例文内の「又」の役割7 最後の「又」5――記事№...25

古田武彦氏の説のウソ、・・№22」――2−1 景初3年が正しい理由―その21

 

 今回は記事№21からの繰り返し説明が多くなります。前三回うまく説明しきれていないという私の思いがあってのことなのですが少し我慢してお付き合いいただければ幸いです。

  目次

 

楽浪郡北遷説」についての繰り返し

「宮死、子伯固立。順・桓之間、復犯遼東、寇新安・居郷、又攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」

この原文を筑摩書房版『三国志』訳本は次のようなに訳しています。

――宮が死ぬと、皇子の伯固が立った。順帝と桓帝の時代に、ふたたび遼東郡を侵犯し、新安と居郷で略奪を働きさらに、西安平に攻撃をかけて、その道すがら殺帶方令を殺し樂浪太守の妻子を奪い去った。(筑摩)――」

三国志修正計画」の訳文もほぼ同じ趣旨です。これだけであれば私に立ち入って論じる必要ありません。ところが「三国志修正計画」は、訳文に次のような注釈を付していました。

 

「この当時はまだ帯方郡は無く、帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり、しかもついでに楽浪太守の家族が拉致された以上、少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります。当時の中国は河西だけでなく東北経略も大きく後退していて、東北では遼東郡が最前線を担っていたという事でしょう。 (修正計画)」

 

私はこの注釈を「楽浪郡北遷説」と呼びました。この注釈で前回、前々回、その前と三度にわたっての検討を余儀なくさられました。

 

両翻訳部分だけを考えれば「又」についての私の理解には何の問題も生じません。

西安平を攻めたときは、新安・居郷を寇した時とは違い、戦場が楽浪郡という別の郡に及んでいます。

「復犯遼東、新安居郷、又(攻西安、于道上帶方令、略得樂浪太守妻子)。」

           遼東郡                   楽浪郡

「」のなかは” 復犯遼東 ”で括られた文節で、以下は遼東郡内で侵された地域名が列記されているのが普通す。新安、居郷、西安平は遼東郡でこの括りに当てはまります。帶方令、樂浪太守は楽浪郡の事柄であり、遼東郡というこの括りから外れています。本来、同じ文節に列記することはできません。

しかし陳寿西安平攻めを述べるにあたっては楽浪郡の帶方令・樂浪太守についてのでき事を付記したかった。そこで西安平の前に「又」を挿入することで、混乱を避けることにした。同じ遼東郡ではあるが西安平とその前二つ新安、居郷とは区別される記述である事を明示したうえで、「于道上」以下に楽浪郡の事柄を書き加えた。

というのが私の理解です。

 

ところが「「三国志修正計画」は、注釈で伯固が西安平を攻めたとき「少なくとも両者の治所が遼東郡内に徙されていた事になります」と言っています。

両者とは楽浪郡の治所(平壌)と帯方県の治所です。「少なくとも」、というのは当帯方郡が分立する前、楽浪郡に県が十八あったからです。十八ある県の治所の内、少なくとも帯方県の治所は楽浪郡の治所とともに遼東郡内に徙されていた、と「三国志修正計画」はいうのです。では他の県の治所はどうなったのでしょう。濊 東沃沮等の勢力に押されて放棄されたのです。遼東郡に移された楽浪郡の治所と帯方県の治所はいわば亡命政権の所在地だということになります。伯固が西安平を攻めたとき楽浪郡という漢の行政組織は、すでに崩壊しその領域は放棄されていたことになります。

これが「三国志修正計画」の主張している説です。

 

 漢が楽浪郡を放棄し、楽浪郡の治所、帯方県の治所等を遼東郡に移し、伯固が攻めたのが遼東郡内にある両治所、だったとすれば、私の伯固はこの時楽浪、遼東二郡を攻めたから「又」を使って「攻西安平」を区別している、という私の理解は成り立たなくなります。ここに楽浪郡北遷説の検証を始めた理由があることはすでに申し上げました。

 

三国志修正計画」が、なぜ「楽浪郡を放棄した」と主張するのかを考えてみました。

「帯方県は楽浪郡の南の平壌方面に置かれていた筈です。それが遼東郡の西安平を攻める途上にあり」と言い、それを根拠に「両者の治所が遼東郡内に徙されていた」と主張しています。

過去三回の記述で伯固が下地図のルートA、Bの征路を取ったと想定した場合だけこの主張が成立ことを述べました。

私はルートCが存在していて、このルートの現実性が一番高いことを述べ「三国志修正計画」の主張に反駁しました。伯固が西安平を攻めたときルートCをとっていれば楽浪郡の治所、帯方県の治所は楽浪郡内に存在していることに疑問は出ません。伯固が征路にルートCを取っていれば楽浪郡が放棄されていたという仮説を立てる必要は全くありません。伯固は楽浪、遼東両郡を蹂躙したのです。

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         伯固の征路 

三国志修正計画」の主張はルートA、(B)の征路しか存在しないという思い込みから来た主張であると考えます。

三国志修正計画」への反駁の試みは一応成功したと考えています。

 

また、陳寿はそれ以外にも「寇新安、居郷」と「攻西安平」を区別する必要を感じていたはずです。私の解釈に沿って考えてみます。

新安、居郷を寇した、この両事件が伯固の一回の侵犯事件なのか、別々の事件なのか、一切触れられていません。仮に「寇新安」、「寇居郷」、「攻西安平」と三度「犯遼東」が繰り返されたとします。

すると「寇新安」、「寇居郷」は一回の侵犯事件で一郡内の一城市が周辺を略奪される被害を受けました。「又攻西安平」では一回の侵犯で二郡に及ぶ被害を受けています。楽浪郡の県令が殺され、郡太守の妻子が拉致され、遼東郡の西安平に攻めかかられています。この軍行と並行して、二郡の範囲での略奪等については書いてこそありませんが、無数に起こったことは想像に難くないところです。「寇新安」、「寇居郷」と「攻西安平」では、受けた被害に相当な差があったでしょう。

仮に「新安・居郷」は一度の「犯遼東」で、連続的もしくは同時に「寇」されたのであったとしても、両者の被害は比較にならないほど大きかったのではないでしょうか。

「攻西安平」は一連の伯固の侵犯事件の中でも「又」と区別され特記され強調されてしかるべき規模のはずです。

 したがって私の文章上「又」の果たす役割理解は間違っていません。

 

「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」

記事№21で「楽浪郡北遷説」とは別に「楽浪・帯方両郡、半島不存在説」を取り上げました。「楽浪郡」「虚構」をキーワードに検索してみてください。結構な数の該当記事が上がってきます。

伯固が西安平を攻めたとき朝鮮半島楽浪郡はなかったという点で、両主張は共通しています。

これは検証しておく必要がある、私はそう感じました。

 

 この説は朝鮮半島に、箕子朝鮮・衛氏朝鮮はもちろん、漢の四郡もなかったという説です。半島は古来ずーっと鴨緑江まで朝鮮民族?の地であり、漢の四郡は中国領内の吉林省遼寧省にあったといいます。韓の領域は北にずれ、空いた半島南部を埋めるように倭は半島南部にあったといいます。このことを隠蔽し、半島が古代から中国の支配下にあったことにするため、後世中国の史家が史書の解釈を意図的に捻じ曲げているのだそうです。

この説は『漢書』『後漢書』の記述を否定しているのではありません。曲解された解釈を正しているのだそうです。

 遼東郡、遼西郡の存在も否定していません。そして楽浪郡遼寧省(遼西、遼東地方)のどこかにあって、共存していたのだそうです。

 

西安平は考古学的証拠から遼寧省東南の端、現在の丹東市であることは否定できないでしょう(不存在説も否定はしていません)。

       

 

 

吉林省 (高句麗)

 
 

 

 

丹東市

(西安平)●

 朝鮮半島=)

 

 

 

遼寧省(遼西郡、東郡郡、楽浪郡)

 

また西安平は『漢書』地理志、『後漢書』郡国志で遼東郡に属すると書かれています。原本の文面は解釈で動かすことができるものではありません。

 

漢書』地理志、

遼東郡,秦置。屬幽州。戶五萬五千九百七十二,口二十七萬二千五百三十九。縣十八:襄平。有牧師官。莽曰昌平。新昌,無慮,西部都尉治。望平,大遼水出塞外,南至安市入海。行千二百五十里。莽曰長說。房,候城,中部都尉治。遼隊,莽曰順睦。遼陽,大梁水西南至遼陽入遼。莽曰遼陰。險瀆,居就,室偽山,室偽水所出,北至襄平入梁也。高顯,安市,武次,東部都尉治。莽曰桓次。平郭,有鐵官、鹽官。西安平,莽曰北安平。文,莽曰文亭。番汗,沛,水出塞外,西南入海。沓氏。

 

後漢書』郡国志

 辽东(遼東)郡秦置。雒阳东北三千六百里。十一城,户六万四千一百五十八,口八万一千七百一十四。

 襄平、新昌、无虑、望平、候城、安市、平郭、有铁。西安平、汶、番汗、沓氏

 

伯固は遼東郡の城市を直接寇したり、楽浪郡を抜けて西安平を攻めたりしています。吉林省高句麗遼寧省にある遼東郡の間は直接侵攻できる部分と楽浪郡に隔てられた部分があることになります。

すると四郡と韓の配置を、一例として下図のように模式化することができます。

           
 

高句麗

   
 

遼西郡

遼東郡

楽浪郡

 朝鮮半島=韓

 
 

西安平●

(遼東郡)

   
           

 

この模式を地図上に表すと次のようになります。

 

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       不存在説での伯固の征路

 

このばあいは半島内の征路は考えられませんから、二つ赤線が伯固の征路になります。(A)が、「寇新安・居郷」、(B)が、「攻西安平、于道上殺帶方令、略得樂浪太守妻子。」です。

 

 (A)は単独遼東郡への侵攻であり(B)は楽浪郡と遼東郡への侵攻です。

 このように三郡と高句麗、韓を配置してみると「半島不存在説」は、私の「又」の意味理解に関しては何の影響も与えないことがわかります。

 

「半島不存在説」では遼東郡の範囲や楽浪郡の位置を明示していません。ですからその位置関係はこれ以外にもいろいろ考えられます。そして征路も、楽浪郡等の位置に合わせて様々な解釈ができます。

しかし私の「又」に関する理解は、遼東郡、楽浪郡遼寧省という狭い範囲に近接して存在して、高句麗が直接遼東郡を寇したり、楽浪郡経由で遼東郡の西安平を攻めることが出来る配置という設定が可能である限り破綻することはありません。

長く更新をせず申し訳ありませんでした。

理由の第一は田舎で一人住まいする母の件で三ヶ月ほど帰省していたことです。十分に気持ちを更新作業に向けることが出来ませんでした。

四月になって自宅に帰ってきたのですが、母が高齢で今後このようなことが繰り返し起こるのだろうと、うら悲しい覚悟をした今回の帰省でした。

 

第二の原因は「半島不存在説」批判に正面から取り組もうとしたことです。

この説は立論のために使う史書の資料批判が全くなく、使用法も自説に有利ならどんな使い方でもする。古学上の成果についての評価も恣意や杜撰さ満ちているというのが私の感想です。

それをいちいち指摘していかなければなりませんでした。そんなことに振り回され一歩も前に進めなくなってしまいました。

しかし私がこのブログで問題にしている点について「半島不存在説」の存在で影響をうける部分でないことがわかりましたので、泥沼から足を抜かせていただくことにして、何とか今回の更新となりました。

 

「半島不存在説」については下記のブログが所論を述べています。

 

テラさんの万華鏡 虚構の楽浪郡遼東説 

https://ameblo.jp/teras0118/entry-12094682024.html 

 

私はこのブログで「半島不存在説」の史料や、考古学的成果の使用が恣意的でありすぎることをもっと突っ込んで欲しかったと思いますが、今後の論及に期待しています。

 

「テラさんの万華鏡 」の管理人さんガンバッテクダサイ。

 

今回まで事例から「又」の役割について書いてきましたが、一応今回で終わることが出来たと思っています。次回からはまたA氏の主張と正面切って向かい合いたいと思っています。