「収=攻め取った」は誤り――記事№...15

古田武彦氏の説のウソ、・・№12」――2−1 景初3年が正しい理由―その11 

 

今回からA氏の主張する遣使景初三年説の根拠について検証して行きたいと思います。論拠となっているのは筑摩書房版『三国志』訳本の訳文です。

まず前回述べましたように「收樂浪帶方之郡――楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。」の「収――攻め取った」についての検証です。

目次 

 

戦闘の終結

 訳文では両郡を「攻め取」ることで司馬懿の遠征が終わったことになります。「攻め取る」で、私がすぐ思い浮かぶのは大阪城落城であり、戊辰戦争若松城、函館戦争の五稜郭等ですね。

 楽浪、帯方郡は併せて北朝鮮の西半分くらいの面積があります。北海道か九州ほどの広さです。イメージ゛としては小田原城落城による関東平定でしょうか。秀吉軍の関東侵攻によって小田原城以外の諸城も包囲され攻撃を受け、落城しました。

「攻め取」られたのであれば、この時、両郡の郡治とその他の拠点で激しい攻防戦が繰り広げられたと想像するのは当然です。しかし、原文の「烏丸鮮卑東夷傳」にその事を伝える記事は一切なく、「收樂浪帶方之郡」と伝えるだけです。つまり陳寿の見た二郡平定の実相は「収」という一文字に凝縮していることになります。

 「収容-攻め取った」という訳について一旦はなんらかの確認をしておく必要があると思うのは私だけでしょうか。

A氏は何の検証も加えていませんが、少なくとも私は「収」についての日本語的語感が「攻め取る」という訳に違和感を覚えました

『諸橋大漢和辞典』。

「收」について『諸橋大漢和辞典』を調べてみました。

 

三国志』原本では収が收とあるようです。『諸橋大漢和辞典』に「収は收の俗字」とあります。同義語と考えて話を進めます。

 親字単独の訳語を抜粋します。品詞としてこの「收」は動詞として使われていますので動詞だけを抜き出します

 

❶をさめる

 ㋑とらえる。引き留める。㋺あつめる。㋩とりいれる。㊁とりもどす。㋭しまう。たくはへる。㋬ういれる。㋣もつ。にぎる。とる。㋠かすめとる。うばう。㋷めしあげる。㋦ととのへる。㋸かへす。

 ❷をさまる㋑ちぢむ。しぼむ。㋺かえる。㋩やむ。をはる。㊁かくれる。㋭きえる。

 ❸みのる。

 ❹とりいれ。とりいれたもの。

 ❼をさむ。

 ❽ただす。

 ❾あげる。あばく。

 ❿くむ(汲む)。

 

 それぞれの訳語の後には複数中国古典中の例文が示されています。ここに「攻め取った」という訳語はありません。

 

次に「収」を含む二文字( 収容、押収等 )で構成される用例が列記されています。二百例以上が列記してあります。多すぎるので引用できません。この中にも「攻め取った」という訳の例文はありません。疑問に感じる方は近くの図書館で実見してください。

 

『諸橋大漢和辞典』にある「收」の訳語を当てはめる限り「收樂浪帶方之郡」には戦火の炎は上がっていません。それはこの後に記したの―筑摩—修正-の「收」訳例文でも同じです。

❷、❻、❼、が戦闘との関連があります。❷、は勢力圏を広げたことを意味し、❻は遺民を集めたことです。❼は賠償を受けとったのですが、攻めることで奪取したものではありません。「收」を「攻め取る」とは訳せません。

もう一つの戦闘終結のかたち。

戦闘終結の形態には、もう一つあります。「降伏-帰順」です。「攻め取」ったと「降伏-帰順」の比較を判りやすくすれば第二次大戦終了時の日本とドイツの違いです。

ドイツはソ連軍に首都ベルリンまで攻め込まれ、ヒトラーの自決があり首都ベルリンが陥落した後に降伏しましたが、その後もSS等、散発的な抵抗が続いたようです。この場合は「攻め取った」です。公孫淵親子が誅殺された襄平も「攻め取」られた戦争終結です。

 

日本は列島本土に攻め込まれる前に、無条件降伏を受け入れ国土を「接 ”収”」されたのです。島内に連合軍が進駐して来ても戦闘はありませんでした。したがってこの場合攻め取られたとは表現しません。敢えて言うなら南千島沖縄諸島は攻め取られたのであり、本土四島は占領軍に収容されたのです。

 

原文は「楽浪・帯方」は収められたと言っています。「諸橋大漢和辞典」の訳語を当てはめても、二郡は武力衝突がない状態で、魏の進駐軍に「収」められたと考えるしかありません。

 

―筑摩—修正-が「烏丸鮮卑東夷傳」中の他の「收、収」をどのように訳しているかを、調べて、末尾に対訳引用しておきました。参考のため「三国志修正計画」さんの訳文も併記させて貰ってあります。

❹「東夷傳序文」―筑摩―だけが「攻め取った」という訳になっています。繰り返しになりますが「諸橋大漢和辞典」に、その訳語がありません。「烏丸鮮卑東夷傳」中に「攻め取った」を裏付ける記述はありません。「收――攻め取った」は明らかに誤訳です。

訳文の例示。

烏丸

❶「會袁紹、兼河北乃撫有三郡烏丸。寵其名王而其精騎。其後尚熙、又逃于蹋頓。

 ―筑摩―

ちょうどそのころ袁紹は河北の地を兼併すると、三郡(右北平・漁陽・雁門の三つの郡か)の烏丸を手なづけ、彼らのうち名ある首領を手あつく待遇して、その精鋭の騎兵を自分の軍隊に加えた。そののち袁尚と袁熙も[烏丸の] 蹋頓単于のもとに逃げ込んだ。

―修正―

折しも袁紹が河北を兼領し、かくして三郡烏丸を按撫し、その名王を寵してその精騎を収めた。その後、袁尚・袁熙が又た蹋頓に逃れた。」

 

ここでは「又逃于蹋頓」に関して「又」=「後」の関係をちょっと触れておく必要がありそうです。

 

袁紹が死ぬと三人兄弟の長兄袁譚と末弟袁尚が後継争いを始めます。袁譚曹操と結んで袁尚と対峙します。

 

袁尚曹操および兄袁譚に敗れると、これまで曹操と敵対していなかったにも関わらず、袁煕はあえて弟を管轄地の故安に迎え入れて助けた。この行動は幽州の豪族に反感を抱かれ、結果的に焦触・張南ら多くの離反を招いてしまう。袁煕は弟とともに遼西の烏桓の大人(単于)楼班を頼って逃れた。建安12年(207年)、遼西に進軍してきた曹操を、袁煕袁尚烏桓王蹋頓(楼班の族兄)らと柳城で迎撃した(白狼山の戦い)。しかし再び敗れ、最後は遼東の公孫康を頼って落ち延びた。(wikipedia)

 

頼った楼班単于が敗れ「後 (又)」、烏桓王蹋頓のもとへ逃れた、と理解することも出来ますが、そのようにと理解すると「其後尚熙、後(又)逃于蹋頓――そのあと袁尚と袁熙が、あと蹋頓のもとに逃げた」という文章なってしまいます。文章が意味を成しません。

 

「其後」の「其」は袁紹烏桓の首領を手あつく待遇した時点を指します。この記事の主人公は袁紹に引き立てられた烏桓王蹋頓です。袁尚も袁熙も蹋頓のもとには「又」逃げたのではありませんから、「袁煕も又袁尚も」、と理解し「袁煕袁尚が揃って(又)蹋頓のもとに逃れた」という訳が適切です。

鮮卑

❷「後鮮卑大人軻比能、復制御羣狄、盡匈奴故地。自雲中五原以東抵遼水、皆爲鮮卑庭。 

―筑摩―

鮮卑大人(酋長)の軻比能がまたもや北方の異族達を支配下に収め、匈奴の故地をすべて占有して、雲中・五原から東は遼水に至るまでの土地が、すべて鮮卑の支配するところとなった。

―修正―

後に鮮卑大人の軻比能が復た群狄を制御し、悉く匈奴の故地を収め、雲中・五原より以東の遼水に抵たるまでを皆な鮮卑庭とした。」

 

❸「投鹿侯固不信。妻乃語家,令收養焉,號檀石槐,長大勇健,智略絕衆。

―筑摩―

鹿侯はもとより投そんな事を信じはしなかった。妻はそこで実家の方に話をつけ、そこで養育してもらうことにした。その子は檀石槐と名のり、成長するとともに勇敢で人なみ優れた智謀を持つ人物となった。

―修正―

投鹿侯は頑として信じなかった。妻はかくして実家に語って引き取り養育させ、子の名を檀石槐と号した。長じて勇健となり、智略は衆に絶した。」

鮮卑の投鹿侯は匈奴の軍に従うこと三年、不在にして帰ってくると子が生まれていた。妻が子について弁明するが・・・という話です。

東夷傳序文

❹「大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、

―筑摩―

大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った

―修正―

大いに師旅を興して公孫淵を誅し、又た潜かに軍を海に浮かべて楽浪・帯方の郡を接収

夫餘

❺「王疑以爲天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。

―筑摩―

王は、これは、天帝の子ではないかと疑い、その母に手元において養育するようにと命じた。その子は東明と名付けられ、いつも牧馬の仕事に従っていた。

―修正―

王は天の子かと疑い、かくしてその母に命じてこれを収め畜(やしな)わせ、名付けて東明といい、常に牧馬させた。」

❻「遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、

―筑摩―

公孫模や張敞らを送って、これまで取り残されていたその地の中国の移住民たちを結集し、兵をおこして韓と濊を伐たせた。

―修正―

公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、韓・濊を伐ち」

 

❼「辰韓曰:《五百人已死,我當出贖直耳。》乃出辰韓萬五千人,弁韓布萬五千匹,鑡收取直還。

―筑摩―

《五百人はもう死んでしまったので、かわりにその賠償させてほしい。》そこで辰韓からは一万五千の人間を出させ、弁韓からは一万五千匹の布を出させ、廉斯鑡はそれらの賠償を受け取って帰還した。」

―修正―

辰韓曰く 《五百人は已に死んでいる。我らは贖値を出そう》 。かくして辰韓は一万五千人を、弁韓は布一万五千匹を出し、廉斯鑡は贖値を受け取って還った。

❽「宗族尊卑、各有差序、足相臣服。收租賦。有邸閣國。」

―筑摩―

宗族関係やその尊卑については、それぞれ秩序があって、上の者のいいつけはよく守られる。租税や賦役の徴収が行われ、その租税を納める倉庫が置かれている。

―修正―

その尊卑については、それぞれ序列があって、上の者のいいつけはよく守られる。租税や賦役の徴収が行われ、その租税を納める大きな倉庫が置かれている。(唐代以前には倉庫を邸または店と呼んだ。閣は高い建物のこと 

❾「其俗不知正歲四節,但計春耕秋收爲年紀。

―筑摩―

彼らの間では正月を年の初めとすることや四つの季節の区別は知られておらず、ただ春の耕作と秋の収穫をめやすにして年を数えている。

―修正―

その世俗では正歳(正月)・四節を知らず、ただ春の耕作と秋の収穫を計って年紀としているだけである。」

(「『三国志』修正計画」の訳を一部修正)