「又」の検証を終えて、 ――記事№...26

古田武彦氏の説のウソ、・・№23―― 2−1 景初3年が正しい理由その22

 

 お詫び

 この№26は全面的に書き換えました。前回の論調では後に続かないことに気づいたからです。

不勉強のため、読んでくたさっている方(もしいらっしゃったら)には戸惑いを与えることにお詫び申し上げます。

 

ここまでの検証で分かったこと

     古田氏批判の出発点

A氏は自らのブログの冒頭でこう述べています。

 

「私は、古田武彦氏の『古代は輝いていたⅠ』を読んで、こんなに面白い本はないと感じました。ところが、『古代は輝いていたⅢ』を読み終えたとき、この大ウソを暴きたいと考えていました。」

 「この大ウソ」とは卑弥呼の初回遣魏使節、景初二年説のことです

 

氏は古田氏の嘘を暴くために、まず筑摩書房版『三国志』訳本東夷伝序文を引用すします。直接、古田氏批判をする前に、東夷伝序文の記事で初回遣魏使説を景初三年であると証明してしまう手順です。 

-地の文-

卑弥呼の遣わした使者が帯方郡朝貢を願い出た年は、「魏志倭人伝」では、景初2年(238)になっています。しかし、「魏志東夷伝」序文の次のような記述から、この景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

-引用文-

公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

 景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

(今鷹真・小南壹郎・井波律子訳『三国志2』世界古典文学全集24B:筑摩書房

-地の文(解説)-

この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。れゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

                   原      文

而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子爲其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。

(『三国志』原文はA氏のブログにはありません)

     A氏、六段階論理を展開

A氏はこの論理を二項目に据えて、前後六段の論理を展開しています。

 

①   『魏志(書)公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。(解説文中) 

 

「八月丙寅夜、大流星長數十丈、從首山東北墜襄平城東南。壬午、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(魏書公孫度伝公孫淵)』

--八月丙寅(七日)の夜、大流星の長さ数十丈が、首山より東北して襄平城の東南に墜ちた。壬午(二十三日)、公孫淵の軍兵は潰え、その子の公孫脩と数百騎を率いて包囲を突いて東南に逃走したが、大兵で急しくこれを撃ち、まさに流星の墜ちた処で公孫淵父子を斬った。(訳・修正計画)」

 

②   (「又」=)「すると、さらに」=「後」  ()内は私の追加

③   「公孫淵を誅殺すると、さらに(その後に)ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(引用文より)」

④   「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」(解説文中)

⑤   「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」(解説文中)

⑥    景初2年が、3年の誤りであることが分ります。(引用文直前の地の文)

 

 この⑥項目で、「三国志」に明記されているのは最初の項目①だけです。②はA氏の推論であり③、④、⑤、⑥は①、②、から立論したA氏の論理です。

A氏の論理は②「すると、さらに」=「後」、が成り立つことを前提としています。

前回までの検証

「又」=「すると、さらに」=「後」の論理

A氏は序文を引用した後、解説して「(引用した序文を見れば)魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵

誅殺後であることが分かります。」といいます。

 

氏は解説文で「この序文から」両者の前後関係が「分かります。」と主張していますが、それは引用文の中のどこからでしょう。引用訳文を辿りました。

「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った」、この部分ですね。

さらに絞り込むと「公孫淵を誅殺」と「ひそかに兵を船で運んで海を渡し」とを「すると、さらに」という語句がつないでいるからです。

 

A氏は訳文が「Ⓐ公孫淵を誅殺Ⓑすると、さらにⒸひそかに兵を船で運んで海を渡し」とあるのだから、「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後で、あることが分かります」としています。煎じ詰めると「Ⓐ公孫淵を誅殺Ⓑすると、さらに」というフレーズは「Ⓐ公孫淵誅殺Ⓑ´後」というフレーズに置き換えられるといっています。

整理するとA氏は「すると、さらに」は「後」を意味していると主張していることになります。

「すると、さらに」=「後」という関係ですね。

 

氏の引用文と解説で読み取れるのはここまでですがまだ続きます。氏引用文の「公孫淵を誅殺すると、・・・・の郡を攻め取った。」は、原文の「誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,」の部分です。

原文の「又」は「すると、さらに」に当たります。

そうですよね、「又」を「すると、さらに」と訳せなければ「公孫淵を誅殺すると、さらに・・・楽浪と帯方の郡を攻め取った」、とは訳せませんよね。

 

原文の「又」が「すると、さらに」ですから、A氏は「又」=「すると、さらに」=「後」このように主張していることになります。

「又」=「後」

それで私は前回まで「又」=「後」が成立するかどうかを鋭意検証してきました。

 

記事№16以降、記事№25までのすべての回を使って「又」は「後」という意味をもたないことを証明しました。そのうえで、全『三国志』からすると少ないですが、現に東夷伝原文に出てくるすべての「又」が持つ意味を検証してみました。ここには書かなかった検証もしてみました。自慢ではありませんがいくつかの検証結果は、それ単独で 「又」≠「後」が証明できているものだと自負しています。

「又」≠「後」については皆さん食傷気味だと思います。

「又」=「すると、さらに」検証の復習

「又」≠「すると、さらに」の検証は少なかったと思います。「又」≠「後」の検証の中に埋もれてしまっているかもしれません。そこで簡単に復習をしてみます。

 

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、

--公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。(筑摩書房版『三国志』)」

 

「又」の訳語から見ていきます。『諸橋大漢和辞典』で当てはまる訳語は二つでした。

 

❷また。㋑さらに。そのうえ。㋺ふたたび。

❸ふたたびする。

 

筑摩書房版の訳者は「又」の訳語に『諸橋大漢和辞典』の訳語中にない「すると、さらに」という語を当てはめています。「さらに」という訳語の前に、「すると」という語を付け加えた新造訳語です。

 

日本語の「すると」は「勉強をすると成績が良くなる」、「貯金をするとお金がたまる」のように前の行為が後ろの行為に連続していることを表すために使います。順接の接続詞というのだそうです。

蛇足ですが「・・(したの)だが、・・」等は 逆接の接続詞と呼ぶのだそうです。

 

私は記事№.16で「中国語で前の行為が完了後、次の行為に結びつくこと」を示す場合、「了」等が使われていることを示しました。( 乞参照: 記事№.16 ―新たな二つの疑問―「すると、さらに」を、中国語訳してみました。)

「了」等が日本語の場合の「順接の接続詞」的役割を果たすのです。

陳寿著『三国志東夷伝序文の原文「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、」には「了」等、「順接の接続詞」的役割を果たす語句がないことを確認してください。

 

原文自体は両作戦の前後を述べていないのです。原文は景初年中(237~239年)に、二つの大きな作戦、「大興師旅、誅淵。」と「潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」とが実施されたといっているのです。 

「又」≠「すると、さらに」であると納得いただけたでしょうか。これが今までやってきた検証です。

 纏め

 お気づきでしょうが、A氏が主張しているの「すると、さらに」=「後」です。これまでの検証はあくまで、「又」=「すると、さらに」、「又」=「後」です。私は、まだこの主張についての検証を行っていません。

次回からはこれに触れたいと思います。