「魏書の "景初二年" は史実です」 第一回 一章 金文京教授の景初三年説 告知及び序 記事№32

 「このブログの筆者からのご連絡です。」でお知らせましたように、A氏のブログの所在が確認できなくなりました。氏の書かれた記事に対応して書き進めるスタイルをとってきた私のブログの記事は、読者の方が確認するべき大本を失い宙に浮いてしまうことになりました。

 そこで今回から、スタイルを改め、直接「景初三年説」と対峙し、その主張を検証し、卑弥呼の第一回遣使が『三国志倭人条に記された通り景初二年であると考えるべきであることを論証する方向で筆(キーボード?)を進めます。したがって今回から表題を「魏書の景初二年は史実です」に変更させていただきます

 

序. 対峙する対象の定義

 

前に述べたことがありますが、景初三年説として誰かがまとめたものがあるとは思えません。いろんな人がいろんな場合に「・・・だから倭人条の景初二年は間違っている。」と述べた総体を指して景初三年説と呼んでいるのだ、と私は思っています。このままでは散漫すぎて議論がなりたちません。だからといって、「これが景初三年説ですよ」と私がまとめたものを差し出しても納得できる人は少ないでしょう。

そこで、権威のある方の示してくれている「景初三年説」の概要を抜粋引用し、これをたたき台として話を進めさせていただくことで納得お願いします。

執筆者は金文京教授です。

 金文京教授略歴

東京都生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。京都大学大学院中国語学文学専攻博士課程満期退学。慶應義塾大学助教授、京都大学人文科学研究所教授、所長も務めた。2015年より鶴見大学教授、京都大学名誉教授。2010年『漢文と東アジア』で角川財団学芸賞受賞。

 

たたき台とする対象は、

講談社刊 『中国の歴史』後漢 三国時代 三国志の世界 第九章 邪馬台国をめぐる国際関係 倭の使節到来 卑弥呼使節は景初二年か三年か の 一部です。

 「景初三年」を主張する方は教授の主張では不満かもしれませんね。景初二年を支持する私にも、金氏の解説にそれはそれで異議があります。

――定説「景初三年説」の三つの理由、ですか。――たたき台としてはこのあたりがころ合いかとは思います。

 有難いことに、ここは私のブログですから、金氏の挙げてみせる三つの理由を批判しながら金氏の解説にもクレームを入れていきたいと思います。

 

 

この後の、執筆予定ですが金文京氏の要約にもとづいて、現時点ではおおよそ次のように展開したいと思っています。

 

    [目次]  2019.7.13改訂

  序 対峙する対象の定義(記事№.32)

 第一章 他史書の景初三年記事

 第零節  新井白石の「卑弥呼初回遣使」
ネット上に見る ”新井白石
  1.目を押せば二つに見えるお月さま
  2.頑固おやじの言いたい放題
  3.コタロー邪馬台国を訪ねて
  4.サイト名不明
  5.サイト名不明
新井白石の主張
  『古史通或問』からの引用 
  白石は「正始四年論」者
  古田武彦氏による「”景初三年説”創世記」
 

 第一節 『梁書』諸夷伝

 第二節 「日本書紀」と「翰苑

        総論 引用の原則

       『日本書紀神功皇后

       『翰苑』

 第三節 その他

第二章 戦中の遣使

  第一節 倭使は洛陽ではなく、帯方郡治に詣でた

  第二節 戦争中の遣使はあり得ないのか

   使者の任務と性格

   先行解放説

   帯方郡先行解放説と倭使すり替え説

  第三節 白石の主張

  第四節 湖南の主張

  第五節 司馬懿は楽浪・帯方に侵攻していない

  第六節 韓条に出てくる楽浪・帯方太守

  第七節 御前会議で奇策の存在

第三章 存在しない一年の空白

 

 

―この表は必要に応じて随時変更いたします―  

 ( 改訂した日付  目次の改定は " 目次 " の脇、本文の改定は改訂した項目の後ろに記入します)

 

私は、論述についての初心者です。執筆の流れによっては新しい章や節が入るかもしれませんし、大筋も変わるかもしれません。一部分にのめりこんで、そこだけが膨らんでしまう可能性もあります。その時はこの予定表に全体構成の変更を反映させます。読者各位において私が何について書いているか分からなくなった場合、必要であればここに戻ってみてください。

 

第一章を七月十日までには書き込むつもりでいます。