〔「東夷傳序文」の風景〕の続きと、前回「ここまでの纏め」の書き直しです。――記事№...13

古田武彦氏の説のウソ、・・№10」――2−1 景初3年が正しい理由―その9

〔「東夷傳序文」の風景〕の続きと「ここまでの纏め」の書き直しです。前回の「ここまでの纏め」に補足を加え、(削除すべきなのでしょうが)今回の後半で書き直しました。

目次

 

〔「東夷傳序文」の風景〕に戻ります。

緊急で『卑弥呼考』を入れましたので「東夷傳序文」についての説明が未完になっていましたまず前々回引用した「東夷傳序文」前半を(私なりに)要約します。

 

前段の要約。

「(魏は漢に禅譲を受けました。魏は「三国志」のテーマが語るように、南方で呉、蜀と対峙していました。北方は前傳(烏丸、鮮卑)にあったように、烏丸、鮮卑の跳梁に悩まされています。)

西方は凡そ漢の版図を維持しています。

東方は、漢末から始まった公孫家の遼東郡占拠は魏になっても改善どころか、悪化していました。公孫家の勢力のあまりの強さに魏の天子はこのあたりを絶域と見なすようになり、東夷から中国の地へ使者がやって来ることも不可能となっていました。

( 南方の国難諸葛孔明の死で小康を得ました。そこで明帝は朝廷内の異論を抑えつつ、まず東方の状況を打破する戦略を実施することを決意します。)」そして景初中・・・、とお馴染みの引用文に続いています。(  )は私の補足部分です

「景初中,Ⓐ大興師旅,誅淵,①Ⓑ潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,②又Ⓒ遣偏師致討窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。

後段について述べます。

原文の引用を続けます。

 

「践粛慎之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、

――粛慎の居住地に足を踏み入れて、東方の大海を望む地にまで到達した。〔そこに住む〕老人の言葉によれば、不思議な顔つきの人種が〔さらに東方の〕太陽の昇るところの近くにいる、とのことであった。 —筑摩-

――粛慎の庭を踐み、東のかた大海に臨んだ。長老が説くには、異面の人が日の出る所の近くにいると -修正-」

扁師は現ロシア領沿海州ウラジオストックの海岸まで至ったとされています。「異面之人」を倭とみるか、上古のエミシやエゾとみるか、それ以外の異族がいたのか、どうなのでしょう。

 

次の文節は「序文」の結語にあたります。これまで述べてきたことの結論をまとめています。

遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。雖夷狄之邦、而俎豆之象(古中国の祭祀儀礼)存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

――そのあたりの国々をくまなく観察してまわり、その掟や風俗を採訪して、彼らの間の大小の区別や、それぞれの国の名が詳細に記されることになった。これらは夷荻の国国(ママ)であるが祭祀の儀礼が伝わっている。中国に礼が失われたとき、四方の異民族の間にその礼を求めるということも、実際にあり得るのである。それゆえこれらの国々順々に記述しを撰次(編纂)し、それぞれの異なった点を列挙し、これまでの史書 (『史記』、『漢書』) に欠けているところを補おうとする。-筑摩-

――かくて諸国を周く観察してその法・俗を採訪し、小大の区別や、各々の名号を詳紀(詳記)する事ができた。夷狄の邦とはいえ、俎豆之象(古中国の祭祀儀礼)は存在している。中国が礼を失うと、この四夷に求めたのも信用できる。ゆえにその国を撰次(編纂)し、その同異を列る事で、前史の未だ備わっていない事に接(つな)げる。-修正-」

私だったら下線部分を、次のような訳にします。

「ついに、中華の周辺にある国々を実見することが出来た(これは周や漢さえも、なしえなかった偉業である)。-筆者-」

 

陳寿は「東夷傳」を、「蕃夷の地を魏が実際に践んで記録した報告を撰次(編纂)したものだ」、と述べています。「周や漢は到達できず、『史記』、『漢書』にもそのような記事はない。」と誇らしげに

烏丸鮮卑傳の編纂目的。

当然ですが「烏丸、鮮卑傳」「東夷傳」はそれぞれの「序文」でそれぞれの傳を編した目的を述べています。

まず「烏丸、鮮卑傳」です。

「其習俗・前事、撰漢記者已録而載之矣。故但舉漢末魏初以來、以備四夷之變云。

――彼らの習俗や来歴は、漢代の記録者が既に書物に載せている。それゆえここでは漢末、魏初以降のできごとだけをとりあげて、四方の異民族のおこした事変に欠けた部分がないようにするのである。—筑摩—

――その習俗や前の事は、『漢記』を撰した者が已に記録して載せている。その為ただ漢末魏初以来の事を挙げ、四夷の変遷に備えるものとする。-修正-」

 

 筑摩は「四方の異民族のおこした事変に欠けた部分がないようにするのである」と、修正は「四夷の変遷に備えるものとする」と訳していますが、これでは意味がぼやけていると思います。

 

「烏丸、鮮卑傳序文」は次のような書出しです。

「書載《蠻夷猾夏》、詩稱《玁狁孔熾》、久矣其為中國患也。秦・漢以來、匈奴久為邊害。

――『書経』(舜典篇)には「夷番たちが中華の地を乱す。という記事があり、『詩経』(小雅・六月)は「玁狁(異民族)の勢いがはなはだ盛んだ」と述べている。彼ら夷番の者たちが中国の地に災いをもたらすのは、この様に古い昔しからのことなのだ。秦漢以来、匈奴が久しく辺境の地に損害をあたえてきた。-筑摩-

――『書経』は 「蛮夷が華夏を猾(みだ)す」 と載せ、『詩』は 「玁狁は孔熾(甚盛)」と称し、久しく中国の患いとなっていた。秦・漢以来、匈奴は久しく辺境の害を為した—修正-。

 

 この記事を受けて文節末ですから「今後、起こる「四夷之變(四夷との抗争)」に備えて、『史記』や『漢書』に記載されていない漢末魏初以來の、烏丸や鮮卑と抗争を記録することを但(もっぱら・そのことだけをするさまgoo辞典) とした筆者―。

(領収書の「但し 宿泊費」というのは、頂いた金額の内容は、頂いた金額は宿泊費だけです、という意味だそうです。)

 このように理解し、漢末魏初以來の烏丸鮮卑との抗争史を記録したと理解することも出来ると思うのですがどうでしょう。これが「烏丸鮮卑傳」の編纂目的です。

「『三國志』修正計画」さんの提供してくれている「烏丸鮮卑」原文を読んで吟味して見てください

東夷伝の編纂目的。

次は「東夷傳」です。全く違っています。

「魏は前代未踏の地域に到達した。これらは夷荻の国々国であるが(中華古代の)祭祀の儀礼が伝わっている。今(後漢末から三国時代にかけて)、中華は戦乱に明け暮れ、正しい礼が失われる可能性がある。将来失われた礼を、これら夷蕃の諸国に伝わり残ったものを集めて再建するという事態もあり得るのだ。それゆえこれらの国々の国情をつぶさに記録する。」

 

このように要約して良いのではないでしょうか

「東夷傳」のクライマックスは「東臨大海」。

「東夷傳序文」のクライマックスは公孫淵誅殺にあるのではなく、魏が前王朝未踏の「東臨大海」に至った、偏師(支隊)の威力偵察にあるのです。

おとぎ話の桃太郎で言うと、「東臨大海」が鬼ヶ島にあたります。遼東討伐は犬に、楽浪、帯方郡を収めるのはサル、高句麗討伐は雉に黍団子を与える場面にあたると思います。

 

「序文」のクライマックスは「傳」全体のクライマックスであるはずです。東方前王朝未踏の地の果て、と言えば倭もそうです。なぜ「東臨大海」に至った時が「東夷傳」のクライマックスだといえるのでしょう。

 

倭が魏に朝見を請い、「親魏倭王」としてその封を受けたのは景初二(238)年か景初三(239 )年です。「東臨大海」は正始五(244)年です。この時、到達可能な東夷はすべて魏に屈服したのです。それゆえ「東臨大海」の後、結語の文節の文頭で「《遂周觀諸國――ついに、中華の周辺にある国々を実見することが出来た》」と述べているのです。

「遂周觀諸國」の成果を後世の為に記録すると言っているのです

お詫び。

 本来「『卑弥呼考』をみつけました」はこのあとに述べるべきでした。見つけたのが嬉しくて、・・。申し訳ありません

ここまでの纏め。

 こんがらかってきました。

書きこむ順番を間違えて進めるうちに、書いている本人の脳中が、こんがらかってきました。そこで一旦進行を止めて、ここまで書いてきたことを整理しておきたいと思います。

 

A氏が古田氏の著書『邪馬台国はなかった』を批判しています。古田氏の著書は邪馬台国が九州福岡の博多湾岸にあった事を論証しています。A氏の批判の焦点は、-第二章いわゆる「共同改訂」批判Ⅱ戦中の使者-に絞られています。A氏がここを批判することで邪馬台国、近畿説を支持しているのかどうかは、論及が確認できませんので不明です。

 

-第二章-中国の古史書には邪馬台国に触れた部分があります。日本の先賢たちは、そこをさまざまに解釈しているのですが、古田氏は、なかに解釈を通り越し、「(史書)本文の改定(改竄)」の域に至っているものがあると、指摘します。先賢たちに共通していると考えられる「本文の改定」例を挙げています

-Ⅱ戦中の使者-では『三国志』で紹介された邪馬台国記事に加えられた「改定」の一つ、魏への遣使年度の改訂です。「三国志」には景初二(238)年とありますが、先賢達は景初三(238)年が正しいとします。

 

 古田氏は、『三国志』記事の文脈から景初三(239)年が「本文の改定」であり、景初二年は間違っていないことを論証するのですが、A氏は、その論証に”嘘”が多いと批判しています。それが氏の論考「古田武彦氏の説のウソ」という表題の意味です。A氏は古田氏の個々の” 嘘 ”を指摘する前に「1 景初3年が正しい理由」で、遣使、景初二年説を否定してみせます。

A氏が遣使、景初三年を正しいとする論拠は筑摩書房版『三国志』訳本「東夷傳序文」と「公孫度傳」にあります。(記事№3)

「景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。」

「「魏志公孫淵伝(ママ)」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。」

 

—筑摩-の「倭人条」には「景初二(238)年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。――景初二年六月に卑弥呼帯方郡治に使いを派遣した。使者の趣は天子に朝獻したいという申し出だったので帯方郡太守劉夏は洛陽まで使者を送り届けた」とあります。

 

 A氏は「東夷傳序文」と「公孫度傳」を根拠に倭人条の記事を誤りとします、六月にはまだ公孫淵が誅されておらず、帯方郡は魏の支配下ではない、と言います。すると帯方郡治には魏の太守が存在していない。したがって「倭人条」の記事は誤りだ、として景初二年遣使を否定するのです。

そして、A氏は姚思廉、新井白石内藤湖南が「異口同音に」自分とおなじ説を述べていると述べました

本稿の現状。

ここまで私の記述が増えたのは、この三先賢への対応が重かったからです。私はA氏の姚思廉、新井白石内藤湖南が「異口同音に」A氏と同じく倭の遣使、景初三年説であるという主張を検証しました。姚思廉の「梁書」の景初三年を誤記だとして退けました。新井白石が正始四年を提唱していることを指摘しました。ここでA氏の主張する「異口同音」はなくなりました。内藤湖南の「卑弥呼考」での、景初三年についての記述は、論として成り立っていないことを立証しました。

 

というわけでこれからの私の検証は、三先賢を考慮する必要がなくなったというのが現状です。ここからは「A氏の筑摩書房版『三国志』訳本訳文を根拠にした景初三年説」を検証することに専念する事が出来ます。

古田氏が唱える倭の遣使景初二年説が正しいか間違っているか、結論を出しましょう

邪馬台国論争との関係。

念のために申し添えておきますが景初二、三年問題が解決しても邪馬台国が九州であるか近畿であるかの論争解決に直接は結び付きません。影響があるのは精々、景初三年鏡が邪馬台国論争の論点になりえるかどうかというところまでです。

史書解読の結果、遣使が景初三年という結論であって初めて、景初三年鏡が重大な論点になるのであり、結論が景初二年で落ち着けば、景初三年鏡は邪馬台国論争の論点とはなりません。そこまでです。

 

毎日新聞に次のような記事がありました。

三角縁神獣鏡 中国で「発見」? 徹底的な追究を期待

 三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)という日本の古墳から出土する銅鏡が、初めて中国で出土したとする報告が現れ、関西を中心に報道された。事実なら、古代史最大の謎、邪馬台国(やまたいこく)所在地論争を左右する発見だ。しかし、出土状況が不明なため、資料価値を全否定する見解もある。私も最初そう思ったが、興味深い論争を一歩前に進める機会になるかもしれないと考えを変えた。

大阪府教委文化財保護課の研究者、西川寿勝副主査が昨年11月、現物を調べた後、広く日本に紹介した。09年以前に同省の洛陽(らくよう)(魏の首都)近郊で農民が見つけ、骨董(こっとう)市に出されたのを研究者が入手したという。不明瞭な経緯だ。

毎日新聞2016年3月2日 東京朝刊

この記事には、この鏡についての議論の経緯等いろいろ書かれているのですが、一部のみを抜粋しました。

 

 執筆した筆者は邪馬台国所在地論争に中立の立場で書いているようですが、遣使景初二、三年問題では三年の立場をとって書いていることを読み取れますか

 三角縁神獣鏡は魏で作られた鏡である。魏使が卑弥呼に鏡をもたらしたのは正始元年である。であれば景初三年の銘がある三角縁神獣鏡卑弥呼に下賜されたものである。三角縁神獣鏡が出土するのは圧倒的に近畿地方である、したがって邪馬台国は近畿にあった。

これは小林行雄博士の唱えた説の要約です。判りやすく書きましたが、もちろんこれほど単純ではありません。

現在も遣使景初三年問題が定説となっているようですが、私は、これは景初三年鏡を根拠とした小林行雄博士の立論が大きく作用していると思っています。

 

ところが近年、三角縁神獣鏡は国産であるという説が盛んになってきました。このままでは小林行雄博士の説は否定されてしまいます。

そこに三角縁神獣鏡が中国の洛陽近郊で見つかりました。

 

この三角縁神獣鏡が本物の中国産であれば、日本出土の景初三年銘三角縁神獣鏡も魏由来の鏡である可能性がある。であれば小林行雄博士の説は元気に復活する。

 

これが毎日新聞の記事の要旨です。

 

古田武彦氏は『三国志』の記事を根拠に小林博士の説を否定しています。

  倭の使は景初二年十二月に鏡の下賜を受け、持ち帰るはずだった。ところが明帝の不予によってそれが出来ず、手ぶらで帰国した。正始元年に魏の答礼使が持参したのは、景初二年十二月に下賜された鏡である。したがって卑弥呼の下賜された鏡に景初三年の銘があるはずがない。(要約)

 鏡はこの詔書とともに倭使へ下賜されるべく準備されたはずです。景初二年に用意された鏡に「景初三年」という銘が入っているはずがありません。確かに小林氏の説は「三国志」にある帯方郡治への「景初二年六月」遣使という日付と、明帝が「其年十二月、詔書報倭女王曰」という記事を無視しています。

 

古田氏の説が正しく遣使が景初二年であれば、三角縁神獣鏡の真贋以前に小林氏の説は無意味であることを言いたかったのですが意味は通じたでしょうか。

 遣使が景初三年でなければ「景初三年」と書かれた鏡に邪馬台国の位置を云々する資料的価値はないのです。

毎日新聞の記事はこの点を無視しています。『三国志』の「景初二年六月」と「其年十二月」という日付があるのを無視しているのです。邪馬台国の位置に記銘三角縁神獣鏡がかかわるのは景初二、三年問題が景初三年に決着してからの話なのです。

 

以上述べたようにのように景初二、三年問題は直接的には邪馬台国には影響を与えません。マイナーなテーマですがよろしくお付き合いください。