後段3――「異口同音」なのはA氏と湖南だけ 2――記事№...10
「古田武彦氏の説のウソ、・・ №7」―1 景初3年が正しい理由―その6
『古史通或問』には、A氏・湖南の二人と、白石の違いがさらにはっきり判る記述があります。
白石は正始四年説。
引用文の補足。
湖南は景初二年六月の遣使を完全に否定しています。
景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり (A氏の文中より)
次に白石の引用を再掲します
魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。
遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。
(『古史通或問』)
白石は、半島でまだ戦火が消えていないのに、使者が帯方郡の都に治に行けるのか、として[景初二年六月]の遣使を疑問視しています。
『古史通或問』中、遣使についての白石の記述は、ここまでで終わったわけではありません。原本では引用文の後にさらに書き続けています。
『晋書』には公孫氏平ぎて倭女王の使い帯方に至りしとみえたり。これ其実を得たりしとぞみえたる。さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて、その年月のごときは詳らかならす。「日本紀」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」
(『古史通或問』)
古田氏の引用も、A氏も孫引きも、白石の主張をすべては抜粋してはいないのです。
景初二年六月には帯方郡に行けないのではないかとし、「さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後」としています。ここまでに区切って見れば湖南と同意見と見ることは出来ます。しかし、白石の筆は「帯方郡太守」云々に向かわず、『晋書』へ向かっています。
白石の引用文をなぞってみましょう。
『晋書』
『晋書』の「東夷傳倭人条」に次のようにあります。
「宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。
――宣帝、公孫氏を平げる也。その女王、使を遣し帶方に至り朝見す。其後、貢聘が絕えず。」
『晋書』の記事はこれだけです。これでは《魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後》としつつも、遣使した《その年月のごときは詳らかならす》、年度が判らないというのが当然です。宣帝とは晋になっての呼称で、魏の司馬懿・宣王のことです。
白石は「梁書」の示す[景初三年]をとりあげていません。公孫淵が誅殺された年を[景初三年]としています。『魏志』と誅殺年度が食い違っています。淵の誅殺を景初三年とした場合、『魏志』にあるこれ以降の記事をすべて一年ずらさなければならなくなります。大問題です。また遣使年度については明記していません。
「梁書」の記事は誤りとして、遣使年度検証の参考とする必要を感じなかったのでしょう
[皇后摂政三十九年]
「皇后摂政三十九年」は景初三年にあたります。
『日本書紀』のこの記事には《魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難升米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す》とあります。
「魏志に云はく」とは”これ以後は『魏志』からの引用文ですよ ”ということです。
ご存じのように「魏志(三国志 魏書)」には「景初二年六月」とあります。
引用文が原文と違っていては、白石が「皇后摂政三十九年」記事を《其實を得しにはあらじ。》とするのは当然です。
白石以前に遣使景初二・三年問題に触れたのが松下見林です。見林は『異説日本史』で《景初二年の二、日本書紀に拠るに、当に三に造るべし》と述べています。白石は『日本書紀』の記事を否定すると同時に、先輩にあたる見林の説を斬って捨てたことになります
後に内藤湖南が《景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀にこれを引きて三年に作れるを正とすべし。》とするのですが、白石がそれを知ることが出来たら同じように切って捨てたことでしょう
[神功摂政四十三年]
『日本書紀』神功紀に卑弥呼関連と思われる引用文は次の三個所です。
(神功摂政)三十九年。是年、太歳、己未。魏志に伝はく、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。
(神功摂政)四十年。魏志に伝はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国に
詣らしむ。
(神功摂政)四十三年は正始四年です。
『魏志』に《其(正始)四年、倭王復遣使大夫伊聲(声)耆・掖邪狗等八人》とあります。「日本書紀 神功紀」の記事は『魏志』の記事と一致しています。そして『古事記』にもそれを思わせる記事があったのでしょう。
ただし、白石は[神功摂政四十年]正始元年、魏からの返礼使を無視したことになります。
遣使の時期について、白石の理路はこうです。
『三国志』の記事は納得できない、『晋書』で、公孫淵誅殺後であることは判るが、遣使の年月はわからない。『日本書紀』の[皇后摂政三十九年]記事は間違い。『日本書紀』の[神功摂政四十三年事記]は『魏志』の記事にも一致している。『古事記』の記すところともあっている。だから初めて魏と国交を結んだのは[正始四年]でなくてはならない。
道は開けた。
A氏や湖南は景初二年八月以前、魏の任命した帯方郡太守はいない、としました。太守が不在期間に、朝見でを請うて、郡治に詣るはずがない。帯方郡太守が赴任したのは公孫淵が誅された時点以後になってだろう、と仮定しました。その仮定と、『魏志』の六月を組み合わせ、直近の景初三年六月の遣使だと主張しているのです。
白石は、淵が誅され、道が開けてもすぐに使いを出したとは言っていません。あくまで史書の記事中に遣使の時期を示す記事を求めています。『晋書』、『魏志』、『日本書紀』、『古事記』四史書の一致点として、(神功摂政)四十三年・正始四年を提起しています。
帯方郡太守の赴任が景初二年八月であろうが、九月であろうが、白石にとって史書原本に記載がないのですから無関心なのではないでしょうか遣使の時期についてもそうですが、結論に至る方法論も全く違います。
私が前々回に書いたように、単に、白石が書いていない、と述べたり、前回のように文法に戻ってどうこう言っているだけでは、A氏は、いろいろと指摘を躱す術を持っているでしょう。例えば、記事にはないが、記事裏には白石の隠れた意図がある、とか。
しかし、このような事実の前にしては躱すにも躱しようがないはずです。
A氏の言う「異口同音」から、姚思廉に続いてまた一人外れました
どうして白石と湖南は違うのか
湖南は遣使の時期を景初三年とします。白石は正始四年としています。なぜ主張が違うのでしょう
白石は論拠として史書の記述を重視しています。『魏志』「景初二年遣使記事」を疑問視し、『魏志』「正始四年遣使記事」を魏と倭の最初の国交記事として採用しました。『晋書』と『日本書紀』『古事記』の記事に一致しているからです。
では湖南どうでしょう。
古田氏とA氏が示した湖南の主張は、その著書『卑弥呼考』からの引用で私の手元にはなく湖南の論拠を参照できません。では全く分からないのでしょうか。いいえ、湖南を理解するのにA氏という判りやすい味方がいます。
A氏 「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」。
だから景初二年六月の倭の遣使は誤り。
湖南 「淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり」。
だから景初二年六月の倭の遣使は誤り。
A氏と湖南の、これこそ「異口同音」と言えます。
A氏は自分の論拠を筑摩書房版『三国志』訳本にあるとしています。具体的には次の二個所になります。
《『魏志公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。》
《 公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(東夷傳 序文) 》
A氏はこの二個所を論拠に次のように主張しています。
公孫淵傳(公孫度傳公孫淵条の誤り)に公孫淵を誅殺したのが、景初二年八月二十三日とある。司馬懿はそれから海を渡って二郡を攻め取った。すると景初二年六月には魏の任命した太守は帯方郡存在しない。淵が誅殺され、司馬懿が二郡に攻め込んだ八月以降は魏の任命した太守が赴任することが出来るようになる。倭が、帯方郡太守に天子への朝貢を願って使節を派遣するのは、それ以降であり、翌年の景初三年六月である。
さらに公孫度傳と東夷傳序文を踏まえた三人の先賢は「異口同音」だと主張しています。(これについては、すでに「異口異音」だということを論証しました。)これがA氏の論法です。
ここでは一旦、同一の結論に至る論法は、似通っていと考えさせてください。
湖南が、A氏と同じ訳本を読んで同意見に達したということはあり得ません。内藤湖南は1934年(昭和9年)に没しており、筑摩書房の『三国志』全三冊は1977年~1989年の刊行です。むしろ訳者が湖南の影響を受けていると考えられます。
湖南は『三国志』原文を読んで、筑摩書房版『三国志』訳本に先んじて、同じように読み取ったことになります。
「八月・・・壬午(二十三日)、・・・・・・斬淵父子。」
「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」 (これが『三国志』の原文です。)
白石もおなじ原文を読んでいますが、原文のこの部分には全く触れていません。遣使の時期検証に重要性を認めていないのです。白石と湖南の主張の違いはこの一文の解釈の違いかもしれません・
僭越ですが、次回は私も原文の解釈に加わって、そのあたりの雰囲気を掴んでみたいと思います。
後段2――「異口同音」なのはA氏と湖南だけ 1――白石は問題提起 記事№...9
「古田武彦氏の説のウソ、・・№7」―2−1 景初3年が正しい理由―その6
ネット上、絶対的多数の記事は「新井白石と内藤湖南が邪馬台国近畿論者であり、『三国志』の倭遣使記事にある『景初二年六月』も、誤りと断定している」、と主張しています。A氏もその絶対的多数者の一人です。
白石は「古史通或問」で「倭女王卑弥呼と見えしは日女子と申せし事を彼國の音をもてしるせしなるべし」として、あわせて「皇后摂政三十九(景初三年)年に魏に通ぜられしと見えしは」等と書いています。また「邪馬台国は大和なり」としています。この時期、邪馬台国、大和論者であったことに間違いはないでしょう。
しかし白石が湖南と同じ景初三年論者であったか、というと肯定できません。私には、古田氏が、そしてA氏が、「古史通或問」から引用した文章について解釈上の疑問があるのです
今回は、この点について述べました。
但し、能力に余る書き込みであったことを、認めざるを得ません。記述にかなりの混乱が出てしまいました(苦笑)。目次から最後の纏めに飛んでいただいてもよろしいかと思います。
白石、「景初三年説」への疑念
白石が「景初三年論者」であったとして根拠を示すほとんどの記事は次の行文で挙証していますので、くどくなりますが再掲します。
魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。
遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず
疑念の発端
白石が「遣使記事を誤りと断定している」とする場合、引用文理解に下記の解釈がなされていると思います。
「心得られず」=納得できない、理解できない
「開けざらむに」=開いていない
「至るべきにもあらず。」=至ることは出来ない
上記を逆にたどってみます。
納得できない、理解できない=「心得ず」
開いていない=「開けざる、開かざる」
至ることは出来ない=「至らず」
このようにも置き換えることが出来ます。文意と並べた場合はこちらの方がすっきりしますし、私にしっくりきます。
絶対的多数者の解釈では引用文全体がすごくモタツイタ文章に思えませんか。わたしには解釈が少しずれているように思えるのです。
そこで、この三つのフレーズの解釈を考えなおしてみることにしました
「心得られず」
「心得られず」=動詞「心得る」の活用形で未然形・連用形「こころえ」+可能性を示す助動詞「らる」の未然形+打消しの助動詞「ず」の複合形です。
「心得る」は次のような意味です。 ① ある物事について,こうであると理解する。わかる。 「この場を何と-・えるか」 「呼ばれたものと-・えて/歌行灯 鏡花」 ② 事情を十分知った上で引き受ける。承知する。 「万事-・えました」 ③ すっかり身についている。心得がある。 「茶道については一通りのことは-・えている」 ④ 気 をつける。用心する。 「ころび落ちぬやう-・えて炭を積むべきなり/徒然 213」
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「られ」とは受身、尊敬、可能、自発を意味する助動詞「らる」の未然形、連用形だそうです。
受身 … ~される
尊敬 … お~になる
自発 … ~せずにはいられない
可能 … ~できる
受身でも尊敬でもありません。自発の場合は自然に…となる、つい…られてくるという意味で、これも違います。残るは可能を意味する助動詞だけです。
可能を意味する助動詞としては「庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくていも寝られず。(更級日記)(仮小屋が浮き上がるばかりに雨が降るので、恐くて寝ることもではない。)」このように未然形として使われるそうです。
未然形とその事態が未だ起きないことを示す意。「る」「らる」の後に打消の言葉が続いていないときは可能ではないそうです。
白石の「心得られず」を一個の動詞としてとらえ、否定形に理解して前にある遣使の記事を白石が「あり得ない」と否定していると解釈しているようですがこれには間違いです。文法上「られ」は「心得」とは品詞も違う別個の単語なのです。
すると白石は遣使記事を否定しているのではありません。否定・肯定はさて置いて、現在は「心得」ることが出来ないと言っているのです。ちょっと強めの表現になりますが「いまだ理解できないが・・」と解釈しなくてはいけないのではないかと思います
「開(ひら、あ)けざらむに」
動詞「開く」の連用形「開け」+打消しの助動詞「ず」の未然形、連用形「ざら」+推量・適当・仮定の助動詞「む(ん)」の終止形、連体形+断定の助動詞「なり」の連用形「に」
ちょうどいい例文がありましたので、解釈に使わせてもらいます 。
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に今ひとたびの 逢ふこともがな:和泉式部
――私は、そう長くは生きていないでしょう。あの世へ行ったときの思い出のために、もう一度あなたに抱かれたいものです
あらざらむ 生きてはいないだろう。下の「この世」を修飾する。「あら」はラ変動詞「あり」の未然形。「ざら」〔打ち消しの助動詞「ず」の連用形。「む」は推量の助動詞「む」の連体形。■この世のほか」は来世。死後の世界。「この世」は現世。 ■もがな 願望の終助詞。
「其道未だ開けざらむに」は断定である「其道未だ開けざるに」ではないのです。この例文の解釈に従って現代語に直すと「その道は開いているかどうかわからないのに」となるのではないでしょうか
「至るべきにもあらず
「べき」の基本形は「べし」です。推量・意志・当然・適当・命令・可能の意味を持っています。
「に」断定の助動詞「なり」の連用形
「も」は副助詞で「~も」を含むことがらに、「他のことがらと同様にこのことがらが成立する」という意味(並立・付加)を付け加えます。(田中さんは学生です。佐藤さんも学生です。 )
用法の特殊な場合として、その状況で起きているさまざまなことがらの一例として、あることがらを表わす場合があります。(時間も来ました。そろそろ終わりにしましょう。)
それぞれの意味の文例を示し「其道未だ開けざらむに」「我国の使人帯方に至るべきにもあらず」に当て嵌めてみます。
推量
風情すくなく、心あさからん人の、さとりがたきことをば知りぬべき。(無名抄)
――風情な心が少なく、感情が浅い人が(歌の情趣や余情などを)理解しにくいことがきっとわかるだろう。」
「道が開いているかどうかがわからず」、「帯方郡治に到着しないのではないか」
意志
「いかか他の力を借るべき。(方丈記)
――どうして他人の力を借りるのだろうか。」
「道が開いているかどうかがわからないのに」、「帯方郡治に到着しなければならないということはない」
当然
「必ず来べき人のもとに車をやりて待つに、(枕草子・二五段)
――必ず来るはずの人のもとに牛車をやって待っていると」
「道が開いているかどうかがわからないのに」、「必ず帯方郡治に到着するということではない」
適当
「月の影はおなじことなるべければ、人の心もおなじことにやあらん。(土佐日記・一月二十日)
――(中国でも日本でも)月の光は同じはずなので、人の心も同じことなのでしょう。」
「道が開いているかどうかがわからないのに」、「帯方郡治に到着するという必然性はない」
命令
「さてもあるべきならねば、鎧直垂を取つて、首をつつまんとしけるに、(平家物語・敦盛の最後)
――そうしているわけにはいかなので、鎧直垂を取って、首をつつもうとしたところ、」
「道が開いているかどうかがわからないのにわからず」、「帯方郡治に到着しなければならない、必要性はない」
可能
「さやはけにくく、仰せごとをはえなうもてなすべき(枕草子・二三段)
――そうそっけなくせっかくの仰せごとを無駄にすることはできないでしょう。
「道が開いているかどうかがわからないのに」=「帯方郡治に到着する可能性はない
引用文全体で見る
どれを適用しても「も」の働きが不明で文意が確定しません。もう少し枠を大きくとってみましょう。
「帯方郡治への道が開いているかどうかがわからず、《我国の使人帯方に至るべきに》あらずということも、《心得られ》ない理由の一つである。」これでどうでしょう。
書いてはいないが、他にも心得られない理由がある、ということです。
このように理解すると一つ整理しておく問題が出てきます。「わから」ない主人公を、倭とするか、白石とするかです。
まず、直後には「我国の使人帯方に至るべき」とありますから、白石は「倭にしてみれば《道が開いているか、開いていないか》の判断が出来なかったはずだ」と言っていると解釈してみます。
当然の否定
「道が開いているかどうかがわからないのに」、使者を派遣しても「必ず帯方郡治に到着するということではない」
文法解釈から離れますが、倭は帯方郡治に着けるかどうかの判断がつかず、遣使を派遣しなかったと言っていることになります。
次に、白石が「三国志」の記述からは読み取れないとし、状況を推察したと仮定します。
推量
「道が開いているかどうかがわからず」、「帯方郡治に到着しないのではないか」
遣使を出しても到着できなかっただろうと言っていることになります
纏めと、お願
要点がぼけてしまいました、話を戻します。
白石は、同じ「古史通或問」の中で「外国の文献は信じすぎてもいけないし、むやみに排除してはいけない」ということを述べています。「魏志」の遣使記事についても同じ視点で接しているでしょう。
「心得られず」は、「心得ず」ではありません。今、現在は理解できない、という意を含んでいます。
「心得られず」の理由として挙げたのが「開けざらむに」、「至るべきにもあらず。」です。
「開けざらむに」、は「道が開いているかどうかがわからないのに」と解するべきです。
「至るべきに(も)あらず。」は「開けざらむに」を前提としています。
「道が開いているかどうかがわからないのに」使者を派遣しても「至るべきに(も)あらず。」となります。
白石の其の後の研究によって「開けざらむ」が否定された場合、「至るべし」になり、「心得られず」も「心得たり」に反転する構造なのです。この引用文全体が基本的に断定ではなく、仮定で成り立っています。
白石にとって「魏志」にある倭の遣使記事は、今後の研究課題であり、研究者への問題提起だったのではないかと思います。
景初二年六月遣使を否定し切った湖南やA氏と同列に置くことはできないと思います。
私はこのようなに考えているのですが、残念なことに(絶頂不勉強ゆえに)、より緻密に検証するには文法について疎すぎます。そのため検証上無理し、記述が混乱してしまいました。どなたかこの引用文をより適切に現代訳してくださらないでしょうか。
そしてコメントとして送っていただけると、すごく” 感謝 ” です。
読者ゼロのブログで良かった。こんな記事でも炎上する心配をしなくて済みます(冷汗)。
後段1――先賢が「異口同音」に景初三年説?-姚思廉・新井白石・内藤湖南――記事№...8
「古田武彦氏の説のウソ、・・№6」――2−1 景初3年が正しい理由―その5
A氏は諸先賢の氏と同じ主張を紹介します。姚思廉、新井白石、内藤湖南、の「三人が《魏は景初2年6月、まだ帯方郡に太守を置いてない、倭の遣使は、景初3年6月の誤りである》と、” 異口同音に ” 述べている」そうです
下の囲みは、A氏による「1 景初3年が正しい理由」後段の纏めです。
このように、『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて、姚思廉・新井白石・内藤湖南の三人は、異口同音に、次のように述べている訳です。 「公孫淵が滅んだのは、景初2年8月だから、6月にはまだ魏は帯方郡に太守を置いてない。景初2年6月は、3年の誤りである。」 |
遣使正始元年説の「梁書」姚思廉
まず姚思廉の検証から始めます。A氏は姚思廉について次のように紹介しています。
「この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉のようです。『梁書倭伝』には、『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて、《魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した》、と記しています。」
A氏と姚思廉のコラボ
A氏の紹介する通り、姚思廉は「梁書倭伝」で「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以爲親魏王,假金印紫綬。」と書いています。
A氏の言うように姚思廉は「卑彌呼始遣使」を「公孫淵誅後」としています。しかし、しょっぱなに「公孫淵誅」が景初三年とあります。このまま読めば卑弥呼の朝貢も、金印紫綬の拝受も景初三年の出来事になります。A氏は「公孫淵誅」を景初二年八月としています。「梁書」の記述を正しいとするなら、これまでのA氏の主張と齟齬が生じています。
帯方郡太守については、ここでも、この後にもいっさい触れていません。姚思廉がどのような意見であったかは類推するしかありません。
これから「梁書」の記事を、A氏の理路に当てはめて類推してみます。
A氏はその理路で「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った」とし、「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」と主張していました。「梁書」では「公孫淵誅」が景初三年なのですから、両郡を攻め落とすのも「魏が帯方郡に太守を置く」のも「景初3年8月以後のこと」と訂正されてしまいます。そして倭の使いが、はじめて朝見したのが景初二年六月はもちろん、景初三年六月でもなく、「公孫淵誅」の翌年の「正始元年」となります。姚思廉は遣使、正始元年論者のようです。
姚思廉の記述をA氏の理路から推し量っていくと、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初三年八月以降なのです。
A氏は「『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて」、『梁書倭伝』は自分と同じ意見だといいますが、踏まえた結果をA氏の理路に当てはめると、帯方郡太守の赴任時期を「景初三年八月以後」と言っています。A氏と姚思廉姚思廉とは同意見ではなく両立できない関係です。
以上のように素直に読めば、A氏と「梁書倭伝」の間には齟齬があります。それでも同意見だとするのなら、普通はこの齟齬について説明があって「だから自分と同意見だ」と締めくくるでしょう。
A氏の姚思廉紹介文の後、白石についての記述まで三十六行あります。氏は三十六行の間の記述で「梁書」との、この齟齬について一切触れていません。
帯方郡太守赴任の時期とは無関係な記述を続け、白石について述べる冒頭で「それはさておき」と、三十六行が纏められているのですから、A氏に齟齬の説明作業をする気がないのは間違いないでしょう。何の不安も抱かなかったのでしょうか。
それとも、「三十六計 ( 証明から ) 逃げるしかず」ですかね
「多数説」とA氏のコラボ
おそらくこれを書いた時、A氏は「景初三年」という文字だけを見て、「同意見だ」と主張しても、なんの不安もなかったと思います。
実は古代史学会の多数説が「『梁書』は倭の遣使を景初三年としている」と言うものだからです。多数説のロジックは「梁書」に「《至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢・・》とあるが、『公孫淵誅』だけは、前年の出来事なのだ、というものなのです。多数説を信仰していれば辻褄はあってきます。
私はこの説を取りません。もし多数説が正しいのなら、記事の語順がおかしいからです。多数説を受け入れるには原文が「公孫淵誅、至魏景初三年,卑彌呼始遣使朝貢・・」こうなっていなくてはなりません。
A氏はこの多数説を絶対的に信頼していて、原文をよく読み直す必要さえ感じなかったようです。
A氏の「梁書」に対する所感を反駁してみます。
姚思廉が「三国志」を「東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえ」ているとA氏は言います。「三国志」の中で「東夷伝序文」と「公孫淵伝」は随分と離れた位置にあります。その両傳を踏まえることが出来るぐらい読み込んでいるのであれば、当然「公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡・・・・是後倭韓遂屬帶方(韓傳)――公孫康は屯有縣を分けて南の荒地を帶方郡とした。・・・・この後、倭と韓は帯方郡に属す。」も読み込んでいるはずです。
現に帯方郡は存在し太守も存在するのです。倭は郡に属しています。属国である倭には帯方郡への定期的な朝貢は義務づけられています。魏の置いた太守であるか、公孫淵の置いた太守であるかは帯方郡の内情です、倭はそれと無関係に帯方郡治へ朝貢します。
唐の朝廷人である姚思廉が「魏の任じた郡太守でないから、倭の遣使が、『正始元年』(もしくは『景初三年』)にずれ込んだ。」と考える筈もありません。
反駁と言いましたがこれは私の類推です。私の理路の最後の部分を事実だと証明できる確実な根拠はありません。それはA氏の理路③、④も同じなのです。何個所かに飛躍があります。たとえばわたしが根拠とした引用は「三国志」にあります。しかし「梁書倭伝」は帯方郡太守について、いっさい触れていないのです。A氏の話は私の話より深刻で、根拠は全くないと言ってよいほどです。
さらには、A氏の説は自身が触れていない多数説のサポートがあって始めて成立する跛行状態の主張なのです。
喧嘩両成敗、ここではそれでも充分だろうと思います。ここでは「姚思廉がA氏と同意見である」という主張に根拠がないと了解してもらえばよいのですから。
内藤湖南と新井白
次にA氏が古田氏の「邪馬台国はなかった」から引用しているフレーズです。
まず白石。
魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。 遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。 |
そして湖南のフレーズです
景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。 |
A氏は両フレーズが同主旨だ言っているわけです。困ったことに、姚思廉の場合と同じくなぜ同意見でであるかということを説明するためのコメントを付けていません。「東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて」いることを理解していれば一目瞭然、三者は同意見だ、いうことなのでしょう。姚思廉の検証は終わりましたので、両フレーズを比べればよいことになりますが、A氏の主張と両フレーズ、三者で比較してみることにします。
A氏 「公孫淵が滅んだのは、景初2年8月だから、6月にはまだ魏は帯方郡に太 守を置いてない。」
湖南 「公孫淵(こうそんえん)が司馬懿に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり」
白石 触れていません。
A氏 「景初2年6月は、3年の誤りである。」
湖南 「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。」
白石 景初二年六月にあった出来事を疑問視していますが、「だから遣使は景初三年だった」とは言っていません。
内藤湖南とA氏の主張と一致しています。しかし新井白石は帯方郡太守に触れていませんし、遣使が景初三年だったとも言っていません。
私には三者の主張が一目瞭然同意見で、「異口同音に・・・」であるとは、とても思えません。
しかし、これは私の受けた印象です。A氏の意見は多分違うでしょう。例えば、
「白石は『遣使景初二年』を否定しているのだから《東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて考えている》。であれば「帯方郡太守」と「遣使景初三年」についても、引用文にこそないが、当然同じ理解だ」、
とか主張するのではないでしょうか。
長くなりましたので、続きは次回にさせてもらいます。
前段、A氏の理路―記事№...7
「古田武彦氏の説のウソ、・・№5」――2−1 景初3年が正しい理由―その4
前回はA氏が「倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ない」と主張し、私は「海上迂回戦略」に注目して疑問を呈しました。今回はA氏の理路全体を追って検証してみます。
A氏の理路――郡治に魏の帯方郡太守がいない
A氏の理路を私は下記、①~④のように纏めました。その前に①に至るまでの東夷傳にある記事を加えました。Ⓐ~Ⓔです。これに原文を付けました。
Ⓐ景初二年正月 明帝司馬懿に公孫淵討伐の勅を降す。
「(景初)二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東(明帝紀)」
Ⓑ景初二年六月 司馬懿、遼東郡に到着。
「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳公孫淵))」
Ⓒ景初二年六月 ( 倭の使者、帯方郡治に到着。)
(「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、(東夷傳倭人条)」)
Ⓓ景初二年六~八月 襄平をめぐって攻防戦。
Ⓔ景初二年八月二十三日 司馬懿 公孫淵父子を誅殺。
「(八月)壬午(二十三日)、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(公孫度傳公孫淵)」
①『魏志公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。
②公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(筑摩書房「三国志」訳本)
「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後海表謐然、東夷
屈服。(東夷傳序文)」
③「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」
④「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」
⑤それゆえ倭の遣使は、翌年景初三年六月になります。
③はA氏の解釈です。④もA氏の主張です。Ⓓと⑤は私が理解補助の為付け足した項目です。ですから添付する原文記事はありません。なおⒺと①は当然同一の記事です。
③、④で「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後だから、Ⓒはあり得ない」と主張しています この③、④二項のような解釈ができるかどうかを調べます
帯方郡の沿革――太守は存在した
まず倭使が帯方郡治に到着したととき、受け入れるべき太守府があったか、太守がいたかどうかを検証してみましょう。
帯方郡の沿革を調べてみました
紀元前108年に前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡、真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置きました。紀元前82年に真番郡、臨屯郡を放棄しています。紀元前75年には玄菟郡を西に移し、半島は楽浪郡だけが残りました。帯方郡は紀元204年になって公孫康(公孫淵の父)が立てました。(wikipediaを編集)
公孫康が立てた、という記事は東夷傳韓条にあります。
「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。
――桓帝・霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流出した。建安中(196~220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って(真番郡、臨屯郡の)遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐った。逃亡していた旧二郡の民は次第に韓、濊の地を出て帶方郡に戻った。この後、倭・韓は帯方郡に属するようになった。
魏が置いた帯方郡太守は景初二年八月以降かもしれません。しかし帯方郡も太守府も、景初二年八月以前から公孫氏の勢力圏下ではあっても存在し、太守もいたのです。
魏の太守でなかったから、遣使するはずはない ?
「三国志」に倭使が帯方郡治に詣でたというのは景初二年六月です。司馬懿もこの月に遼東郡に到着しています。この時から遼東郡の攻防戦は始まります。
帯方郡には太守がいました。しかしA氏は③、④で「魏が太守を置くのは、景初2年8月以後のことであり景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ない」と言います。
A氏の主張通りだと、遅くとも六月には、おそらくそれ以前に倭は遼東で戦端が開かれることを知っており、しかも司馬懿の勝利を確信していたことになります。
「三国志」には「是後倭韓遂屬帶方――倭と韓は帯方郡に属す」とあります。帯方郡と属国である倭の間では定期的な貢献や、必要が生じての交流があります。それを、一切断ち切ったことになります。よほどの確信がないと、読みがは外れた場合を思えばこんな決断は出来ません。
A氏は司馬懿の遼東到着時点ですでに、倭がその決断をしていたと主張していることになるのです。
「三国志」には倭がそんなに情報通であることを記した記事はありません。A氏主張の論拠は何処にもありません。
普通に考えてみましょう。司馬懿による襄平攻略戦が開始された景初二年六月には前回も述べたように戦火は楽浪、帯方郡まで広がっていません。情報があったとしても倭にとって単によそ事だったでしょう。「倭韓遂屬帶方」、ですから、倭の使者が郡治に詣でるのに何の不思議もありませんし、太守が受け入れるのにも不思議はありません。これを「あり得ない」という方がおかしい。
但し前回の異説にある、公孫淵に詣でたい、という倭使の申し出に許可を与えることは出来ません。郡治に留め置くか、謝絶して返すかどちらかでしょう。
「景初2年8月以後」魏軍が帯方郡治に進駐してきたとき、倭使を受け入れた太守は、公孫淵の影響下で任じられた太守なのですから司馬懿に誅殺されたかもしれません。しかしそうでなかったかもしれません。倭の使者を洛陽に送った太守劉夏は公孫淵政権から横滑りした太守だったかもしれないのです。
帯方郡太守が新任であろうと、留任であろうと、郡治に留められた倭使が、太守の劉夏と占領軍のトップ司馬懿によって、魏朝への朝貢使にすり替えられたという可能性を否定することは至難の業でしょう。だからこそ異説、「倭 (帯方郡属していた) の使者は公孫淵に朝貢を申し出るため帯方郡治に詣でていた」、が成り立つのです。
A氏は「あり得ない」と断言していますが、「あり得ない」ことこそ「あり得ない」のです。「あり得」るのです。A氏の④での断定は「三国志」が語る史実から、はみだしています。
次回は後段については述べさせてもらますが、ちょっと長くなります。
なんとなく違うなあ -司馬懿の海上迂回戦略ー 記事№...6
「古田武彦氏の説のウソ、・・№4」――2−1 景初3年が正しい理由―その3
A氏の「1 景初3年が正しい理由」は二つの部分に分かれています。
前段は「遣使は景初3年が正しい、『三国志』はまちがっている。」という、いわば宣言です。
後段では、「遣使は景初3年」を正しいと主張する根拠を論述しています。
前段
記事№3の復習
記事№3でも引用したA氏がの抜粋掲載した記事です。A氏は主張の核心はここにあるのだ、と私は理解しています。ですので、くどくなりますが再掲させてもらいます
A.公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。 B.景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。 C.これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。
B.Cの原文を再掲しておきます。 「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」
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公孫家が三代にわたって漁等を占拠し東夷は漢朝と切り離され、絶域と見なされるようになった。景初二年には司馬懿の公孫淵討伐の戦が展開された。司馬懿は公孫淵を討ちとると、密かに迂回して、海上から楽浪・帯方郡攻め取った。それ以後、東夷世界は平穏になった。
筑摩書房版「三国志」訳本、公孫淵条では襄平攻防戦の描写も見ることが出来ます
(景初)2年(238)春、朝廷は、大尉の司馬宣王(司馬懿)を公孫淵征伐にさしむけた。6月、[司馬宣王の]軍は遼東に到達した。…… かくして城壁の下まで進撃し周囲に塹壕を築いた。おりしも、30日以上も長雨が降りつづき、遼水は急激に水かさを増し、運送船が遼水の口から城壁の下まで直行するようになった。雨があがると、土山を築き、やぐらを建造して、[その上に]連発式の弩(いしゆみ)を作り城中に射こんだ。公孫淵は手のうちようがなかった。食糧は底を突き、人々は互いに食らいあい、死者はおびただしい数にのぼった。楊祚らは投降した。
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悲惨ですね、しかしこれは襄平とその周辺の状況です。公孫淵は八月に討たれ、その後戦火は移り、楽浪・帯方郡攻略戦が展開されることになります。
再度A氏の記述を引用します
この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。それゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。 |
「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります」。それゆえ「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」と続いています。
これがどうしても腑に落ちないのです
司馬懿の迂回作戦
A氏の主張の通り作図してみました。手書きで見にくいですが我慢してください。
魏軍の進路(赤丸が襄平)
黒い線が司馬懿軍の進路です。六月に遼東郡に到着です。茶色の線を倭使とします。「三国志」によれば六月に帯方郡治に到着です。公孫淵を討った後の司馬懿軍は、舟を仕立て遼東半島を迂回し、楽浪、帯方郡へ出ます。これは紫の部分、摩天嶺山脈に強敵が待ち構えていて、その敵と正面から衝突するのを避け、気づかれぬよう背後に出る策戦です。そのような強敵が、何故襄平が陥落するまで何も手出しをしなかったのでしょうか。
それはともかく、公孫淵が8月23日に討たれたのであれば魏軍が楽浪、帯方郡に攻め込んだのは9月に入ってからの可能性が高いでしょう。遼東郡と楽浪、帯方郡は強敵よって遮断されているのですから、倭使 (茶色の線) が帯方郡に着いた六月には楽浪・帯方・韓では戦乱はないのです。
遮断する敵がいなかったとしても、公孫淵を誅してから海上経由で兵を楽浪、帯方郡へ移したのであり、その兵が上陸するまで、両郡に戦火は全く及んでいません。
六月は「未だ道開かざる(戦乱の最中)」状態だ、とする構図は崩れてしまいます。これでは「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡へ朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」というA氏の主張は成立しません。「三国志」にあるように、帯方郡治までは到着できるのです。
A氏の主張のように、帯方郡治に遣使が到着不可能な状態であるには、六月以前に渡海作戦を実施されていなければなりません。すると公孫淵を「誅殺する前」でなくてはなりません。困りましたね
異説あり
このタイムラグを根拠にした、ある人の説を読んだことがあります。六月に帯方郡に到着した倭使は、公孫淵への朝貢使だった、とする説です。
景初元年(237年)公孫淵は自立を宣言し、燕王を称し紹漢元年と改元しています。魏朝と決定的な手切れとなった出来事です。この時、淵の支配は遼東地方と帯方郡、楽浪郡に及んだそうです。だとすれば倭から公孫淵への遣使はあり得ることです。
旧帯方郡治に到着した倭使は、六月に魏軍が襄平を包囲するという事態に、郡治で待機させられます。公孫淵が敗れた後、急襲して来た魏軍に身柄を拘束されます。魏の将軍(司馬懿?)はどう処遇すれば一番自分の功績になるかを考え、この倭使が魏への朝貢使だったことに仕立てて洛陽に送った、というのです。事実、この後の成り行きを考えれば魏朝は将軍の処置を大喜びした事になります。
私は違う考え方ですが、この説も成立します。
倭の使者は十二月に明帝に拝謁しています。司馬懿は「三国志」の中で洛陽から遼東郡までの軍行を四カ月と言っています。厳重に武装し、輜重部隊、攻城兵器を伴った四万の兵の行軍は非常に遅いのです。
使者が八月いっぱい帯方郡で身柄を拘束されていたとして、景初二年九月初頭に身柄を洛陽に送られたのであれば、景初二年十二月の拝謁は十分に可能です。
司馬懿、公孫淵の戦いがあったことが、「倭の遣使、景初三年の根拠」であり「『三国志』の誤りの根拠」とは了解しかねる論理だてに思えるのです。
後段
A氏は『梁書』の編者、姚思廉や、新井白石・内藤湖南について述べ、「三国志」の記述が間違っている、証拠としています。しかしいずれも直接的に倭使が帯方郡に行けなかった証拠ではありません。氏の論理を検証するには間隙が多すぎますので、この部分については、A氏の今後の記述に添って、徐々に書き込ませていただきます 。
〔お願い〕ブログの体裁も若干はましになってきましたので、今後週一金曜日に更新したいと思いってます。読んでいる方がいたら、継続してお読みくださるようお願いします。
「お詫び」と 記述方針の変更 ――記事№5
「古田武彦氏の説のウソ、№...3」
まずお詫びです。
この記事を書きながら、HTМLをいじってしまいブログを消失飛させてしまいました。素人は怖い、でも失敗を怖がっては前に進めない、(冷や汗・・)。
再度立ち上げたのですが書き込み日付は復元できません。本来№1~4は四カ月くらい前の日付です。申し訳ありません。
先にA氏のホームページを紹介しましたので、ここを読んでいる方、皆さんがすでにそこを見ている、と想定して書き進めるつもりでしたが、なぜかイメージが定まらずうまくキータッチが進みません。
今回は脳内整理ため、A氏の記述の要約記事を書くことにします。それと、できるだけ避けるつもりでしたが、今後必要に応じて、A氏の記述を引用させてもらうことにしました。こうすれば書き込んでいく対象が定まりまると思います。
読む方は煩雑になりますが、ご容赦願います。
A氏所論の概説
A氏は、自分の主催するホームページで、古代史諸説が持つ諸問題についての所論を発表しています。その中の一論文で古田氏を取り上げています。A氏が直接対象としているのは第一作「邪馬台国はなかった」です。
古田氏はこの著書の中で当時定説であった「倭の第一回遣使」景初三年説を「三国志」原文の改訂であるとし、「第二章いわゆる《共同改訂》批判Ⅱ戦中の使者」で景初二年説を展開しています。
A氏は、定説の立場にたって、古田氏の景初二年説を批判しています。
1 景初3年が正しい理由
倭の遣使が景初3年であることは、筑摩書房版の『三国志』訳本の東夷傳序文で明白である。また、姚思廉(「梁書」の編者)、そして日本の碩学、松下見林・新井白石・内藤湖南も同意見であった。
2 古田氏によるミスリード
古田氏は「魏志東夷伝」序文を重視し、景初2年説を展開しているが、氏の主張は、序文中の「景初2年6月は間違いであると判断せざるを得ない記述を意図的に隠したもの」である。そこで「東夷伝序文」と「公孫淵傳」を併せて検証することで、そのことを明らかにした。
3 「戦中遣使」という説のウソ
新井白石が「其道未だ開けざらむに《景初2年6月は、魏と遼東の公孫淵が戦いの最中なので》我国の使人帯方に至るべきにもあらず。」と主張している。古田氏は、白石の主張をすり替えと暴論によって否定し、景初2年説を押し通そうとしている。
4 景初2年を支持する「五つの疑い」のウソ
筑摩書房版「三国志」訳本に「公孫淵誅殺後」とあるのを「戦中遣使」にすり替える古田氏は、「景初2年」説に格好をつける材料として、<「景初3年」として原文を「改定」したら、ついに解決不能となる>という「五つの疑い」を用意している。しかしこれは古田氏が得意とする悪質なレトリックであって、「魏書」等を辿れば全く成り立っていないことが判る。
5 少帝の輔佐役、司馬懿と曹爽
卑弥呼を「親魏倭王」に任じた詔書は、魏書に景初2年に明帝が発したとあるがこれも問違いで、景初3年に少帝芳が8歳の時発したものである。
(非才な私は、この部分でA氏の述べたいことを理解するのにかなり苦しみました。
6 中国の学者の「景初2年説」の誤り
近年は中国の研究者の中にも、倭の魏への第一回遣使を「景初二年」と説く人があり、A氏がその説を誤りと指摘している。
この様に要約しました。あくまで私の要約なので疑義が生じた場合、A氏のホームページで確認していただきたい。
「景初二年、三年論争」の簡単な沿革――記事№4
「古田武彦氏の説のウソ№2」―― 2−1 景初3年が正しい理由その2
「景初二年、三年論争」の沿革
「景初二年か、三年か」という問題は、ご存知の方にとっては「今更」でしょう。しかし初見の方は「一年の違いが何ほどの事があるか」と思われるかもしれません。そこで一応私の認識をお伝えしておきます
①二・三年論争以前
「景初二年か三年か」という議論に並行して、中国の史書に出て来る「邪馬台(臺・堆・壹)国」は何処かという議論があります。しかし両議論が議論らしい議論として登場するのは江戸時代に入ってからです。
それ以前は卑弥呼とは「日本書紀」等の国史中に登場する人物の誰にあたるかという推測が興味の中心だったと私は思います。卑弥呼は神功皇后であるという説が独壇場だったようです。代表例が北畠親房で、「神皇正統記」の中で「卑弥呼=神功皇后説」を唱えています。
邪馬台国が九州にあるというような議論は全くなかったようです。列島内の国家といえば大和朝廷しか想定できない、朝廷内の官僚、知識人の思索・著述しか残っていないのですから、そうなるのは当たり前かもしれません。
やがて邪馬台国の呼称や、その位置にも興味が向きます。卜部兼方が、日本書紀の注釈書として知られる「釈日本紀」の中で、邪馬台国は「倭=ヤマト」の音をとったものとする説を唱えたそうです。
京都五山・相国寺の禅僧・瑞渓周鵬は「善隣国宝記」で邪馬台国の位置を初めて論じたそうです。
江戸時代に入って邪馬台国の位置を九州に求める説が盛んに唱えられました。本居宣長の「熊襲偽僭説」がその嚆矢でしょう。ここで近畿説、九州説が出そろいました。
②二・三年論争の始まり
倭の遣使が景初二年か三年かという議論は、江戸時代初期に近畿説を唱える松下見林が提起しました。見林は「三国志」に倭が景初二年遣使とあるのは間違いで、景初三年と訂正しなくてはならないと主張したのです。以後しばらくこの事は議論になりませんでした。明治に入ると、内藤湖南がそこに触れて遣使は景初三年と主張しました。この時も議論にはならず、景初三年遣使は定説となりました。
二年であろうが三年であろうが邪馬台国が九州であるか、近畿であるかの大勢には関係ないというのが大方の見方だったのでしょう。
しかし、昭和に入り、戦後になると状況が大きく変わります
③二・三年論争の激化
古代の遺跡から多く出土する遺物に銅鏡があります。その様式は様々です。様式の一つに、「三角縁神獣鏡」と呼ばれるものがあります。完成度が高く舶載鏡と分類され、おそらく魏の制作ではないかとされていました。
「三角縁神獣鏡」はほぼ全国から出土しました。しかし圧倒的に近畿からの出土が多いのです。
少し後の統計ですが、この様式の鏡は少なくとも540面は出土しているそうです。奈良100、京都66、兵庫40大阪38面と続き、福岡は40面でその他九州からや他の都県の出土は本当に少ないそうです。
圧倒的に近畿中心の分布になっています。
この出土状況に意味を見た人がいました。彼は近畿地方に統一政権があって、その政権の女王卑弥呼が、「三角縁神獣鏡」を魏の明帝から下賜され、それをさらに地方政権に下賜したのだ、と主張しました。
当然、主張したのは邪馬台国、近畿論の学者です。
九州説の立場の学者は魏の鏡ではなく、国産だと反論しましたが、統一政権についての反論は充分ではなかったように思います。そのうち「三角縁神獣鏡」が出土する遺跡について、卑弥呼の三世紀始めではなく、四世紀のものが大部分であることが判ってきました。
近畿論は伝世鏡理論で対抗しました。三世紀に貰ったものが子孫に伝わり子孫の代になって陪葬されたという理論です。
このように甲論乙駁が繰り返されるうちに、決定的とも思われる鏡が発見されました。
この鏡は制作年度を「景初三年」と銘記された島根県雲南市・神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」です。この「三角縁神獣鏡」記銘の景観初三(239)年、は、この年、倭が魏に遣使した証拠。魏の答礼使が卑弥呼にもたらし、更に下賜された何よりの証拠の鏡だ、と主張されました。物的証拠が現れ、九州説は圧倒的に不利だと思われました
④古田武彦の登場
そんな時、九州説の立場から逆襲の烽火を上げたのが古田武彦氏なのです。氏は考古学者ではなく文献史学者です。「三国志」の記事から遣使は景初三年ではなく、景初二年、そして下賜された鏡百枚も景初二年に準備された物だと論証したのです。すると下賜された鏡に、銘が入っているとしても「景初三年」という文言ではあり得ません。
神原神社古墳出土の「三角縁神獣鏡」は卑弥呼の下賜された鏡と無関係になります。
このように遣使が二年であるか、三年であるかの議論は九州説、近畿説の存亡をかけた論争になっていたのです。