「東夷傳 序文」の風景――記事№...11

古田武彦氏の説のウソ、・・№8」――2−1 景初3年が正しい理由―その7

 すでにお馴染みになった引用文を、その少し後まで紹介します。すると馴染の引用文は「東夷傳 序文」全体から見ないと理解しずらいことが判ります。

目次

 偏師派遣

 「景初中,Ⓐ大興師旅誅淵,①潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡而後海表謐然東夷屈服其後句麗背叛,②又Ⓒ遣偏師致討,㊁窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海

 

景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに船で兵を運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。これ以後、東海の彼方の地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たち中国の支配下に入ってその命令に従うようになった。後に高句麗がそむくと、再び軍の一部を分けて討伐におもむかせた。その軍は極遠の地をきわめ烏丸、骨都をこえ、沃沮を通り粛慎の居住地に足を踏み入れて、東海の海を臨む地にまで到達した。―筑摩―

景初中(237~39)、大いに師旅を興して公孫淵を誅し、又た潜かに軍を海に浮かべて楽浪・帯方の郡を接収し、その後は海表(海外)は謐然となり、東夷は屈服した。その後に高句麗が背叛し、又た偏師を遣って致討し、追討を窮めて遠方を極め、烏丸・骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、粛慎の庭を踐み、東のかた大海に臨んだ。―修正―

 

  Ⓐという軍行の後にⒷという軍行、その後のⒸという軍行が書かれています。

Ⓐの軍行の成果は「誅淵」です。Ⓑの戦果は「收樂浪、帶方之郡」だと言っています。Ⓒの戦果としては高句麗を討ったことと、「㊁窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海」を挙げています。

「遣偏師(支隊)致討」ですから、高句麗に派遣された軍の規模は公孫淵討伐行とは比較にならないくらい小さかったと思います。㊁は引用文を読んでいる限り高句麗を討った後は威力偵察にすぎません。陳寿はその小部隊の、たかだか威力偵察を、陳寿高句麗を討ったことと同等の功績として評価しています。文字数からすればむしろ㊁のほうが高評価と言えるでしょう

 この高い評価の意味を理解するには、これだけではわかりません。「東夷傳序文」全文を読み直す必要があります。

書稱「《東漸于海、西被于流沙》。其九服之制、可得而言也。然荒域之外、重譯而至、非足跡車軌所及、未有知其國俗殊方者也。自虞曁周、西戎有白環之獻、東夷有肅慎之貢、皆曠世而至、其遐遠也如此。及漢氏遣張騫使西域、窮河源、經歴諸國、遂置都護以總領之、然後西域之事具存、故史官得詳載焉。魏興、西域雖不能盡至、其大國龜茲・于寘・康居・烏孫・疎勒・月氏・鄯善・車師之屬、無歳不奉朝貢、略如漢氏故事。而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子為其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏――『尚書(書経)』〔禹貢編〕には「東は海に入るまで、西は流沙に及ぶまで〔の地域に、中国の教化が広がった〕」と書かれている。〔すなわち〕こうした九服の制度に含まれる地域については、ちゃんとした根拠をもっていろいろ述べることが可能なのである。しかし九服のもっとも外の荒服のかなたの地域については、そこからの使者が幾度も通訳を重ねて中国に来ることもあって、中国人の足跡や馬車の轍はそこに及ばず、その国々の民衆の生活、様々な土地のありさまについて知る者はいなかったのである。

 舜の時代から周代に至るまでの間に西戎(西方の異民族)が白玉の環を献上したり東夷が粛慎氏の弓矢を上納したりすることはあったが、そうしたものも久しく年代を隔てて時たまやってくるのであって、その土地の遠さは、こうした事からも知ることが出来る。漢の王朝が張騫を使者として西方に遣わし、黄河の源流をつきとめ、多くの国々を遍歴させたことがあって、その結果、都護の官がおかれてこの地域を総領するようになった。それ以後、西域の事が詳しく知られ、そのため史官たちもそれを詳細に記録することが出来たのである。魏が国をおこしてからは、西域の全ての地域から使者が来るというわけにはいかなかったが、それでもその中の大国である亀茲、干填、康居、烏孫、疎勒、月氏、鄯善、車師といった国々からの朝貢がない年はなく、漢の王朝の場合とおおよそ異なることはなかった。ただ〔東方の地域については〕公孫淵が父祖三代にわたって遼東の地を領有したため、天子はこのあたりを絶域〔中国と直接関係を持たぬ地域〕と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中国の地へ使者のやって来ることも不可能となった。・・・・・・・・・・(筑摩)

  そしてお馴染みの「景初年中・・」と続き、偏師は沃沮、粛慎へと進んでいきます

・・・・・踐肅慎之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

「践粛慎之庭、東臨大海。――粛慎の庭を践で東に大海を望む」、現ロシア領沿海州の海岸まで至ったとされています。

この後続けて「長老説有異面之人、近日之所出、――夷番の勢力圏東の果てに棲む長老が語るには、更に東方、海の向こうには異面之人々が住んでいる、という。」とあります。これを倭と観るか、古代のエミシやエゾと観るか、どうなのでしょう。

 

さらに「遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。――東夷諸国を周く実見して、その法・俗を採訪し、小大の区別や、各々の名号を詳紀する事ができた。」これは

周や漢がなしえなかった偉業です。

「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

――夷狄の邦とはいえ、俎豆之象(古中国の祭祀儀礼)は存在している。中国が礼を失った場合、それを、この四夷に求めて回復できると信じている。ゆえにその国を撰次(編纂)し、その同異を列記する事で、前史(『史記』、『漢書』) に未だ備わっていない記録を捕捉する。(-修正-の訳を補正)

 陳寿は「東夷傳」のことを、「周や漢が到達できず、『史記』、『漢書』にはない蕃夷の地を、魏が実際に践んで記録したものを、撰次(編纂)した」ものだと誇っています。

 

 偏師が威力偵察した「東臨大海」や、魏使の「倭國」探訪が、張騫の偉業や班超の西域経営と比較されているのです。

 

「東夷傳序文」のクライマックスは公孫淵誅殺にあるのではなく、魏が前王朝未踏の「東臨大海」に至った、偏師(支隊)の威力偵察にあり、「東夷傳」のクライマックスは倭人条にあるのです

()沃沮

 この偏師の軍行について「東沃沮条」、「毌丘儉傳」にはより詳しく出ています 

ここでは「東沃沮条」、を紹介します。

毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千餘級、宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里、其俗南北皆同、與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔、北沃沮畏之、夏月恆在山巖深穴中為守備、冬月冰凍、船道不通、乃下居村落。王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中、純女無男。又説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。(東沃沮条)

――毌丘倹が句麗を討伐すると、句麗王の宮が沃沮に逃げ込んだの、でさら沃沮の地にまでに軍を進めて、攻撃をかけた。沃沮の邑落をすべて破り。首級をあげ獲虜にしたものが三千余にのぼった。宮は北沃沮に逃げ込んだ。北沃沮は置溝婁ともよばれ、南沃沮から八百余里の距離にある。その習俗は南北と異なる所なく、挹婁と境を接している。挹婁が船を使って盛んに侵入行為を行うので、北沃沮はこれを畏れて、夏の期間はいつもけわしい山の深い洞窟の中で守りを固め、冬に氷が張って、船の通行が出来なくなると、山を下ってりて村落に居住する。王頎は、毌丘倹の命令を受けて本隊から別れて宮を追いかけ、北沃沮の東方の東界まで行き着いた。その地の老人尋ねた。「この海の東にも人間が住んでいるだろうか。」老人が言った、 「この国の者がむかし船に乗って魚を捕っていて、暴風にあい、数十日も吹き流され、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の習俗では、毎年七月に童女を選んで海に沈めます。」 また次のようにいった。「海のかなたには、女ばかりで男のいない国もあります。」 次のようにも述べた 「一枚の布製の着物が海から漂いついたことがあります。その着物の身ごろ普通の人の着物と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また難破船が波に流され海岸に漂いついたことがあり、その船には項(うなじ)の所にもう一つ顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし話しかけても言葉が通ぜず、食事をとらぬまま死にました。」 こうした者たちのいる場所は、みな沃沮の東方の大海の中にあるのである。 (筑摩)

 毌丘倹傳によると高句麗を攻めた偏師は「歩騎万人」だったそうです。高句驪王、宮は歩騎二万人を率いて沸流水(渾江)の上(ほとり)を進軍し、梁口で戦い(梁の音は渇)、連破されて南沃沮に逃走しました。偏師は南沃沮へ宮を追い、これを撃破しました。さらに宮は北沃沮へ逃れました。ここで毌丘倹の本隊は凱旋し、宮を追ったのは、王頎の率いる一隊で、宮の身柄確保には失敗しています。 

 毌丘倹の読みの浅さと、王頎の、宮の身柄、確保の失敗が、高句麗を存続させ、後の隋の大敗に繋がっていきます。

 

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   後漢三国時代直前の地図です(wikipedia)

 

 この記事に出て来るのは南北沃沮と挹婁です。南北沃沮を攻め、北沃沮(溝婁)で耆老に海東の様子を聞いています。粛慎との接触は書かれていません。では「践粛慎之庭」とは何のことを言っているのでしょう。

 粛慎

 粛慎は次の史書に出てきます。(wikipediaを編集)

書経』、周初の史官の記録にあると考えられている。儒教では孔子が編纂したとする。

『春秋左氏伝』孔子と同時代の魯の太史であった左丘明であるといわれている。

『国語』は『春秋左氏伝』と同じく左丘明であると言われている。

山海経』、戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられている。

史記』周本紀

 いずれも周初の武王や康王の事績として書かれている。

 

後漢書東夷伝

周初の武王や康王の事績の中に出て来る。

『晋書』四夷伝

周初の武王や康王の事績の中に書かれている。晋の文帝(司馬昭)が魏の丞相となった頃、魏の景元年中魏帝(曹奐)の、時粛慎が来貢したとある。晋になっての武帝(在位:265年 - 289年)の時ふたたび来朝して献上し、元帝(在位:317年 - 322年)が晋朝を中興すると、また江左(江東すなわち建康)に詣でた。成帝(在位:325年 - 342年)の時に至り、後趙(北朝)の石季龍に朝貢するようになった。季龍はこれを問い、粛慎の使者が答えて言った「たえず牛馬の様子を見ていましたところ、西南に向かって眠ることが3年続きました。これによって大国(後趙)の所在を知ることができましたので、やって参りました」と。

『晋書』は唐になって編纂されています。唐は北朝の系譜の王朝です。後趙のころから北荻が北朝朝貢していたと言いたいのでしょう。仕込みが見え透いていますね。

 

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前漢時代の地図で、周辺の蕃夷の国名は周初と異なっています(wikipedia)

 

三国志」編纂する陳寿は北沃沮を、前書(『史記』等)にある、周への朝貢国の一つ粛慎に見立てているのです。「東夷傳序文」で陳寿は、周や漢では未踏だった粛慎の地まで兵を送り込み、他の東夷諸国もつぶさに記録したと誇って(賛美して?) いるのです。

 おなじみの引用文はこの文脈の中で理解しなくてはならないのです。

 

 次回こそ、訳文の検証にかかりたいと思います。それまでに「三国志修正計画」さんの提供してくれる対訳を読んでいただければ有難いです。