A氏の論述からの引用――記事№3

 古田武彦氏の説のウソ№1」――2−1 景初3年が正しい理由その1

[凡例]

検証させていただくホームページの主さんを、仮にA氏と呼ぶことにします。

 古田武彦氏の説のウソ」は A氏の論文表題であり、私のこのノートの表題でもあります。№1は私のノートのページ№です。

 「2-1景初三年が正しい理由」 先頭の2.は無視してください。A氏の論文中、最初の項目名「景初三年が正しい理由」ということです。

このページトップに置いた表題は私の記述を要約してあります。

 

 

 

A氏はこの様に書き始めます。

 

私は、古田武彦氏の『古代は輝いていたⅠ』を読んで、こんなに面白い本はないと感じました。ところが、『古代は輝いていたⅢ』を読み終えたとき、この大ウソを暴きたいと考えていました。

 卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

 景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

(今鷹真・小南一郎・井波律子訳『三国志2』世界古典文学全集24B:筑摩書房

 

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。」

 

A氏は原文を収録していません。今後重要な部分だけ「三国志」から抜粋記載しておきます。

 

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」

 

まずは「自学、自習ノート」についてのご紹介、そしてこのノートは「古田武彦氏の説のウソ」と命名させていただきます。――記事№2

二回目の投稿です。

 

 私はブログについても、ずぶの素人で、とりあえず始めたという状態です。現在手探りで書き込んでいます。

 

 私が書き込むのは歴史の「自学、自習ノート」である、とお断りしました。ノートは編年ではありません、私が興味を持ったテーマごとになっています。そういうわけでブログ内の表題はノートごとに付けさせていただきます。

 

 私は故古田武彦さんのファンです。古代史に関して基本的に古田さんの思考方法に賛同させてもらっています。その私がネットサーフィンをしている内に、強烈なアンチ古田の方のホームページにぶつかりました。「古田武彦の説のウソ」という表題です。その強烈さに眩暈がしたくらいです。

 まずはその方のホームページをご紹介したいと思います。

2−1 景初3年が正しい理由 http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-2-1.htm

多分、アンチ古田の方々にはスカッとする内容ではないかと思います。

 

 私の一冊目のノートは、このかたの主張についての感想とさせていただきます。この方の主張を読んでいただいたうえで、次回からの書き込みをお読みいただきたいと思います。

 

 というわけでご紹介する最初のノートも「古田武彦の説のウソ」と名付けさせていただきます。

 

 

始めまして――記事№1

 

 

tokujiと申します。今年10月で75歳になります。9年前に仕事をリタイアしています。

 

 趣味もなく、やることもないので歴史関係の自学、自習で時間をつぶしています。しかし、そろそろ一人でノートと本に向かっているのは、気怠くなってきました。同じ問題について誰かの意見も欲しいし、やはりわたしの主張も聞いてほしい。

 

 そこでブログを始めることにしました。誰か読んでくれる人がいればいいなー、そんな感じで始めます。よろしければおつきあいください