「又」の例文――記事№...17

古田武彦氏の説のウソ、・・№14」―― 景初3年が正しい理由―その13

 目次

 

 

 「又」の用

今回はⒷ作戦の実施時期を述べるつもりでしたが、今までの記述で終わらせると「又」について筆先の理屈で言いくるめているような気がしてきました。『三国志』の他の用例でどのように使われているかで見てもらうことにしました。

  しかし「又」は『三国志』全文ですと千六百余カ所もあるようです。これに個々の解釈を加えることは私もしんどいし、読んでいる方も大変でしょう。「東夷傳」だけでも五十カ所以上あります。裴松之注を外し、陳寿の本文に絞ると三十カ所前後になります。

 陳寿の原文に、―筑摩―と―修正―の訳文を付けさせてもらい、私のコメントを添えることで勘弁してもらうことにしたいと思います。

 

例文につける私のコメントでは、文章上二個以上の事柄が「又」で結ばれていて、前後関係がなく、単に併記してある場合、「又」の前後の事柄を同格と表現します。私が同格というのに他の要素は含みません。、

 

以下の記述に不審のある方は、「『三国志』修正計画」さんのホームページで原文参照の上、コメントお願いします。

 

 

夫餘

 「又」の文字はありません。

 

高句麗

 「又」の文字は四つあります。

 

① 「其俗節食、好治宮室、於所居之左右立大屋、祭鬼神、祀靈星・社稷。其人性凶急、善寇鈔。」

―筑摩―

その風俗として、食物を倹約して宮殿や住居を盛んに立てる。住居地の左と右に大きな建物を建て、そこで貴人にお供え物をし、また星祭りや社稷(土地神と穀神)の祭礼を行う。人々の性格はあらあらしく気短で、好んで侵入略奪をはたらく。

―修正―

その習俗は食物を節約し、宮室の修治に好く、住居の左右に大屋を立てて鬼神を祭り、又た霊星・社稷を祀る。人の性は凶急で、寇鈔に善い。

 

 

宮殿や住居で、鬼神や靈星・社稷を祭っている、ということを述べています。「祭鬼神」と靈星、社祭の祀りを性格の異なる祭祀としてあつかって、「又」で区分しているとものと思います。

時間的には同格です。

 

②「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。有小水貊。句麗作國、依大水而居、西安平縣北有小水、南流入海、句麗別種依小水作國、因名之為小水貊、出好弓、所謂貊弓是也。」

-筑摩-

一般の民衆は皆意気盛んで、戦闘になれている。沃沮や東濊は皆その支配下にある。別に小水貊とよばれる人々がいる。句麗は国を建てるとき大河のそばにその都を定めたが西安平県の北にあまり大きくない河があって、南に流れて海に入っており句麗の別種がこの小さな川のそばに国を建てた。そうした そうした所から小水貊と呼ばれる。よい弓を産出する。貊弓と呼ばれるのがこれである。

-修正-

国人は気力があり、戦闘に習熟し、沃沮・東濊は皆な属している。又た小水貊がいる。高句麗は国を作る時に大水(大河)に依って居住したが、西安平県の北には小水があって南流して海に入り、高句麗の別種が小水に依って国を作り、因んでこれに名付けて小水貊とした。よい弓を産出し、所謂る貊弓とはこれである

 ここまで、高句麗のことについて書いてきたが、ここでちょっと離れて高句麗と同種の小国が西安平のそばにあることに触れています。もちろん「國人有氣力、習戰鬪、沃沮・東濊皆屬焉。」との時間的前後はない。高句麗の記事全体と同格です。

 

③ ちょっとややこしいので最後に次回に廻します。

 

④ 「自伯固時、數寇遼東、受亡胡五百餘家。」

―筑摩―

伯固の時代以来、しばしば遼東郡で略奪をはたらき、また逃亡してきた胡族の五百余家を受け入れた。

―修正―

伯固の時より、しばしば遼東に寇し、又た亡命の胡人五百余家を受容していた。

 

 伯固の時代という時間的くくりの中で、一見性格の相反する「遼東郡で略奪」と「胡族の五百余家を受け入れ」とがあったと言います。両者の違いを「又」で表現しています。

時間的には同格です。

 

東沃沮

 

 「又」の文字は六つあります。

⑤、⑥は一つの文節になりますが、次回に廻します。

 

⑦ 「新死者皆假埋之、才使覆形、皮肉盡、乃取骨置槨中。舉家皆共一槨、刻木如生形、隨死者為數。有瓦金䥶、置米其中、編縣之於槨戸邊。」

-筑摩-

死者が出ると、みな一度仮の埋葬を行い、屍体がやっと隠れる程度に土をかけて、皮や肉が腐ってしまってから、骨を拾い集めて、槨の中に収める。一つの家族の骨は皆同じ槨に収められ、木を削って生前の姿に模し、使者の数だけその像を並べる。また土製の䥶のなかに米を入れ、ひもで縛って、槨の入り口のあたりにぶら下げる。

-修正-

新たな死者は皆な仮に埋め、才(わず)かに形を覆わせ、皮肉が尽きると骨を取って槨中に置く。家を挙げて皆なで一槨を共にし、木を刻んで生けるが如くの形とし、死者(数)に随って数を為す。又た瓦䥶(土器鬲)があってその中に米を置き、槨戸の辺に編んで懸けておく。

 

 

 どのような葬儀をするか、という話です。

全体を一つの葬礼としてみて、記述しています。副葬行為は時間的には同格です。

⑧、⑨、⑩

「王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。言有一國亦在海中、純女無男。説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」

-筑摩-

王頎は毌丘儉の命令を受けて本隊から離れて宮を追いかけ、北沃沮の東方の境界まで行きついた。その地の老人に尋ねた、「この海の東にも人間は住んでいるだろうか。」老人は言った。「この国の者が昔舟に乗って魚を獲っていて暴風にあい、数十日も吹き流され、東方のある島に漂着したことがあります。その島に人はいましたが、言葉は通じません。その地の風俗では、毎年七月に童女を選んで海に沈めます」

また次のようにも言った。「海のかなたに、女ばかりで男のいない国もあります。」次のようにも述べた。「一枚の布製の着物が海から漂いついたことがあります。その着物の身ごろは普通の人の着物と変わりませんが、両袖は三丈もの長さが有りました。また難破船が波に流され海岸に漂いついたことがあり、その船には項の所にもう一つの顔がある人間がいて、生けどりにされました。しかし話しかけても言葉が通ぜず、食事をとらぬまま死にました。」こうした者たちのいる場所は、みな沃沮の東方の大海の中にあるのである

-修正-

(玄菟太守)王頎は別遣されて宮を追討し、その東界を尽した。その耆老に 「海東にも復た人がいるか?」 と問うた処、耆老が言うには 「国人が嘗て船に乗って魚を捕った時、風に遭って吹かれること数十日、東に一島を得て上陸したところ人がいたが、言語は曉らかではなく、その習俗として常に七月に童女を取って海に沈める」 と。又た言うには 「亦た海中に一国があり、女だけで男はいない」 と。又た説くには 「一枚の布衣を得たが、海中より浮かび出て、その身丈は中人の衣のようでしたが、その両袖の長さは三丈でした。又た一艘の破船を得た処、波に随って海岸辺に出たもので、項の中に復た面のある人がおり、生け捕りにしましたが、言語が通じず、食べずに死にました」 と。その地域は皆な沃沮の東の大海中にある。

 

  くくりは老人の話の中、の出来事です。また話された順番ではなく、話の現実性によって記されていると思われます。話された出来事の前後はつけようがありません。出来事は時間的に同格です。

 

挹婁

「又」の文字はありません。

 

 「又」の文字は二つあります。

 

⑪、⑫

「常用十月節祭天、晝夜飲酒歌舞、名之為舞天、❶祭虎以為神。其邑落相侵犯、輒相罰責生口牛馬、名之為責禍。殺人者償死。少寇盜。作矛長三丈、或數人共持之、能歩戰。樂浪檀弓出其地。其海出班魚皮、土地饒文豹、❷出果下馬、漢桓時獻之。

―筑摩―

十月を天の祭りの月とし、昼夜にわたって酒を飲み歌をうたい舞をまう、この行事を「舞天」と呼んでいる。また虎を神としてまつる。邑落のあいだで侵犯があったときは、罰として奴隷や牛馬を取り立てることになっている。この制度を「責禍」と呼ぶ。人を殺したものは死をもって罪を償わされる。略奪や泥棒は少ない。長さ三丈の矛を作り、時に数人がかりでこれを持ち、巧みに徒歩で戦う。楽浪の檀弓(またまゆみの木の弓)と呼ばれる弓はこの地に産する。海では班魚の皮を産し、陸には文豹が多く、また果下馬をを産出し漢の桓の帝ときこれが献上された。

―修正―

常に十月を天を祭る節とし、昼夜に飲酒・歌舞し、これを名付けて舞天とし、又た虎を祭って神とする。その邑落を相い侵犯したばあい、罰として生口や牛馬を責(もと)め、名付けて責禍としている。殺人は死で償う。寇盜は少ない。矛の長さ三丈を作り、数人で共にこれを持つ事もあり、歩戦に能い。楽浪の檀弓はその地に産出する。海では班魚(イサキ)の皮を産出し、土地には紋豹が饒(おお)く、又た果下馬を産出し、漢桓帝の時にこれを献上した。

 

 

 ❶の「舞天」と「祭虎以為神」は「十月節祭天」の間の出来事として同格で、❷の「海出班魚皮」、「土地饒文豹」と「果下馬」も地域名産品の列記として、時間的には同格です。

 

「又」の文字は四つあります。

 

⑬ 「其國中有所為及官家使築城郭、諸年少勇健者、皆鑿脊皮、以大繩貫之、又以丈許木鍤之、通日嚾呼作力、不以為痛、既以勸作、且以為健。

―筑摩―

その国都で大事業があったり官の命令で城郭を築いたりするときには、若者の中でも勇敢で意気盛んな者たちは、それぞれ背中の皮に穴をあけ、太い綱でその穴を貫いて、さらに一丈ばかりの木にその綱をかけわたし、一日じゅうかけ声をかけながら仕事をする。痛みは感じず、工事がはかどる上に、おおしいとされる。

―修正―

その国中で何事かあったり官家で城郭を築かせる場合、諸々の年少で勇健な者は皆な背の皮を鑿ち、大縄でこれを貫き、又た丈余の木で鍤(鋤の様に曳き)、日を通して呼しつつ作力(労働)するが、痛いとはせず、作業が進むうえに勇健だとされる。

「鑿脊皮」、「大繩貫之」、で身体的状態を表現し、その状態で「丈許木鍤之」、「通日嚾呼作力」という行為をしたと言っています。現代で言えばヘルメットをかぶり、腰に重い工具を付け一日中現場で働いて弱音を吐かない、ファッションに置き換えて言えば、鼻ピーをし、そこにチェーンを付け、一日中踊りまくるといったところでしょうか。身体的状態と行為は合わさって一つの事象であり、時間的に同格です。

 

⑭ 「信鬼神、國邑各立一人主祭天神、名之天君。又諸國各有別邑。名之為蘇塗。立大木、縣鈴鼓、事鬼神。

―筑摩―

鬼神を信じ、国々の邑(みやこ)ではそれぞれ一人を選んで天神の祭りをつかどらせ、その者を天君と呼ぶ。またそれぞれの国にはおのおのもう一つの邑(みやこ)があって、蘇塗(そと)という名でよばれる。そこには大きな木が立てられそれには鈴(れい)と太鼓をぶら下げ、鬼神の再思を行う。

―修正―

鬼神を信じ、国邑では各々が一人を立てて天神の主祭とし、名付けて天君という。又た諸国は各々が別邑を有している。名付けてこれを蘇塗という。大木を立てて鈴・鼓を懸け、鬼神に事える。

 國邑と別邑は同時並行して存在しています。天君と蘇塗も同じで同格です。

 

⑮、⑯ 

「禽獸草木略與中國同。出大栗、大如梨。❶出細尾雞、其尾皆長五尺餘。其男子時時有文身。❷有州胡在馬韓之西海中大島上、其人差短小、言語不與韓同、皆髠頭如鮮卑、但衣韋、好養牛及豬

―筑摩―

禽獣や草木もほぼ中国と同じである。大きな栗の実を産し、梨ほどの大きさがある。また細尾雞(尾長鶏)を産し、その尾の長さはみな五尺以上もある。男たちには時に入れ墨をするものがある。また州胡と呼ばれる民が、馬韓の西方の海中の大きな島に住む。その人は身の丈がやや小さく、言葉は韓と異なる。みな頭髪を剃っているのが鮮卑に似ているが、ただ(鮮卑と違って) 韋(かや)の衣服を着、牛や豚を盛んに飼う。

―修正―

禽獣や草木はほぼ中国と同じである。大栗を産出し、大きさは梨の様である。又た細尾?を産出するが、その尾は皆な長さ五尺余である。男子は時々に文身(刺青)する。

 又た州胡が馬韓の西の海中の大島の上におり、その住民はやや短小で、言語は韓とは同じではなく、皆な?頭すること鮮卑の様で、但だ韋(革)を衣とし、牛および豬を養うのに好い。

 

❶は大栗、大如梨と細尾雞は名産物の列記として同格です。「又」は異なる種類の名産物を区切る役割もしています。❷は記述する土地を韓から済州島(おそらく)に移すことを付けています。韓についての記述と済州島についての記述は、時間的に同格です。

 

弁韓

「又」の文字は三つあります。

 

⑰、⑱ 

「弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑弁辰弁韓亦十二國、又有諸小別邑、各有渠帥、大者名臣智、其次有險側、次有樊濊、次有殺奚、次有邑借。

―筑摩―

弁辰も十二国からなり、さらにいくつかの地方的な小さな中心地がありそれぞれに渠帥(指導者)がいる。勢力の大きいものは臣智と呼ばれ、それより一等下がって險側、それより下がって樊濊、それより下がって殺奚、さらにその下に邑借と呼ばれる者がいる。

―修正―

弁韓も亦た十二国で、又た諸小の邑に別れ、各々に渠帥がおり、大なる者は臣智を名乗り、その次として剣側がおり、次が樊濊、次が殺奚、次が邑借である。

 

 

弁韓十二国と、それぞれの国内にある(行政?)区画と、その大小による首長の呼称について述べています。

普通の記述では上位の格から述べていますが、時間を基準とした場合、同格です。

 

⑲、 「國出鐵、韓・濊・倭皆從取之。諸市買皆用鐵、如中國用錢、以供給二郡。―筑摩―

この国は鉄を産し、韓・濊・倭はそれぞれここから鉄を手に入れる。者の交易にはすべて鉄を用い、ちょうど中国で銭を用いるようであり、また鉄を楽浪と帯方の二郡に供給している。

―修正―

国は鉄を産出し、韓・濊・倭は皆なこれより取っている。諸々の市買には皆な鉄を用い、中国で銭を用いる様なもので、又た(楽浪・帯方)にも供給している。

 

 

 弁韓が鉄を二郡に供給する状況は、韓・濊・倭が交易通貨として砂鉄(おそらく)を用いる状況と併存して、時間的には同格です。

 

 以上十七の文例を見てきました。長くなりましたので、後回しにした二つと「倭人条」については次回述べたいと思います。