「すると、さらに」からの卒業、 ――記事№...27

 

古田氏の説のウソ、・・№24――2−1 景初3年が正しい理由その23

 「すると、さらに」=「後」の検証

前回、つぎは「すると、さらに」=「後」の検証にとりかかる、と書きました。

 

ただしお断りしておきますが、私は「すると、さらに」=「後」を全否定しているわけではありせん。成り立つ場合はあると思います。

ただA氏の主張する《「すると、さらに」とあれば、すべての場合、無条件で「後」だ》という考え方に疑問を呈しているのです。

  訳者たちの訳語

「又」を「すると、さらに」と訳したのは、A氏ではなく筑摩書房版『三国志』の訳者先生たちです。とりあえず先生たちも「すると、さらに」を「後」と考えて訳したのかどうか見てみましょう。

    「筑摩版訳本」と「修正計画」

東夷伝には二十五か所で「又」が使われています。訳語として使われているのは下記のとおりです。

加えて 1、 別に 1、ふたたび 2、さらに 6、また 13、

省略してあるのが1、そして「すると、さらに」が一か所です。

 

先生方は「又」という接続詞の訳語を、省略まで含めると七種類も使っています。「すると、さらに」以外に《○○した「後」に》と解釈できる訳をしていません。基本的に《複数ある事物や出来事を結びつける接続詞》といった感じで使っているようです。

同じ漢字「又」を二十五か所で使って、一つだけ違う意味に解釈するというのは何か引っかかります。

 

私の意見は記事№18と20で書きました。

《「又」は、並記された事物や出来事同志を結びつけるために使う、もしくはある条件(例えば時とか)で括られ併記された事物や出来事の内、他と異なる条件を備えた例を他と区別するために使っている。》と

 

「修正計画」は訳語を、二十五か所、すべてそのままの「又」で済ませています。 勿論、日本語の又です。

「修正計画」は東夷伝に出てくる中国語の「又」の意味を、すべて日本語の「又(また)」であると考えているのです。二十五か所全部を「又」と訳すのは作業的にはすごくシンプルです。しかし、読者は、同じ語が頻繁に出て来て煩わしく感じるのではないでしょうか。

 

 筑摩書房版『三国志』訳本は正式名称を『世界古典文学全集 第24.25.26巻 三国志』といいます。文学作品の翻訳書としての扱いなのです。文学作品では、読みにくくなることを避けるため、できるだけ同じ単語や文字を重複させないという作法がありますね

筑摩書房版『三国志』訳本を翻訳する先生方も二十五か所全部を同じ意味にとらえていた。しかし文芸書として読む読者に煩雑感を感じさせたくない、そのため訳語に変化を与えた。

「すると、さらに」はその訳語、七つの内の一つだと考えることもできませんか。

「後」を意味する語句とは認識しないで「すると、さらに」と訳したのかもしれません。

 

A氏は「すると、さらに」を「後」だと再翻訳してくれますが、最初に翻訳するにあたって、先生方が直接「後」という訳語をつかうのに何の障害もありません。そして「後」の方がシンプルで分かりやすい。先生方にはわざわざ「すると、さらに」と婉曲に表現しなければならない理由はないのです。

    筑摩書房版訳本の景初二年説

この憶測には根拠があります。

「景初二(237ママ)年六月、倭の女王は、太夫の難升米らを帯方郡に遣わし、天子に朝見して献上物をささげたいと願い出た。帯方郡太守の劉夏は役人と兵士をつけて京都まで案内させた。その年の十二月、倭の女王へのねぎらいの詔書がくだされた。(筑摩書房版『三国志』訳本、307頁 魏書東夷伝倭人条)」 

 筑摩書房版訳本は遣使景初二年説を取っているのです。

 

このままではなぜ「すると、さらに」=「後」と考えなかった根拠となるか分かりづらいと思いますので注釈を入れます。

 

A氏の「景初三年説」に至る論理は次のような過程です。

 

  

①   公孫淵誅殺は景初2年8月23日

 

②    「又」=「すると、さらに」=「後」

 

③   「公孫淵を誅殺」の後「楽浪と帯方の郡を攻め取った」

 

④   「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」

 

⑤   「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」

 

⑥     景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

この論理の⑥を入れ替えて逆にたどってみます。

⑥遣使は景初二年六月。

⑤景初二年六月に倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出た。

④魏が帯方郡に太守を置くのは、景初二年六月以前。

③「公孫淵を誅殺」以前に「楽浪と帯方の郡を攻め取った」。

②「又」=「すると、さらに」=「前」。

①   公孫淵誅殺は景初2年8月23日

 

いかがですか。①以外は全部ひっくり返ってしまいます。筑摩書房版訳本の訳者たちが=「後」と考えていたら、「景初二年六月」とは訳せません。

つまり訳者たちは「すると、さらに」を《「公孫淵を誅殺」した後「楽浪と帯方の郡を攻め取った》と理解させる順接の接続詞と意識して使っているのではないのです。であれば訳者は「すると、さらに」は、ほかの六種類の訳語と同じく、前後を対等に結びつける接続詞として使っていることになります。

 

=「前」と考えたとまでは言いません。おそらく「すると、さらに」と訳すことで=「後」という理解が出てくるとは想像もしていなかったのでしょう。 

 

正解は先生方しかわかりません。しかしはるか昔の事、このように微妙なことは先生方も記憶していないでしょう。しかし、根拠はありました。憶測を推測ぐらいには格上げしてもらえるでしょうか。皮肉なことに使い始めた当事者でさえ「すると、さらに」を「後」とは理解していないかもしれないのです。

  信長と鉄砲

A氏は「Ⓐ公孫淵を誅殺すると、さらにひそかにⒷ兵を船で運んで海を渡し」を引用して「この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。」といいます。

 

《「Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ」とあれば、必ず、「Ⓐ「先」→「後」Ⓑ」》

この関係が普遍的で固定していて、初めてⒷ「が分かります。」と言えます。

 

「Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ」から「Ⓑ「先」→「後」Ⓐ」という反対の結論が出る事例があると、A氏の主張成り立ちません。もしくはⒶとⒷが同時という結論でも同じです。

 

中日新聞のホームページに水野誠志朗氏の書かれたコラムが載っています。

http://chuplus.jp/blog/article/detail.php?comment_id=630&comment_sub_id=0&category_id=233

 織田信長斎藤道三の対面を取り扱った《「であるか」、19歳の信長、斎藤道三を唸らせる》という表題の記事です。その一部分を引用させてもらいます。

場所は尾張と美濃の国境にあったとされる富田という集落の正徳寺。信長は鉄砲や槍を携えた親衛隊800人ほどを引き連れ、いつもの「たわけ」の格好で聖徳寺へ向かいました。その行進を富田の町外れで隠れてこっそり見ていたのが道三です。 ひょうたんをぶら下げた信長は見るからにうつけものでしたが、兵が持つ500もの鉄砲、500もの6メートルを超える長槍を見て驚きます(槍は長いほど有利ですが、扱うためには厳しい訓練が必要です)。

これは『信長公記』が出典でかなり有名な場面です。ネットで「信長、徳寺、鉄砲、」を検索してみてください、ほかにも同様な記事を見ることが出来ます。

 

信長の父信秀は天文二十一(1552)年三月三日に死去しました。 正徳寺の対面はその翌年、天文二十二(1553)年、です。

信秀が長槍部隊や鉄砲隊を擁していたという記事を見たことはありません。配下の国人部将ごとに戦闘に参加する典型的な戦国武将の戦闘形態をとっていたと思われます。すると長槍や鉄砲による部隊編成は信秀の死後始まったと思われます。

 

引用した記事を次のように書き換えてみます。

織田信長はⒶ鉄砲隊を編成すると、さらにⒷ長槍部隊も編成した」

 

記事の趣旨は違ってきますが、「すると、さらに」を使って書き換えた文章としては、問題ありませんよね。

このセンテンスは《Ⓐ+「すると、さらに」+Ⓑ》という構造ですからA氏の主張に従えば、「鉄砲隊を編成した後、長槍部隊編成した」といっていることになります。

 

しかし物事はそう単純ではありません。

槍は自領の刀鍛冶に命じて作らせればよく、それほど入手に困難はなかったでしょう。長槍部隊は槍を購入すれば後は手入れに配慮すればよく、短い期間でも部隊編成はできるでしょう。

しかし鉄砲の入手は堺の商人と接触がなければ難しかったようです。購入後も槍と違って、火薬や弾丸を切らさないルートの確保が必要です。部隊編成は、それやこれやの要素を調整しながら進めなければなりません。鉄砲だけ手に入れても訓練さえできないのです

このような諸条件を考えあわせると、文面だけからA氏の主張通り「鉄砲隊編成」が先であったと理解することには疑問符が付くことになります。

 

私は『信長公記』にある「対面記事の内容」そのものに種々の疑いを持っているのですが、それは別の話なので触れません。

  合格発表の例文

A氏の主張に疑問符が付いたところでより詳しく検証するために幾種類かの例文を作りシミューレションをしてみました。

中でも簡単な例文を書きだします。

 

ある予備校の大学合格実績報告を模した例文です。私立大学の合格発表は国立大学の発表より早く行われます。私立大学は学生確保のため国立大学の合格発表より合格発表と学費納付期限を早く設定するのです。

 

まず受験生が一人の場合です。受験生は二校受けたことにします。受験生が一人の場合、二つの合格には必ず前後関係があります。

「○○予備校の××君は、Ⓐ慶応大学に合格すると、さらにⒷ東京大学にも合格した」

書かれている通り、まず慶応大学に合格し、その「後」、東京大学に合格したのです。このケースの場合は「すると、さらに」=「後」でA氏の論理が成り立っています。

しかし予備校は、大学の格を考えて受験生募集を有利にするため次ように発表する場合もあるでしょう。

「○○予備校の××君は、Ⓑ東京大学に合格すると、さらにⒶ慶応大学にも合格した」

事実経過と、記載されている合格認知の順序は逆になっています。「すると、さらに」は時間の前後関係を示す”順接の接続詞 ”ではなく、××君が合格した大学を”併記するための接続詞 ”になっています。この場合はA氏の「すると、さらに」=「後」という論理は通用しません。

 

受験者が二人の場合を考えてみます。

「○○予備校のⒶ××君は慶応大学に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、東京大格に合格した。」

この場合、まず××君が慶応大学に合格し、その後△△さんが東京大学に合格したのです。このケースの場合は「すると、さらに」=「後」でA氏の論理が成り立ちます。

「○○予備校の出身Ⓐ××君は東京大学に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、慶応大学に合格した。」

大学の格を考えると、予備校の発表はこうなる場合もあるでしょう。Ⓑ慶応大学合格が先でⒶ東京大学合格が後です。A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は成り立ちません。

「○○予備校の出身Ⓐ××君は東京大学理学部に合格した。すると、さらにⒷ△△さんも、法学部に合格した。」

東大の合格発表は推薦入試:2018年2月7日(水)一般入試:2018年3月10日(土)だそうです。どちらが後か先かは問題にもなりません、同時です。A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は成り立ちません。

 

五つの例文で見るように、「すると、さらに」=「後」は何時でも成り立つわけではありません。

ⒶとⒷの行為が同一人による行為で両行為には無条件で前後関係が生じます。時系列を追って書いてある文章では、ふつうにA氏の論理が成り立ちます。しかし書き手の都合で現実とは倒置される場合があります。その場合は成り立ちません。

ⒶとⒷの行為者が別人である場合、ⒶとⒷには前後関係がある場合と同時期の行為である場合とが生じました。前後関係があるといっても記述上Ⓑが先の場合もあります。

A氏の「すると、さらに」=「後」という論理は苦戦ですね。

  甲州征伐の例文

ちょっと複雑な別の文例でA氏の主張を検証して見てみましょう。織田信長が武田氏を滅亡させた史実についての記述です。今度はA氏が引用した東夷伝の文にすり合わせていきます。

例文1

天正十年二月、Ⓐ伊那、飛騨方面から侵攻し、勝頼を誅殺すると、さらにⒷ三河方面から進軍し、駿河を攻め取った。」

文章構造は筑摩書房版『三国志』訳本東夷伝の引用文と同じに作ってあります。

A氏の主張が正しければ、家康は勝頼が誅殺された後、三河方面から進軍したことになります。

    行為者名を省略しました

この例文では行為者の名前が省略してあります。それはA氏が筑摩書房版『三国志』訳本から引用した例文に、行為者の名前がないからです。

筑摩書房版『三国志』訳本に行為者の名前がないのは、陳寿著『三国志東夷伝原文に行為者の名前がないからです。「甲州征伐」の例文を筑摩書房版『三国志』訳本の例文と同じ構文にするためには将の名前を省略せざるを得なかったのです。ズルをやったわけではありません。

    省略された行為者を挿入します

 行為者が省略されていて、例文があいまいになっています。この例文を書き直し、軍行の主人公の名前を入れてみましょう。

 合格発表の例文で、検証を行為者が単独の場合と複数の場合に分けました。今回も同じ作業をします。

 

まず一人の場合です

例文2

天正十年二月、信長はⒶ伊那、飛騨方面から侵攻し、勝頼を誅殺すると、さらにⒷ三河方面から進軍し、駿河を攻め取った。」

信長軍と徳川軍は同盟軍であったとはいえ信長がトップです。この書き直しに問題はありませんね。

この場合もA氏の主張に当てはめると「【勝頼を誅殺】 後 【三河方面から進軍】」と書き換えることが出来ます。

しかし、日本史研究者は誰もそうは考えていません。A氏の主張とは逆に【三河方面から進軍】後【勝頼を誅殺】」です。これを疑う人はいません。何故でしょう。

    信長は実際の行為者ではない

 もう少し、詳しく「甲州征伐」の推移を見てみます。

山梨県発行の『山梨県史』は様々な原資料から信長軍甲州侵攻の経過を伝えています。私はそれを次のように纏めました。

 

信長軍は三手に分かれて侵攻します。信忠率いる織田軍本隊が伊那、金森長近の部隊は飛騨、そして徳川軍が駿河方面から侵攻しています。

2月3日、  森長可隊が岐阜城を出発

2月12日、 織田信忠の本隊が岐阜城と長島城を出発

2月18日、 徳川家康浜松城を出発。

3月5日、  織田信長安土城を出発

3月11日、滝川一益が天目山の田野で勝頼一行を発見。勝頼と北条夫人は自害、嫡男 信勝と家臣ら全員が戦死します。

勝頼の首を取った滝川一益は信忠の部将です。

 

時間経過を追って例文に反映させてみます。

例文3

天正十年、二月三日、織田軍のⒶ森長可隊が飛騨方面からが侵攻し、二月十二日、本隊を率いる織田信忠は、二月十二日に伊那方面から侵攻した。すると、さらにⒷ徳川軍は、二月十八日に浜松城を進発し駿河を攻め取った。総大将の信長は三月五日に土城を出、三月十一日、滝川一益が逃亡する勝頼を発見し、これを誅殺した。」

 行為者が複数いる例文です。

 

明らかにA氏の主張を当てはめた場合とは逆です。【三河方面から進軍】の「後」【勝頼を誅殺】」です。

 

この例文の場合、行為者は三名です。森長可織田信忠徳川家康です。信長は3月 5日に安土城を出発したとあります。大局が決まってからです。直接の行為者ではありません。その信長が[例文2]で唯一人出てくるのは同盟軍の総指揮官・代表として記されているのです。なにかの過ちではありません

 

行為者が複数でA氏の「すると、さらに」=「後」という論理にとは逆の結論になりました。

  結語

逆の結論が出たのを見てA氏は、《「すると、さらに」が「すべての場合、無条件」で「後」である》などとは言っていない》と反論されるでしょう。

しかし、本気でそのように主張するのであれば「どのような場合」「どのような条件」があれば、「すると、さらに」=「後」であることになると述べてから、その要件に一致しているから「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります」と書くべきなのではないでしょうか。

氏は、段階を飛び越えた論理の展開が、結果として「すべての場合、無条件」に、と言っているのと同じだ、ということに気づいてくれるでしょうか。

次回から「すると、さらに」を離れます

    今回のまとめ

甲州征伐の [例文1]、[例文2]の段階では【勝頼を誅殺】」と【三河方面から進軍】の前後について史実は見えていません。

確定できるのは、[例文3]の段階です。勝頼の討たれた日付と、家康の進発日付を比較できるようになったからです。比較できることで、「すると、さらに」の後に書かれた【三河方面から進軍】が【勝頼を誅殺】」するより先だったことが浮かび上がりました。他の行為者の記事は確定された史実の補充的状況証拠として役に立っていますす。

 

「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。」というという東夷伝序文訳文からの引用文は、私の作った[例文1]に匹敵します。

 [例文1]の段階にある序文訳文からの引用文では、情報量が圧倒的に不足していて氏の主張とは逆の場合もあるのです。

無条件で「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かり」ますというA氏の主張が成り立っていないことが証明できたと思います。

    次回について

前回、下記がA氏の論理だと書きました。

 

①『魏志(書)公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。 

②「又」=「すると、さらに」=「後」  

③「公孫淵を誅殺すると、さらに(その後に)ひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(引用文より)」

④「魏が帯方郡に太守を置くのは、(公孫淵誅殺後の)景初2年8月以後のこと」

⑤「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることは(太守が存在しないから)あり得ないことが分かります。」

⑥景初2年が、3年の誤りであることが分ります。

 

 

 ここまでA氏の②「すると、さらに」=「後」にこだわり、振り回されてきました。

 

  「公孫淵を誅殺」と「魏が帯方郡を攻め取った」の前後は「すると、さらに」の存在によって決まるのではありません。具体的内容を持つ記述によって確定しなければなりません。それがなければ前後は不明として処理するのが正しい、と私は考えます。

 

 言いたいことはこれなのですが、A氏の論理は突っ込みどころが多くてどこまで言えば終わりになるかめどがつきません

 

 言いたいことはまだまだあるのですが、ここまでで一応、②の論理が成り立たなくなったと思います。で、今回で「又」=「すると、さらに」=「終」の呪縛から解き放されたいと思います。

 

 呪縛から解き放されると言っても、「又」=「すると、さらに」の検証で分かるように私が証明したのは、《A氏の主張は「無条件」では 成り立たないということ》だけです。今はA氏が⑥の論理にたどり着けないということを証明できただけのことです。「合格発表の例文」で見たように「するとさらに」=「後」が成り立つ場合もあるわけです。「すると、さらに」の論理抜きでも⑥の結論が出るかもしれません。その検証は、まだこれからです。

 

 私がこのブログを始めたのはA氏の主張する「卑弥呼の魏遣使は景初三年」を否定して、古田氏の「景初二年」が正しいことを示すためです。

 私はまだ「卑弥呼の魏遣使が景初二年」であることについては取り掛かってさえいません。

 なんとしても「景初三年が、二年の誤りであることが分ります。」と書けるところまでいかなくてはなりません。

 

 で、次回以降は「すると、さらに」を離れた《「遣使景初二年」の証明》と題して書き出したいと思っています。(もし継続して読んで下さっている奇特な方がおいででしたら)次回以降もよろしくお願いします。