内藤湖南の『卑弥呼考』――記事№...12

古田武彦氏の説のウソ、・・№9」―― 景初3年が正しい理由―その8

卑弥呼考』を見つけました。

 先に内藤湖南の「卑弥呼考」が手許に無く、最寄りの図書館にも蔵書がなく、「湖南の論拠を参照できません」と書いたのですが、ネット上の「青空文庫」という無料電子図書館翻刻掲載されているのを見つけました。底本は筑摩書房刊行『内藤湖南全集 第七巻』に収録されているそうです。独立した単行本ではなく、雑誌に連載された論文だったのですね。見つからないはずです。「青空文庫」のボランティアの皆さんに感謝します

青空文庫 卑弥呼考」 http://www.aozora.gr.jp/cards/000284/files/4643_11096.html

 飛ばし読みです。

卑弥呼考」は大和説を唱える論『魏略』を中心とした『三国志』、『後漢書』等の比較検証、「三国志」版本調査などの記述部分、私はお見事としか言いようがありません。また『魏志』「倭人条」に基づいた国名、人物検証もありました。これは、当時の学問的状況をよく伝えているのでしょう

 江戸時代初期から邪馬台国論争は (私の個人的意見では)九州説が有力でした。本居宣長は『馭戎慨言』で卑弥呼を、熊襲のたぐいの女酋である、としました。

 明治になっても、那珂通世が明治11(1878)年、「上世年紀元考」を著し、邪馬台国の比定地を「大隅国曽於郡」とし、「邪馬台女王は南九州にいた熊曽の女酋である」と主張しています。那珂は神武紀元を修正し「紀年論争」を引き起こしたこと有名です。

 星野恒氏は明治25(1892)年、「日本国号考」で「邪馬台国筑後国山門郡説」を発表しました。

 菅政友は「漢籍倭人伝」で薩摩・大隅と比定しています。

吉田東伍は明治31(1898)年「日韓古史断」で邪馬台国熊襲説を取りました。

神道は祭天の古俗”という論文や著書「日本古代史」で有名な久米邦武も熊本県玉名市の江田古墳を邪馬台国の関係遺物としたそうです。

(「れんだいこ」氏のホームページに依りました。近畿説は省きました。また九州説もこれだけではありません。)

 

 こういった環境の中で湖南は強力に邪馬台国、大和説を主張しました。当時のことですから「倭国条」の解釈に『日本書紀』や、『古事記』等がストレートに使われています。例えば「魏志」にある韓諸国を、『日本書紀』や、『古事記』中に出て来る半島諸国で説明しようとしています。これにはかなり無理が生じているはずです

「五 結論」として次のようにあります。

 已上の各章に於て、魏書倭人傳の邪馬臺とは大和朝廷の王畿なるべきこと女王卑彌呼とは倭姫命なることは粗ぼ論じ盡せり。

 これでもわかるように「卑弥呼考」は近畿説を主張する一論文なのです。

古田氏によって引用され、A氏によって孫引きされた湖南の記述は「四、本文( 三国志 倭人条 ) の考證」末尾にあることが確認できました。

 

お粗末な景初三年の証明。

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭國、諸韓國が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵が司馬懿に滅されし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり。

 景初二、三年問題についての論及はこの引用部分ですべてです。流し読みのせいか、「四、本文考證」末尾に至って、景初二、三年問題への論及はあまりにも唐突に感じられます

「神功紀」そのものの正しさを証明する論述はなされていません。傍証として二件挙げられています。

「魏書」から「淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり」を。『梁書』からは景初三年記事です。

 

湖南に代わって検証してみます。まず「神功紀」です。「三年に作れり」という記事原文を再掲します。

卅九年、是年也太歲己未。魏志云「明帝景初三年六月、倭女王、遣大夫難斗米等、詣郡、求詣天子朝獻。太守鄧夏、遣吏將送詣京都也。」

―― (神功摂政)三十九年。是年、太歳、己未。魏志に伝はく、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。

「云う」というのは魏志を引用したという『日本書紀』編者の但し書きです。『日本書紀』は「魏志 東夷傳序文」の「景初二年」を「景初三年」と誤引用しているのです

私が湖南の説を間違っていると考えているとしても、「神功紀に之を引きて三年に作れるを”誤”とすべし」と引用すれば、明らかに私の誤りですよね。引用先と引用元が違っていれば、引用先が間違いであることは公理です。私が”誤”を”正”に引用し直して初めて、読者は相手にしてくれます。

なぜでしょう。例えば、引用の後、私が湖南の意見を肯定するにしても、否定するにしても「神功紀に之を引きて三年に作れるを”誤”とすべし」と誤引用したままでは後に続く文意が不明で支離滅裂になるからです。

 

湖南は「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし」といいます。「引用先と引用元が食い違っている。引用元が間違いである。引用先が正しい。」、二つの文章を比較して当否を評する、普通であれば何の問題もありません。しかし引用文の場合は「食い違っている」ことが大問題です。「引用先と引用元は絶対的に同一」でなくてはならないのです。引用先と引用元が食い違っていれば、私の誤引用と同じで引用先を引用元と同一に正さなければなりません。湖南の主張は公理に反しています。

 

日本書紀』のから引用文も、景初三年を景初二年と訂正して初めて論議が可能なのです。訂正すれば『日本書紀』も「天子に詣らむことを求めて朝献」したのは景初二年と言っているのです。

 

湖南は「六月には魏未だ帶方郡に太守を置くに至らざりしなり」と述べます。そしては帶方郡太守赴任の具体的記事を示していません。しかし「韓条」には「「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣越海定二郡――「景初中、明帝が密に帶方太守劉昕・樂浪太守鮮于嗣の二人を海を越えて遣し、二郡を定めさせた」とあります。二郡の太守はこの時派遣されています。

私は「密遣」とあるのを、遼東で公孫淵が、まだ権勢を奮って時期の派遣だと理解します。

「六月に魏はすでに帶方郡に太守を置くに”至っていた”」可能性は十分にあります。

「韓条」引用文中にあるこの「景初中」が景初二年八月以降であることを証明してからでなくては、湖南の主張は成立しません。

 

次に「『梁書』にも三年に作れり」と挙証しています。『梁書』の原文を見てみましょう。

「至魏景初三年 公孫淵誅後卑彌呼始遣使朝貢 魏以為親魏王假金印紫綬――魏景初三年に至り、公孫淵を誅した後、卑彌呼が始めて朝貢使を遣し・・・」

とあります。『梁書』は淵が滅んだのは景初三年になってから、と言っていますが、湖南は「淵の滅びしは景初二年八月に在り」と平然として言っています。『梁書』か、湖南のどちらかが間違っています。

湖南の主張が正しいとすれば、『梁書』の「至魏景初三年公孫淵誅」は「至魏景初二年」の誤りで、「卑彌呼始遣使朝貢」も「公孫淵誅後」の「景初二年」の出来事となります。「神功紀」にある「景初三年」の根拠にはなりえません。

 

 『梁書』が正しいとどうなるのでしょう。「倭人条」は自己完結していますので、倭の遣使が「景初三年」でも問題が目立ちません。しかし「公孫淵誅」が「景初三年」となると、「魏志」内で年記の玉突き現象が起こります。例えば景初二年十二月、明帝不予を知らされた司馬懿は、洛陽に近い河内郡まで帰還していました。公孫淵を誅しないまま帰還していたのでしょうか。公孫淵を誅しての帰還であれば、ここも景初三年十二月に改めなければならない。明帝の臨終も景初三年十二月になります。すると明帝の死は正始元年正月になります。この余波で玉突き現象はさらに範囲を広げます。『晋書』の「宣帝紀」まで書き直しになるかもしれません。

明らかに『梁書』の誤記です。

湖南のイデオロギー告白か?。

「神功紀」が正しいとして湖南が挙げた傍証二つは、ともに簡単に破たんしてしまいました。湖南は大学者です。これは湖南がちょっとでも注意を注げば、気が付く水準の簡単な論理の欠陥です。湖南は一見、遣使が二年であるか、三年であるかという事実検証にはあまり興味は持っていないように見えます。というか「神功紀」の記述に絶対的な信頼を置いて、突き詰めた事実検証の必要を感じていないというのが正確なのかもしれません。

魏志云」の持つ意味は見落としたのでしょう。景初二、三年問題に限って言うと、湖南の読解力。の未熟さはお話にならない水準であることになります。大学者の湖南です。それはあり得ないのですが、私はそう理解したい。

 

見落としでない場合、どうなるのでしょう。先ほど誤引用は正したうえでさになるかを見てみましょう。

 

「明帝景初三年六月、・・」は誤引用文ですから、『日本書紀』の真意は、「明帝景初二年六月、・・」にあります。ところが、湖南はそれでも「景初二年六月」を誤りとしています。

「景初二年六月は三年の誤りなり。」「神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。」ですね。

「引きて」は「引用して」の意味ですからですから、『日本書紀』は誤引用であることを理解の上で「景初三年六月」としている、と主張しているとことになります。「理解の上」であるという説明はありません。

すると「本居宣長」ばりに「中国の史書と本邦の史書の記述が食い違っていたら、(問答無用で) ” 本邦の史書の記述 ” を信じるように」と説いていることになります。

 

湖南は「卑弥呼考」で「倭人条」にある邪馬台国が、大和であることを論証するために、ストレートで『日本書紀』や『古事記』等を駆使しました。そこに”歪”が生じているのを、自覚していたのではないでしょうか。自分のこれまで書いてきた「倭人条」解釈に”歪”が生じるのは自分の解釈がおかしいのではなく「倭人条」が間違っているからだ、と宣言していることになります。

 

 以上が、見落としでなかった場合の論理シミュレーションです。

 

これは事実の証明努力を放棄した、皇国史観イデオロギーです。であればこれ以上引用文を検証しても、湖南のイデオロギーの検証になってしまいます。ここで膨大なエネルギーを要するイデオロギー検証をするつもりはありません。

いやですよね、大学者にこんな想像を被せるのは。湖南のごく一部に関する、単純な見落としであることを願う由縁です。

白石について。

 新井白石の所説について、一切触れられていません白石の研究家、宮崎道生氏は次のように言っています。

一般的には学者としての白石の声価は寛政の頃に定まり、明治に入りその著作が逐次公刊されるようになって確定しました。

しかし古代史学者としての評価はまた別でした。「古史通」は明治四年、「古史通或問」は明治三九年に「新井白石全集」に収められ刊行になったが、明治の著名な史家は本居宣長の説を例にとることは多かったが、白石の説は殆ど顧みられなかつた。白石の邪馬台国観が本格的に取り上げられるようになったのは敗戦後、歴史を自由に論じられるようになり、邪馬台国論争も活発になってからである。

卑弥呼考」の初出が『藝文』1910(明治43)年5月第1年第2号、6月第1年第3号、7月第1年第4号だそうですので、「そうなのか・・」という感じです。

 

そもそも遣使が景初二年であるか三年であるかというだけでは、近畿説、九州説に何の影響もありません。私は、本格的な景初二、三年論争は昭和28(1953)年、「景初三年鏡」の発見があってからだと思っています(記事№4参照)。湖南が景初二、三年の考察について深く立ち入っていないのは当然なのかもしれません。

 

卑弥呼考」は、二・三年について湖南の思索の後を辿れる、と私が予想していたものではありませんでした

ここまでの纏。

さて姚思廉、新井白石内藤湖南が「異口同音に」A氏と同じく倭の遣使、景初三年説であるという主張を検証してきました。私は姚思廉の「梁書」の景初三年を誤記だとして退けました。新井白石が正始四年を提唱していることを指摘しました。ここでA氏の主張する「異口同音」はなくなりました。内藤湖南の「卑弥呼考」での、景初三年についての記述は、これ以上検証すべき領域にはないことを指摘しました。

 

というわけでこれからの私の検証で、三先賢を考慮する必要はなくなりました。ここからは「A氏の筑摩書房版「三国志」訳本訳文を根拠にした景初三年説」検証に専念する事にさせていただきます。

 

 

 

「東夷傳 序文」の風景――記事№...11

古田武彦氏の説のウソ、・・№8」――2−1 景初3年が正しい理由―その7

 すでにお馴染みになった引用文を、その少し後まで紹介します。すると馴染の引用文は「東夷傳 序文」全体から見ないと理解しずらいことが判ります。

目次

 偏師派遣

 「景初中,Ⓐ大興師旅誅淵,①潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡而後海表謐然東夷屈服其後句麗背叛,②又Ⓒ遣偏師致討,㊁窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海

 

景初年間、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに船で兵を運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。これ以後、東海の彼方の地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たち中国の支配下に入ってその命令に従うようになった。後に高句麗がそむくと、再び軍の一部を分けて討伐におもむかせた。その軍は極遠の地をきわめ烏丸、骨都をこえ、沃沮を通り粛慎の居住地に足を踏み入れて、東海の海を臨む地にまで到達した。―筑摩―

景初中(237~39)、大いに師旅を興して公孫淵を誅し、又た潜かに軍を海に浮かべて楽浪・帯方の郡を接収し、その後は海表(海外)は謐然となり、東夷は屈服した。その後に高句麗が背叛し、又た偏師を遣って致討し、追討を窮めて遠方を極め、烏丸・骨都を踰(こ)え、沃沮を過ぎ、粛慎の庭を踐み、東のかた大海に臨んだ。―修正―

 

  Ⓐという軍行の後にⒷという軍行、その後のⒸという軍行が書かれています。

Ⓐの軍行の成果は「誅淵」です。Ⓑの戦果は「收樂浪、帶方之郡」だと言っています。Ⓒの戦果としては高句麗を討ったことと、「㊁窮追極遠,逾烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海」を挙げています。

「遣偏師(支隊)致討」ですから、高句麗に派遣された軍の規模は公孫淵討伐行とは比較にならないくらい小さかったと思います。㊁は引用文を読んでいる限り高句麗を討った後は威力偵察にすぎません。陳寿はその小部隊の、たかだか威力偵察を、陳寿高句麗を討ったことと同等の功績として評価しています。文字数からすればむしろ㊁のほうが高評価と言えるでしょう

 この高い評価の意味を理解するには、これだけではわかりません。「東夷傳序文」全文を読み直す必要があります。

書稱「《東漸于海、西被于流沙》。其九服之制、可得而言也。然荒域之外、重譯而至、非足跡車軌所及、未有知其國俗殊方者也。自虞曁周、西戎有白環之獻、東夷有肅慎之貢、皆曠世而至、其遐遠也如此。及漢氏遣張騫使西域、窮河源、經歴諸國、遂置都護以總領之、然後西域之事具存、故史官得詳載焉。魏興、西域雖不能盡至、其大國龜茲・于寘・康居・烏孫・疎勒・月氏・鄯善・車師之屬、無歳不奉朝貢、略如漢氏故事。而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子為其絶域、委以海外之事、遂隔斷東夷、不得通於諸夏――『尚書(書経)』〔禹貢編〕には「東は海に入るまで、西は流沙に及ぶまで〔の地域に、中国の教化が広がった〕」と書かれている。〔すなわち〕こうした九服の制度に含まれる地域については、ちゃんとした根拠をもっていろいろ述べることが可能なのである。しかし九服のもっとも外の荒服のかなたの地域については、そこからの使者が幾度も通訳を重ねて中国に来ることもあって、中国人の足跡や馬車の轍はそこに及ばず、その国々の民衆の生活、様々な土地のありさまについて知る者はいなかったのである。

 舜の時代から周代に至るまでの間に西戎(西方の異民族)が白玉の環を献上したり東夷が粛慎氏の弓矢を上納したりすることはあったが、そうしたものも久しく年代を隔てて時たまやってくるのであって、その土地の遠さは、こうした事からも知ることが出来る。漢の王朝が張騫を使者として西方に遣わし、黄河の源流をつきとめ、多くの国々を遍歴させたことがあって、その結果、都護の官がおかれてこの地域を総領するようになった。それ以後、西域の事が詳しく知られ、そのため史官たちもそれを詳細に記録することが出来たのである。魏が国をおこしてからは、西域の全ての地域から使者が来るというわけにはいかなかったが、それでもその中の大国である亀茲、干填、康居、烏孫、疎勒、月氏、鄯善、車師といった国々からの朝貢がない年はなく、漢の王朝の場合とおおよそ異なることはなかった。ただ〔東方の地域については〕公孫淵が父祖三代にわたって遼東の地を領有したため、天子はこのあたりを絶域〔中国と直接関係を持たぬ地域〕と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中国の地へ使者のやって来ることも不可能となった。・・・・・・・・・・(筑摩)

  そしてお馴染みの「景初年中・・」と続き、偏師は沃沮、粛慎へと進んでいきます

・・・・・踐肅慎之庭、東臨大海。長老説有異面之人、近日之所出、遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

「践粛慎之庭、東臨大海。――粛慎の庭を践で東に大海を望む」、現ロシア領沿海州の海岸まで至ったとされています。

この後続けて「長老説有異面之人、近日之所出、――夷番の勢力圏東の果てに棲む長老が語るには、更に東方、海の向こうには異面之人々が住んでいる、という。」とあります。これを倭と観るか、古代のエミシやエゾと観るか、どうなのでしょう。

 

さらに「遂周觀諸國、采其法俗、小大區別、各有名號、可得詳紀。――東夷諸国を周く実見して、その法・俗を採訪し、小大の区別や、各々の名号を詳紀する事ができた。」これは

周や漢がなしえなかった偉業です。

「雖夷狄之邦、而俎豆之象存。中國失禮、求之四夷、猶信。故撰次其國、列其同異、以接前史之所未備焉。

――夷狄の邦とはいえ、俎豆之象(古中国の祭祀儀礼)は存在している。中国が礼を失った場合、それを、この四夷に求めて回復できると信じている。ゆえにその国を撰次(編纂)し、その同異を列記する事で、前史(『史記』、『漢書』) に未だ備わっていない記録を捕捉する。(-修正-の訳を補正)

 陳寿は「東夷傳」のことを、「周や漢が到達できず、『史記』、『漢書』にはない蕃夷の地を、魏が実際に践んで記録したものを、撰次(編纂)した」ものだと誇っています。

 

 偏師が威力偵察した「東臨大海」や、魏使の「倭國」探訪が、張騫の偉業や班超の西域経営と比較されているのです。

 

「東夷傳序文」のクライマックスは公孫淵誅殺にあるのではなく、魏が前王朝未踏の「東臨大海」に至った、偏師(支隊)の威力偵察にあり、「東夷傳」のクライマックスは倭人条にあるのです

()沃沮

 この偏師の軍行について「東沃沮条」、「毌丘儉傳」にはより詳しく出ています 

ここでは「東沃沮条」、を紹介します。

毌丘儉討句麗、句麗王宮奔沃沮、遂進師撃之。沃沮邑落皆破之、斬獲首虜三千餘級、宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁、去南沃沮八百餘里、其俗南北皆同、與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔、北沃沮畏之、夏月恆在山巖深穴中為守備、冬月冰凍、船道不通、乃下居村落。王頎別遣追討宮、盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚、遭風見吹數十日、東得一島、上有人、言語不相曉、其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中、純女無男。又説得一布衣、從海中浮出、其身如中(國)人衣、其兩袖長三丈。又得一破船、隨波出在海岸邊、有一人項中復有面、生得之、與語不相通、不食而死。其域皆在沃沮東大海中。(東沃沮条)

――毌丘倹が句麗を討伐すると、句麗王の宮が沃沮に逃げ込んだの、でさら沃沮の地にまでに軍を進めて、攻撃をかけた。沃沮の邑落をすべて破り。首級をあげ獲虜にしたものが三千余にのぼった。宮は北沃沮に逃げ込んだ。北沃沮は置溝婁ともよばれ、南沃沮から八百余里の距離にある。その習俗は南北と異なる所なく、挹婁と境を接している。挹婁が船を使って盛んに侵入行為を行うので、北沃沮はこれを畏れて、夏の期間はいつもけわしい山の深い洞窟の中で守りを固め、冬に氷が張って、船の通行が出来なくなると、山を下ってりて村落に居住する。王頎は、毌丘倹の命令を受けて本隊から別れて宮を追いかけ、北沃沮の東方の東界まで行き着いた。その地の老人尋ねた。「この海の東にも人間が住んでいるだろうか。」老人が言った、 「この国の者がむかし船に乗って魚を捕っていて、暴風にあい、数十日も吹き流され、東方のある島に漂着したことがあります。その島には人がいましたが、言葉は通じません。その地の習俗では、毎年七月に童女を選んで海に沈めます。」 また次のようにいった。「海のかなたには、女ばかりで男のいない国もあります。」 次のようにも述べた 「一枚の布製の着物が海から漂いついたことがあります。その着物の身ごろ普通の人の着物と変わりませんが、両袖は三丈もの長さがありました。また難破船が波に流され海岸に漂いついたことがあり、その船には項(うなじ)の所にもう一つ顔のある人間がいて、生け捕りにされました。しかし話しかけても言葉が通ぜず、食事をとらぬまま死にました。」 こうした者たちのいる場所は、みな沃沮の東方の大海の中にあるのである。 (筑摩)

 毌丘倹傳によると高句麗を攻めた偏師は「歩騎万人」だったそうです。高句驪王、宮は歩騎二万人を率いて沸流水(渾江)の上(ほとり)を進軍し、梁口で戦い(梁の音は渇)、連破されて南沃沮に逃走しました。偏師は南沃沮へ宮を追い、これを撃破しました。さらに宮は北沃沮へ逃れました。ここで毌丘倹の本隊は凱旋し、宮を追ったのは、王頎の率いる一隊で、宮の身柄確保には失敗しています。 

 毌丘倹の読みの浅さと、王頎の、宮の身柄、確保の失敗が、高句麗を存続させ、後の隋の大敗に繋がっていきます。

 

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   後漢三国時代直前の地図です(wikipedia)

 

 この記事に出て来るのは南北沃沮と挹婁です。南北沃沮を攻め、北沃沮(溝婁)で耆老に海東の様子を聞いています。粛慎との接触は書かれていません。では「践粛慎之庭」とは何のことを言っているのでしょう。

 粛慎

 粛慎は次の史書に出てきます。(wikipediaを編集)

書経』、周初の史官の記録にあると考えられている。儒教では孔子が編纂したとする。

『春秋左氏伝』孔子と同時代の魯の太史であった左丘明であるといわれている。

『国語』は『春秋左氏伝』と同じく左丘明であると言われている。

山海経』、戦国時代から秦朝・漢代(前4世紀 - 3世紀頃)にかけて徐々に付加執筆されて成立したものと考えられている。

史記』周本紀

 いずれも周初の武王や康王の事績として書かれている。

 

後漢書東夷伝

周初の武王や康王の事績の中に出て来る。

『晋書』四夷伝

周初の武王や康王の事績の中に書かれている。晋の文帝(司馬昭)が魏の丞相となった頃、魏の景元年中魏帝(曹奐)の、時粛慎が来貢したとある。晋になっての武帝(在位:265年 - 289年)の時ふたたび来朝して献上し、元帝(在位:317年 - 322年)が晋朝を中興すると、また江左(江東すなわち建康)に詣でた。成帝(在位:325年 - 342年)の時に至り、後趙(北朝)の石季龍に朝貢するようになった。季龍はこれを問い、粛慎の使者が答えて言った「たえず牛馬の様子を見ていましたところ、西南に向かって眠ることが3年続きました。これによって大国(後趙)の所在を知ることができましたので、やって参りました」と。

『晋書』は唐になって編纂されています。唐は北朝の系譜の王朝です。後趙のころから北荻が北朝朝貢していたと言いたいのでしょう。仕込みが見え透いていますね。

 

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前漢時代の地図で、周辺の蕃夷の国名は周初と異なっています(wikipedia)

 

三国志」編纂する陳寿は北沃沮を、前書(『史記』等)にある、周への朝貢国の一つ粛慎に見立てているのです。「東夷傳序文」で陳寿は、周や漢では未踏だった粛慎の地まで兵を送り込み、他の東夷諸国もつぶさに記録したと誇って(賛美して?) いるのです。

 おなじみの引用文はこの文脈の中で理解しなくてはならないのです。

 

 次回こそ、訳文の検証にかかりたいと思います。それまでに「三国志修正計画」さんの提供してくれる対訳を読んでいただければ有難いです。

 

後段3――「異口同音」なのはA氏と湖南だけ 2――記事№...10

 古田武彦氏の説のウソ、・・  №7」― 景初3年が正しい理由―その6

 

『古史通或問』には、A氏・湖南の二人と、白石の違いがさらにはっきり判る記述があります。                                    

白石は正始四年説。

引用文の補足。

湖南は景初二年六月の遣使を完全に否定しています。

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。梁書にも三年に作れり      (A氏の文中より)

次に白石の引用を再掲します

魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。

遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

                (『古史通或問』)               

 白石は、半島でまだ戦火が消えていないのに、使者が帯方郡の都に治に行けるのか、として[景初二年六月]の遣使を疑問視しています。

 

『古史通或問』中、遣使についての白石の記述は、ここまでで終わったわけではありません。原本では引用文の後にさらに書き続けています。

『晋書』には公孫氏平ぎて倭女王の使い帯方に至りしとみえたり。これ其実を得たりしとぞみえたる。さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後にありて、その年月のごときは詳らかならす。「日本紀」にも『魏志』によられて皇后摂政三十九年に魏に通せられしとみへしは『魏志』とともに其實を得しにはあらじ。『魏志』に正始四年に倭また貢献の事ありと見えけり。『古事記』によるにこれすなわち本朝、魏に通じたまいし事の始めなるべし。」

                       (『古史通或問』)

 古田氏の引用も、A氏も孫引きも、白石の主張をすべては抜粋してはいないのです。

 

 景初二年六月には帯方郡に行けないのではないかとし、「さらば我国の使、魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後」としています。ここまでに区切って見れば湖南と同意見と見ることは出来ます。しかし、白石の筆は「帯方郡太守」云々に向かわず、『晋書』へ向かっています。

 

白石の引用文をなぞってみましょう。

『晋書』

『晋書』の「東夷傳倭人条」に次のようにあります。

「宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。

――宣帝、公孫氏を平げる也。その女王、使を遣し帶方に至り朝見す。其後、貢聘が絕えず。」

『晋書』の記事はこれだけです。これでは《魏に通ぜしは公孫淵が滅びし後》としつつも、遣使した《その年月のごときは詳らかならす》、年度が判らないというのが当然です。宣帝とは晋になっての呼称で、魏の司馬懿・宣王のことです。

 

白石は「梁書」の示す[景初三年]をとりあげていません。公孫淵が誅殺された年を[景初三年]としています。『魏志』と誅殺年度が食い違っています。淵の誅殺を景初三年とした場合、『魏志』にあるこれ以降の記事をすべて一年ずらさなければならなくなります。大問題です。また遣使年度については明記していません。

梁書」の記事は誤りとして、遣使年度検証の参考とする必要を感じなかったのでしょう

[皇后摂政三十九年]

 「皇后摂政三十九年」は景初三年にあたります。

日本書紀』のこの記事には《魏志云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難升米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す》とあります。

 

魏志云はく」とは”これ以後は『魏志』からの引用文ですよ ”ということです。

ご存じのように「魏志(三国志 魏書)」には「景初二年六月」とあります。

 引用文が原文と違っていては、白石が「皇后摂政三十九年」記事を《其實を得しにはあらじ。》とするのは当然です。

 

 白石以前に遣使景初二・三年問題に触れたのが松下見林です。見林は『異説日本史』で《景初二年の二、日本書紀に拠るに、当に三に造るべし》と述べています。白石は『日本書紀』の記事を否定すると同時に、先輩にあたる見林の説を斬って捨てたことになります

 後に内藤湖南が《景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀にこれを引きて三年に作れるを正とすべし。》とするのですが、白石がそれを知ることが出来たら同じように切って捨てたことでしょう

[神功摂政四十三年]

日本書紀』神功紀に卑弥呼関連と思われる引用文は次の三個所です。

 

 (神功摂政)三十九年。是年、太歳、己未。魏志に伝はく、明帝の景初三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遣して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守鄧夏、吏を遣して将て送りて、京都に詣らしむ。

 

(神功摂政)四十年。魏志に伝はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遣して、詔書印綬を奉りて、倭国

詣らしむ。

 

(神功摂政)四十三年。魏志に伝はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声者掖耶約等八人を遣して上献す。

(神功摂政)四十三年は正始四年です。

魏志』に《其(正始)四年、倭王復遣使大夫伊聲(声)耆・掖邪狗等八人》とあります。「日本書紀 神功紀」の記事は『魏志』の記事と一致しています。そして『古事記』にもそれを思わせる記事があったのでしょう。

ただし、白石は[神功摂政四十年]正始元年、魏からの返礼使を無視したことになります。

 

遣使の時期について、白石の理路はこうです。

三国志』の記事は納得できない、『晋書』で、公孫淵誅殺後であることは判るが、遣使の年月はわからない。『日本書紀』の[皇后摂政三十九年]記事は間違い。『日本書紀』の[神功摂政四十三年事記]は『魏志』の記事にも一致している。『古事記』の記すところともあっている。だから初めて魏と国交を結んだのは[正始四年]でなくてはならない。

道は開けた。

 A氏や湖南は景初二年八月以前、魏の任命した帯方郡太守はいない、としました。太守が不在期間に、朝見でを請うて、郡治に詣るはずがない。帯方郡太守が赴任したのは公孫淵が誅された時点以後になってだろう、と仮定しました。その仮定と、『魏志』の六月を組み合わせ、直近の景初三年六月の遣使だと主張しているのです。

 

 白石は、淵が誅され、道が開けてもすぐに使いを出したとは言っていません。あくまで史書の記事中に遣使の時期を示す記事を求めています。『晋書』、『魏志』、『日本書紀』、『古事記』四史書の一致点として、(神功摂政)四十三年・正始四年を提起しています。

帯方郡太守の赴任が景初二年八月であろうが、九月であろうが、白石にとって史書原本に記載がないのですから無関心なのではないでしょうか遣使の時期についてもそうですが、結論に至る方法論も全く違います。

 

 私が前々回に書いたように、単に、白石が書いていない、と述べたり、前回のように文法に戻ってどうこう言っているだけでは、A氏は、いろいろと指摘を躱す術を持っているでしょう。例えば、記事にはないが、記事裏には白石の隠れた意図がある、とか。

しかし、このような事実の前にしては躱すにも躱しようがないはずです。

 

A氏の言う「異口同音」から、姚思廉に続いてまた一人外れました

どうして白石と湖南は違うのか

 湖南は遣使の時期を景初三年とします。白石は正始四年としています。なぜ主張が違うのでしょう

 

白石は論拠として史書の記述を重視しています。『魏志』「景初二年遣使記事」を疑問視し、『魏志』「正始四年遣使記事」を魏と倭の最初の国交記事として採用しました。『晋書』と『日本書紀』『古事記』の記事に一致しているからです。

 

では湖南どうでしょう。

 

 古田氏とA氏が示した湖南の主張は、その著書『卑弥呼考』からの引用で私の手元にはなく湖南の論拠を参照できません。では全く分からないのでしょうか。いいえ、湖南を理解するのにA氏という判りやすい味方がいます。

A氏 「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」。

だから景初二年六月の倭の遣使は誤り。

湖南 「淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり」。

だから景初二年六月の倭の遣使は誤り。

 A氏と湖南の、これこそ「異口同音」と言えます。

 

A氏は自分の論拠を筑摩書房版『三国志』訳本にあるとしています。具体的には次の二個所になります。

 

《『魏志公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。》

《 公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(東夷傳 序文) 》

 

A氏はこの二個所を論拠に次のように主張しています。

 

 公孫淵傳(公孫度傳公孫淵条の誤り)に公孫淵を誅殺したのが、景初二年八月二十三日とある。司馬懿はそれから海を渡って二郡を攻め取った。すると景初二年六月には魏の任命した太守は帯方郡存在しない。淵が誅殺され、司馬懿が二郡に攻め込んだ八月以降は魏の任命した太守が赴任することが出来るようになる。倭が、帯方郡太守に天子への朝貢を願って使節を派遣するのは、それ以降であり、翌年の景初三年六月である。

さらに公孫度傳と東夷傳序文を踏まえた三人の先賢は「異口同音」だと主張しています。(これについては、すでに「異口異音」だということを論証しました。)これがA氏の論法です。

 ここでは一旦、同一の結論に至る論法は、似通っていと考えさせてください。

 

湖南が、A氏と同じ訳本を読んで同意見に達したということはあり得ません。内藤湖南は1934年(昭和9年)に没しており、筑摩書房の『三国志』全三冊は1977年~1989年の刊行です。むしろ訳者が湖南の影響を受けていると考えられます。

湖南は『三国志』原文を読んで、筑摩書房版『三国志』訳本に先んじて、同じように読み取ったことになります。

「八月・・・壬午(二十三日)、・・・・・・斬淵父子。」

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」      (これが『三国志』の原文です。)

白石もおなじ原文を読んでいますが、原文のこの部分には全く触れていません。遣使の時期検証に重要性を認めていないのです。白石と湖南の主張の違いはこの一文の解釈の違いかもしれません・

 

 僭越ですが、次回は私も原文の解釈に加わって、そのあたりの雰囲気を掴んでみたいと思います。

後段2――「異口同音」なのはA氏と湖南だけ 1――白石は問題提起       記事№...9

古田武彦氏の説のウソ、・・№7」―2−1 景初3年が正しい理由―その6

 

ネット上、絶対的多数の記事は「新井白石内藤湖南邪馬台国近畿論者であり、『三国志』の倭遣使記事にある『景初二年六月』も、誤りと断定している」、と主張しています。A氏もその絶対的多数者の一人です。

 

白石は「古史通或問」で「倭女王卑弥呼と見えしは日女子と申せし事を彼國の音をもてしるせしなるべし」として、あわせて「皇后摂政三十九(景初三年)年に魏に通ぜられしと見えしは」等と書いています。また「邪馬台国は大和なり」としています。この時期、邪馬台国、大和論者であったことに間違いはないでしょう。

しかし白石が湖南と同じ景初三年論者であったか、というと肯定できません。私には、古田氏が、そしてA氏が、「古史通或問」から引用した文章について解釈上の疑問があるのです

今回は、この点について述べました。

 

但し、能力に余る書き込みであったことを、認めざるを得ません。記述にかなりの混乱が出てしまいました(苦笑)。目次から最後の纏めに飛んでいただいてもよろしいかと思います。

 白石、「景初三年説」への疑念

白石が「景初三年論者」であったとして根拠を示すほとんどの記事は次の行文で挙証していますので、くどくなりますが再掲します。 

魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。

遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず

 

疑念の発端

  白石が「遣使記事を誤りと断定している」とする場合、引用文理解に下記の解釈がなされていると思います。

 

「心得られず」=納得できない、理解できない

「開けざらむに」=開いていない

「至るべきにもあらず。」=至ることは出来ない

 

上記を逆にたどってみます。

 

納得できない、理解できない=「心得ず」

開いていない=「開けざる、開かざる」

至ることは出来ない=「至らず」

 

このようにも置き換えることが出来ます。文意と並べた場合はこちらの方がすっきりしますし、私にしっくりきます。

絶対的多数者の解釈では引用文全体がすごくモタツイタ文章に思えませんか。わたしには解釈が少しずれているように思えるのです。

 

そこで、この三つのフレーズの解釈を考えなおしてみることにしました

「心得られず」

「心得られず」=動詞「心得る」の活用形で未然形・連用形「こころえ」+可能性を示す助動詞「らる」の未然形+打消しの助動詞「ず」の複合形です。

 

 

「心得る」は次のような意味です。

①   ある物事について,こうであると理解する。わかる。 「この場を何と-・えるか」 「呼ばれたものと-・えて/歌行灯 鏡花」

②   事情を十分知った上で引き受ける。承知する。 「万事-・えました」

③   すっかり身についている。心得がある。 「茶道については一通りのことは-・えている」

④   気 をつける。用心する。 「ころび落ちぬやう-・えて炭を積むべきなり/徒然 213」

 

                          三省堂大辞林

 

  

「られ」とは受身、尊敬、可能、自発を意味する助動詞「らる」の未然形、連用形だそうです。

受身 … ~される

尊敬 … お~になる

自発 … ~せずにはいられない

可能 … ~できる

 

受身でも尊敬でもありません。自発の場合は自然に…となる、つい…られてくるという意味で、これも違います。残るは可能を意味する助動詞だけです。

 

可能を意味する助動詞としては「庵なども浮きぬばかりに雨降りなどすれば、恐ろしくていも寝られず。(更級日記)(仮小屋が浮き上がるばかりに雨が降るので、恐くて寝ることもではない。)」このように未然形として使われるそうです。

 未然形とその事態が未だ起きないことを示す意。「る」「らる」の後に打消の言葉が続いていないときは可能ではないそうです。

 

白石の「心得られず」を一個の動詞としてとらえ、否定形に理解して前にある遣使の記事を白石が「あり得ない」と否定していると解釈しているようですがこれには間違いです。文法上「られ」は「心得」とは品詞も違う別個の単語なのです。

すると白石は遣使記事を否定しているのではありません。否定・肯定はさて置いて、現在は「心得」ることが出来ないと言っているのです。ちょっと強めの表現になりますが「いまだ理解できないが・・」と解釈しなくてはいけないのではないかと思います

「開(ひら、あ)けざらむに」

動詞「開く」の連用形「開け」+打消しの助動詞「ず」の未然形、連用形「ざら」+推量・適当・仮定の助動詞「む(ん)」の終止形、連体形+断定の助動詞「なり」の連用形「に」

 

ちょうどいい例文がありましたので、解釈に使わせてもらいます 。

あらざらむ この世のほかの 思ひ出に今ひとたびの 逢ふこともがな:和泉式部

――私は、そう長くは生きていないでしょう。あの世へ行ったときの思い出のために、もう一度あなたに抱かれたいものです

あらざらむ 生きてはいないだろう。下の「この世」を修飾する。「あら」はラ変動詞「あり」の未然形。「ざら」〔打ち消しの助動詞「ず」の連用形。「む」は推量の助動詞「む」の連体形。■この世のほか」は来世。死後の世界。「この世」は現世。 ■もがな 願望の終助詞。   

                         三省堂大辞林

「其道未だ開けざらむに」は断定である「其道未だ開けざるに」ではないのです。この例文の解釈に従って現代語に直すと「その道は開いているかどうかわからないのに」となるのではないでしょうか

「至るべきにもあらず

「べき」の基本形は「べし」です。推量・意志・当然・適当・命令・可能の意味を持っています。

「に」断定の助動詞「なり」の連用形

「も」は副助詞で「~も」を含むことがらに、「他のことがらと同様にこのことがらが成立する」という意味(並立・付加)を付け加えます。(田中さんは学生です。佐藤さんも学生です。 )

用法の特殊な場合として、その状況で起きているさまざまなことがらの一例として、あることがらを表わす場合があります。(時間も来ました。そろそろ終わりにしましょう。)

 

それぞれの意味の文例を示し「其道未だ開けざらむに」「我国の使人帯方に至るべきにもあらず」に当て嵌めてみます。

 

推量

風情すくなく、心あさからん人の、さとりがたきことをば知りぬべき。(無名抄)

――風情な心が少なく、感情が浅い人が(歌の情趣や余情などを)理解しにくいことがきっとわかるだろう。」

「道が開いているかどうかがわからず」、「帯方郡治に到着しないのではないか」

意志

「いかか他の力を借るべき。(方丈記

 ――どうして他人の力を借りるのだろうか。」

「道が開いているかどうかがわからないのに」、「帯方郡治に到着しなければならないということはない」

当然

「必ず来べき人のもとに車をやりて待つに、(枕草子・二五段)

――必ず来るはずの人のもとに牛車をやって待っていると」

「道が開いているかどうかがわからないのに」、「必ず帯方郡治に到着するということではない」

適当

「月の影はおなじことなるべければ、人の心もおなじことにやあらん。(土佐日記・一月二十日)

――(中国でも日本でも)月の光は同じはずなので、人の心も同じことなのでしょう。」

「道が開いているかどうかがわからないのに」、「帯方郡治に到着するという必然性はない」

命令

「さてもあるべきならねば、鎧直垂を取つて、首をつつまんとしけるに、(平家物語・敦盛の最後)

――そうしているわけにはいかなので、鎧直垂を取って、首をつつもうとしたところ、」

「道が開いているかどうかがわからないのにわからず」、「帯方郡治に到着しなければならない、必要性はない」

可能

「さやはけにくく、仰せごとをはえなうもてなすべき(枕草子・二三段)

――そうそっけなくせっかくの仰せごとを無駄にすることはできないでしょう。

「道が開いているかどうかがわからないのに」=「帯方郡治に到着する可能性はない

引用文全体で見る

どれを適用しても「も」の働きが不明で文意が確定しません。もう少し枠を大きくとってみましょう。

帯方郡治への道が開いているかどうかがわからず、《我国の使人帯方に至るべきに》あらずということも、《心得られ》ない理由の一つである。」これでどうでしょう。

書いてはいないが、他にも心得られない理由がある、ということです。

 

このように理解すると一つ整理しておく問題が出てきます。「わから」ない主人公を、倭とするか、白石とするかです。

まず、直後には「我国の使人帯方に至るべき」とありますから、白石は「倭にしてみれば《道が開いているか、開いていないか》の判断が出来なかったはずだ」と言っていると解釈してみます。

当然の否定

「道が開いているかどうかがわからないのに」、使者を派遣しても「必ず帯方郡治に到着するということではない」

 文法解釈から離れますが、倭は帯方郡治に着けるかどうかの判断がつかず、遣使を派遣しなかったと言っていることになります。

 

 次に、白石が「三国志」の記述からは読み取れないとし、状況を推察したと仮定します。

推量

「道が開いているかどうかがわからず」、「帯方郡治に到着しないのではないか」

遣使を出しても到着できなかっただろうと言っていることになります

纏めと、お願

要点がぼけてしまいました、話を戻します。

 

白石は、同じ「古史通或問」の中で「外国の文献は信じすぎてもいけないし、むやみに排除してはいけない」ということを述べています。「魏志」の遣使記事についても同じ視点で接しているでしょう。

 

「心得られず」は、「心得ず」ではありません。今、現在は理解できない、という意を含んでいます。

「心得られず」の理由として挙げたのが「開けざらむに」、「至るべきにもあらず。」です。

「開けざらむに」、は「道が開いているかどうかがわからないのに」と解するべきです。

「至るべきに(も)あらず。」は「開けざらむに」を前提としています。

「道が開いているかどうかがわからないのに」使者を派遣しても「至るべきに(も)あらず。」となります。

白石の其の後の研究によって「開けざらむ」が否定された場合、「至るべし」になり、「心得られず」も「心得たり」に反転する構造なのです。この引用文全体が基本的に断定ではなく、仮定で成り立っています。

 

 白石にとって「魏志」にある倭の遣使記事は、今後の研究課題であり、研究者への問題提起だったのではないかと思います。

景初二年六月遣使を否定し切った湖南やA氏と同列に置くことはできないと思います。

 

 私はこのようなに考えているのですが、残念なことに(絶頂不勉強ゆえに)、より緻密に検証するには文法について疎すぎます。そのため検証上無理し、記述が混乱してしまいました。どなたかこの引用文をより適切に現代訳してくださらないでしょうか。

 そしてコメントとして送っていただけると、すごく” 感謝 ” です。

 

読者ゼロのブログで良かった。こんな記事でも炎上する心配をしなくて済みます(冷汗)。

 

後段1――先賢が「異口同音」に景初三年説?-姚思廉・新井白石・内藤湖南――記事№...8

古田武彦氏の説のウソ、・・№6」――2−1 景初3年が正しい理由―その5

 

A氏は諸先賢の氏と同じ主張を紹介します。姚思廉、新井白石内藤湖南、の「三人が《魏は景初2年6月、まだ帯方郡に太守を置いてない、倭の遣使は、景初3年6月の誤りである》と、 異口同音に 述べている」そうです

下の囲みは、A氏による「1 景初3年が正しい理由」後段の纏めです。

このように、『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて、姚思廉・新井白石内藤湖南の三人は、異口同音に、次のように述べている訳です。

「公孫淵が滅んだのは、景初2年8月だから、6月にはまだ魏は帯方郡に太守を置いてない。景初2年6月は、3年の誤りである。」

遣使正始元年説の「梁書」姚思廉

まず姚思廉の検証から始めます。A氏は姚思廉について次のように紹介しています。

「この事実に最初に注目したのは、『梁書』の編者、姚思廉のようです。『梁書倭伝』には、『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて、《魏の景初3年、公孫淵が誅せられた後になって、卑弥呼は始めて使いを遣わして朝貢した》、と記しています。」

 A氏と姚思廉のコラボ

A氏の紹介する通り、姚思廉は「梁書倭伝」で「至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以爲親魏王,假金印紫綬。」と書いています。

 

A氏の言うように姚思廉は「卑彌呼始遣使」を「公孫淵誅後」としています。しかし、しょっぱなに「公孫淵誅」が景初三年とあります。このまま読めば卑弥呼朝貢も、金印紫綬の拝受も景初三年の出来事になります。A氏は「公孫淵誅」を景初二年八月としています。「梁書」の記述を正しいとするなら、これまでのA氏の主張と齟齬が生じています。

帯方郡太守については、ここでも、この後にもいっさい触れていません。姚思廉がどのような意見であったかは類推するしかありません。

 

これから「梁書」の記事を、A氏の理路に当てはめて類推してみます。

A氏はその理路で「公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った」とし、「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」と主張していました。「梁書」では「公孫淵誅」が景初三年なのですから、両郡を攻め落とすのも「魏が帯方郡に太守を置く」のも「景初3年8月以後のこと」と訂正されてしまいます。そして倭の使いが、はじめて朝見したのが景初二年六月はもちろん、景初三年六月でもなく、「公孫淵誅」の翌年の「正始元年」となります。姚思廉は遣使、正始元年論者のようです。

 

姚思廉の記述をA氏の理路から推し量っていくと、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初三年八月以降なのです。

A氏は「『魏志』の東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえて」、『梁書倭伝』は自分と同じ意見だといいますが、踏まえた結果をA氏の理路に当てはめると、帯方郡太守の赴任時期を「景初三年八月以後」と言っています。A氏と姚思廉姚思廉とは同意見ではなく両立できない関係です。

 

 以上のように素直に読めば、A氏と「梁書倭伝」の間には齟齬があります。それでも同意見だとするのなら、普通はこの齟齬について説明があって「だから自分と同意見だ」と締めくくるでしょう。

A氏の姚思廉紹介文の後、白石についての記述まで三十六行あります。氏は三十六行の間の記述で「梁書」との、この齟齬について一切触れていません。

帯方郡太守赴任の時期とは無関係な記述を続け、白石について述べる冒頭で「それはさておき」と、三十六行が纏められているのですから、A氏に齟齬の説明作業をする気がないのは間違いないでしょう。何の不安も抱かなかったのでしょうか。

それとも、「三十六計 ( 証明から ) 逃げるしかず」ですかね

「多数説」とA氏のコラボ

  おそらくこれを書いた時、A氏は「景初三年」という文字だけを見て、「同意見だ」と主張しても、なんの不安もなかったと思います。

 

実は古代史学会の多数説が「『梁書』は倭の遣使を景初三年としている」と言うものだからです。多数説のロジックは「梁書」に「《至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢・・》とあるが、『公孫淵誅』だけは、前年の出来事なのだ、というものなのです。多数説を信仰していれば辻褄はあってきます。

 

 私はこの説を取りません。もし多数説が正しいのなら、記事の語順がおかしいからです。多数説を受け入れるには原文が「公孫淵誅、至魏景初三年,卑彌呼始遣使朝貢・・」こうなっていなくてはなりません。

A氏はこの多数説を絶対的に信頼していて、原文をよく読み直す必要さえ感じなかったようです。

 

A氏の「梁書」に対する所感を反駁してみます。

姚思廉が「三国志」を「東夷伝序文と公孫淵伝の記述を踏まえ」ているとA氏は言います。「三国志」の中で「東夷伝序文」と「公孫淵伝」は随分と離れた位置にあります。その両傳を踏まえることが出来るぐらい読み込んでいるのであれば、当然「公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡・・・・是後倭韓遂屬帶方(韓傳)――公孫康は屯有縣を分けて南の荒地を帶方郡とした。・・・・この後、倭と韓は帯方郡に属す。」も読み込んでいるはずです。

現に帯方郡は存在し太守も存在するのです。倭は郡に属しています。属国である倭には帯方郡への定期的な朝貢は義務づけられています。魏の置いた太守であるか、公孫淵の置いた太守であるかは帯方郡の内情です、倭はそれと無関係に帯方郡治へ朝貢します。

唐の朝廷人である姚思廉が「魏の任じた郡太守でないから、倭の遣使が、『正始元年』(もしくは『景初三年』)にずれ込んだ。」と考える筈もありません。

 

反駁と言いましたがこれは私の類推です。私の理路の最後の部分を事実だと証明できる確実な根拠はありません。それはA氏の理路③、④も同じなのです。何個所かに飛躍があります。たとえばわたしが根拠とした引用は「三国志」にあります。しかし「梁書倭伝」は帯方郡太守について、いっさい触れていないのです。A氏の話は私の話より深刻で、根拠は全くないと言ってよいほどです。

さらには、A氏の説は自身が触れていない多数説のサポートがあって始めて成立する跛行状態の主張なのです。

 

喧嘩両成敗、ここではそれでも充分だろうと思います。ここでは「姚思廉がA氏と同意見である」という主張に根拠がないと了解してもらえばよいのですから。

内藤湖南と新井白

次にA氏が古田氏の「邪馬台国はなかった」から引用しているフレーズです。

 

まず白石。

魏使に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とす、と見へしは心得られず。

遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず。

 

そして湖南のフレーズです

景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。倭国、諸韓国が魏に通ぜしは、全く遼東の公孫淵(こうそんえん)が司馬懿(い)に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未(いま)だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり。

梁書にも三年に作れり」(『卑弥呼考』)<上記の古田氏の著書より孫引き(ママ)

 

 A氏は両フレーズが同主旨だ言っているわけです。困ったことに、姚思廉の場合と同じくなぜ同意見でであるかということを説明するためのコメントを付けていません。「東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて」いることを理解していれば一目瞭然、三者は同意見だ、いうことなのでしょう。姚思廉の検証は終わりましたので、両フレーズを比べればよいことになりますが、A氏の主張と両フレーズ、三者で比較してみることにします。

 

A氏   「公孫淵が滅んだのは、景初2年8月だから、6月にはまだ魏は帯方郡に太      守を置いてない。」

湖南   「公孫淵(こうそんえん)が司馬懿に滅ぼされし結果にして、淵の滅びしは景初二年八月に在り、六月には魏未だ帯方郡に太守を置くに至らざりしなり」

白石    触れていません。

 

A氏   「景初2年6月は、3年の誤りである。」

湖南   「景初二年六月は三年の誤りなり。神功紀に之を引きて三年に作れるを正しとすべし。」

白石   景初二年六月にあった出来事を疑問視していますが、「だから遣使は景初三年だった」とは言っていません。

 

内藤湖南とA氏の主張と一致しています。しかし新井白石帯方郡太守に触れていませんし、遣使が景初三年だったとも言っていません。

私には三者の主張が一目瞭然同意見で、「異口同音に・・・」であるとは、とても思えません。

 

しかし、これは私の受けた印象です。A氏の意見は多分違うでしょう。例えば、

「白石は『遣使景初二年』を否定しているのだから《東夷伝序文と公孫淵伝に基づいて考えている》。であれば「帯方郡太守」と「遣使景初三年」についても、引用文にこそないが、当然同じ理解だ」、

とか主張するのではないでしょうか。

 

長くなりましたので、続きは次回にさせてもらいます。

 

前段、A氏の理路―記事№...7

古田武彦氏の説のウソ、・・№5」――2−1 景初3年が正しい理由―その4

 

 前回はA氏が「倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」と主張し、私は「海上迂回戦略」に注目して疑問を呈しました。今回はA氏の理路全体を追って検証してみます。

 

 

 A氏の理路――郡治に魏の帯方郡太守がいない

 A氏の理路を私は下記、①~④のように纏めました。その前に①に至るまでの東夷傳にある記事を加えました。Ⓐ~Ⓔです。これに原文を付けました。

 

  景初二年正月 明帝司馬懿に公孫淵討伐の勅を降す。

   「(景初)二年春正月、詔太尉司馬宣王帥衆討遼東(明帝紀)」

  景初二年六月 司馬懿、遼東郡に到着。         

   「二年春、遣太尉司馬宣王征淵。六月、軍至遼東。(公孫度傳公孫淵))」

  Ⓒ景初二年六月    ( 倭の使者、帯方郡治に到着。)

   (「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻、(東夷傳倭人))

  景初二年六~八月   襄平をめぐって攻防戦。

  景初二年八月二十三日 司馬懿 公孫淵父子を誅殺。

   「(八月)壬午(二十三日)、淵衆潰、與其子脩將數百騎突圍東南走、大兵急撃之、當流星所墜處、斬淵父子。(公孫度傳公孫淵)」

 

魏志公孫淵伝』によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。

公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪と帯方の郡を攻め取った。(筑摩書房三国志」訳本)

 「景初中、大興師旅、誅淵、又潛軍浮海、收樂浪・帶方之郡、而後海表謐然、東夷

  屈服。(東夷傳序文)」

「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のこと」

「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」

それゆえ倭の遣使は、翌年景初三年六月になります。

 

 ③はA氏の解釈です。④もA氏の主張です。Ⓓと⑤は私が理解補助の為付け足した項目です。ですから添付する原文記事はありません。なおⒺと①は当然同一の記事です。

 ③、④で「魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後だから、Ⓒはあり得ない」と主張しています この③、④二項のような解釈ができるかどうかを調べます

 

帯方郡の沿革――太守は存在した

 まず倭使が帯方郡治に到着したととき、受け入れるべき太守府があったか、太守がいたかどうかを検証してみましょう。

 

帯方郡の沿革を調べてみました

 紀元前108年に前漢が、衛氏朝鮮を滅ぼし、漢四郡(楽浪郡真番郡、臨屯郡、玄菟郡)を置きました。紀元前82年に真番郡、臨屯郡を放棄しています。紀元前75年には玄菟郡を西に移し、半島は楽浪郡だけが残りました。帯方郡は紀元204年になって公孫康(公孫淵の父)が立てました。(wikipediaを編集)

公孫康が立てた、という記事は東夷傳韓条にあります。

「桓・靈之末、韓濊彊盛、郡縣不能制、民多流入韓國。建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模・張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

――桓帝霊帝の末、韓・濊は彊盛となって郡県では制御できず、民の多くが韓国に流出した。建安中(196220)、公孫康は屯有県以南の荒地を分けて帯方郡とし、公孫模・張敞らを遣って(真番郡、臨屯郡の)遺民を収集させ、兵を興して韓・濊を伐った。逃亡していた旧二郡の民は次第に韓、濊の地を出て帶方郡に戻った。この後、倭・韓は帯方郡に属するようになった。

 魏が置いた帯方郡太守は景初二年八月以降かもしれません。しかし帯方郡も太守府も、景初二年八月以前から公孫氏の勢力圏下ではあっても存在し、太守もいたのです。

魏の太守でなかったから、遣使するはずはない ?

三国志」に倭使が帯方郡治に詣でたというのは景初二年六月です。司馬懿もこの月に遼東郡に到着しています。この時から遼東郡の攻防戦は始まります。

帯方郡には太守がいました。しかしA氏は③、④で「魏が太守を置くのは、景初2年8月以後のことであり景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ない」と言います。

A氏の主張通りだと、遅くとも六月には、おそらくそれ以前に倭は遼東で戦端が開かれることを知っており、しかも司馬懿勝利を確信していたことになります。

三国志」には「是後倭韓遂屬帶方――倭と韓は帯方郡に属す」とあります。帯方郡と属国である倭の間では定期的な貢献や、必要が生じての交流があります。それを、一切断ち切ったことになります。よほどの確信がないと、読みがは外れた場合を思えばこんな決断は出来ません。

A氏は司馬懿の遼東到着時点ですでに、倭がその決断をしていたと主張していることになるのです。

三国志」には倭がそんなに情報通であることを記した記事はありません。A氏主張の論拠は何処にもありません。

 

 普通に考えてみましょう。司馬懿による襄平攻略戦が開始された景初二年六月には前回も述べたように戦火は楽浪、帯方郡まで広がっていません。情報があったとしても倭にとって単によそ事だったでしょう。「倭韓遂屬帶方」、ですから、倭の使者が郡治に詣でるのに何の不思議もありませんし、太守が受け入れるのにも不思議はありません。これを「あり得ない」という方がおかしい。

但し前回の異説にある、公孫淵に詣でたい、という倭使の申し出に許可を与えることは出来ません。郡治に留め置くか、謝絶して返すかどちらかでしょう。

 

「景初2年8月以後」魏軍が帯方郡治に進駐してきたとき、倭使を受け入れた太守は、公孫淵の影響下で任じられた太守なのですから司馬懿に誅殺されたかもしれません。しかしそうでなかったかもしれません。倭の使者を洛陽に送った太守劉夏は公孫淵政権から横滑りした太守だったかもしれないのです。

 

帯方郡太守が新任であろうと、留任であろうと、郡治に留められた倭使が、太守の劉夏と占領軍のトップ司馬懿によって、魏朝への朝貢使にすり替えられたという可能性を否定することは至難の業でしょう。だからこそ異説、「倭 (帯方郡属していた) の使者は公孫淵に朝貢を申し出るため帯方郡治に詣でていた」、が成り立つのです。

 

 A氏は「あり得ない」と断言していますが、「あり得ない」ことこそ「あり得ない」のです。「あり得」るのです。A氏の④での断定は「三国志」が語る史実から、はみだしています。

 

       次回は後段については述べさせてもらますが、ちょっと長くなります。

なんとなく違うなあ -司馬懿の海上迂回戦略ー  記事№...6

古田武彦氏の説のウソ、・・№4」――2−1 景初3年が正しい理由―その3

 

 A氏の「1 景初3年が正しい理由」は二つの部分に分かれています。

前段は「遣使は景初3年が正しい、『三国志』はまちがっている。」という、いわば宣言です。

後段では、「遣使は景初3年」を正しいと主張する根拠を論述しています。

 

 

前段

記事№3の復習

記事№3でも引用したA氏がの抜粋掲載した記事です。A氏は主張の核心はここにあるのだ、と私は理解しています。ですので、くどくなりますが再掲させてもらいます

A.公孫淵(こうそんえん)が父祖3代にわたって遼東の地を領有したため、天子はそのあたりを絶域(ぜついき:中國と直接関係を持たぬ地域)と見なし、海のかなたのこととして放置され、その結果、東夷との接触は断たれ、中國の地へ使者のやってくることも不可能となった。

B.景初年間(237~239)、大規模な遠征の軍を動かし、公孫淵を誅殺すると、さらにひそかに兵を船で運んで海を渡し、楽浪(らくろう)と帯方(たいほう)の郡を攻め取った。

C.これ以後、東海のかなたの地域の騒ぎもしずまり、東夷の民たちは中國の支配下に入ってその命令に従うようになった。

 

B.Cの原文を再掲しておきます。

「景初中、大興師旅、誅淵。又潛軍浮海、收樂浪帶方之郡」

 

 

公孫家が三代にわたって漁等を占拠し東夷は漢朝と切り離され、絶域と見なされるようになった。景初二年には司馬懿の公孫淵討伐の戦が展開された。司馬懿は公孫淵を討ちとると、密かに迂回して、海上から楽浪・帯方郡攻め取った。それ以後、東夷世界は平穏になった。

 

筑摩書房版「三国志」訳本、公孫淵条では襄平攻防戦の描写も見ることが出来ます

(景初)2年(238)春、朝廷は、大尉の司馬宣王(司馬懿)を公孫淵征伐にさしむけた。6月、[司馬宣王の]軍は遼東に到達した。……

かくして城壁の下まで進撃し周囲に塹壕を築いた。おりしも、30日以上も長雨が降りつづき、遼水は急激に水かさを増し、運送船が遼水の口から城壁の下まで直行するようになった。雨があがると、土山を築き、やぐらを建造して、[その上に]連発式の弩(いしゆみ)を作り城中に射こんだ。公孫淵は手のうちようがなかった。食糧は底を突き、人々は互いに食らいあい、死者はおびただしい数にのぼった。楊祚らは投降した。

 

 

 悲惨ですね、しかしこれは襄平とその周辺の状況です。公孫淵は八月に討たれ、その後戦火は移り、楽浪・帯方郡攻略戦が展開されることになります。

 

 再度A氏の記述を引用します

 この序文から、魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります。また、「魏志公孫淵伝」によると、公孫淵誅殺は景初2年8月23日の出来事です。それゆえ、魏が帯方郡に太守を置くのは、景初2年8月以後のことになり、景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。

 

「魏が帯方郡を攻め取ったのは、公孫淵誅殺後であることが分かります」。それゆえ「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」と続いています。

これがどうしても腑に落ちないのです

司馬懿の迂回作戦

 A氏の主張の通り作図してみました。手書きで見にくいですが我慢してください。

 

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魏軍の進路(赤丸が襄平)

 

 黒い線が司馬懿軍の進路です。六月に遼東郡に到着です。茶色の線を倭使とします。「三国志」によれば六月に帯方郡治に到着です。公孫淵を討った後の司馬懿軍は、舟を仕立て遼東半島を迂回し、楽浪、帯方郡へ出ます。これは紫の部分、摩天嶺山脈に強敵が待ち構えていて、その敵と正面から衝突するのを避け、気づかれぬよう背後に出る策戦です。そのような強敵が、何故襄平が陥落するまで何も手出しをしなかったのでしょうか。

それはともかく、公孫淵が8月23日に討たれたのであれば魏軍が楽浪、帯方郡に攻め込んだのは9月に入ってからの可能性が高いでしょう。遼東郡と楽浪、帯方郡は強敵よって遮断されているのですから、倭使 (茶色の線) が帯方郡に着いた六月には楽浪・帯方・韓では戦乱はないのです。

 

遮断する敵がいなかったとしても、公孫淵を誅してから海上経由で兵を楽浪、帯方郡へ移したのであり、その兵が上陸するまで、両郡に戦火は全く及んでいません。

 

六月は「未だ道開かざる(戦乱の最中)」状態だ、とする構図は崩れてしまいます。これでは「景初2年6月に、倭国の使者が帯方郡朝貢を願い出ることはあり得ないことが分かります。」というA氏の主張は成立しません。「三国志」にあるように、帯方郡治までは到着できるのです。

 

A氏の主張のように、帯方郡治に遣使が到着不可能な状態であるには、六月以前に渡海作戦を実施されていなければなりません。すると公孫淵を「誅殺する前」でなくてはなりません。困りましたね

異説あり

 このタイムラグを根拠にした、ある人の説を読んだことがあります。六月に帯方郡に到着した倭使は、公孫淵への朝貢使だった、とする説です。

景初元年(237年)公孫淵は自立を宣言し、燕王を称し紹漢元年と改元しています。魏朝と決定的な手切れとなった出来事です。この時、淵の支配は遼東地方と帯方郡楽浪郡に及んだそうです。だとすれば倭から公孫淵への遣使はあり得ることです。

帯方郡治に到着した倭使は、六月に魏軍が襄平を包囲するという事態に、郡治で待機させられます。公孫淵が敗れた後、急襲して来た魏軍に身柄を拘束されます。魏の将軍(司馬懿?)はどう処遇すれば一番自分の功績になるかを考え、この倭使が魏への朝貢使だったことに仕立てて洛陽に送った、というのです。事実、この後の成り行きを考えれば魏朝は将軍の処置を大喜びした事になります。

 

私は違う考え方ですが、この説も成立します。

 

 倭の使者は十二月に明帝に拝謁しています。司馬懿は「三国志」の中で洛陽から遼東郡までの軍行を四カ月と言っています。厳重に武装し、輜重部隊、攻城兵器を伴った四万の兵の行軍は非常に遅いのです。

使者が八月いっぱい帯方郡で身柄を拘束されていたとして、景初二年九月初頭に身柄を洛陽に送られたのであれば、景初二年十二月の拝謁は十分に可能です。

 

 司馬懿、公孫淵の戦いがあったことが、「倭の遣使、景初三年の根拠」であり「『三国志』の誤りの根拠」とは了解しかねる論理だてに思えるのです。

 

後段

 A氏は『梁書』の編者、姚思廉や、新井白石内藤湖南について述べ、「三国志」の記述が間違っている、証拠としています。しかしいずれも直接的に倭使が帯方郡に行けなかった証拠ではありません。氏の論理を検証するには間隙が多すぎますので、この部分については、A氏の今後の記述に添って、徐々に書き込ませていただきます 。

 

〔お願い〕ブログの体裁も若干はましになってきましたので、今後週一金曜日に更新したいと思いってます。読んでいる方がいたら、継続してお読みくださるようお願いします。