「魏書の "景初二年" は史実です」第二回 第一章 金文京教授の景初三年説 第零節 新井白石の「卑弥呼初回遣使」 №33

                    (「魏書の景初二年は史実です」の予定目次は記事№32にあります)  

めんさい 、大幅に改訂してしまいました。

 金文京教授の世界に入らせてもらうまえに一つ片づけておきたいことがあります。

ネットの世界で景初二、三年問題がテーマになる場合、常に白石が「景初三年論」の開祖として引き合いに出されます。これは明らかに誤解か思い込みによる誤りです。さて教授は私の見る限りでは白石に触れていません。このまま教授の世界に立ちいらせてもらうと、私もこの稿では白石に触れられなくなりそうです。ですので、その前に、新井白石について一般理解の誤りを正しておきたいと思うのです。

ネット上に見る ”新井白石

 ざっとですが、ネット上で《白石と景初三年説》について触れている記事の該当個所を抜粋引用します。パット見でわかるものに限定してありますが、白石が景初三年説の開祖で大御所だと主張する方の多さを垣間見ることは出来できると思います。

1.目を押せば二つに見えるお月さま

実際、日本では日本書紀が正しく、間違っているのは魏志倭人伝の方だという事がずっと言われてきた。新井白石内藤湖南も景初三年説を取っている。その理由は、日本書紀の著者が調べたように、三国志以外の史書梁書や北史に景初三年と書いてあるし、景初二年では辻褄が合わないことを指摘できるからである。

2.頑固おやじの言いたい放題

 『魏志倭人伝』では、卑弥呼が魏に遣使したのは景初2年(238年)6月となっているが、松下見林と新井白石そして内藤湖南は、景初2年は景初3年の誤りだと推定した。

3.コタロー邪馬台国を訪ねて

実は歴史の教科書には、はっきりと景初3年(239年)と書かれていたりしております。

と、いう訳で、基本的には景初3年が新井白石以来の通説なのですが、この提唱により「ん⁉️待てよ」となったのが古田学説という訳です。

4.サイト名不明

(https://35546864.at.webry.info/201602/article_1.html)

上にあげた先達の三氏(新井白石・松下見林・内藤湖南)は当代きっての学者達です。その有名な学者たちが、①“其道未だ開けざらむ”、②“当に三に作るべし”、③“六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり”…、と、各氏、後代(五世紀)の平和の時代の感覚で著された「梁書」から、または、その「梁書」から引用した『日本書紀』の「景初三年」を孫引きして「景初三年」が正しいとして説明していますが、五世紀の平和の時代に生きた姚思廉は自身の生きた二世紀前の実状況を把握しての提唱だったのでしょうか。

(「梁書から引用した」は「魏書から引用した」の勘違いでは?)

5.サイト名不明

(http://tsukudaosamu.com/pdf/2-5.

pdf#search=%27%E6%96%B0%E4%BA%95%E7%99%BD%E7%9F%B3+%E6%99%AF%E5%88%9D%E4%B8%89%E5%B9%B4%27)

新井白石の『古史通或間』に、 「遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の 事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」とある。 魏が公孫淵を伐ったのは景初二年八月であるから、六月にはまだ道は開けていなかったはずである。したがって景初二年六月ではない。

これらの研究(新井白石・松下見林・内藤湖南)により 「景初三年」が通説になっている。古田氏はこれに対し 「景初二年」が正しいと主張した。

 

 ご紹介は五つサイトまでにしておきます。物足りない方は、ご自身でも同様な主張をするサイトを確認してみてください。しかし、今回の検索で引っかかってきたのは、どういうわけか「景初二年説」の方が混じっているようで。「景初二年」論者の見た「景初二年説」の紹介にもなっています。

新井白石の主張

 ところが金教授は「内藤湖南の「卑彌呼考」(明治四十三年)以来この景初二年六月は三年六月の誤りとする説が有力で、ほぼ定説となっている。」として、白石を「景初三年」説開祖の位置から外し、明治の内藤湖南を開祖に持ってきています。

 うれしいことに金教授わたしとおなじ見方をしているようです。どういう見方なのか興味が湧いてきませんか。

『古史通或問』からの引用 

  白石が「卑弥呼の魏への遣使」ついて論じたのは『古史通或問』においてであることはよく知れています。入手可能な現物の存否を知るためネットで国立国会図書館に入りました。『古史通或問』はデジタルコレクションで原本影印版を提供してくれています。パソコンごしに見る原本は、あまりにも流暢な達筆の手書き、その上に句読点がふってありません。それにシミや虫食いがあって、とても私の手には負えそうにありません。

 もうひとつ中央公論社版、「日本の名著」がヒットしました。第十五巻に所載してあるそうです。

 私は政令都市に在住していますので区ごとに図書館があります。比較的大きい市立図書館に出かけて探してみました。そこは「日本の名著」全五十巻を蔵書していました。開架の棚ではなく、書庫にしまわれていましたが・・・。

 早速第十五巻を借り出しました。中央公論社が原文を上田正昭氏(肩書が多すぎて省きます。自分で確認してください)の訳?で出版してくれていたことに涙、涙の大感謝です。

 さて新井白石は『古史通或問』の中で何と言っているのでしょう。

魏志に景初二年六月倭女王其大夫して帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見えしは心得られず遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也其道未だ開けざらむに我國の使人帯方に至べきにもあらず晋書には公孫氏平ぎて倭女王の使帯方に至りしとみえたりこれ其實を得たりしとぞ見へたるさらば我國使い魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて其年月のごときは詳ならす日本紀にも魏志によられて皇后摂政三十九年(景初三年)に魏に通ぜられしとみへしは魏志とゝもに其實を得しにはあらじ魏志に正始四年に倭また貢献の事あり(注2)しとみえけり古事記によるにこれすなわち本朝魏に通じ給ひし事の始めなるべし。然るを魏志に景初二年に我國始めて通ぜしと見えしは晋に及びて魏志撰述之日公孫淵滅びし年に拠りて誤りしるせし事とこそ覚ゆれ」

(中央公論社 日本の名著15 「折りたく柴の記(桑原武夫訳) 古史通(上田正昭訳) 古史通或間(上田正昭訳) 読史余論(横井清訳) 」) 

 

 これが白石の主張です。複写時の誤字くらいはあるかもしれませんよ。それも確認するくらいのきもちで。よくごらんになってください。

 新井白石は魏への初回遣使を景初三年だったとは一言片句も記してはいません。

白石は「正始四年論」者

日本紀にも魏志によられて皇后摂政三十九年に魏に通ぜられしとみへしは魏志とゝもに其實を得しにはあらじ」

 白石は『日本書紀』の「景初三年」も「魏志倭人条の「景初二年」とともに事実ではない、として否定しています。

過激ですね、この時代、「其實を得しにはあらじ」として『日本書紀』の記事を否定するなぞ、ほかの誰にもできない発言ではないでしょうか。

魏志に正始四年に倭また貢献の事あり。・・・これすなわち本朝魏に通じ給ひし事の始めなるべし。」

 白石は「道」が開いて初回の遣使を送ったのは正始四年だろう、としています。

 このことをきちんと踏まえているからこそ、金文京教授は白石を景初三年説の開祖に据えなかったのだと思います。

古田武彦氏による「景初三年説創世記」

 ここで古田武彦氏に登場してもらいます。氏は『「邪馬台国」はなかった』で「景初三年説」誕生の瞬間を生々しく描いています。そのくだりを引用抜粋させてもらいます。

(白石の主張は)『三国志』によると、景初二年の一月~八月の間は魏の明帝が遼東の公孫淵を討伐すべく、大がかりな戦闘がくりひろげられていた最中だった。朝鮮半島公孫淵の勢力下にあったから、ここも同じく戦火のなかにつつまれていたのである。その最中にあたる六月に、卑弥呼の使いが帯方郡の郡治(今のソウル付近)に至って、洛陽の魏の天子に朝献せんことを求めた、などということはありえない。  

これが白石の論理だ。この立場から、かれはこのときの卑弥呼遣使そのものを、” 歴史的事実に非ず “と断定し去った。「武断」の批判家としての面目躍如たるものがある。これにたいしてすでに早くも(松下見林が)問題回避の一案を示していた。

「景初二年の二、日本書紀に拠るに、当に三に作るべし。(二を三に書き換えればいいじゃん)」

この見林の「改定」は明治史学会の内藤湖南によってうけつがれた。

   古田氏が言うのに、白石は景初二年遣使記事を事実でないと否定しただけで、「景初三年説」を創始したのは松下見林だそうです。

 私は願望としては、原文主義者でありたいと思っています。(学力もないのに滑稽でしょ ?。) そこで古田氏の言う景初三年論の創始者、松下見林の主張を原文で見ようと国立国会図書館デジタルコレクションの叢林の中に分け入って『異称日本伝』を探しました。見つけ出しましたが、しかし、全編、「返り点」や「句読点」なしの漢文なのです。活字本にはなっているのですが、活字がぶっとく、しかも汚く読み取りづらい。一頁目を見て力及ばぬことを理解し、お手上げ降参で、撤退です。

 この節の記述目的は白石が景初三年説論者ではなかった事実を確認してもらうことですから、『異称日本伝』で松下見林の意見についての確認が取れなくても、『古史通或問』の抜粋だけで目的は達していると思うことにします。

ここは古田氏が『異称日本伝』を確認していることに信をおきましょう。

 

 白石と『翰苑』

 新たな疑問が起きてきますよね。では「景初三年」と書いてある他の史書を白石はどうみていたのでしょう。金文京教授は『日本書紀』以外に『翰苑』と『梁書』を挙げていました。私は唐になって編纂された『北史』の名も上げたいと思います。

 

あ・・失礼しました、『翰苑』についてはウキペディアの記事で事情が分かりました。

『翰苑』

660年以前に対句練習用の幼学書として書かれたとされている。(紀元660年より前というのであれば、唐の顕慶5年より以前の編纂となります。)

日本では『日本国見在書目録』に30巻とし、また滋野貞主『秘府略』(9世紀)、『香薬抄』(平安末期)などに『翰苑』からの引用が見える。その後は失われていたが、1917年の太宰府天満宮宝物調査の際に黒板勝美によって再発見された。

注にはその出典が細かく載せられている。現存の第30巻は蕃夷部であり、匈奴烏桓鮮卑倭国・西域などの15の子目に分けられている。ほとんどが失われてしまったために巻数については諸説あり、『旧唐書』張道源(著者の祖先)伝には30巻、『新唐書』芸文志には7巻と20巻の2説が併記され、『宋史』芸文志には11巻とされているが、内藤湖南によって30巻であることが明らかにされた。

(若干原文に手入れさせてもらいました。わかりづらくなっていたら私の責任です。)

 

 平安時代に引用されたり、図書目録に書名が載っていたりしていますが、その後大正六年までその所在が亡失されていたのです。白石は書名を知っていたかもしれませんが、内容については知ることが出来なかったのです。であれば白石にとって『翰苑』は不可知の世界ですね。