原文に戻ります。

「復犯遼東、寇Ⓐ新安・Ⓑ日居郷、又攻Ⓒ西安平、于道上殺Ⓓ帶方令、Ⓔ太守妻子。」

 

Ⓐ、Ⓑの時は素直に高句麗から遼東郡に攻め入って寇したのです。しかしⒸのときはⒹ、Ⓔも攻めているのです。遼東郡だけではなく楽浪郡も攻めているのです。同じ「復犯遼東」で括られてはいてもⒶ、ⒷとⒸは内容的に違っているのです。

 だからこそ、たんに列記するだけではなく、Ⓐ、ⒷとⒸとの間に「又」をおいて区別しているのです。私には陳寿自身もⒶ、Ⓑは「寇」とし、Ⓒ、Ⓓ、Ⓔは「攻」としてこの違いを際立たせようとしているように思えます。

 

 北遷説には、「遼東郡内に徙されていた」と言い切っていない記事もあります。

楽浪郡が当時遼東郡西安平県方面へ移動していたとみられる。―理解する世界史―」

楽浪郡治が移ったのは楽浪郡の北部だったかもしれない、という説です。この説が成り立つかどうかの問題はありますが、成り立ったとしても私の「又」についての主張には影響がないと思います。西安平を攻めた時には、遼東郡のⒶ、Ⓑだけを寇したのと違って、楽浪郡と遼東郡を犯したということには変わりがありません。

 

 

 かなりくどくなってしまいましたが、-(修正)-の北遷説が正しければ私のこの「又」についての主張が間違っていることになってしまいます。この点を理解いただき、長広舌ご容赦いただけると幸いです。