「遣使景初二年」の証明 4 --- 帯方郡はなかった1    ―記事№...31

古田氏の説のウソ、・・№28――2−1 景初3年が正しい理由―その27

湖南の景初三年説—帯方郡はなかった

出だしは前回と一緒です。すみません、

 

三国志倭人条に次のようにあります。

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。(倭人条)

「景初二年六月、倭女王が大夫の難升米等を帯方郡に遣わし、天子に詣でて朝献させてほしいと言って来た。帯方郡太守の劉夏は倭使を洛陽に送り届けた。」ですね。

 

この記事について湖南は『卑弥呼考』で自説を展開しています。

倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより・・・(卑弥呼考)」

難升米が、倭の使いとして初めて景初三年に魏におもむいたと言っています。

景初二年という『三国志』の記事は「誤なり」、と断言しています。その理由は、「説下に見ゆ」=後で説明する、でしょうか。

卑弥呼考』の最後近くに、「後で(の)説明」らしき文章を見つけました。

「湖南:「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」『卑弥呼考』

湖南は、「韓諸国が魏と交流できるようになったのは、司馬懿が遼東郡の公孫淵を滅ぼし、半島北部に魏の地方行政府である帯方郡が置かれ、太守が赴任し、それ以後のこと。」と言います。

公孫淵が誅殺されたのは景初二年八月末です。六月には「太守を置くに至らざりし」と湖南は言います。

 

   この一文で湖南が何を言いたかったのか、二通りの解釈が出来る、と私は思っています。

一つ目は前回述べさせてもらいました、「帯方郡後漢の建安年中に淵の父公孫康が建てた。景初二年の六月には魏の任命した太守は未だ赴任していなかった。」です。取り急ぎB氏の説を紹介したかったし、この解釈が定説になっている、と思っていますので先に紹介させてもらいました。

 湖南: 帶方の郡名は漢時になきを以て。―東夷列伝 倭条―

 もう一つの解釈は「後漢時代には帯方郡は存在しなかった。魏が派遣した太守の赴任をもって帯方郡は始まった。」です。

なぜ湖南がそう考えたと言えるか。湖南は『卑弥呼考』で上記引用文に先立って、次のように書いています。『後漢書』の有名なくだりへの解説です。

「倭在二韓東南大海中一。依二山島一爲レ居。凡百餘國。自三武帝滅二朝鮮一。使譯通二於漢一者。三十許國。」

三國志』が取れる魏略の文(注11)は、前漢書地理志の(注2)「樂浪海中有二倭人一。分爲二百餘國一。以二歳時一來獻見云。」とあるに本づきたるにて、其の「舊百餘國」と舊字を下せるは、此が爲にして、即ち漢時を指し、「今使譯所通三十國」といへる今は魏の時をいへるなり。然るに范曄が漢に通ずる者三十餘國とせるは、魏略の文を改刪して遺漏せるなり。但し帶方の郡名は漢時になきを以て、之を改めて韓とせるは、其の注意の至れる處なれども、左の條の如きは、猶全く其の馬脚を蔽ひ得ざるなり。

 

注  湖南が引用しているのは『後漢書』東夷列伝 倭条の記事です。

注1       湖南は陳寿の『三国志』の原本は魚豢(ぎょかん)の『魏略』だと主張しています。具体的には『三国志倭人条の下記の文です。

倭人在帶方東南大海之中、依山島為國邑。舊百餘國、漢時有朝見者、今使譯所通三十國(『三国志倭人条)」

注2「樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見雲。(『漢書』地理志)」

 魏略の「倭人在・・・」は『漢書』にある「樂浪海中・・・」の本歌取りだと言っています。 『魏略』の「舊百餘國」は『漢書』の「分爲百餘國」のことだと言います。魏略で「今使譯所通三十國」というのは「魏の時代に行き来しているのは三十國」という意味です。湖南に言わせると、「であるのに范曄が『後漢書』で、”漢に通ずる者三十餘國”とで書いているのは、遺漏だ」

と言っています。ただし、魏略(『三国志』)に「倭人在帶方東南大海之中・・・」とあるのを《帶方の郡名は漢時になきを以て》「倭在二韓東南大海中・・・」と直しているのは注意が行き届いている、と称賛しています。

三国志』の「倭人在帶方東南大海之中・・・」も魏略が原典だと言っています。

 

また、次のようにも言っています

「樂浪郡徼去二其國一萬二千里。」

 魏略は女王國より帶方郡に至る距離を萬二千餘里としたるも(注11、范曄は漢時未だ有らざる郡より起算するを得ざれば、已むを得ず、漢時已に有りたる樂浪郡の徼より起算せしなり。されど夫餘が玄菟の北千里といひ、高句麗が遼東の東千里といふ、いづれも其の郡治より起算せる例に照せば、女王國を樂浪の郡徼より起算せるは、例に外れたる書法なり。又云く

注 『後漢書』東夷列伝」からの引用

注1「倭人在帶方東南大海之中・・・・・・自(帯方)郡至女王國萬二千餘里。(『三国志倭人条)

魏略(『三国志』)では女王國から帯方郡への道程を萬二千餘里としています。范曄は『後漢書』で漢朝時代に存在しない郡を対象に起算するわけにはいかず、漢時代にも存在した楽浪郡の群境までを起算の対象としていると湖南は説明しています。

 

両引用文とも、後漢時代に帯方郡がないことを前提にしています。

後漢書』國郡志に帯方郡がないー

しかし湖南の記述には帯方郡が「漢時未だ有らざる郡」であるという論拠がない、そう思って『後漢書』郡國志をチェックしました。

 

帯方郡がありませんでした。

 

 帯方は郡國志中、楽浪郡十八城(県)の一つとして八番目に記されています。

十八城,戶六萬一千四百九十二,口二十五萬七千五十。

朝鮮,烫邯,浿水,含資,占蟬,遂城,增地、帶方、駟望、海冥、列口、長岑、屯有、昭明、鏤方、提奚、渾彌、樂都

 間違いなく『後漢書』郡國志に帯方郡の記載は、ありません。

後漢書』郡國志にないのですから、帯方郡は建安二十五(220)年まではなかったということになります。

 

 蛇足ですが帯方県は『漢書』地理志にも出ています。こちらも八つ目にあります。

樂浪郡,武帝元封三年開。莽曰樂鮮。屬幽州。戶六萬二千八百一十二,口四十萬六千七百四十八。有雲鄣。縣二十五:

朝鮮,□邯,浿水(水西至增地入海。莽曰樂鮮亭。)含資(帶水西至帶方入海。)黏蟬,遂成,增地(莽曰增土。)帶方,駟望,海冥(莽曰海桓,)列口,長岑,屯有,昭明(高部都尉治。)鏤方,提奚,渾彌,吞列,分黎山(列水所出。西至黏蟬入海,行八百二十里)東暆,不而(東部都尉治。)蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。

注:(  )内は後の時代につけられた注釈だそうです。

楽浪郡前漢武帝元封三(前108)年に開かれたとあります。帯方県もそのころからあったとすれば、ずいぶんと由緒正しい県なのですね。

 

韓条に次のようにあります。

「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子為其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏。」

----公孫淵は仍(な)お父祖三世で遼東を領有し、天子は絶域として委ねるに海外の事を以てし、かくて東夷とは隔断し、(彼らは)諸夏に通交できなくなった。

 

魏が太守を送れるようになった景初二年九月以降に帯方郡が建郡されたと考えざるを得なくなりますね。

またもや蛇足

湖南: 「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵司馬懿に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」

湖南やA氏の「倭国の使者が(存在しない)帯方郡へ(天子への)朝貢を願い出ることはあり得ない」という主張も絶対的な正当性を持ってくるように見えます。

では湖南の「景初三年説」は正しいのでしょうか。

景初三年に特定できる根拠は何 ?

仮に湖南の主張通り「二年とあるは誤」だとします

私たちは、景初二年遣使を否定した白石が初遣使年度を「正始四年ではないか」と言っているのを見ています。湖南以前に遣使年度について異説の大学者がいたのです。これは景初二年という箍を外しただけでは、遣使は景初三年以降のどの年度にでも設定できることを意味します。「遣使は景初三年」、と特定するには、景初二年遣使を否定したのとは別の根拠が必要になります。湖南は何の根拠も書いていません。

いくら何でも、大学識者、湖南が白石の主張を知らないはずはないと思うのですが。

帯方郡が存在しなくても遣使は「景初二年」

仮に、後漢末に帯方郡が存在しなくても「景初二年」卑弥呼の遣使はあり得るのです。

湖南の抜粋文の主旨

 湖南のこの一文は『三国志』と『後漢書』不付き合いを補正するために書いたものです。

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。」

 

「其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利・・・・- -」

 二つの文が合わさって景初二年六月、倭の使いが帯方郡に詣でたことを伝えています。ところが景初二年六月には帯方郡が存在しません。そこで湖南は「二年とあるは誤なり」として、に翌年、帯方郡の存在する景初三年六月に遣使をずらしたのです。「二年」を「三年」に、原文に訂正を加えたわけです。

帯方郡後漢では楽浪郡所属の県

 ところで「淵が司馬懿に滅ぼされ」帯方郡が建てられました。魏になって帯方郡はどこから出てきたのでしょう。後漢時代、楽浪郡にあった幾つかの県を分割して『帯方郡』を建てたのです。

後漢書』郡國志

楽浪郡18県    朝鮮烫邯浿水含資占蟬遂城,增地、帶方駟望海冥列口長岑屯有、昭明、鏤方提奚渾彌、樂都

 『後漢書』郡國志からの楽浪郡の構成を引用しました。『三国志』は屯有県より南が帯方郡になったといっています

『晋書』 地理志

楽浪郡 6 県  朝鮮  遂城    駟望     屯有   鏤方     渾彌

帯方郡 7 県       含資     帶方    海冥     列口  長岑   提奚  南新

三国志』には地理志に相当する部分がありません。次代の王朝を語る『晋書』の地理志から楽浪郡帯方郡を引用しました

魏の帯方郡後漢では楽浪郡所属の六県+一県だったわけです。

楽浪郡帯方郡と書き間違えたのです

 確かに後漢末、帯方郡が存在せず、湖南のように補正すれば倭人条の遣使記事は嘘になります。では『三国志』と『後漢書』の食い違いを補正するのに、湖南がやっているように、二年を三年に原文訂正することしかないのでしょうか。

 

違います、原文を訂正して良いのなら別の手法もあります。

先ず、倭使が帯方郡治に詣でたとあるのは、実は楽浪郡治の誤記だった、というパターンがあります。帯方県にやってきた倭使を楽浪郡太守が洛陽に送致したのを陳寿が取り違えたとかのケースもあり得ます。

 

湖南は公孫淵の生存、帯方郡の不存在を論拠に「二年とあるは誤なり」とする結論づけています。私はその設定を一切変えず、結論だけを「帯方郡治に詣でたとあるのは、実は楽浪郡治の誤記だった」と置き換えたのです。

どうですか、「其年十二月」に続く、「帶方太守劉夏」を「楽浪太守劉夏」と書き換えれば、景初二年に遣使があったことに何の問題もありません。

これは私が今、思いついただけの着想で、深くは考えはていません。よく考えれば景初二年で何の問題も起こらない補正の手法はもっとあるのではないでしょうか。

 

湖南は「景初”二”年」が「誤なり」、「景初”三”年」が正しいとし。一文字訂正が必要だ、と言っています。

私は「帯方」郡が「誤なり」、「楽浪」郡が正しいとし、二文字訂正が必要と言います

 

原文訂正をする箇所と文字数こそ違いますが、湖南も私も原文に手を加えていることは一緒です。そして根拠を示していないところも共通しています。

それでも人は湖南の訂正は是で、私の訂正は非であるとするでしょう。わたしはこれを「権威による魔術」だと思います。これだけでは「アカハラ」にならないのかな—-。

 

論文「卑弥呼考」は明治四十三(1911)年の執筆だそうですから、論拠を欠いた学説の魔力が百年以上も権威を維持できるというのは、流石は湖南、大学者です。

違うか、湖南の非を攻めあぐねる方がふがいないのか、どちらでしょうね。

後漢書郡國志に困ったこと

本論に戻ります。「帯方郡の不存在」です。

 

三国志』には、次のようにあります。

「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、

----、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とした。」

 『晋書』にありもます。

「帶方郡公孫度置。統縣七,戶四千九百

----帯方郡公孫度が置いたとあります。」

公孫淵の祖父、度は建安九年に没したそうです。

両正史にある記事を消し去ろうというのです。いくら偉い学者さんの指摘でも、にわかには信じられません。

 

それに地名探しでは『後漢書』でかなり苦労した経験があるのです。

「新都郡」のこと

三国志』の新都郡を『晋書』『宋書』で調べたこと

三国志』で呉の将軍、賀済の事績を追ったことがあります。

(建安)十三年春,權復征黃祖・・・・・・・・・是歲,使賀齊討黟縣、歙。分歙為始新、新定、犁陽、休陽縣以六縣為新都郡。(『三国志孫権伝)

---- 建安十三年春孫権は再び黃祖に兵を出した・・・・この年、孫権は賀齊を使って歙県と黟県を討った。歙県は始新、新定、犁陽、休陽を割けて五県とした。この五県と黟県の六県で新たに新都郡を建郡した。」

 その時、私は「新都郡」の位置がわからなかったのです。先ず『晋書』地理志を参照しました。

 

地理志には新都郡が二つでてきました。

 郡県一覧に次のようにあります

 

梁州 

「新都郡泰始二(266)年置。 統縣四 雒 什方 綿竹 新都

太康六(285)年九月,罷新都郡並廣漢郡。(『晋書』地理志)」

これは建郡年度が違いますし、梁州は孫権の勢力圏ではありません。また四つの統県の中に先の六県がありません。

 

 揚州

「獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,分丹楊立新都郡。(『晋書』地理志)」

----後漢献帝の興平中,孫策は豫章郡を分けて廬陵郡を立てた。孫權も又、豫章郡を分けて鄱陽郡を立て,丹楊郡を分けて新都郡を立てた。

 興平年中に孫策によって廬陵郡が建郡されました。興平は献帝になって二番目、建安の直前の元号で194年 - 195年のことです。

「(建安)十五年、分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡、以魯肅為太守、屯陸口。(『三国志孫権傳)」鄱陽郡は建安十五年です。

新都郡は建安十三年の建郡でしたね。

 そして揚州概説に

「改新都曰新安郡---新都郡を改めて新安郡と曰う」

とありました。

 

 郡県一覧にも次のようにあります

新安郡吳置。 統縣六,始新 遂安 黝 歙 海甯 黎陽(『晋書』地理志)

こちらは始新、縣、歙の三県名が一致しています。

 『晋書』が新都郡改め新安郡は漢の丹楊郡に属していたといっています。

 

別の書で調べたのですから、裏を取る気持ちで『宋書』も調べました。

 

  [宋書]州郡志  

揚州 

新安太守,漢獻帝建安十三年,孫權分丹陽立曰新都

始新令,孫權分歙立。

  遂安令,孫權分歙為新定縣,晉武帝太康元年更名。

  歙令,漢舊縣。

  海甯令,孫權分歙為休陽縣,晉武帝太康元年更名。分歙置諸縣之始,又分置黎陽,大明八年,省並海寧。

  黟令,漢舊縣。

 

 

『晋書』と同じ内容になっています。新都郡改め新安郡は漢の丹楊郡に属していたといっています。

 三正史の記述が一致したこと

このあたりで私もやっと気づきました。賀齊の事績を追っているのだから、『三国志』に賀齊傳があれば何か載っているはず、ということに。

呉書に「賀齊傳」がありました。当然か・・・。

三国志』賀齊傳

「建安十三年、遷威武中郎將、討丹陽黟・歙。時武彊・葉郷・東陽・豐浦四郷先降、齊表言以葉郷為始新縣。

----建安十三年、賀齊は遷威武中郎將となり、丹陽郡の黟・歙を討った。そのとき武彊・葉郷・東陽・豐浦の四郷は先に降った。賀齊は表を提出して「葉郷を始新縣と為す」と言った。」

 

 初めからこれに気づけばよかった、ですよね。

 結論として新都郡改め新安郡の母体は丹陽郡であることに決定です。新安郡は現在の安徽省黄山市一帯になります。

廬陵郡」と「鄱陽郡

 勿論『後漢書』郡國志もしらべました。しかし項目としての新都郡は見つかりませんでした。” 変だな ”と疑問に思った私はほかの地名(郡名)も調べてみることにしました。

 

 先ほど見た『晋書』揚州に孫策が立てた廬陵郡と、孫權が立てた鄱陽郡がありました。ひとまずこの二つにあたるにしました。

「獻帝興平中,孫策分豫章立廬陵郡。孫權又分豫章立鄱陽郡,」です。

  

先ず「廬陵郡」です。

 

三国志』では孫策傳にあります。

「分豫章為廬陵郡、以賁弟輔為廬陵太守、」

 孫策袁術の後援を受けて揚州刺史、劉繇を破りました。早速、揚州を孫家の根拠地とする人事配置をした。孫賁の弟、孫輔を廬陵太守に据えたのはその一環です。この年が興平元(194)年です。

 修正計画の管理人は建安元(196)年としていますが、どちらも後漢朝の時代です。

宋書』では州郡志にあります。

「廬陵太守,廬陵本縣名,屬豫章,漢獻帝興平元年,孫策分豫章立。」

 

次に「鄱陽郡」です。

三国志孫権傳にあります

「(建安)十五年,分豫章為鄱陽郡;分長沙為漢昌郡。以魯肅為太守」

宋書』では州郡志に出ています。

「鄱陽太守,漢獻帝建安十五年,孫權分豫章立,治鄱陽縣」

三国志』、『晋書』、『宋書』三史とも「鄱陽郡」、「廬陵郡」は後漢末期に建郡されたと記しています。

しかし『後漢書』郡國志には両郡の名前はありませんでした。

しかし今回はそうはいきません。

他にも有りそうだったのですが、その時はそこまででそれ以上立ち入りませんでした。賀済の事績のある新都郡(歙、黝)がどこであるか分かれば充分だったからです。

 

 しかし今回はそうはいきません。帯方郡と新都郡は同時期、建安年間の建郡です。『三国志』『晋書』や『宋書』で共通している記事内容が『後漢書』にないということを看過すれば、湖南の主張「漢の時には帯方郡がなかった」を力づけてしまいます。景初二年説が瓦解してしまいます。そこで古田氏の箴言「原文をみだりに改訂しない」を忠実に守りながら、『後漢書』郡國志について私のできる範囲で、解析をしてみます。

 

 

ここまでで六千字を大幅に越えています。年寄りには体力と気力が続きません。今回はいったん区切りをつけて、続きは次回ということでお願いします。