「遣使景初二年」の証明 3 --- B氏の湖南批判と「景初二年論」―記事№...30

古田氏の説のウソ、・・№27」――2−1 景初3年が正しい理由―その26

 

湖南の景初三年説

三国志倭人条に次のようにあります。

「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。(倭人条)

「景初二年六月、倭女王が大夫の難升米等を帯方郡に遣わし、天子に詣でて朝献させてほしいと言って来た。帯方郡太守の劉夏は倭使を洛陽に送り届けた。」ですね。

 

この記事について湖南は『卑弥呼考』で自説を展開しています。

倭人傳によれば難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより・・・(卑弥呼考)」

難升米が、倭の使いとして初めて景初三年に魏におもむいたと言っています。景初二年という『三国志』の記事は「誤なり」、と断言しています。その理由は、「説下に見ゆ」=後で説明する、でしょうか。

卑弥呼考』の最後近くに、「後で(の)説明」らしき文章を見つけました。

「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」『卑弥呼考』

湖南は、「韓諸国が魏と交流できるようになったのは、司馬懿が遼東郡の公孫淵を滅ぼした、それ以後のことだ」と言います。

「而後海表謐然、東夷屈服。(東夷伝序文)」これが根拠でしょう。

 

見てきた通り湖南も白石と同じで、朝鮮半島で戦乱が続いていることを理由に景初三年説を唱えているのではありません。

 

公孫淵が誅殺されたのは景初二年八月壬午(二十三日)です。景初二年六月は淵の誅殺以前だから、魏が帯方郡に太守を置ける段階ではない。「魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。」と言っています。であるのに倭人条は、倭が帯方郡に使いを派遣し”存在しない”太守に天子への朝献を願った、また、願い出た使者を ”存在しない” 帯方郡太守が洛陽に送致したという。それでは話の筋が通らない。そこで湖南はこの記事を誤りであるか、偽りであると断定したのです。

東夷伝中の記述に齟齬がある。筋が通るように理解するには景初三年の遣使と考えるしかない。」と言っているのです

 

古田武彦氏が、ある種の学者さんを「自分に理解できないことにぶつかると、原文が間違っていると言い始める困った人たち」と皮肉っていましたが、湖南もその一人なのでしょう。

 

A氏も「あり得ないこと」と同調しています。

「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」

 

「二年説」対「三年説」の構図

これから湖南の三年説解析に入りますがその前に二年説・対・三年説の構図について私の理解を一言。

*1

普通認識されている二・三年論叢の構図です。この関係は、論争もしくは裁判ですと二年説に立証責任があるとされます。立証できなければ「三年説」が正しいとみなされます。

しか二・三年論争の事実関係は違います。

倭人条の記述「景初二年」(土地の権利書等) ⇐ 異議(権利書無効)の申し立て=「三年説」                                         

                            ↑↑↑

                  倭人条(権利書)の記述の擁護 「二年説」

 

倭人条にある「景初二年」とある記事を「ありえない」と否定しているのが「三年説」なのです。

この構図を土地権利関の係裁判に例えてみます。「景初二年」倭人条の記述が土地の権利書もしく土地登記簿になります。「三年」論者は過去に登記された権利関係の無効を主張して提訴しているのです。

 

その異議申し立てについて、あれこれ批判しているのが、「景初二年論」になります。

「二年」論者の登記関係擁護の主張が成り立っていなかったとします。では自動的に「三年」論者の権利書無効の申し立てが受け入れられるでしょうか。それはあり得ません。

異議申し立ては徹底的に審理されます。その結果、異議申し立ても証拠不足で却下されたとします。すると土地の所有権に変動は起きません。登記上の権利関係が正しいとされるのです。以後権利についての法律関係はすべて登記にもとづいて処理されます。

 

仮に景初二年説が誤っていても、景初三年説も誤っていたとすれば、遣使は「景初二年」なのです。というか景初二年説なぞなくとも、景初三年説が成り立っていなければ自動的に「倭人条の記述にもとづいて卑弥呼の初回遣使は景初二年」なのです。

一般に流布されているのは「景初二年」説には十分な証拠がない。だから「景初三年」が正しい、です。ですがこれは論理が逆転しています。

本来、「三年説」に倭の遣使が「景初二年」ではありえないという完璧な挙証責任があるのです。瑕疵は許されません。

 

では六月、帯方郡太守はいなかった。だから、卑弥呼の初回遣使は景初二年ではなく翌年の三年であるという湖南の、「景初三年説」論理は完璧なのでしょうか。これを見ていきましょう。

「建安中(196 - 220年)、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡」

本論に入ります。韓条に帯方郡の沿革を述べた記事があります。

建安中公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。(『三国志東夷伝韓条)

※建安中 建安元(196)~建安二十五 (220)年

—  建安年中(196~220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐ち、旧民は次第に(その地から)出国し、この後は倭・韓は帯方に属すようになった。(訳: 修正計画)」

 

献帝曹丕皇位禅譲したのは建安二十五年(220年)十月、後漢はこの時滅亡。

この記事によると、帯方郡は景初元年を基準にすると、建郡されて最長で四十一年、最短で十七年過ぎているのですね。

『晋書』にも同様な記事があります。

 

「帶方郡公孫度置。統縣七,戶四千九百(『晋書』地理志)」

公孫康の父、公孫淵の祖父

 

倭使が訪れた時、帯方郡太守は公孫淵の閥

韓条は帯方郡後漢の建安年中に淵の父、公孫康によって、置かれたとしています。郡が置かれれば同時に太守も任命されます。魏が公孫淵の討伐を行った景初二(238)年には帯方郡もあり帯方郡太守もいたことになります。しかし後漢末の混乱の中での建郡ですし、公孫氏が手作りした郡ですから、天下が魏朝に移っても、郡の人事は公孫氏の意向が強く働いていたでしょう。

「倭韓遂屬帶方」

引用文末尾に「倭と韓は帯方に属す」とありますね。

「属す」とは支配を受けている、と考えればよいでしょう。帯方郡に支配されている韓や倭には、帯方郡治に詣でる義務があります。倭と帯方郡の間には定期的、かつ断続的な行き来があって当然です。帯方郡治に滞在することもあったでしょう。

湖南は「難升米が景初三年(二年とあるは誤なり説下に見ゆ)に始めて使を奉じ魏に赴きしより」していますが、遅くとも十七年前から支配されている倭が、その間一度も支配者である帯方郡太守に使者を出していない、それこそ「あり得ないこと」であると私は思います。

 

A氏は倭や韓が帯方郡に「属す」ことになった際、使者の行き来や国書のやり取りが全くなかったということを信じているのでしょうか。また帯方郡は、後漢もしくは魏の地方行政機関として帯方郡を名乗っているのです。その膝下にある属国が、後漢もしくは魏の天子に直接挨拶したいと申し出たことが、「あり得ないこと」とであるとは、どうしても考えられません。

B氏の主張

B氏はこれらの点を指摘して湖南の主張に反論しています。そしてさらに斬新な視点で「景初二年説」展開しました。

公孫淵への朝献を求めた倭の使者、一転して洛陽へ

公孫淵討伐の司馬懿軍が遼東郡に姿を現した景初二年六月、公孫淵サイドの人物が帯方郡の太守であれば、倭人条の記事の示す雰囲気のように「天子への朝献を申し込まれました」、「(ハイ)受付けました」、「(ホイ)洛陽へ送致しました」と手際よく事態が進行することはないでしょう。普通に考えれば、帯方郡太守に朝献の仲介なぞまったく不可能だったと想定する方は筋が通っています。 

 

氏は景初二年六月、帯方郡に詣でた倭使は、遼東、楽浪、帯方郡の実権者・公孫淵が燕王に即位した祝いを述べるため、襄平で公孫淵に朝献したいと願い出たのだと主張します。

同じ六月に、司馬懿が遼東郡へ到着し襄平攻略に取り掛かります。倭使は、帯方郡で情報の入手に困窮してしまいますが。公孫淵は、前年も毌丘倹の攻撃を撃退しています。事態を楽観した倭使は司馬懿の撤退まで、帯方郡で待機することにします。

 そうこうしているうち襄平が落城し、九月になって魏軍が、帯方郡に攻めこみます。その時、倭使の一行は司馬懿軍に身柄を拘束されました。

 倭使の身柄を拘束した魏将と新しく補任された帯方郡太守劉夏は考え込みました。

公孫淵に朝献を求めている東夷を捕らえた、として報告するのと、東夷が公孫淵討伐戦勝利を祝いにやってきたと報告するのと、どちらが魏朝中央の覚えが良いか。

 魏将と太守は倭使を勝利祝賀の使者として洛陽に届けることにした、というのです。

「景初二年」遣使の絶対条件

そもそも「景初二年」遣使の絶対条件は何でしょうか。それは景初二年の年内に倭使が天子に朝献したかどうかです。

 

倭人条にある卑弥呼の初回遣使記事は二つの部分で成り立っています。

①   「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、太守劉夏遣吏將送詣京都。・・・・。

——景初二年(239)六月、倭の女王が大夫の難升米らを遣って(帯方)郡に詣らせ、天子に詣って朝献せんことを求めた。(訳: 修正計画)」

②   「其年十二月、詔書報倭女王曰:「制詔親魏倭王卑彌呼:帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米・次使都市牛利奉汝所獻男生口四人、女生口六人・班布二匹二丈、以到。・・・・・・。

——その年の十二月、詔書で倭の女王に報答するには 「制詔。親魏倭王卑彌呼よ。帯方太守劉夏が使者を遣って汝の大夫難升米・次使の都市牛利を送らせ、汝の献じた男の生口四人と女の生口六人、班布二匹の二丈なるものを奉じたものが到った。・・・・・。(訳: 修正計画)」

 

「其年」は①の「景初二年」のことで、景初二年十二月と言っています。倭使は洛陽で十二月、天子に朝献したと記してあって、「景初二年六月」に朝献したと記しているのではないのですから、①の六月についてどうのこうのと問題を言い立てても、②景初二年十二月の朝献が可能であると証明されれば、まったく無意味な議論になります。

B氏は今までだれも思いつかなかったこのことを、B氏は指摘しているのです。

倭使は十二月に戦勝祝賀に列席できる

帯方郡から洛陽までの旅程を見てみます。

魏軍が倭使の身柄を確保した時期を九月早々とします。倭使が天子に朝献したのを十二月半ばとします。この間、約百日と少々あります。

 

司馬懿は明帝の問いに、洛陽から遼東郡襄平まで軍行百日、と答えています。

 軍行は一日一舎、三十里、(『春秋』からの引用です。)、十五キロとします(1里を500mとした長里です)。洛陽から襄平までおよそ一千五百キロになります。

軍行と違い、当時の健常人の歩行は一時間四キロ、古代の人は健脚で普通一日八時間歩くと計算します。しかし今回大急ぎですので九時間時間としましょう

一日の歩行距離は三十六キロになります。

すると洛陽~遼東郡襄平間は四十二日間で踏破できます。

残るのは遼東~帯方郡治です。遼東半島の付け根にある丹東市から京城までが、直線でおよそ三百五十キロ、道の蛇行を計算に入れて五百キロとします。するとこの間は十四日かかることになります

 洛陽~帯方郡治の合計旅程は五十六日です。

B氏は、六月に帯方郡を訪れ、九月に魏軍に身柄を拘束された倭使でも十二月に洛陽で天子に朝献することが可能だというのです。

確かにこのように考えれば景初二年六月に帯方郡太守が公孫淵サイドの人であっても、倭使は十二月に洛陽で天子に朝献することが可能なのです。

 

湖南の「景初三年説。(景初二年とあるは誤なり)」は景初二年六月に、帯方郡に魏の任命した太守がいなかったことを唯一の論拠にして成り立っています。魏の任命した太守がいないのだから、魏の天子に朝献することはできないはずだという推論によっています。

湖南の主張には倭使が十二月に洛陽で天子に朝献することが出来ないという証明はありません。

しかしB氏は「景初二年六月」の帯方郡太守が魏サイドの人物であっても、倭使は十二月に朝献できると論述しています。

湖南の主張はB氏の反論で、「景初二年とあるは誤なり」と直接的には主張できなくなりました。

 

 ちょっとだけ土地所有権登録の話に戻ります。登録された権利に異議申し立てした事項に大きな瑕疵があったことになります。法的正義は現に登録された権利者(倭人条の記事)にあり。

私の補足

B氏の湖南への反論は大方このような構成でした。B氏の主張が正しければ景初二年遣使は十分に成り立ちます。しかし・・・。

閑話休題

B氏の主張と、遣使記事二項を比べていって、私が最初に違和感を持つのは、①の記事、六月、天子に朝献したいと言って来た倭使を、太守の劉夏が躊躇なく洛陽へ護送しているところです。この記事は、倭使が足掛け四ケ月も帯方郡でもたもたしていた後のこととはとても思えない筆致です。

それに九月以降、 進駐赴任してきた帯方郡太守が、魏朝中央を欺くつもりで「東夷が公孫淵討伐戦勝利を祝いにやってき」と報告するのであれば、自分の赴任以前、しかも公孫淵がいまだ健在な六月にやってきたと報告をするはずがありません。

 

これらを整理するために一番簡単で話が通り易い仮説をたてました。

 

倭人条にある使者は、もともと公孫淵討伐戦勝利の祝賀使だったのです。倭の祝賀使は派遣を魏軍が公孫淵を誅殺して、 帯方郡に侵攻するのに合わせて派遣しされました。倭使が帯方郡に派遣された景初二年《六月》という記事は《九月》」の誤記だったのです。」

 

こう考えれば、公孫淵の誅殺は終わって、魏の任命した帯方郡太守も着任していますし、太守が倭使の要請を迅速に処理することで、十二月、洛陽での朝献にも間に合うでしょう。倭使が拘束されたという強引な話も不必要になります。

 

え、なに・・・《六月》が《九月》」の誤りというのもかなり強引だ、と突込んでくれますか。

 

景初三年論者すべて、「景初二年」、は「景初三年」の誤記、といってこの手法を使っています。B氏も、倭使が魏軍に拘束されたと、倭人条にないドラマを加筆しています。私が同様な手法を使っても非難されるいわれはありません。

 

・・・・もちろん、これは私の悪い冗談です。しかし私がここで指摘した問題点はB氏の説の中に存在しています。わたしも同じ景初二年説ですから、今までA氏の説について述べてきたことの中からB氏の説に若干の補正と補足をさせていただきたいと思います。

司馬懿軍が、楽浪、帯方を収めたのではない。

「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。(東夷伝序文)」

 

私は、しばらく前、この一文をめぐってA氏の「又」=「すると、さらに」=「後」という論理に振り回されました(記事№16~記事№27)。

 

この一文についてA氏の理解は次のようでした。

 

「大興師旅、誅淵、又(その後)、潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡

——魏軍(司馬懿軍)は公孫淵を誅殺し、ひきつづいて黄海から迂回して楽浪、帯方郡を攻め取った。——

 

 

検証の結果、「又」=「後」ではありませんでした。「収」にも攻め取るという意味はありませんでした。(乞参照 記事№.15)

 

そして私は次のように理解するのが正しいこと論証できました。

 

公孫淵討伐総軍  Ⓐ軍団(司馬懿軍) 大興師旅 →誅淵                 

         Ⓑ軍団      潛軍浮海 →收樂浪・帶方之郡

 

 魏はⒶ、Ⓑ二つの軍団を出征させたました。Ⓐ軍団は襄平を落城させ、公孫淵を誅殺し、Ⓑ軍団は黄海から楽浪、帯方郡に進駐し、両郡を収容しました。

 「而後海表謐然、東夷屈服―――東シナ海黄海は静謐となり、公孫淵に属していた東夷(韓・倭)は魏に屈服した。」という成果はⒶ、Ⓑ両軍団、それぞれの善戦と連携によるものなのです。

 

第二次世界大戦のヨーロッパ戦線を思い出してください。ソ連軍はナチスから東欧を開放しベルリンを陥落させヒトラーを自殺に追い込みました。米、英、仏連合軍はノルマンデーに上陸し、西欧を開放しました。両軍はエルベ川で合流しました。

ヒトラーを自殺に追い込んだ後、ソ連軍がノルウェー海に軍を浮かべ、フランスのノルマンデーから再上陸し、ヨーロッパを開放したと主張する人はいません。また米、英、仏だけでヨーロッパを開放したと主張する人はいません。

連合軍がヨーロッパを開放したというのが正しいのです。

「諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、」という湖南の評は間違っています。

「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、後海表謐然、東夷屈服。(東夷伝氏序文)」

東夷伝序文にある「而」はⒶ軍団の「誅淵」だけを受けているのではなく、Ⓑ軍団の「收樂浪・帶方之郡」も受けています。

司令官名の分からないⒷという軍団が存在するのですから「諸韓国(や倭)が魏に通ぜしは《公孫淵討伐総軍》が淵を誅し、樂浪・帶方之郡を收めた結果にして」と書くのが正しい評価なのです。

 

  諸先輩が考えてこられたように『三国志』に司馬懿軍が淵を誅殺した後、楽浪、帯方郡に進駐したと書いてあれば、八月末公孫淵を誅し、九月両郡へ侵攻という見方(これも書いてありません)で正鵠を得ていたでしょう。しかしきちんと読めばそのような記述はどこにもありません。また白石や湖南も「九月、司馬懿が両郡へ侵攻した」という主張はしていません。

これはA氏のような景初三年説の方々だけではなく、二年説の多くの方々も陥っている陥穽です。B氏も陥っています。だから無理やり「倭使の拘束」という無理筋を設定せざるを得なくなったのです。私は古田氏ですら司馬懿軍両郡侵攻説から完全に自由ではなかったと思っています。

A氏に感謝

「景初三年説」の論拠として、古田氏の説明「景初二年六月、白石や湖南は、《半島が戦火に包まれいた》と考えていた。」では、私にとってあまりにも漠然としていて、説の核心が掴めませんでした。

しかしA氏の「又」=「すると、さらに」=「後」という論理によって「景初三年説」との論点ははっきりしてきました。

A氏及び、「景初三年」論者の主張は、公孫淵を誅した司馬懿が楽浪帯・方郡に侵攻した。これがあって二郡が戦火に包まれていた。というのです。古田氏の説明では前半が読み取れませんでした。司馬懿が乗り込んでくれば大事になっているでしょう。だから倭使は帯方郡には行けない、行かない、となっているわけです。

A氏の説の欠点は『三国志』に「司馬懿が楽浪帯・方郡に侵攻した」という具体的な記事がないことです。「又」=「すると、さらに」=「後」の論理だけで「司馬懿が楽浪帯・方郡に侵攻した」という史実を構築していることです。これはあまりにも脆い論拠です。A氏の論理展開を追ううちに、逆に「司馬懿が両郡へ侵攻したのではない。」ということに気が付きました。

 

この事に気が付いたのは氏の「又」=「すると、さらに」=「後」の論理のおかげです。

 

 ウエブ上で「《淵の誅殺》」と《二郡侵攻》が同一の軍によってなされたのではないのではないか」という指摘はいくつか見ました。しかしそれは疑問の提起という水準でした。もっと腰を据えて突っ込んで欲しかった。

私がここまで「司馬懿が両郡へ侵攻したのではない。」と言い切れるのは、一重にA氏のおかけです。良い師とは自分の気に沿うことを言ってくれる人だけではありませんね。

 

ただし、白石も湖南もA氏の証明とは別のことを主張していたるようですが。

Ⓑ軍団が楽浪、帯方郡に進駐したのは何時。

Ⓐ軍団の進発時期は「景初二年春正月」です。明帝紀をはじめあちこちに記されています。公孫都度傳公孫淵条では遼東郡での活躍が記録されています。また断片的には諸所に記録されています。

ではⒷ軍団の軍行はどうだったのでしょう。

Ⓑ軍団はⒶ軍団を隠れ蓑に” 潜 “に展開した

Ⓑ軍団について東夷伝序文に「潛軍浮海(ひそかに軍を海に浮かべ)」とあります。

 「ひそかに」には「密」と「潜」とがあります。その違いを大雑把に言うと「密」は単に「こっそりと」という意味、「潜」は「何かにかくれて」、といった意味が加わります。たとえば潜水は「水の下にも潜ること」ですね。

 

 私は「大興師旅」・・・「潛軍浮海」を「華々しく喧伝ながら行軍するⒶ軍団の軍行の陰に隠れて、Ⓑ軍団は潜(ひそか)に海上に展開した。」このように訳しました。「海に浮んだ軍」の目的は、朝鮮半島北部に上陸して「樂浪・帶方之郡を收める(宣撫する)」ことにあります。

 何故Ⓑ軍団はひそかに展開しなければならなかったのでしょう。当然Ⓑ軍団が上陸戦のため海上に展開していることを察知されては困るからです。上陸戦を展開する場合、兵が船から陸へ移るタイミングを待ち受けられて攻撃を受けるのが最も危険です。兵士の体勢や、部隊の態勢が万全ではないのです。これは古今東西変わらない現実です。一番犠牲が生じるのはこの時です。

北九州を襲った元軍は上陸戦の態勢が不十分であったことは確かでしょう。それに加え、鎌倉武士たちが徹底した上陸阻止行動を行いました。元軍は橋頭保を確保できない戦いの中で、台風に襲われました。そして大被害をこうむり撤退せざるを得なくなったのでしょう。

映画「史上最大の作戦」もそのことを如実に再現し、教えてくれます。

 

 魏は、海上に展開したⒷ軍団の軍行を公孫淵軍に察知されないよう、Ⓐ軍団の軍行を隠れ蓑に使ったといっているのです。

Ⓑ軍団に隠れ蓑が不要になった時期

Ⓑ軍団が隠れ蓑を必要とする時期はいつまででしょう、公孫淵軍がⒷ軍団の動きを察知しても対応できなくなった時、Ⓐ軍団の接近でⒷ軍団迎撃の兵が割けなくなった時です。

魏軍がその時期を見分けるのはむつかしいでしょうが、Ⓑ軍団を海上に展開し始めた時、公孫淵軍に逆撃能力があると判断していたから「潛」となったことは間違いありません。

 公孫淵は六月以後、遼東郡に到着した司馬懿のもとに和平を乞うて(実質命乞い)重臣を、派遣しています。司馬懿重臣を切られてもなお和平を乞う公孫淵を見れば「潜」に行動する必要がないことはだれの目にも明らかです。

 これらを考えあわせるとⒷ軍団が「潜」に行動する必要があったのは六月以前となります。

Ⓑ軍団、展開開始の時――公孫淵が自立した

Ⓑ軍団が「潜」に行動する必要があった期間の下限は五月から六月と判明しました。では上限はどこになるのでしょう。つまりⒷ軍団がひそかに展開を始めた可能性のある時期はいつからかということですね。

「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、」

何度目かにの引用ですが文の先頭を見てください。「景初中」とあります。Ⓐ軍団とⒷ軍団による公孫淵討伐戦が景初三年間の内複数年度に渡った可能性をしめしています。景初二年内に完結した作戦であればこのようなぼかし方はせず「景初二年」とはっきり書くでしょう。戦闘は景初二年内で終っていますから景初元年にも戦争状態があったことになります。

Ⓐ軍団の軍行期間を見てみます。「景初二年春の正月」に洛陽を発って、同年十二月、洛陽の北東直近にある河内郡まで帰還しています。

 

ではⒷ軍団の軍行が景初元年にもあったのでしょうか。直接の記事がなくて実に読み取りにくい、しかし明帝紀、景初元年秋七月の項に参考になる記事があります。景初元年七月に下記Ⓐという理由でⒷという詔書を発しています。

「Ⓐ淵自儉還、遂自立為燕王、置百官、稱紹漢元年。詔Ⓑ青・兗・幽・冀四州大作海船。」

「(景初元年、幽州刺史の毋丘倹は公孫淵を討とうとしたが、長雨に阻まれて果たせず帰還した。)公孫淵はこの勝利で、踏ん切りをつけ自立した。燕王を自称し、百官を置き、紹漢元年と称した。

 明帝は詔書を発して青・兗・幽・冀の四州に大いに海船を作らせた(拙訳)」

 

 公孫淵孫権と魏の間をふらついていましたが遂に公然と自立を宣言してしまいました。それまでのことでも腹に据えかねていたでしょうが、自立は絶対に許せない。明帝はこの報を受けた時、淵を、必ず誅殺するべき相手として認識するに至ったでしょう。

発せられた詔書によって、海船団は四州で作られました。

Ⓐ軍団を隠れ蓑に展開したとあるのですからⒷ軍団は景初二年正月前には実戦体制に入っていったのではないでしょうか。

帯方郡太守の赴任。

二郡の太守は『蜜』に赴任し、『蜜』に任務に励んだ。

「明帝密帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡、諸韓國臣智加賜邑君印綬、其次與邑長。(韓条)」

韓条中の記事です。

「景Ⓐ景初中(237~39)、明帝はⒷ密かに帯方太守劉昕・楽浪太守鮮于嗣を①海を越えて遣わし、帶方・樂浪の②二郡を定めさせた。諸韓の国の臣智に③邑君の印綬を加賜し、その次席には④邑長(の印綬)を与えた。(訳: 修正計画)」

 

 冒頭の「景初中」は①~④の行為にかかります。つまり四つの行為はすべて景初年間に行われたことになります。「密かに」も四行為すべてにかかります。①は二人の太守が海に浮んだ軍に同行した場合「潜」の方が適当なのでしょうが、軍が二郡を収め終えてから、海を越えたのであれば「密」でよいのでしょう。どちらなのかは不明です。残りの②、③、④は隠してくれるものがなく、ひたすら 蜜(ひそか)

に任務を遂行したのです。それで四行為の大勢を「密」の文字でひょうげんしたのではないでしょうか。

何故「蜜」なのか

 ではなぜ「密」だったのでしょうか。

「潛軍浮海」は上陸作戦に備えて情報管理でした。では二郡の定め、や、韓諸國の懐柔という作戦は何故「密」である必要があったのでしょう。

 

この時二郡の北方でいまだに公孫淵が健在だったからです。この作戦は自立を宣言した公孫淵の逃亡をけして許さないため、南方からの包囲網なのです。

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玄菟、遼西郡は魏の一郡です。高句麗は魏に従属しています。孫権からの同盟を求める使者の首を切って洛陽に届けていますし、高句麗王、宮は襄平包囲戦にも魏を助けて出兵しています。

「景初二年、太尉司馬王率衆討公孫淵、宮遣主簿大加將數千人助軍。(高句麗条)

―景初二年(238)、太尉司馬懿が軍兵を率いて公孫淵を討った時、宮は主簿の大加を遣って数千人を率いて(魏)軍を助けさせた。(訳; 修正計画)」

東沃沮と濊は高句麗の属国になっています。

遼東郡を完全に包囲するにはその南方楽浪郡帯方郡、韓諸国方面を塞がなくてはならなかったのです。

そして、公孫淵が魏の重囲に包み込まれていくことを気づかないよう、気づかれて包囲網が完成する前に逃亡されないよう、「密」でなければならなかったのです。

 

 司馬懿は出陣の前、明帝に戦役のめどを尋ねられ「行くのに百日、戦闘に百日、帰りに百日、休憩に五十日」と答えています。

 遼東郡での戦闘は六月に始まって八月末に終わっています、百日以内です。後始末や戦後の休憩を考えて九月下旬に帰途に就いたとして、十二月末には洛陽直近の河内郡に到着しています。ほぼ百日です。

往路だけの予想が大きく外れています。一月に出発して六月に遼東に到着です。最大百八十日、最小百五十日かかっています。

この遅れは、二郡の定め、や、韓諸國の懐柔が「密」の内に進められるよう、公孫淵の注意を司馬懿軍に集める計画的な遅滞行動だったのではないかと思います。

Ⓑ軍団と二人の太守が二郡と韓諸国という公孫淵包囲の最後の環を閉じ終えた時、Ⓐ軍団は遼西郡との境界を越え、傲然と遼水沿いに襄平を伺ったのだと思います。

一連の経過は後にリデルハートが唱えた「間接アプローチ」理論を彷彿とさせる戦略です。

 

劉放・孫資傳に次のような記事があります。

「景初二年、遼東平定、以參謀之功、各進爵、封本縣、放方城侯、資中都侯。」

——景初二年(238)、遼東が平定されると参謀の功を以て各々進爵され、本籍の県に封じられ、劉放は方城侯、孫資は中都侯となった。(訳; 修正計画)」

Ⓐ軍団、Ⓑ軍団の行動の戦略的方針策定は二人の参謀によるものでしょう。しかし二人に方向性を与えたのは明帝です。

 

 明帝が逝去し、景正始五(244)年、高句麗が魏に叛します。討伐に向かった毌丘儉は高句麗王・宮の確保に失敗し、北方へ逃亡を許してしまいます。この宮は生き残り、高句麗を再興、高句麗は中国東北地方と朝鮮半島北部の雄として668年の滅亡まで歴代中国王朝を苦しめもます。隋王朝は対高句麗戦の負担もその滅亡の原因として数えられています。

明帝の在世中に高句麗の叛が起きていればこの失態はなかったと思います。それより以前に高句麗の叛自体が、それともう一つ、韓諸国の乱も起きなかったのではないかとも思います。

 

ここまでで一万字を越えました。できれば一回6000文字程度にしたいのですが・・なかなか・・・・、続きは次回といたします。

*1:定説「三年説」 ⇐ 異議申し立て = 「二年説」