「遣使景初二年」の証明 1――景初三年説の出発点 ――記事№...28

古田氏の説のウソ、・・№25」――2−1 景初3年が正しい理由その24

 さて、前回申しました通り、今回からは前向きに「遣使景初二年」の証明に取り組むことにします。

    目次

 

 「知彼知己、百戰不殆。不知彼而知己、一勝一負。不知彼不知己、毎戰必殆。」という謂いがありますね。「知彼知己、百戰不殆。」と言いますが私には知識の蓄積がありません。ですから「知彼而不知己、」にまでこきつければ「一勝一負」くらいには持ち込めるのではないでしょうか。

 なぜ「景初二年六月」でないという主張が成立するのかを見ていけば、逆に「遣使景初二年」が正しいとい証明する何かが見つかるのではないか、と思うのです。

しかし、「景初三年説」は凡百存在するでしょう。私が見ることが出来るのはその一部です。そこで割り切って代表的な説と、A氏の説を絡めて見ていくことにしまた。

内藤湖南と『日本書紀』神功紀・『梁書

近現代における景初三年説の始祖は内藤湖南だと思います。湖南は論文「卑弥呼考」で次のように述べています。

 

「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

 

 私にこの湖南の所説全体を対象にして一気に文章を纏める能力はありません。したがって枝葉に当たる「神功紀」と『梁書』について個別に検証しておきたいと思います。

神功紀

 「神功紀」とは『日本紀』のなかの神功皇后について述べた部分のことです。ご存じでしょうが念のため申し添えます。「神功紀」の遣使記事に対いて、新井白石は『古史通或問』で次のように評しています。

「『日本紀』」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。」

皇后摂政三十九年は景初三年です。その六月にはすでに帯方郡太守は存在しますし、帯方郡治への通行も可能です。なぜ「其實を得しにはあらじ。」と断定するのでしょうか。※。この疑問は先出です。気になる方は「白石は景初四年説」を先に読んでください。

 

日本書紀』神功紀の該当部分を引用します

(神功摂政)卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。(『日本書紀』神功紀)

 ごらんの通り「神功紀」の遣使記事の前には「魏志(『三国志』魏書)云(いう)」と但し書きがあります。『日本書紀』の編者は「この記事は魏志(書)から引用しました。」と断わっているのです。

くどいですが、「神功紀」が引用したといって記しているのは

「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡」です。ところが、倭人条にある原文は

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等、詣郡、」です。

 「神功紀」の引用文には、原文に「明帝」が挿入され、「景初〇年」が原文と食い違っているのです。

 

 これは明らかに原文引用の原則に背いています。引用文は、一字一句、正確に原文を複写していなければなりません。引用文に自らの説明・異見を添えたいときは、誤りなく原文を複写した前後に別途「時の皇帝は明帝で、景初二年とあるが、景初三年が正しい」という形で書き添えなければなりません。

日本書紀』の編者が奈良時代の人々とは言え、筆を執るものとしてこのあたりの認識がないわけがないと思います。

 

 引用文として断わり、その文中に原文にない字句が混入していればそれは誤写か、改竄・捏造です。

 ある新聞が、ある裁判の証人の証言として裁判所の記録を引用掲載したとします。もし引用された証言記事のなかに裁判所の記録にない文言が混入していたらどういうことになるでしょうか。読者は事実関係の把握を誤り、改竄・捏造として掲載記事に対する信用は勿論、新聞社自体の存立にもかかわることになりかねません。大問題です。

 ある学者が自分の研究論文の中で論拠として、湯川秀樹の論文の一部を抜粋引用したとします。もし引用された湯川秀樹の論文の中に、原文にない文言が混入していたらどういうことになるでしょうか。

 その研究論文の信用性かなくなるのはともかく、その学者の学者生命は断たれてしまうかもしれません。

 私が、A氏のブログからの引用文に別の文言を混入しても、私の記述を信じてくれますか。

 

 新井白石は、この誤引用を踏まえて神功紀の記述を「其實を得しにはあらじ。」としたのです。そのうえで「遣使の時期」を別の根拠から引き出しています。「神功紀」の年度記事は、白石にとって信用度ゼロなのです。私も白石の断定は正しいと思います。

 

 内藤湖南は『日本書紀』の編者がこの原則を無視し、誤りを犯していること、神功紀に誤写・改竄・捏造の疑惑があることを軽く見逃しています。編者が引用文中に自分たちの意見を混入させただけだと簡単に考えています。だから倭人条の「景初二年」と神功紀の「景初三年」を対等に比べ、神功紀が正しいなどと述べられるのです。

 

 とはいえ私は神功紀の編者に遣使記事について、意図的な書き換え、改竄・捏造があったとは考えません。

編者がどうしても「景初三年」という自分たちの意見を表明したいのであれば出典を変えればよかったのです。湖南も「梁書にも三年に作れり」として名を挙げている『梁書』を引用元にすればよかったのです。「魏志云」ではなく「梁書云」とすればよかったのです。それにも拘わらず、編者は原文に「景初二年」とある『魏志』を選び、『梁書』に「景初三年」とあってもそれを出典として選んではいません。

「日本史を編纂していた書紀の編者たる者が、『梁書』倭伝(条)」を見ていない、とは考えられません(とA氏も解説を加えて述べています。)」。

 自分たちの意見を表明するもっと簡単な方法があります。「魏志云」の三文字を外すのです。『日本書紀』は当時最高の学者が編纂しているのです。正面から自分たちの意見として押し出しても、そのことに、だれが苦情を言い立てることが出来るでしょう。編纂責任者の舎人親王あたりが何か言うとしても、もっと高次元の問題でしょう。それにも関わらず編者は「魏志云」と断わっています。

 どちらにしても「景初三年」と主張するために改竄・捏造する必要は全くないのです。編者自身は「魏志」を引用することにこだわりを持っており、自信をもって「魏志」からの引用であると宣言しているように思えます。

 

 私は、「明帝」につては知りすぎた学者の筆の滑りすぎ、「二」と「三」の違いについては単純な誤写、それらと、校正ミスの複合と断じています。

(乞参照、記事№10)

梁書

 続いて『梁書』の該当部分を引用します。

 

至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以爲親魏王,假金印紫綬。(梁書 東夷諸戎傳 倭条)」

 

  この『梁書』東夷諸戎傳 倭条記事は「神功紀」のように「魏志云」はありません。一応、姚思廉が独自に調査の上著述したと想定します。

 

 次にこの記事についてのA氏の評価を引用します。

 魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。

また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。

魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉(ようしれん)のようです。「梁書倭伝(条)」には、『魏志(書)』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて、「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」と記しています。

 A氏は『梁書』の編者 姚思廉を景初三年説の大先達だと言っています。そして『梁書』の「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」という記事(の訳文)を引用して、遣使が景初三年である論拠としています。この訳文の出典は不明です。

 A氏は公孫淵が誅せられたのは景初二年八月二十三日だとしています。すると引用訳文中の、「景初3年」という時期、期間の指定は「公孫淵が誅せられた」にはかからず、「卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した」にのみかかっていなることになります。本当にそうなのでしょうか。これを検証してみます。

倭条の公孫淵誅殺は景初三年

まずネットにある諸先輩のご意見を見てみました。

「公孫淵」で検索しWikipediaを見ました。注釈の一つに次の記事がありました。

「姚思廉は『梁書』では「至魏景初三年 公孫淵誅後 卑彌呼始遺使朝貢」、『北史』 倭国伝では「魏景初三年 公孫文懿誅後 卑彌呼始遣使朝貢」と公孫淵が殺された後の景初3年とした。」

「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,」の訳文を拾ってみました。

「魏景初三年に至り、公孫淵の誅の後、卑弥呼は使者を遣わし朝貢することを始めた。」

「魏の景初三年(239年)、公孫淵が誅殺された後、卑彌呼は初めて遣使を以て朝貢し」

  なるほどどちらともとれる訳文が多いようですね。Wikipediaにいたってははっきりと「公孫淵が殺された後」の景初三年としています。

 

 しかしこの理解はおかしいのです。『梁書』東夷諸戎傳倭条内にある同じような構文を見てみましょう。

 

「漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼爲王。

漢靈帝の光和年中に倭國は亂れ,互いに攻伐しあうこと歷年,やがて一女子を共立し卑彌呼を王と爲した。」

 「光和中」は直近の「倭國亂」にかかっています。

 

「晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。

晉安帝の時,倭王贊有り。贊死す,弟の彌を王に立てた。;彌が死んだ。その子の濟を王に立てた;濟が死んだ,その子の興を王に立てた;興が死んだ,その弟の武を王に立てた。」

 「晉安帝時」がどこまでかかっているかは不明ですが、少なくとも直近の「有倭王贊」にはかかっています。

 

「正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與爲王。かえて男王を立てた。國中が服さず,またもや誅殺しあった。そこで卑彌呼の宗女臺與を立てて王となした。」

 「正始中」は直近の「更立男王」から「國中不服,更相誅殺,」までにかかっています。

 

「齊建元中,除武持節、督倭新羅任那伽羅秦韓慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍

齊建元年中に武の持節を除き、督倭・新羅任那・伽羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に任じた。」

 「齊建元中」は以後のすべてにかかっています。

 

であれば

「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢

魏は景初三年に至って公孫淵を誅し、その後,卑彌呼の遣使朝貢が始まった。」

 となります。年度指示直近の「孫淵誅」には当然、景初三年がかかっているのです

 

 間違いなく『梁書』東夷諸戎傳倭条では公孫淵誅殺を景初三年だと言っています。

高句驪(高句麗)条では景初二年

 倭条では公孫淵誅殺を景初三年だといっていることを踏まえて、ちょっと(?)びっくりする記事を紹介します。

魏景初二年,遣太傅司馬宣王率衆討公孫淵,位宮遣主簿、大加將兵千人助軍。(東夷諸戎傳高句驪条)

魏の景初二年 太傅の司馬宣王が衆を率いて公孫淵を討った。高句驪王位宮遣は主簿、大加の將兵千人の軍を派遣してこれを助けた。

  ここでは迷う余地もなく「討公孫淵」を景初二年と言っています。「討公孫淵」が二度あるわけも無いのに二つの発生日付があるのです。本来これで「討公孫淵」に関連する『梁書』の記事は全く信頼できないことになります。白石は遣使時期についての自説の根拠として『梁書』を一切使っていません。

 

 それはさておき、A氏と内藤湖南は、倭条と高句驪条、どちらの記事を基準にしているのでしょう。

 湖南は「梁書にも三年に作れり」と書いています。「作れり」とは”わざわざ明記してある”といったくらいの意味でしょうか。三年と明記しているのは倭条です、高句驪条にはありません。

 A氏も「魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって」と書いています。当然、倭条です。

 で、今後の記述は、A氏が公孫淵誅殺を景初三年と倭条を自分と同意見だと見なしているとして進めます。

遣使は景初四年でなくてはならない

 公孫淵誅殺を「景初2年8月23日」としているA氏と、「景初三年」としている『梁書』倭条が同意見ということが成り立つか?、疑問を持たれたとしも、言っている私が無理をして繋いでいるのですから、疑問を持つほうが当たり前です。

 とりあえず、A氏は公孫淵誅殺が「景初三年」であっても「遣使」が「景初三年」であれば同意見とみなしていると考えましょう。もう少し検証を続けてみて「遣使」が「景初三年」という結論がでなければA氏の主張は完全に破綻したことになります。

 

 さて公孫淵誅殺を景初三年と言っているとなる『梁書』は倭の遣使をいつだといっているのでしょうか。

 「公孫淵誅殺」をみて恐慌をきたし朝貢使を出したと考えると、事情が許す限り「公孫淵誅殺」の直近だと考えるべきでしょう。ただ『梁書』に個々の出来事に日付はありません。もし「公孫淵誅殺」が十二月であれば景初三年内は無理です。この場合「景初三年」は「公孫淵誅殺」だけにかかっていることになります。

しかし「景初三年」が最後の「金印紫綬」までかかるっていると考えれば、公孫淵誅殺は倭が景初三年内に遣使出来る時期だったと理解することになります。

 普通に解釈すれば、曖昧ではありますが、これが妥当な理解だと思います。

 

 では引用された『梁書』の記事はA氏の主張の論拠になるのでしょうか。残念なことにA氏には普通の解釈は適用できないのです。

 

 氏の論理をなぞってみます。

 “「公孫淵誅殺は景初2年8月23日」→「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後」→「景初2年6月」には帯方郡太守は未就任→倭の帯方郡到着は「景初3年6月」”と言います。

そのうえで「この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉のようです。」として『梁書』を遣使景初三年説に結び付けています。

 A氏の論理に沿って遣使が景初三年にならなければなりません。

 

 公孫淵誅殺を景初三年に入れ替えてみます。

“「公孫淵誅殺は景初3年8月23日」→「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初3年8月以後」→「景初3年6月」には帯方郡太守は未就任→倭の帯方郡到着は「景初4年6月」”。

倭の遣使、帯方郡到着は景初四年六月となりました。

 

 内藤湖南の論理もたどってみます。

「全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。」

  湖南は自分の論理の裏付けとして『梁書』倭条を引き合いに出しています。倭条の記事で遣使が景初三年である、と言っていることはほぼ間違いないでしょう。しかし同じ倭条に「淵の滅びしは景初三年」との記述があることに気づいていないのでしょうか、それとも無視しているのでしょうか、どちらでしょう。

 「淵の滅びしは景初三年」をもとに湖南の論理で考えると「淵の滅びしは景初三年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。」

となり、倭の遣使、帯方郡到着は景初四年六月になります。

同じ倭条の遣使記事とは相いれないものです。

 

 したがって「神功紀」の記事と同じく『梁書倭人条は「遣使景初三年説」の裏付けにはなりません。

 

(乞参照、記事№8)

 

白石は正始四年説

 

 新井白石も「古史通或問」で「景初二年六月」には「我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」と主張しています。

 

魏志に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしは心得られず。遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

  古田氏は『邪馬台国はなかった』で白石の「其道未だ開けざらむ」を「遼東郡から朝鮮半島にかけて司馬懿軍と公孫淵軍の戦闘中」という主張として理解しています。

 

A氏は新井白石も遣使「景初三年」説を主張したように言いますが、間違いです。

『晋書』には公孫氏平ぎて倭女王の使い帯方に至りしとみえたり。これ其実を得たりしとぞみえたる。さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて、その年月のごときは詳らかならす。「日本紀」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」   (『古史通或問』)                      

 白石は景初二年の遣使を否定していますが、同時に「皇后摂政三十九年(景初三年)に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ」として、先にも見たとおり景初三年も否定しています。そして正始四(243)年を「魏に通じたまいし事の始め」の年としています。

「行かない」、「行けない」    

  さてここで「神功紀」、『梁書』を取り除いたA氏と内藤湖南の論理を抜粋します。白石は景初三年説とは違うのですが、列記します。

 

内藤湖南: 倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。

A氏: 公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

白石: 遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。(景初2年6月に)其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

 三人の主張を要約すると内藤湖南は「帯方郡に行ける状態ではなかった」、A氏は「太守不在の帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」新井白石は「其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」で良いと思います。

 さらに三人纏めて要約すると「行かない」、「行けない」となるのでしょうか。要約しすぎかな。

ある方の駁論

 であれば、「景初二年六月」に帯方郡治行が可能であることを証明すればよいわけです。もともとの倭人条の記述は「景初二年遣使」なのですから

 

 二年論者から、「景初二年」否定に対しての有効な反駁はあったのか。申し訳ないが筆者は寡聞にして存じ上げない。まじめな話、 ご存知の説があればご一報いただきたい。

 ただ、「もう一息で有効なのに、惜しい」と思わせる説はありました。それを紹介します。筆者を仮にB氏とします。

「行く」、「行けた」ことの典拠

この説の典拠は二つあります。一つ目は『三国志』東夷傳韓条です。

「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。(『三国志』東夷傳韓条)

筑摩書房版『三国志』訳本は次のよう訳しています

桓帝から霊帝の末のころ(一四七~一八九)になると韓と濊は盛んとなって、楽浪郡やその配下の県の力ではそれを制することができず、民衆は多くの韓国に流入した。建安年間(196~220)、公孫康は屯有県以南の辺鄙な土地を分割して帯方郡を作り、公孫模や張敞らを送ってこれまでとり残されていたその地の中国の移住民たちを結集し、兵をおこして韓と濊をうたせた。その結果韓国に流入していた移住民たちも少しずつ戻ってくるようになった。これ以後、倭と韓とは帯方郡の支配を受けることになった。               

(東夷傳韓条・訳、筑摩書房版『三国志』訳本)」)

修正計画のも翻訳もほぼ同じです。

桓帝霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流入した。建安中(196~220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐ち、旧民は次第に(その地から)出国し、この後は倭・韓は帯方に属すようになった。

  (東夷傳韓条 訳:修正計画)

陳寿著『三国志』原本東夷傳韓条は、魏の任命した太守が存在していなくとも、帯方郡は建安年間(196~220)から存在し、倭は帯方郡支配下にあったと記しています。

 

典拠の二つ目は『三国志公孫度傳公孫淵条です。

「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳)

二年(238)春、太尉司馬懿を遣って公孫淵を征伐させた。六月、軍は遼東に至った。(訳:修正計画)」

 

 太尉司馬懿は六月になって遼東郡に到着しています。それから遼隧での迎撃を打ち破り、公孫淵の立てこもる襄平包囲戦へと移っていきます。帯方郡治は襄平から直線距離で約四百㎞東南にあったといわれています。これは下関市から明石市に相当します。両者の間は長山山脈や鴨緑江等で隔てられています。A氏によれは魏軍が楽浪・帯方両郡に攻め込むのは公孫淵誅殺後の八月末以降です。遠く離れた帯方郡はそれまで平穏だったのです。

ちょっと惜しいB氏の主張

 B氏は両記事を根拠に六月には倭使は公孫淵に謁を求めて帯方郡治を訪れていた、と主張しています。使者が遼東郡での戦闘に決着がつくのまで、と待機しているうちに、進駐してきた魏軍に引き渡され、新たに魏が任命した帯方郡太守の手よって、洛陽へ身柄を送られた。その過程で、公孫淵に謁を求めていた倭使が、いつのまにか魏の天子へ朝見を求めた倭使へとすり替わってしまった。

といったストーリー構成でしたが、ネット上のアドレスを記録し忘れてしまいました。

 

 景初三年説は帯方郡治へは、太守がいないから「行くはずがない」、もしく、は戦の最中に「行けるはずがない」という主張から出発しています。

 B氏は帯方郡の建郡は建安年間(196~220)に公孫度によってなされていた。公孫家の影響を受けながらも太守は存続しており、その帯方郡に属していた倭が貢献のため郡治に参上するのは当たり前である。景初二年六月、魏軍ははるかかなたの遼河のほとりに到着したばかり、倭使が郡治へ到着するのに何の障害もない、と反駁しています。ここまでは、根拠もしっかりしていますし卓見です。遣使景初二年の証明として、方向は間違っていないと思います。

 もう一息というのは、公孫淵への朝貢使が、明帝への遣使にすり替えられたというストーリーが、原典(公孫度傳・東夷傳韓条)の記述につながらない点です。

 

では私も、この方の業績を踏まえつつ、東夷傳の記述からはみ出しすぎないように気を付け「景初二年か、三年か」について検証を始めたいと思います。