前段、A氏の理路―記事№...7

古田武彦氏の説のウソ、・・№5」――2−1 景初3年が正しい理由―その4

 

 前回はA氏が「倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」と主張し、私は「海上迂回戦略」に注目して疑問を呈しました。今回はA氏の理路全体を追って検証してみます。

 

 

 A氏の理路――郡治に魏の帯方郡太守がいない

 A氏の理路を私は下記、①~④のように纏めました。その前に①に至るまでの東夷傳にある記事を加えました。Ⓐ~Ⓔです。これに原文を付けました。

 

  景初二年正月 明帝司馬懿に公孫淵討伐の勅を降す。

   「(景初)二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東(明帝紀)」

  景初二年六月 司馬懿、遼東郡に到着。         

   「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳公孫淵))」

  Ⓒ景初二年六月    ( 倭の使者、帯方郡治に到着。)

   (「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、(東夷傳倭人))

  景初二年六~八月   襄平をめぐって攻防戦。

  景初二年八月二十三日 司馬懿 公孫淵父子を誅殺。

   「(八月)壬午(二十三日)、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(公孫度傳公孫淵)」

 

魏志公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。

公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(筑摩書房三国志」訳本)

 「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後海表謐然、東夷

  屈服。(東夷傳序文)」

「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」

「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」

それゆえ倭の遣使は、翌年景初三年六月になります。

 

 ③はA氏の解釈です。④もA氏の主張です。Ⓓと⑤は私が理解補助の為付け足した項目です。ですから添付する原文記事はありません。なおⒺと①は当然同一の記事です。

 ③、④で「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後だから、Ⓒはあり得ない」と主張しています この③、④二項のような解釈ができるかどうかを調べます

 

帯方郡の沿革――太守は存在した

 まず倭使が帯方郡治に到着したととき、受け入れるべき太守府があったか、太守がいたかどうかを検証してみましょう。

 

帯方郡の沿革を調べてみました

 紀元前108年に前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置きました。紀元前82年に真番郡、臨屯郡を放棄しています。紀元前75年には玄菟郡を西に移し、半島は楽浪郡だけが残りました。帯方郡は紀元204年になって公孫康(公孫淵の父)が立てました。(wikipediaを編集)

公孫康が立てた、という記事は東夷傳韓条にあります。

「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

――桓帝霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流出した。建安中(196220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って(真番郡、臨屯郡の)遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐った。逃亡していた旧二郡の民は次第に韓、濊の地を出て帶方郡に戻った。この後、倭・韓は帯方郡に属するようになった。

 魏が置いた帯方郡太守は景初二年八月以降かもしれません。しかし帯方郡も太守府も、景初二年八月以前から公孫氏の勢力圏下ではあっても存在し、太守もいたのです。

魏の太守でなかったから、遣使するはずはない ?

三国志」に倭使が帯方郡治に詣でたというのは景初二年六月です。司馬懿もこの月に遼東郡に到着しています。この時から遼東郡の攻防戦は始まります。

帯方郡には太守がいました。しかしA氏は③、④で「魏が太守を置くのは、景初2年8月以後のことであり景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」と言います。

A氏の主張通りだと、遅くとも六月には、おそらくそれ以前に倭は遼東で戦端が開かれることを知っており、しかも司馬懿勝利を確信していたことになります。

三国志」には「是後倭韓遂屬帶方――倭と韓は帯方郡に属す」とあります。帯方郡と属国である倭の間では定期的な貢献や、必要が生じての交流があります。それを、一切断ち切ったことになります。よほどの確信がないと、読みがは外れた場合を思えばこんな決断は出来ません。

A氏は司馬懿の遼東到着時点ですでに、倭がその決断をしていたと主張していることになるのです。

三国志」には倭がそんなに情報通であることを記した記事はありません。A氏主張の論拠は何処にもありません。

 

 普通に考えてみましょう。司馬懿による襄平攻略戦が開始された景初二年六月には前回も述べたように戦火は楽浪、帯方郡まで広がっていません。情報があったとしても倭にとって単によそ事だったでしょう。「倭韓遂屬帶方」、ですから、倭の使者が郡治に詣でるのに何の不思議もありませんし、太守が受け入れるのにも不思議はありません。これを「あり得ない」という方がおかしい。

但し前回の異説にある、公孫淵に詣でたい、という倭使の申し出に許可を与えることは出来ません。郡治に留め置くか、謝絶して返すかどちらかでしょう。

 

「景初2年8月以後」魏軍が帯方郡治に進駐してきたとき、倭使を受け入れた太守は、公孫淵の影響下で任じられた太守なのですから司馬懿に誅殺されたかもしれません。しかしそうでなかったかもしれません。倭の使者を洛陽に送った太守劉夏は公孫淵政権から横滑りした太守だったかもしれないのです。

 

帯方郡太守が新任であろうと、留任であろうと、郡治に留められた倭使が、太守の劉夏と占領軍のトップ司馬懿によって、魏朝への朝貢使にすり替えられたという可能性を否定することは至難の業でしょう。だからこそ異説、「倭 (帯方郡属していた) の使者は公孫淵に朝貢を申し出るため帯方郡治に詣でていた」、が成り立つのです。

 

 A氏は「あり得ない」と断言していますが、「あり得ない」ことこそ「あり得ない」のです。「あり得」るのです。A氏の④での断定は「三国志」が語る史実から、はみだしています。

 

       次回は後段については述べさせてもらますが、ちょっと長くなります。

なんとなく違うなあ -司馬懿の海上迂回戦略ー  記事№...6

古田武彦氏の説のウソ、・・№4」――2−1 景初3年が正しい理由―その3

 

 A氏の「1 景初3年が正しい理由」は二つの部分に分かれています。

前段は「遣使は景初3年が正しい、『三国志』はまちがっている。」という、いわば宣言です。

後段では、「遣使は景初3年」を正しいと主張する根拠を論述しています。

 

 

前段

記事№3の復習

記事№3でも引用したA氏がの抜粋掲載した記事です。A氏は主張の核心はここにあるのだ、と私は理解しています。ですので、くどくなりますが再掲させてもらいます

A.公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

B.景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。

C.これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

 

B.Cの原文を再掲しておきます。

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」

 

 

公孫家が三代にわたって漁等を占拠し東夷は漢朝と切り離され、絶域と見なされるようになった。景初二年には司馬懿の公孫淵討伐の戦が展開された。司馬懿は公孫淵を討ちとると、密かに迂回して、海上から楽浪・帯方郡攻め取った。それ以後、東夷世界は平穏になった。

 

筑摩書房版「三国志」訳本、公孫淵条では襄平攻防戦の描写も見ることが出来ます

(景初)2年(238)春、朝廷は、大尉の司馬宣王(司馬懿)を公孫淵征伐にさしむけた。6月、[司馬宣王の]軍は遼東に到達した。……

かくして城壁の下まで進撃し周囲に塹壕を築いた。おりしも、30日以上も長雨が降りつづき、遼水は急激に水かさを増し、運送船が遼水の口から城壁の下まで直行するようになった。雨があがると、土山を築き、やぐらを建造して、[その上に]連発式の弩(いしゆみ)を作り城中に射こんだ。公孫淵は手のうちようがなかった。食糧は底を突き、人々は互いに食らいあい、死者はおびただしい数にのぼった。楊祚らは投降した。

 

 

 悲惨ですね、しかしこれは襄平とその周辺の状況です。公孫淵は八月に討たれ、その後戦火は移り、楽浪・帯方郡攻略戦が展開されることになります。

 

 再度A氏の記述を引用します

 この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。それゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

 

「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります」。それゆえ「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」と続いています。

これがどうしても腑に落ちないのです

司馬懿の迂回作戦

 A氏の主張の通り作図してみました。手書きで見にくいですが我慢してください。

 

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魏軍の進路(赤丸が襄平)

 

 黒い線が司馬懿軍の進路です。六月に遼東郡に到着です。茶色の線を倭使とします。「三国志」によれば六月に帯方郡治に到着です。公孫淵を討った後の司馬懿軍は、舟を仕立て遼東半島を迂回し、楽浪、帯方郡へ出ます。これは紫の部分、摩天嶺山脈に強敵が待ち構えていて、その敵と正面から衝突するのを避け、気づかれぬよう背後に出る策戦です。そのような強敵が、何故襄平が陥落するまで何も手出しをしなかったのでしょうか。

それはともかく、公孫淵が8月23日に討たれたのであれば魏軍が楽浪、帯方郡に攻め込んだのは9月に入ってからの可能性が高いでしょう。遼東郡と楽浪、帯方郡は強敵よって遮断されているのですから、倭使 (茶色の線) が帯方郡に着いた六月には楽浪・帯方・韓では戦乱はないのです。

 

遮断する敵がいなかったとしても、公孫淵を誅してから海上経由で兵を楽浪、帯方郡へ移したのであり、その兵が上陸するまで、両郡に戦火は全く及んでいません。

 

六月は「未だ道開かざる(戦乱の最中)」状態だ、とする構図は崩れてしまいます。これでは「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」というA氏の主張は成立しません。「三国志」にあるように、帯方郡治までは到着できるのです。

 

A氏の主張のように、帯方郡治に遣使が到着不可能な状態であるには、六月以前に渡海作戦を実施されていなければなりません。すると公孫淵を「誅殺する前」でなくてはなりません。困りましたね

異説あり

 このタイムラグを根拠にした、ある人の説を読んだことがあります。六月に帯方郡に到着した倭使は、公孫淵への朝貢使だった、とする説です。

景初元年(237年)公孫淵は自立を宣言し、燕王を称し紹漢元年と改元しています。魏朝と決定的な手切れとなった出来事です。この時、淵の支配は遼東地方と帯方郡楽浪郡に及んだそうです。だとすれば倭から公孫淵への遣使はあり得ることです。

帯方郡治に到着した倭使は、六月に魏軍が襄平を包囲するという事態に、郡治で待機させられます。公孫淵が敗れた後、急襲して来た魏軍に身柄を拘束されます。魏の将軍(司馬懿?)はどう処遇すれば一番自分の功績になるかを考え、この倭使が魏への朝貢使だったことに仕立てて洛陽に送った、というのです。事実、この後の成り行きを考えれば魏朝は将軍の処置を大喜びした事になります。

 

私は違う考え方ですが、この説も成立します。

 

 倭の使者は十二月に明帝に拝謁しています。司馬懿は「三国志」の中で洛陽から遼東郡までの軍行を四カ月と言っています。厳重に武装し、輜重部隊、攻城兵器を伴った四万の兵の行軍は非常に遅いのです。

使者が八月いっぱい帯方郡で身柄を拘束されていたとして、景初二年九月初頭に身柄を洛陽に送られたのであれば、景初二年十二月の拝謁は十分に可能です。

 

 司馬懿、公孫淵の戦いがあったことが、「倭の遣使、景初三年の根拠」であり「『三国志』の誤りの根拠」とは了解しかねる論理だてに思えるのです。

 

後段

 A氏は『梁書』の編者、姚思廉や、新井白石内藤湖南について述べ、「三国志」の記述が間違っている、証拠としています。しかしいずれも直接的に倭使が帯方郡に行けなかった証拠ではありません。氏の論理を検証するには間隙が多すぎますので、この部分については、A氏の今後の記述に添って、徐々に書き込ませていただきます 。

 

〔お願い〕ブログの体裁も若干はましになってきましたので、今後週一金曜日に更新したいと思いってます。読んでいる方がいたら、継続してお読みくださるようお願いします。

「お詫び」と 記述方針の変更 ――記事№5

古田武彦氏の説のウソ、№...3」

 


まずお詫びです。
 
 この記事を書きながら、HTМLをいじってしまいブログを消失飛させてしまいました。素人は怖い、でも失敗を怖がっては前に進めない、(冷や汗・・)。

 再度立ち上げたのですが書き込み日付は復元できません。本来№1~4は四カ月くらい前の日付です。申し訳ありません。

 

 

 

 

 

 先にA氏のホームページを紹介しましたので、ここを読んでいる方、皆さんがすでにそこを見ている、と想定して書き進めるつもりでしたが、なぜかイメージが定まらずうまくキータッチが進みません。

今回は脳内整理ため、A氏の記述の要約記事を書くことにします。それと、できるだけ避けるつもりでしたが、今後必要に応じて、A氏の記述を引用させてもらうことにしました。こうすれば書き込んでいく対象が定まりまると思います。

読む方は煩雑になりますが、ご容赦願います。

 

 

A氏所論の概説

 

A氏は、自分の主催するホームページで、古代史諸説が持つ諸問題についての所論を発表しています。その中の一論文で古田氏を取り上げています。A氏が直接対象としているのは第一作「邪馬台国はなかった」です。

 古田氏はこの著書の中で当時定説であった「倭の第一回遣使」景初三年説を「三国志」原文の改訂であるとし、「第二章いわゆる《共同改訂》批判Ⅱ戦中の使者」で景初二年説を展開しています。

A氏は、定説の立場にたって、古田氏の景初二年説を批判しています。

 

 1 景初3年が正しい理由

倭の遣使が景初3年であることは、筑摩書房版の『三国志』訳本の東夷傳序文で明白である。また、姚思廉(「梁書」の編者)、そして日本の碩学、松下見林・新井白石内藤湖南も同意見であった。

 2 古田氏によるミスリード

古田氏は「魏志東夷伝」序文を重視し、景初2年説を展開しているが、氏の主張は、序文中の「景初2年6月は間違いであると判断せざるを得ない記述を意図的に隠したもの」である。そこで「東夷伝序文」と「公孫淵傳」を併せて検証することで、そのことを明らかにした。

 3 「戦中遣使」という説のウソ

新井白石が「其道未だ開けざらむに《景初2年6月は、魏と遼東の公孫淵が戦いの最中なので》我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」と主張している。古田氏は、白石の主張をすり替えと暴論によって否定し、景初2年説を押し通そうとしている。

 4 景初2年を支持する「五つの疑い」のウソ

筑摩書房版「三国志」訳本に「公孫淵誅殺後」とあるのを「戦中遣使」にすり替える古田氏は、「景初2年」説に格好をつける材料として、<「景初3年」として原文を「改定」したら、ついに解決不能となる>という「五つの疑い」を用意している。しかしこれは古田氏が得意とする悪質なレトリックであって、「魏書」等を辿れば全く成り立っていないことが判る。

 5 少帝の輔佐役、司馬懿と曹爽

卑弥呼を「親魏倭王」に任じた詔書は、魏書に景初2年に明帝が発したとあるがこれも問違いで、景初3年に少帝芳が8歳の時発したものである。

(非才な私は、この部分でA氏の述べたいことを理解するのにかなり苦しみました。

  6 中国の学者の「景初2年説」の誤り

近年は中国の研究者の中にも、倭の魏への第一回遣使を「景初二年」と説く人があり、A氏がその説を誤りと指摘している。

 

この様に要約しました。あくまで私の要約なので疑義が生じた場合、A氏のホームページで確認していただきたい。

「景初二年、三年論争」の簡単な沿革――記事№4

 古田武彦氏の説のウソ№2」―― 2−1 景初3年が正しい理由その2  

「景初二年、三年論争」の沿革

「景初二年か、三年か」という問題は、ご存知の方にとっては「今更」でしょう。しかし初見の方は「一年の違いが何ほどの事があるか」と思われるかもしれません。そこで一応私の認識をお伝えしておきます

①二・三年論争以前

「景初二年か三年か」という議論に並行して、中国の史書に出て来る「邪馬台(臺・堆・壹)国」は何処かという議論があります。しかし両議論が議論らしい議論として登場するのは江戸時代に入ってからです。

それ以前は卑弥呼とは「日本書紀」等の国史中に登場する人物の誰にあたるかという推測が興味の中心だったと私は思います。卑弥呼神功皇后であるという説が独壇場だったようです。代表例が北畠親房で、「神皇正統記」の中で「卑弥呼神功皇后説」を唱えています。

邪馬台国が九州にあるというような議論は全くなかったようです。列島内の国家といえば大和朝廷しか想定できない、朝廷内の官僚、知識人の思索・著述しか残っていないのですから、そうなるのは当たり前かもしれません。

 やがて邪馬台国の呼称や、その位置にも興味が向きます。卜部兼方が、日本書紀の注釈書として知られる「釈日本紀」の中で、邪馬台国は「倭=ヤマト」の音をとったものとする説を唱えたそうです。

京都五山相国寺の禅僧・瑞渓周鵬は「善隣国宝記」で邪馬台国の位置を初めて論じたそうです。

江戸時代に入って邪馬台国の位置を九州に求める説が盛んに唱えられました。本居宣長の「熊襲偽僭説」がその嚆矢でしょう。ここで近畿説、九州説が出そろいました。

②二・三年論争の始まり

倭の遣使が景初二年か三年かという議論は、江戸時代初期に近畿説を唱える松下見林が提起しました。見林は「三国志」に倭が景初二年遣使とあるのは間違いで、景初三年と訂正しなくてはならないと主張したのです。以後しばらくこの事は議論になりませんでした。明治に入ると、内藤湖南がそこに触れて遣使は景初三年と主張しました。この時も議論にはならず、景初三年遣使は定説となりました。

 二年であろうが三年であろうが邪馬台国が九州であるか、近畿であるかの大勢には関係ないというのが大方の見方だったのでしょう。

しかし、昭和に入り、戦後になると状況が大きく変わります

③二・三年論争の激化

古代の遺跡から多く出土する遺物に銅鏡があります。その様式は様々です。様式の一つに、「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあります。完成度が高く舶載鏡と分類され、おそらく魏の制作ではないかとされていました。

 

三角縁神獣鏡」はほぼ全国から出土しました。しかし圧倒的に近畿からの出土が多いのです。

 少し後の統計ですが、この様式の鏡は少なくとも540面は出土しているそうです。奈良100、京都66、兵庫40大阪38面と続き、福岡は40面でその他九州からや他の都県の出土は本当に少ないそうです。

圧倒的に近畿中心の分布になっています。

 

この出土状況に意味を見た人がいました。彼は近畿地方に統一政権があって、その政権の女王卑弥呼が、「三角縁神獣鏡」を魏の明帝から下賜され、それをさらに地方政権に下賜したのだ、と主張しました。

当然、主張したのは邪馬台国、近畿論の学者です。

 

九州説の立場の学者は魏の鏡ではなく、国産だと反論しましたが、統一政権についての反論は充分ではなかったように思います。そのうち「三角縁神獣鏡」が出土する遺跡について、卑弥呼の三世紀始めではなく、四世紀のものが大部分であることが判ってきました。

 

近畿論は伝世鏡理論で対抗しました。三世紀に貰ったものが子孫に伝わり子孫の代になって陪葬されたという理論です。

 

このように甲論乙駁が繰り返されるうちに、決定的とも思われる鏡が発見されました。

この鏡は制作年度を「景初三年」と銘記された島根県雲南市・神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」です。この「三角縁神獣鏡」記銘の景観初三(239)年、は、この年、倭が魏に遣使した証拠。魏の答礼使が卑弥呼にもたらし、更に下賜された何よりの証拠の鏡だ、と主張されました。物的証拠が現れ、九州説は圧倒的に不利だと思われました

古田武彦の登場

そんな時、九州説の立場から逆襲の烽火を上げたのが古田武彦氏なのです。氏は考古学者ではなく文献史学者です。「三国志」の記事から遣使は景初三年ではなく、景初二年、そして下賜された鏡百枚も景初二年に準備された物だと論証したのです。すると下賜された鏡に、銘が入っているとしても「景初三年」という文言ではあり得ません。

 神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」は卑弥呼の下賜された鏡と無関係になります。

 

このように遣使が二年であるか、三年であるかの議論は九州説、近畿説の存亡をかけた論争になっていたのです。

A氏の論述からの引用――記事№3

 古田武彦氏の説のウソ№1」――2−1 景初3年が正しい理由その1

[凡例]

検証させていただくホームページの主さんを、仮にA氏と呼ぶことにします。

 古田武彦氏の説のウソ」は A氏の論文表題であり、私のこのノートの表題でもあります。№1は私のノートのページ№です。

 「2-1景初三年が正しい理由」 先頭の2.は無視してください。A氏の論文中、最初の項目名「景初三年が正しい理由」ということです。

このページトップに置いた表題は私の記述を要約してあります。

 

 

 

A氏はこの様に書き始めます。

 

私は、古田武彦氏の『古代は輝いていたⅠ』を読んで、こんなに面白い本はないと感じました。ところが、『古代は輝いていたⅢ』を読み終えたとき、この大ウソを暴きたいと考えていました。

 卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

 景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

(今鷹真・小南一郎・井波律子訳『三国志2』世界古典文学全集24B:筑摩書房

 

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。」

 

A氏は原文を収録していません。今後重要な部分だけ「三国志」から抜粋記載しておきます。

 

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」

 

まずは「自学、自習ノート」についてのご紹介、そしてこのノートは「古田武彦氏の説のウソ」と命名させていただきます。――記事№2

二回目の投稿です。

 

 私はブログについても、ずぶの素人で、とりあえず始めたという状態です。現在手探りで書き込んでいます。

 

 私が書き込むのは歴史の「自学、自習ノート」である、とお断りしました。ノートは編年ではありません、私が興味を持ったテーマごとになっています。そういうわけでブログ内の表題はノートごとに付けさせていただきます。

 

 私は故古田武彦さんのファンです。古代史に関して基本的に古田さんの思考方法に賛同させてもらっています。その私がネットサーフィンをしている内に、強烈なアンチ古田の方のホームページにぶつかりました。「古田武彦の説のウソ」という表題です。その強烈さに眩暈がしたくらいです。

 まずはその方のホームページをご紹介したいと思います。

2−1 景初3年が正しい理由 http://www.geocities.jp/yasuko8787/1-2-1.htm

多分、アンチ古田の方々にはスカッとする内容ではないかと思います。

 

 私の一冊目のノートは、このかたの主張についての感想とさせていただきます。この方の主張を読んでいただいたうえで、次回からの書き込みをお読みいただきたいと思います。

 

 というわけでご紹介する最初のノートも「古田武彦の説のウソ」と名付けさせていただきます。

 

 

始めまして――記事№1

 

 

tokujiと申します。今年10月で75歳になります。9年前に仕事をリタイアしています。

 

 趣味もなく、やることもないので歴史関係の自学、自習で時間をつぶしています。しかし、そろそろ一人でノートと本に向かっているのは、気怠くなってきました。同じ問題について誰かの意見も欲しいし、やはりわたしの主張も聞いてほしい。

 

 そこでブログを始めることにしました。誰か読んでくれる人がいればいいなー、そんな感じで始めます。よろしければおつきあいください