「遣使景初二年」の証明 2 --- B氏の白石・湖南批判と「景初二年論」 ―記事№...29

古田氏の説のウソ、・・№26」――2−1 景初3年が正しい理由―その25

 

 前回のまとめとして、今後自分の検証した「景初二年か、三年か」について書くと宣言しました。しかし現状、大苦戦中です。他人の説をつついて何か書くのとは比較のしようがないほど大変です。

しかしあまり長く投稿停止状態を続けると、私の内側でアルツハイマー症状が優勢になりそうなので、もう一続きだけ他人の説をつつく中継ぎ文章の投稿でお茶を濁したいと思います。

 

 

中継ぎ文章のテーマとして、前回、触れました、B氏の説を突っつきたいと思います。氏は「白石・湖南」の誤りを鋭く批判し、独自の「景初二年説」を展開しています。ただし、氏のブログ所在のアドレスを記録し忘れましたので記憶と断片的メモによる紹介になります。

白石と湖南の倭人条<景初二年>批判

またまた白石と湖南の一文を抜粋します。

白石:「魏志(書)に景初二年六月倭女王其大夫をしてa1帯方郡に詣りa2天子に詣りて朝献せん事を求むa3其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしはⒶ心得られずb1遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。b2其道未だ開けざらむⒷ我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」 『古史通或問』

新井白石が『古史通或問』で倭の遣使について述べた一節です。

文書構成から言うと、白石は「倭国と魏がⒷ・b2という状態である。」であるのに「倭人条に、a1・a2・a3という記述がある。これはⒶ(納得できない)と主張しています。

次は内藤湖南の一文で、『卑弥呼考』からです。

湖南:「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」『卑弥呼考』

この湖南の主張を私が短評しようすると、逆に長くなりますので、A氏の読解を援用して話を進めます。

A氏: 「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」

白石の主張から見ていきます。

白石・・・・・B氏と古田氏の誤り

白石のⒶという主張の基盤はⒷという認識ですから、先ずこれについて触れます。 白石のこの記述は幾通りかの解釈が可能だと思います。 

B氏と古田氏の解釈

B氏は、「白石が《倭から帯方郡への道が公孫淵討伐戦争で通行不能になった》と認識している、」という解釈です。そして、その解釈にもとづいて、氏は白石の認識Ⓑを一蹴しています。

「魏軍は淵を誅殺したあと、八月末以降に楽浪郡帯方郡に侵攻した。であれば少なくとも、魏軍は八月いっぱい楽浪郡には至っていない。戦闘とそれに付随する混乱が発生するのは九月以降である。六月に倭使が諸韓国を経て帯方郡まで通行するのに何の問題も生じない。」。

 

古田武彦氏も『邪馬台国はなかった』で読む限り、白石の記述を、B氏と同じ理解の仕方をしています。

つまり『三国志』によると、景初二年の一月から八月の間は魏の明帝が遼東の公孫淵を討伐すべく、大掛かりな戦闘がくりひろげられていた最中だった。朝鮮半島は公孫氏の勢力下にあったから、ここも同じく戦火に包まれていたのである。その最中にあたる六月に、卑弥呼の使いが帯方郡の郡治(今のソウル付近)に至って、洛陽の天子に朝献せんことを求めた、などということはあり得ない。これが白石の論理だ。(『邪馬台国はなかった』 93頁 戦中の使者)

白石が倭人条の記述をこのように理解していたと主張するには、当然ですがその論拠を必要とします。そう二人は白石の一文の中にある、その論拠を示さなければなりません。B氏と古田氏は白石の文中、どこを見てこのような理解に達したのでしょう。残念ですが、私にはB氏の記述中にそれを見つけきれませんでした。そして古田氏の論述にも、論拠と思しきものはいまだに見つけることが出来ません。

 

かつての話ですが、私は(僭越ですが)同じ「景初二年論者」として、古田氏と認識を共有したいと思いました。『古史通或問』を探しましたが、国書刊行会刊本の所蔵場所を探しきれませんでした。

そこで、直接『三国志』中に、白石が「倭と帯方郡治間が(戦闘とそれに伴う混乱によって)通行不能になった」ことの論拠と考えうる記述を探しました。

 

東夷伝公孫度条の公孫淵に関する項目に司馬懿軍の戦闘詳報があります。そこには六月遼東郡到着、八月末公孫淵誅殺、おそらくは九月初頭、勝利の後始末まで記されています。明帝紀でも若干触れています。非常に悲惨な戦いだったようです。しかし記されているのはすべて遼東郡内。遼水沿いと襄平攻防の記事です。

 

楽浪郡帯方郡については、このような戦闘記事はありません。つまり楽浪郡帯方郡公孫淵討伐戦が通行の障害になったことを示す記述はまったく存在しないのです。

(乞参照: 記事№...6 遼東郡で大戦が進行中でも倭の使者は通行可能という立場で司馬懿の迂回作戦 を書きました )

 

二郡より南方、諸韓国内の情報が韓条に若干載っています。

「諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長——諸韓國の臣智には魏の邑君の位を与え印綬を授けた。そして其の次、邑借には魏の邑長の位と印綬を与えた。」

私の訳ですが、同じ韓条に

「各有長帥、大者自名為臣智、其次為邑借(韓条) ——韓の各部族(國)には族長がいて大きい部族の長は臣智と名乗りその次は邑借と名乗った」とありますので、この訳は間違っていないと思います。

明帝に遣わされた二太守は郡内を定めたあと諸韓國を懐柔にかかり、成功しているようです。この記事の時点では帯方郡と諸韓国の間が、また倭と諸韓国の間が「道が開けていなかった」という状態であったとは思えませんね。しかし残念なことにこの記事には、「景初中」としか、時点を特定する事柄は書かれていません。

 

以上見てきましたが、私は、東夷伝中に倭~帯方郡が交通不能であったということの論拠となる記述はない、と断ぜざるを得ませんでした。

(現在は、『古史通或問』が中央公論社刊で『日本の名著』シリーズに収録されており、都道府県立図書館クラスが所蔵していることを知っています。)

 

東夷伝内に倭と帯方郡の間が <「(戦闘で)其道未だ開けざらむ」> という論拠がないということは、B氏の「戦闘とそれに付随する混乱が発生するのは(景初二年)九月以降である。」という主張が正しいのでしょうか。

すでに、私が言いたいことをお分かりの方もいらっしゃるでしょうが、これはそれだけでは終わらないはなしなのです。東夷伝に正始八(247)年以降になって楽浪・帯方郡と諸韓国とのあいだに乱が起き、帯方郡太守弓遵が戦死するという事態が発生します。それまでの間、半島での戦いは記録されていなすのです。

両氏の解釈は間違っています

それはさておき私は先に、A氏の「又」を「すると、さらに」と解する文理を分析しました。そしてA氏とは全く逆に、東夷伝序文は、襄平攻略軍が楽浪・帯方郡侵攻へ転進したとは語っていないことを解明しました。その作業の途中、A氏の次の文字の解釈にも疑問を抱きました。

 

「又潛軍浮海、”收”樂浪・帶方之郡(東夷伝序文)」の「收」についてです。A氏は「收」を「攻め取った」いう意味に理解しています。しかし『諸橋大漢和辞典』等いくら調べても氏の理解に当てはまる例は出てきませんでした。

「收」という文字は、魏が帯方郡を「接収」、「収容」したか、もしくは楽浪、帯方郡の帰服「受け入れた」という意味合いを表しています。

 (乞参照: 「收」=「攻め取った」は間違い――記事№...15)

 

するともう一つ気になる文字が出てきました。

「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海”定 ”二郡(韓条)」の「定」です。これは魏軍に同行した二人の太守が、二郡に威令を行き届かせた、という意味ですね。

どう読んでも、この記述は魏軍が楽浪、帯方郡に攻め込んで戦闘の後占領したとは言っていません。

 

合わせ読むと、襄平を攻略した軍とは別に派遣された魏軍が、二郡の太守を擁し、平穏理に行政権掌に成功した、という意味になります。韓条に太守派遣の時期は書かれていませんが、六月であろうが九月であろうが魏軍が二郡に侵攻した時、それに伴う「戦闘と混乱」は発生していないことになります。

つまり東夷伝の記述には、半島が公孫淵討伐の戦闘で「其道未だ開けざらむ」という状態になっていた、と考えなければならない要素は、まったくないのです。

二人の誤解の修正

白石を評するにあたって

これから、白石の認識Ⓑについてのまとめなのですが、その前に一言。

 

私も白石の一文を、古田氏の記述に従って理解していました。A氏の件で疑問を持ち始め、そのあといろいろあって、現在は白石のこの文に関する限り、古田氏の理解は誤っていたと考えています。

しかしそれは枝葉の話です。大切なのは本筋の部分、白石が「景初二年」という倭人条の記述を誤りと否定したという事実です。そして古田氏が《白石が「半島は戦乱下」と理解した。だから・・・》と書き進まざるを得なかったのは、当時のいわゆる学説情勢との関係があったのだろうと私は理解しています。この点についていずれ触れる時もあれば、とは思っています。

 

しかし私は古田氏やB氏の説を誤解による主張だと断じてしまいました。

“ 古田さん、ごめんなさい 🙇 。”

 

 さて白石の「我国の使人帯方に至るべきにもあらず」という文言は邪馬台(壱)国ファンならだれでも知っています。そのうち大部分の人々が、B氏や古田氏と同じくするだろうと思います。《戦乱によって行ける状態ではなかった》です。

私が知る限りでは、白石はこの一文で楽浪郡帯方郡での戦乱に触れていない、と主張をするのは私が初めてです。この主張は少しでも多くの人に知って欲しい。先人はいないのですから、誰かの意見を引用することもできません。

となるとここからは自分で白石の一文を評しなければなりません。

 

故浅、学非才を承知しつつも、自分で白石の一文を評するという非礼を行わざるを得ません。

白石について論ずる範囲が” この一文についてだけ “という大幅な制限付きであることを勘案して読み続けていただければ幸いです。

 

本論に戻ります。

白石の一文を理解するための補助線

では白石は、なんのために、なにを根拠に、「其道未だ開けざらむ」と主張したのでしょう。もし、まったく無根拠にこんな主張をしたのであれば、白石の学者としての資質を疑われる事になるでしょうが、私はそのようなことはあり得ないと思います。

国交の開始——白石は正始四年

一文中から読み取れる白石の視線を見てみましょう。

「我が国の使魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて其年月のごときは詳ならす㋑日本記にも魏志によりて皇后摂政三十九年に魏に通ぜられしとみへしは魏志とともに其實を得しにはあらじ『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」 (『古史通或問』)

下線部分㋑は景初三年のことで、㋑は景初三年のことです。㋺は倭人条にある遣使「景初二年」のことです。白石は両記事ともに誤りとしています。 白石は『古史通或問』の当時は「正始四年」説なのです。(この辺ややこしいので乞参照〔 記事№10 『卑弥呼考』をみつけました〕

等です。)

 白石は「 『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」と言っています。『景初三年を、 (神功)皇后摂政三十九年と表しています。白石にとって卑弥呼の遣使は『日本書紀』神功紀(皇后の摂政時代)の話なのです。また正始四年が正しいのは『古事記』に裏付けがあるから、といっています。

東夷(韓・倭)の屈服

東夷伝序文中の一節を再度掲載します。

「景初中、Ⓐ大興師旅、誅淵、又Ⓑ潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後Ⓒ海表謐然、Ⓓ東夷屈服。」

 

この文章はⒶからⒹへと時系列を追って書かれています。

「景初年中に、魏は大掛かりに軍を催し公孫淵を誅殺した。またひそかに軍を海に浮かべ、楽浪、帯方郡を收めた。その後、東方の海上は騒乱がなくなり、(海の向こうの) 東夷も屈服した。(訳; 修正計画)」

 

公孫淵を滅ぼし、二郡を收め、その後に東夷(韓や倭)が屈服したと、書いてあります。

 

倭人条、正始四年の記事を抜粋します。

「 其四年、倭王復遣使大夫伊聲耆・掖邪狗等八人、上獻生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木(弣?=弓柄)・短弓矢。」

 倭使が等を上獻してきたと言っています。「上獻」を辞典で引きましたが、見つかりませんでしたので代わりに「献上」の語意を援用します。

1 主君や貴人に物を差し上げること。 奉ること。「特産の品を献上する」2 点数をとられること。

この上献は明らかに「東夷屈服」に対応した、従属関係を示する用語です。                   

白石の視線は「屈服」ではない。 「魏に通じたまいし事 」

白石は三十七歳の時、将軍就任前の甲府藩主・綱豊(家宣)の侍講として仕えました。後に六代将軍・徳川家宣の側近となり幕府の要人でした。白石は将軍家宣にいろいろな幕府の政策を立案し建言しました。

『古史通』は甲府藩主時代の綱豊に講義した日本の古代史の内容を、『古史通或問』は講義の際の質疑応答を後にまとめたものとされています。両書は、いわば帝王学の教科書なのです。

白石はオランダを始め諸外国事情、国際関係も研究していました。それも書物にだけ頼るのでの学者ではありませんでした。イタリアの宣教使シドチが屋久島へ潜入して捕縛されたとき、四回にわたって直接取調をしました。それ以後、長崎の外国通辞とも親交を持ち色々な情報を得たようです。これらの情報とオランダ商館長から得た情報を増補・整理して、『西洋紀聞』 、『采覧異言』を記しています。

 

白石の国際関係論のご進講には日清関係も含まれます。では卑弥呼の時代の列島社会と魏の関係についてはどうでしょう。当然ありました。ご存知でしょうが、『古史通或問』で「魏志は実録に候」と述べ、「魏志」に登場する「倭人諸國」の位置を名宛でたどる手法をはじめてつかったのが白石です。

しかし古墳時代さしかかった卑弥呼のころの列島社会は、多くの村落共同体と、その連合で構成されていたといいます。倭人条にも「今使譯所通三十國」とあります。江戸時代には列島がこのような社会であったことを白石に理解させるだけの学問的インフラは存在しないのです。

白石の魏と倭の関係理解は、『記紀』の世界観を墨守した、なおかつを当時の清と徳川幕府の関係に擬していたと思います。「倭人諸國」は諸藩といった理解だったでしょう。

 

白石は景初三年を「皇后摂政三十九年」と言っています。皇后摂政とは『日本書紀神功皇后摂政紀にもとづく和暦です。白石の主張する卑弥呼の遣使は正始四年ですから和暦に直すと「皇后摂政四十三年」です。

白石は「『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始め」と言っています。『魏志』の記事の裏付けを『古事記』に求めています。白石にとって卑弥呼の遣使は『記紀』の世界の出来事なのです。

日本書紀』神功紀や、『古事記仲哀天皇(神功の夫)には三韓征伐のかっこいい話があります。『古史通』等の記事を見ると、白石はこれを史実として採用しています。

記紀』によれば本朝が中国に敗れるのは、ずっと下って天智二(663)年に唐と白村江で戦った時以外にはありません。魏に「東夷(倭)」が「屈服」した話なんか『日本書紀』や『古事記』には、載っていません。「是後倭韓遂屬帶方」という記事も、影さえ見えません。白石は『三国志』を読んでいるのです。それにもかかわらずそんな記事、ガン無視です。

白石の言う「魏に通じたまいし事の始め」とは『三国志』の記事では「東夷屈服」です。白石は魏に服属したことを意味する表現を置き換えています。

魏志は実録に候」と言いながらも、この部分は「唐人の寝言」にしか思えなかったのではないでしょうか。 現代に生きる私も中国の過剰な中華思想の発露には辟易することがあります。

あくまで対等な二国の関係とする白石にとって、倭人条にある、倭使が帯方郡を詣でたという話がどう見えていたかを考えてみました。

白石の思索をなぞってみます

白石は正始四年までは倭と魏の国交が開かれていなかったと考えています。であれば白石は倭人条の遣使記事について《景初二年六月に、我国の使人が、外交関係がない魏の帯方に至った」》とかんがえていた、というのがわたしのこの一句についての理解です。

 私の理解に基づいて白石の思考過程をなぞってみます。

 まず、Ⓑからです。

「b1遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。b2 其道未だ開けざらむにⒷ我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」

一句をb1、b2、Ⓑの部分に分けました。まずb2です

 

遣使記事を江戸時代末期の政情と重ねてみます。白石が次のような事態を起こりうることとして、想定、または、肯定し得るでしょうか。

嘉永六(1853)年六月、まだ国交がないロシヤの使節が、松前藩を訪れ、将軍への謁見を取り計らってくれと泣きついた。松前藩は、ロシヤの使節を、藩の役人をつけて江戸へ送った。その十二月、ロシヤの使節は、国交のないまま、江戸で大歓迎を受け、将軍に謁見、最恵国待遇を約束され、大量のお土産をもらって帰国した」

その後、日露間で国交が図開始されたのは安政三(1857)年のことであった。(白石は正始四年に国交開始主張しています。景初二年から四年後です。)

松前藩帯方郡にたとえました。もちろん現実には松前藩はロシヤ使節の上陸を許すことさえないでしょう。このような事態は、現代のライトノベルの世界以外では誰も想定しえない話です。幕末、列強の艦船が列島近海を遊弋し国交を求めてきますが、接触した藩が交渉窓口になるのではありません。交渉するのも拒絶するのも幕府です。

 

倭人条に「帯方郡に詣りてa2天子に詣りて朝献せん事を求む。」とあります。

この倭人条の記事は、一国(倭)の国使が、いきなり国交のない他国の一地方行政府に出向き、「国交を開こう、政府に口利きを頼む」と交渉した、白石にはそんな記事に見たのではないでしょうか。であれば「それはおかしい」と白石が感じたのは当然です。

もし現実にこのようなことが実に進行していたとすれば、原則主義者の白石は幕府高官として断固その事案を叩き潰したでしょう。

 

次にⒶを

其道未だ開けざらむに、が前提ですから、魏朝が任命した帯方郡太守が未着任である、として読んでください。着任は、公孫淵誅殺後の景初二年九月以降です。

「a1帯方郡に詣りてa2天子に詣りて朝献せん事を求む。a3其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしはⒶ心得られず」

先の例えに当てはめると、ロシヤの使者は藩主や奉行不在が長期不在中の松前藩か、の函館奉行所に泣きついたことになりますね。帯方郡自体が魏の新設だという考え方もあります。だとすれば、ロシヤの使者は小樽とか白老のコタンにいって将軍への謁見を取り計らってくれと泣きついたことになります。 にもかかわらず幕府はロシヤ使節最恵国待遇の朱印状を与えたというのです。

このように考えれば、白石の「心得られず」は実感を以て受け止められる言葉です。『三国志』は間違っているという白石の感想は理解できます。

「景初中大興師旅誅淵又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡而後海表謐然東夷屈服。」

 

この東夷伝序文をなぞりながら、白石の言いたかったのはこうではないでしょうか。

「魏が公孫淵を景初二年八月末に誅殺し、その後楽浪、帯方郡を回復した。だから我が国 (倭)は魏と国交を持った。景初二年六月の時点で、魏ははまだ公孫淵を誅殺していないし、二郡も回復していない。したがって国交もない。国交さえないのだから我国の使人が、魏の一地方行政府の帯方郡に”詣でる”はずがないではないか。ましてや帯方郡はいまだ太守の居ない郡である。なおさら”至るべきにもあらず。”」

 

白石はこれだけ不審点があるのだから、「景初二年」の遣使は成り立たない、唐陳寿の誤記、もしくは後世の誤写だ、としたのです。

 

今回はここで終わらせていただきます。なんだか書き始めた時想定した数倍の字数に膨らんでいます。